おまえに遭いたい、遭いに来てくれ、と電話越し、珍しく彼が言うので、深夜に彼の家を訪れた。
珍しく? いや、珍しくどころではない、初めてか。
ぽつんと崖の上に立つ家に、車を横付けし、玄関のチャイムを鳴らす。反応がないのでドアノブを握ってみたら、鍵がかかっていなかった。
勝手にドアを開けて、家に上がり込むと、彼はひとりでリビングの椅子に座り、舐めるように酒を飲んでいた。
私が部屋に足を踏み入れても、視線を上げもしない。
「王子様のご登場だぜ、挨拶ぐらいしろよ、ブラック・ジャック先生」
何があった?
冗談めかして言うと、彼は、ふと眼差しを上げ、私を観た。唇に淡い笑みを浮かべ、低い、囁くような声で答える。仮面のような表情だ、と思った。
「…遭いたかったよ」
「そうか、遭いたかったか。そんなにおれが恋しいか? 今夜はやけに素直なんじゃない」
「ああ。そうだな」
カップに入った酒を一口飲んで、彼は目を細めた。ホットブランデー? その瞳の色に、私は一瞬、ぞくりとした戦慄を覚えた。いつでもぎらぎらと暗く輝いている赤い瞳は、まるでいまは、死んだ魚のよう。
何があった?
それを、決して訊かないのが私達の間にある無言の約束。
だが、禁句を破ったのは、彼の方が先ではないか。遭いたい、だなんて言葉、我々には相応しくない。
彼の傍に歩み寄って、カップを奪った。残り少ない酒を飲み干して、空にする。溶け残った角砂糖が、底のほうに沈んでいたのか、それは吐き気がするほどに甘かった。
「それで? 仰せの通りおれは、おまえに遭いに来たぜ。満足か。我ながらおれはお優しい、おまえの我が侭なら大抵のことは聞いてやろう」
「…おまえが優しいのは、知っているよ、ドクター・キリコ」
「おれは、これで満足か、と訊いている」
「ああ…。いや、暫く傍にいてくれ、抱いてくれよ」
抱いてくれよ、か。
間近に彼の表情を覗き込んでも、彼は顔を背けもしなかったし、睨み付けもしなかった。ただ、焦点を失ったような赤い瞳で、私を見返している。
整った顔立ちの所為で、まるで人形みたい。
ごく稀に、彼はこういう目の色を見せるときがあった。ごく稀にだ。酷く傷付いたとき、己を呪うとき。それでも大抵の場合は彼は燃え立つように熱く、迫り上がる感情を持て余すように溢れさせている。ただ、限界を超えると、空虚になってしまう、多分、潰れてしまわぬように、消失させてしまうのだろう。その熱を。
そういう彼を観るのは、あまり心地よくない。
明日の朝になったら、頸動脈を掻き切った死体を発見しそうだ。
どうすれば呼び戻せるか。私の好きな、あの、ぎらついた赤い瞳を。
「素直すぎて気持ちが悪いが」顔を覗き込んだまま、彼の頬に片手で触れると、夜気に馴染んでひんやりと冷たかった。重症だ。「いいよ、抱いてやるよ。何処でどんなふうに抱いて欲しいの。ここでする? おまえ、石鹸の匂いがする、綺麗に洗って待っていたんだね」
「いや…。ベッドで」
「じゃあ、立ち上がったら、先生。世間話をしたいわけじゃないんだろう?」
「そうだな」
彼は、頬に置かれた私の手をそっと外すと、ふらりと椅子から立ち上がった。そのまま、虚空を踏むような足取りで、寝室に向かう。
私は彼の背中を眺めながら、その後ろに数歩の距離を空けて着いていった。何があった? どうせまた、患者が死んだとか、そんなことだろう、いや、違うのか。
違うのだ。
それなら彼はもっと判りやすい状態になる。熱の塊みたいになる。こんなふうに、魂ごと何処かへ投げやってしまったようにはならない。
では、何があった?
彼は、寝室まで歩くと、ベッドのすぐ前に立ち、それから私を振り向いた。光のない目が私を観る。どうして欲しい、と訊くと、おまえの好きなように、と答えるので、じゃあ脱げ、と短く指示をした。
「脱いで、ベッドで待ってな、お利口さん。すぐに戻るから」
「…ああ」
彼がリボンタイへ手を伸ばすのを確認してから、私は一旦彼の家を出て、車に歩み寄った。運転席側のドアを開け、シートの上へ放置してあった鞄に手を突っ込み、小さなアンプルと、ディスポーザブルの注射器を取り出す。
世話の焼ける男だと思う。
こうして、言い訳まで用意してやらなければならないなんて。
車から家に戻り、寝室へ行くと、彼は馬鹿正直に、服を脱いで待っていた。全裸で、ベッドに腰掛け、呆然と視線を何処かに投げている。
彼の前に立って、私は、腕を出せ、と言った。右手の中のアンプルと、注射器を見せる。
「おれの好きなように、して欲しいんだろう? だったら腕を出せ、おれはいま、そういう気分なんだ。大丈夫、殺す気はないよ」
「…」
彼は言われるままに、黙って左腕を差し出した。殺す気はない、と言う私の言葉に、一瞬だけ、安堵のような絶望のような、僅かな表情が掠めて消えた。
私に、殺してもらいたいか?
アンプルから吸った無色透明の液体を、消毒もせずに、差し出された腕の静脈に注射した。彼は取り立てて抗いもせずに、私の操る注射器の針先を、ただ見つめていた。
効き始めるまで、数分か。
数分後、彼はまず、ぱちぱちと二度、三度瞬いた。次に、ふるりと肌を震わせ、その己の反応に、少し驚いたように両腕で自分の身体を抱いた。
再度、私を観た彼の瞳には、微かに色が付いていた。欲情の色だ。頬が赤みを取り戻し、その性器は緩く反応を示している。
こうでもしないと、僅かな熱さえ生まれない。ほんとうに手間がかかる。私は手を伸ばし、無造作に彼の髪に触れた。
ぴくりと、彼は身体を震わせた。
「何を、打った?」
「野暮なことを訊くなよ、先生。媚薬の類だ、判らない?」
「熱い…。身体が、おかしい」
「おかしいおまえを、抱きたいね。偶には良いじゃない」
脱いでくれ、と彼は言って、ベッドから立ち上がった。覚束ない足取りで私に擦り寄って、震える指で服を脱がそうとする。
私は笑いながら、彼の手に協力して、服を脱いだ。合間に彼の頬に触れてみると、仄かに温かく、彼が興奮していることが判った。
素直だったのは薬の所為、だなんて。
明日の朝、死にたくなったら、言えばいい。
スーツが皺になるのも構わずに、服を脱いでしまうと、彼の腕を取ってベッドに縺れ込んだ。その頃には、彼の呼吸はもう上がっていて、欲情を灯した赤い瞳は潤んでいた。
「おれが欲しい? 先生。そんな蕩けたツラをして」
「欲しい…。抱いてくれよ…。身体が、変だ、助けてくれ」
「よく効くだろう。おれじゃなくても、良いんじゃない? チェンジする?」
「おまえがいい…」
彼の言葉の途中で、その唇に咬み付いた。そういえば、と思う。口付けなんてするのは、随分と久し振りじゃないか?
舌を差し込んだ彼の口腔内は、不自然に熱かった。この男はどうやら薬に弱いらしい。絡め取った舌は震えていて、誘い出して歯を立てると、彼は喉の奥で低く呻いた。
ブランデーの味がする。
深い口付けを交わしながら、片手で彼の身体を撫で上げた。何処をどう触っても反応する。首筋、肋骨の間、肘の内側、腰骨。シーツとの間に手に入れ、背筋を強く辿り上げると、彼は重なる唇の間に、はっきりとした喘ぎを洩らした。
「あ…! キリコ、もう…」
「気持ちいい? こんなに震えて、可愛いよ。もう、どうして欲しいの」
「触って、くれよ…、どうにかなりそうだ、身体中に、火が付いたみたいに」
「触ってやるさ、可愛いね、素直な先生も」
薬の効果はせいぜい数時間。
その間だけは、彼は、虚空から抜け出せるだろうか。
魂の抜けたような彼など見たくはない。だが、その姿を誰かに見せるのならば、私だけにして欲しいと思う。手負いの瞳を見せ付けるのは、他の誰かであってはならない、これは束縛というのだろうか、ただ、今夜も彼は私を選んだ。
毒を食らわば皿までと言う。
さあ、何があった?
彼は決して語ることはないだろう、そして私も訊くことはないだろう。それでも、気にしていないということにはならない。心配だなんて生温い言葉は似合わぬが。
特に焦らしもせずに、彼の性器に右手で触れた。彼のそこは、もう既に、健気に勃ち上がり、濡れていた。
軽く握って、緩く扱く。彼は、声を抑えもせずに喘ぎ、両手でシーツに縋り付いた。
「ああっ、あ、キリコ…ッ、駄目だ、いっちまいそうなんだ」
「いっちゃえば? 苦しいんでしょ」
「厭だ…、おまえが、おまえが、欲しい」
「…嬉しいね。じゃあ、良い子に脚を開いてな」
頬を染め、大人しく両脚を左右に開く彼を見下ろしながら、先程、車に戻ったときに、アンプルと一緒に持ち出してきて、ベッドサイドに放り出していたクリームを手に取った。
指にまぶし、彼の尻に塗りつける。一本差し入れる。私に慣れた彼の身体は、僅かな抵抗のあと、従順に私の指を飲み込んだ。
きゅうきゅうと締め上げて、快楽を盗もうと必死になっている。勝手に笑みが浮かんでしまう。こういう、貪欲な彼のほうが、観ていて面白い。たとえ薬の所為にせよ。
「は…、気持ちいい、もっと…ッ」
「いいよ。もっと欲しいのか。ここは?」
「はア、アア、あんまり、したら、出ちまう…っ、早く、おまえの、」
「判ったよ、おれのが欲しいんだな、先生」
二本に増やした指で、彼の敏感な箇所を抉ると、彼はびくびくと身体を跳ねさせて反応した。簡単なものだと思う、まずどうして彼は、大人しく私に左腕を差し出したのか。それほどまでに、どうでも良かったか、自分が。
いまにも達してしまいそうな彼から指を引き抜き、腕を掴んで上体を起こさせた。快楽に濡れた彼の瞳を覗き込んでから、その艶やかな髪に手を差し入れ、自分の股間に引き寄せる。
「じゃあ、完璧に使えるようにして。上手にしゃぶってくれよ、あんまり下手だと途中で帰っちまうぜ」
「…」
彼は、ごくりと喉を鳴らしてから、恐る恐るというように、それでも欲に突き動かされるように、唇を開き、私の性器の先端を口に含んだ。
飲み込めない部分を、両手で擦り上げながら、必死に舌を使う。目を細めて見下ろす。この行為も総て、薬の所為。
そう、言い訳が出来れば、明日目覚めたときに少しは気楽だろう。
そのときに、彼本来のぎらついた赤い瞳が、元に戻っていればの話だが。
暫く彼のしたいようにさせてから、無理はさせずに、髪を掴んで股間から顔を引き剥がした。陶然とした表情で、私を見上げてくる彼を、反吐が出るほど優しく仰向けに組み敷いて、脚を抱え上げる。
「入れて欲しいんだろう?」彼に舐められ、反り返った性器を片手で掴み、彼の尻に押し当てて、耳元に言った。「沢山犯してやるからね。それがいいんでしょ。言えよ、入れてくださいって。今日のおまえは素直なんじゃないの」
「あ…、れて、入れて、くれ」
「そう、それで良い。きついだとか、苦しいだとか、泣き言言うなよ、おまえが欲しがったんだ」
「ああ…! キリコ、熱い…ッ、は、」
先端を押し込むと、抱えた彼の脚が、びくりと痙攣するように跳ねた。構わずに、じりじり根本まで侵入したら、彼はそれだけで感極まり、自分の腹の上に精液を吐き出した。
背筋をそらせて、快楽の渦に飲み込まれている。私を咥え込む内壁が、ぎゅうぎゅうと容赦のない力で、私を締め付けた。
ねえ、何があったの。
訊けない言葉を行為に託して、身体を繋げる、こんなことに何の意味があるのだろう。
ふたりでホットブランデーを舐めながら、話を聞いてやるべきではないのか、でも、そうしてしまったら最後、私達の関係は壊れてしまうから。
こうしてやるしか術がないんだ。
彼も勿論承知しているだろう。
遭いたいと、抱いてくれと、その唇で言いながら?
「入れただけで、いっちまったの」
彼の腹に散った精液を弄びながら、彼の荒い呼吸が落ち着くまで待って、私は悪戯に言った。彼は、両手で顔を覆い、表情を隠して、二度、三度頷いた。
一度達しても、彼の性器は勃ち上がったままだった。よく効く薬だと、私は頭の片隅で考えるともなしに考えた。
「おれのものは、そんなに気持ちよかったか。尻だけでいっちまうなんて、淫乱だね、先生」
「身体、が、熱くて…。何処もかしこも、皮を、剥いだ、みたいで…。おれにも、良く、判らない」
「抜いてやろうか? 満足したのなら」
「ああ…駄目だ、もっと、もっとしてくれよ…。沢山、突いて、ぐちゃぐちゃに…」
「欲張りだな」
抱えた両脚を、彼の胸につく形に折り曲げて、私はゆっくりと腰を使い始めた。表情を隠していた彼の両手は、その刺激に耐えられないというように、シーツを固く握り締め、ぶるぶると震えた。
彼の中が蠢いて、私を離すまいとしている。
いつもの夜よりも、彼の体温が高い。抑え切れない喘ぎも、私を呼ぶ声も、いつもの夜と同じようで、まるで違う。
彼の左腕に、僅かに血が滲んでいるのが見えた。
そうだ、壊れてしまいたいのなら、一度、徹底的に壊してしまえばいい。そして夜が明けたなら、おまえが変な薬を使うから、と、いつもの調子でひとしきり怒ればいいのだ。
あのぎらぎらした、赤い瞳で。
結局、三度か、四度か? 尻を掻き回されて達して、彼はそこで意識を途切れさせた。疲れていたのだとは思う。
私は、彼の中から性器を抜き出して、自分の手に射精してから、自分の精液でどろどろになった彼の身体にそれを擦り付けた。
せめてこれくらいはしても良いだろう。
身体を拭いてやりもせずに、湿ったシーツに潜り込んで、そのままふたりで眠った。
結局、彼に何があったのか、判らない。だが、それでいい。
彼はそれを言いたくはないし、私もそれを訊いてはならない、それが私達の無言の約束だから。
翌朝、彼の舌打ちで、目が醒めた。
薄目を開けて隣を見ると、彼はシーツの上に起き上がっており、乾いた精液がこびりついた自分の身体を見下ろして、うんざりした顔をしていた。
ああ、表情がある、と思った。
幽霊みたいな、昨日の彼ではない。
「おまえ…。滅茶苦茶やりやがって。これは一体どういうことだ」
「おまえが、もっと、もっとって、言うからよ。覚えてないの、先生?」
「覚えていない。微塵も覚えていない。何かを注射されて、そこから記憶がない」
「いいねえ、便利な記憶力で」
低血圧に朝は辛い。私も彼と同じように、のそりとシーツに起き上がり、頬にかかる髪を掻き上げ彼を観た。
生気の宿る赤い瞳。ああ、と私は思う。私が焦がれ、私が愛し、私が望む彼が、ここにいる。
覚えていないというのは、嘘だろう、そんな薬剤は使っていない。それでも私はそれを信じたふりをして、精々呆れた顔をして見せた。
何があった?
そんなことは、訊かなくとも良い。
彼が彼を取り戻すことが出来るなら。
おまえが悪いんだろうが、と彼は、低い声で言い返した。
「薬なんて、使う必要があるのか? 卑怯者。薬物キチガイ」
「おまえ、厭がらなかったじゃない。薬を使ったのはおれの優しさよ」
「昨日は…調子が悪かったんだ。厭がらなかったんじゃない、厭がる気力がなかったんだ」
「同じことだろ。良い薬だったでしょ? 翌朝にはすっきり抜ける。ただで提供したんだから、ありがたく思えよ」
寝起きでずきずき痛む頭で、くだらない言い合いに耽る。こんな朝は悪くない。死んだ魚の目をいつまでも見せ付けられるよりは。
彼は、再度舌打ちをしたあと、ベッドから全裸のまま下りた。特に肌を隠そうともしていない、そうだ、私達はこんな朝にならば慣れている。
「どうした?」
「風呂だ。気持ちが悪くて仕方がない。いつまでも精液塗れでいられるか」
「一緒に入る?」
「断る」
彼は、スリッパも履かずに、つかつかと寝室から出て行き、一際大きな音を立ててドアを閉めた。頭に響く。
私は、その背中を見送りながら、ひとりくつくつと笑っていた。
遭いたいと、抱いてくれと、その唇が言ったのに。
一夜明ければこのつれなさだ。だが、それでいい。
瞳の色を失うほど、哀しいことがあったなら、いつでも私を頼ってね。
私はいつでも、何処にいても、彼の元にやってくるだろう、彼の求めるものをくれてやるだろう。
それで、彼の赤い瞳が、蘇るのならば。
何があった? そんなことは、一言だって訊かないまま。
(了)
2011.12.19