午睡

 午後の雨の中、傘も差さずに、彼の家を訪れる。
 チャイムを鳴らすと、暫くして、バスローブを着た彼が姿を現した。シャワーを浴びていたのか。
 彼は、ずぶ濡れの私を暫く眺めて、それから無言のまま、右手の人差し指で私の下瞼をなぞった。この濡れ鼠の格好で、どうして私が泣いていると判るのか。
 彼からは、よい香りがした。シャワーのあとで、薄めた香水を髪に付けるのが、彼の習慣だ。まだ半ば湿っている銀髪が、きらきらと煌めいて、まるで絵画のようだと思った。成る程この男は美しい。
 いつか、悪魔は美しい姿をしていると聞いたことがある。そうでないとひとの心を惑わせないから。では死神は。
「ブラック・ジャック先生も、シャワー浴びる?」
「…」
 つい見惚れていた私に、彼は飄々とそう声をかけた。どうしたのかとも、何があったのかとも、絶対に訊かない、この男は本当にお優しい。
 彼は、私の返答を待たずに、私の腕を掴んで家の中に引っ張り込み、バスルームに私を押し込んだ。悪魔のように美しい彼、一方、私の惨めさと来たらどうだろう。雨に濡れて、感情も隠せず、縋るように誰かの脚にしがみつく。
 私は醜い。
 彼の目に、私はどれほど無様に映るのか。
 のろのろと、濡れて重いスーツを脱いで、浴室に入った。シャンプーの香り、バスオイルの香り、つい先程まで彼がバスルームを使っていた気配が濃くて、私はぞくりと肌を震わせる。
 シャワーのコックを捻り、生温い水飛沫を浴びた。それはまるで羊水の温度、私は嗚咽を噛み殺し、またひとり涙を流した。
 これは依存というのだろうか?
 こんなときばかり、私は彼を追っている。
 彼の手に触れて欲しいと望んでいる、触れるその瞬間を待っている。彼の意志などお構いなし、私は勝手だ、赤子のように欲しい欲しいと泣いて喚いて。
 これを、依存というのだろうか。彼なしではいられない。
 冷えた身体が温まった頃、私はシャワーを止め、浴室を出た。用意されていたバスローブを着てバスルームを出ると、探した彼はベッドルームにいた。
 珍しく、紅茶を入れている。フォートナムメイソンのアールグレイ?
 ポットから立ち上る華やかな香りが、彼の香りと混ざり合い、私に一瞬の目眩を起こさせる。嫌いだ、完璧な男など。嫌いだ、嫌いなはずなのに、私はこの男から離れられない。
「飲む?」
「…」
 言われて私は、ベッドの横にある一対のソファの片方に座った。そう言えば、ここに来てから、私はまだ声を発していない。
 カップを受け取りながら、掠れた声で言った。今更このくらいの醜態は、大したことではないと思った。
「どうして、何も訊かないんだ?」
「訊いたって、答えないでしょ」
「おれを、哀れだと思うか」
「さあ。おれに毒されてしまえ、とは思うよ」
 彼の指が、シャワーを浴びたばかりで乱れた私の髪を、軽く梳いた。俯く彼の銀髪が、頬に掠め、私は唇を咬んだ。何だというのだろう、この欲は。彼の傍にいたい、彼に触れていたい、彼に優しく抱き寄せて欲しい、好きなんかではないはずなのに。
 依存か。
 毒される? 毒されるというのなら、とうに毒されている。ひとりきり、惨めな姿を晒して、おまえに泣きつく程度には。
 視線を下に逃がして、紅茶を飲んでいると、不意に彼の手にカップを取り上げられた。腕を掴まれ、ベッドに引きずられる。ああ、と私は思う。またこうして、予定調和のように彼に抱かれて、私は益々彼に溺れていくのか。
 私は何を望んでいるのだろう。彼に身体を拓かれたいのだろうか。熱い欲望を埋め込まれて、何も考えられなくして欲しい?
 或いは。
 当然、そのままセックスに縺れ込むものだと思っていたが、しかし彼は、横たわったシーツの上、私をふわりと抱き締めただけで、何を仕掛けてくる様子もなかった。
 彼の香りに充たされる。絡み付くしなやかな腕、吐息の触れ合う距離。
 幾ら待っても、彼がそれ以上の行為に及ばないものだから、思わず訝しげに視線を上げた。彼はその私の眼差しに、ふと苦笑して、私の額にそっと口付けた。まるで幼子にでもするように。
「昼寝しよう、優雅な午睡だ、おまえは随分と疲れているようだから」
「…キリコ、」
「物欲しそうな顔をしても駄目。おれも眠いんだよ、眠れ、先生」
「…」
 酷く穏やかな目付きをしていたものだから、私は怯んだ。そうだ、彼は、こんな表情もするのだ。
 彼はそう言うと、私を緩く抱き寄せたまま、本当に寝息を立てて眠ってしまった。彼の気配、彼の感触、私は暫く身体を強張らせていたが、やがておずおずと力を抜き、彼の胸に頬を押し付けて、また泣いた。
 お優しい死神め、私の欲しいものが何故判る?
 私はただ、泣ける場所が欲しかったのだろう、誰かの体温に密着して、安心して泣ける場所が。
 これが依存というものだろうか。ならばそれでいい。頭から彼に毒されて、私は優しい眠りにつきたい。
 
 
 
 (了)

2011.09.24