抱擁の回数制限


 五回ね、と死神は言った。
 薄っすら笑った美貌には、それ以外の表情はなかった。真意を探そうと色素の薄い瞳を見つめても、やはり感情などは窺えなかった。右手を目の前にかざされて、そのてのひらの白さに、立てられた指の美しさに、動揺したことを覚えている。
 五回。
「抱いてくれというのなら、抱いてやってもいいよ、ブラック・ジャック先生。だけど、五回だけ、泣いても笑っても、きっちり五回だ。飽きもせず慣れもせずちょうどいいでしょ、優しくしてあげるよ」
 抱いてやってもいいよ、と、答えられたことは意外だった。
 冗談言うなよ、馬鹿言わないでよね、そんなふうに跳ね除けられるのは覚悟していた。何せ我々のあいだには、深い溝こそあれそれに架ける橋はないのである。共有している部分はあると思う、同じ闇にいると思う、しかしそう思っているのは自分だけかもしれない、理解できない、だが理解している、そう思っているのは。
 いずれ本来であれば手を伸ばせない男だ。
 だから請うた、言葉に出した、どうでもいいことのように素っ気なく、酒に誘うよりも軽く、抱いてくれないか、キリコ先生。
 感情は消したつもりだ、だが、透けていたかもしれない。
 五回。
 彼があっさり乗ってきたこと自体が異常事態なのだから、そのうえ五回も寝てくれるというのなら、ありがとうというべきだ。
 何故肌を合わせたいと思ったのか、自分でもよく分からない。寂しかったか。しかしそれならば、彼が相手である必要はなかった。だが、私には彼しか考えられなかった。そう、欲しかったのだ。
 私の深淵を知る男が。
 飢えていたわけでもないと思う。それならば、女でも摘めばいいだけの話である。やわらかな肌も、濡れた肉も、決して嫌いではない。当然、誘うくらいなのだから男を知らないわけではなかったが、慣れるほど知っていたわけでもなかった、女を抱くほうが気楽だし、そうあるべきでもある。
 それでも、彼だった。
 分からない。不意の邂逅、予定調和の口論、ときには隣に立って夜景を見下ろす、それで充分であったはずなのに、欲しいというのならばそれだけでよかったはずなのに、分からない、分からない、その熱を感じてみたいなんて、私はずいぶんと貪欲である。
 男を抱いたことがない、と一度目のときに彼はさらりと言った。
 ならば何故頷いたんだ、とは思ったが、言わなかった。確かに彼は言葉通り、私の身体へ伸ばす指先に、一瞬の淡い不自然さを潜めさせた、しかし、一瞬だった、彼は最初から私を夢中にさせた、女を抱くように組み敷かれれば舌でも噛んだろうが、そのようなことはなかった、彼は器用であり誰かに触れることにも慣れており、何より、センスがよかった。
 丁寧に開かれ、貫かれて声を上げた。
 まあ、女の尻を使ったことでもあったのかもしれない。
 二度、三度、回数を重ねるごとに、行為は濃密になった。互いに互いを知ったのだろう。場所は必ず彼の家のベッドで、ホテルもそれ以外も使わなかった、仄かな香水と、彼の匂いが薄く染みたシーツを握りしめて味わう快楽は、私を狂わせた。
 惚れているわけではないと思う。そんなにぬるい感情であれば、はなから誘わなかったろうし、ここまで嵌らなかったに違いない。
 許して欲しかったのかもしれない。許し合いたかったのかもしれない。分からない。
 五回、か。
 ならば今夜で最後だ。
 夜、彼の家の前に車を横づけて、ドアを叩いた。彼は十秒は待たせずドアを開け、私を見やり、悪戯に笑った。よく来たね、いらっしゃい、そんな言葉はもちろんない。ただ彼はその長身を屈め、私の耳元に短く囁いた。
「欲情してる?」
 長い銀髪が頬を擽る、何もかもが美しい男だと思う、香水の甘い匂いに酔いながら、私は微かに頷いて返した。
 そうだ、最後だ、五回きりの抱擁、そういう約束だった、ならば刻んでくれよ、その記憶だけで私が生きていけるように。





 バスルームで内側まで丹念に洗ってから、寝室に足を踏み入れると、彼はベッドに座ってグラスを傾けていた。これでおしまい、ふたりとも知っているはずなのに、流れる空気はいつも通り淡々としていてどこか緩くて、安堵と息苦しさを感じた、ようやくお役御免です? おまえは何を考えている。
 捨てないで。
 そんな女々しい顔は、見せたくない。
 無表情のまま歩み寄ると、言葉もなく立ち上がった彼に実に自然に唇を合わせられた。口移しで酒を流し込まれる、アブサン? きついアルコールに少し噎せたら、彼は僅かに目を細めた、笑った、のだろう。
 咳き込んだ私が落ち着くのを待ってから、彼は深い口付けを落としてきた。ぴちゃぴちゃと唾液の音を立てながら舌を絡め、互いの身体に手を伸ばす。たった数度の接触で、いくつか決まりごとができていた、たとえばキスをするまで口をきかない、欲しがるように相手のバスローブへ指をかけ、床に落とす。
 欲しがっているのは、私だけである、おそらく。
「は……」
 くちづけは、甘かった。
 交互に舌を噛んで、唾液を啜り合い、喉を鳴らす、こんなものは恋人のキスである。律儀な男だ、五回ね、と言った以上はきっちり役目を果たす。
 途中で、もうやめた、と投げ出してもいいのに。私が縋れないことくらいは、知っているだろう?
 ぬるりとした舌の感触に震える、私はそれだけで容易に反応する、薄っすらと瞼を開くと、じっと私を観察している彼と目が合った。
 ああ、美しい、何度でもそう思う。虹彩の色が美しい、銀色の睫毛が美しい、何よりその鋭く甘い眼差しが美しい、この男は私に、ある意味甘い。
 抱けと要求してみれば、抱いてみせる程度には。
「あ、は……ッ」
「立っててね。焦らさないから」
 くちづけを解いた唇で、頸動脈の上を辿りながら、彼がようやく言葉を聞かせた。彼は色気のある声をしていると思う。ぞくりと鳥肌が立って、私は私が思う以上にこの男に参っているのだと思い知る。ああそうだよ、おまえが欲しい。
 光の差さない暗闇を、ひとり歩いているときに出会った男である。
 彼の抱えた諦念に、見蕩れなかったといえば嘘だ。
 私は魅せられた、彼の瞳に宿る絶望に、この男は知っているのだ、どんなにもがいても、あがいても、無駄であるという真実を。
 それでももがきたい私、すべてを受け入れる彼、噛み合わないのは当然で、だが、根底には同じ影があった。太陽は眩しすぎる、月も見えない夜がいい、そうでないと息もできない、生きられない、だって救いなんてないじゃない。
 分からない。
 分からない、しかし、知っている。この夜、何も見えない、しかしただ一閃翻る綺麗な銀髪に、指を絡めてみたかった。
 冷えた肌を擦り合わせて、熱く溺れたら、どんな感じ?
 彼は、ベッドのすぐ目の前に私を立たせたまま、上半身に丁寧に唇を這わせた。彼の行為は基本的に緻密で慎重である、強引にすべきとき、あるいは乱暴にして欲しいと私が望むときを除いては。
 ためらいなく乳首に吸い付かれ、歯を立てられて思わずその髪に縋ると、彼は、駄目、立ってて、とやわらかく言った。
「そうやって、一生懸命、おれを感じて、可愛いよ。はじめてこうしたときよりも、感じやすくなったんじゃないの、先生? 今夜で最後だけど」
「ふ……ッ、う、……言う、な」
「身体だけの関係が欲しいなんて、身勝手甚だしいよね。頃合いでしょう? たくさん気持ちよくなって、はいおしまい、そのくらいがちょうどいいよ、我が儘な先生には。ほら、感じて、最後なんだから」
 舌を這わせる合間に囁かれる、彼のセリフの意味は半分も頭に入らなかった。ただ、最後、最後、と繰り返された、その言葉が頭の中に反響した。
 五、四、三、彼もきっちり数えていたか、それはそうか、あんな約束、忘れていてくれればいいなんて、あまりに都合がいい願いである。
 肋間を唇で数えられ、脇腹に噛みつかれ、膝を崩しかけたときにシーツへ引っぱられた。照明も落とさない寝室、彼の匂いがするベッドで目を眩ませている私に、彼は駄目押しのように言った。
「最後だ、先生、どうしたい?」
 何度も言うなよ、分かっているよ。
 今夜絡まり、去ってしまえば、もう二度と彼は私に手を伸ばさない。その肌を感じることも、長い髪に触れることもない、もしかしたら綺麗な隻眼は、以降私を見ないのかもしれない。断絶されている。
 知っていたことである。潜む闇は同じものだとしても、私と彼とのあいだには、決して越えられない溝が、壁がある。こうして彼が私に触れるのは、ほんの気紛れであり、本来はありえぬことだ。
 だから、五回だ。
 遊ぶのならば、それで限度だ。
 顔が見ていたいと思った、しかし、見たくはないとも思ったし、だいいち見せたくない。息を乱しながらシーツにうつぶせ、腰を上げると、チェストから彼がローションのボトルを取り上げるのが、視界の隅に映った。
 彼の行為は丁寧である。
 だが、遠慮はしない。
 背後に気配を感じてすぐに、ボトルの細いネックを突き刺された。痛みなどはなかったが、直接、中に、溢れるほどローションを注ぎ込まれて、その冷たさに唇を噛んだ。
 ネックが引き抜かれ、それよりも太い指を差し込まれたときには、微かな声が漏れた。彼が内側に触れている、その認識は甘くてとても切ない。長い指に、深くを探られ、熱を持つ身体の中で、ローションはすぐに体温に馴染んだ。
「あ、はあ……ッ、キリコ」
 シーツを握りしめて、彼の指を飲み込む快感に耐える。長い指は器用に入り口の筋肉を広げながら、執拗に届く限りの奥を擦り上げた。
 彼は前立腺をあまり刺激してこない。それほど数多くはない、私の尻を使ったことのある人間は、その場所を好んで弄ったものだが、彼はしない、いや、最初の一度か二度はそうしたが、私がその直線的な快楽よりも、深くを緩く押し撫でられるほうが好きなのだと、あっさり察して以来意図しては触れなかった、憎たらしいことである。
 なんだか苦しくなるんだよ、機械的な愉悦よりは混ざり合いたい。
「ねえ、先生。指増やしていくから、気持ちいいのかもしれないけど、そんなに締めないで」
「ん……ッ、優しく、する、な」
「どうして? がつがつするのは好みじゃないよ。おまえもだろう。楽しめばいいじゃない、最後なんだから」
 畜生。
 二本、三本、指を挿し入れられて、喘いだ。いつもならば殺す声も、音にした、そうだよ、おまえの言う通り、最後なんだから。
 ローションを掻き混ぜる音が身体の中から聞こえて、目眩がする。私は淫らないきもののようだろうか、おまえの目に、どう映っているのだろうか、可哀想な男に見えるのか?
 恋情ではない。互いに知っていることだ。
 愛情ではあるかもしれない。いずれこの行為には関係ない。
 器用にそこを開いてから、彼はあっさり指を抜いた。わざとらしくもない、しつこくもしない、彼のセックスは好きである、五回ね、と言われるよりも前に想像したそれに近い。
 少しして、ローションに濡れた硬い性器を押し付けられた。この男も私に触れて興奮しているのだと思い、余計に目が回るような感じがした、はじめて寝たときには、顎が痛くなるくらいに口を使わなければ彼は勃たなかったが、まあそれで勃つだけでも大したものだが、いまは触れなくても反応するのか。
 互いに慣れたのだと思う、でも、これで最後か。五回という回数が多いのか少ないのか、私にはよく分からない、しかし回数制限を設ける彼は、あまりぬるくはない。
「先生。入れるから、飲み込んで。おれがどのくらいのサイズかは、もう知ってるでしょ」
 躊躇なく、ぐいと先端を突き刺しながら、彼は背後で淡々と言った。押し込まれる衝撃に短い悲鳴が漏れる、それでもはあはあと息を喘がせて、身体の強張りを逃した、巧く受け入れなければきついのは自分だ。
 彼は、私が力を緩めるのを待ってから、じりじりと奥まで性器を挿し込んだ。痛みはない、ただし違和感は半端ではない。彼は、入らないほどに凶器じみてもいないが、充分に太いし、充分に長い。
「あ……! 深い、キリコ、ふかすぎ、る」
「いまさら? 深いほうが好きなんでしょ、味わえよ。動くから、さあ、好きなだけ感じて」
「う、あ……ッ、好きだ、気持ち、いい。はあ……ッ」
 その違和感こそが、快楽だと知っている。
 好きだ、喘ぎに混ぜた言葉に自分で戦慄した。身体を繋げている彼にも、当然伝わったろう、だが彼は何も言わなかった。緩やかに、奥深くを擦り上げる、私の好きな動きで私を蹂躙する、知る限りスマートなセックスをする男である、己が貪るよりも相手の快楽を優先する。
 この男は何故、私の誘いに乗ったのか。
 この男は何故、五回ね、と言ったのか。
 意味が分からない、断ればよかったではないか? 普通は断る。女に誘われたならばまだしも、相手は男だ、しかも私だ、誰よりも反発しあう人間、磁石の同じ極みたいに。
 背中合わせであれば同じ場所に、誰よりもそばに、密着して、立っていられる。
 だが、向き合ってしまえば駄目だ、理解している、そして理解できない、だからもう離れるしかない、それなのに。
 欲しかったよ、欲しかったさ、おまえだけが、欲しかった、おまえは何を思ったのだろう、それほどに私は哀れに見えたか、捨て猫でも拾うように私の肌に触れたか。
 よしよし、餌をあげよう、ただし飼ってあげることはできないから、五回だけね。
 そんなもの?
「震えてる。つらいの、先生」
 私の腰を両手で掴み、私の中を穿ちながら、彼が言った。私は細く声を漏らしながら、首を左右に振った、分かっているくせに。
 膝を立てた脚を、背を、身体中の肌を戦慄かせて快楽に耐える。彼が出入りする音が聞こえてとてもいやらしい。
「ん、……ふう、奥まで、開いて、る、たまらない。つらく、ない、気持ちいい」
「少し強くしようか。大丈夫、もっと気持ちいいから」
「ああ……ッ、駄目だ、我慢、できない……ッ、キリコ、駄目だ」
 彼は、私の制止は聞かずに、腰の動きを荒くした。激しいというほどではなかったが、彼にしては珍しい奔放さだった。
 内壁をずるずると擦り上げられて、ますます息が上がる。深く突き立てた位置で腰を揺すり上げられ、高い声が零れた。ああ、気持ちいい、気持いいさ。
 余裕があって落ち着いていて、穏やかなセックスが好きだ、だが、私は相手がこの男であれば、どんな行為でもきっと快楽を搾り取れる。
 それほど長くはもたなかったと思う。
 時間の感覚が飛んで、正確なところは分からない。
 もういく、と掠れた声で訴えると、彼は背後で甘やかに、ふふ、と声を漏らして笑った。こころをぎゅっと握り潰されるような声だった、まるで愛するものに聞かせるような。
 そんな声を。
 私相手に。いま、使わないでくれ、残酷だ。
「いいよ。いきな。擦ってほしい?」
「このまま……、突いて」
「ああ。おまえは可愛い。残念だよ、最後だなんて」
 間際まで迫る快楽に、何を言われたのかは分からなかった。
 彼は私の求めた通り、私を奥深く貫いた。何度も繰り返し根本まで突き刺されて、それ以上は耐えられず、シーツを掻き乱して絶頂の波に溺れた。
 頭の芯まで痺れるような、瞼の裏が真っ白になるような恍惚だった。彼と繋がっているのだと思えば、その愉悦はさらに色濃くなった。
 触れられてもいない性器から、ぱたぱたとシーツに精液が落ちる、そういえばこの男はいつも汚れたシーツを、己で洗濯しているのだろうか、申し訳ない。
 彼はまだ達していなかった。このまま続けて揺さぶられるのかと、なんとか少しでも波を逃そうとしていると、しかし彼はそれ以上は私を苛まず、あっさり性器を引き抜いた。
 腰から手を離され、姿勢を保っていられずにシーツの上に崩れる。その腕を、優しく掴まれ身体を引きずり上げられて、頭がくらくらとした。
 いまのいままで性器が食い込んでいた尻に残る異物感に、肌の震えがおさまらない。
「しゃぶって、先生」
 言われて見やった彼は、滲んだ視界でも、それはそれは美しかった。
 銀色の長い髪、淡い色の瞳、いつでもシャープな印象の表情は、いまは少し、甘いか。
 そんな顔を、しないでくれ。だって今夜が終わってしまえば、私とおまえはもう、赤の他人だ。分かっていて誘ったのである、はじめから触れなければ、不意に出会う夜に彼の隣に立てたかもしれない、それを捨ててでも欲しかったのだ、欲しかった、おまえに分かるか? 私がどれほど焦がれていたか。
「口に出してあげるから、飲めよ、よく味わって。最後だぜ?」
 髪に伸びてくる長い指に、抗う理由はひとつもない。





 ふと目覚めた早朝、一瞬、自分がどこにいるのだか分からなかった。
 あたたかい。
 知っている匂い。
 心地よい。
 もう一度瞼を閉じかけて、そこではっと意識が覚醒した。ベッド、彼の腕の中だ。
 驚いたものだから、どくりと心臓が無駄に脈打った。少なくともいままで、彼が自分をこんなふうに、やわらかく抱き寄せて寝たことなどない。私が押しかけた夜には、彼はいつでもリビングのソファに横たわる。さんざん抱き合っておきながら、すぐに忘れましょうというように。
 恐る恐る見つめた彼は、微かな寝息を立てて眠っていた。銀色の睫毛に見蕩れてしまう、綺麗だ。
 どうして? 最後だから?
 最後、か。
 もうこの男は、私を抱かないのだ。
 いまさらのようにそう思ったら、じわじわと実感が湧き出した、いま触れている素肌も吐息も、もう二度と触れないのだ、その認識はとても恐ろしくて、苦かった、五回ね、彼が言ったあのときに覚悟したはずじゃないか、そうだ、いまさら。
 おれは狂うのではないか?
 気づいたらはらはらと涙が溢れていて、自分にうんざりした。実に女々しい。五回だけとはいえ、私の欲望通り、まともに考えればありえない関係を彼と持てたのだから、それでいいではないか。
 知っている人間に。
 私の深淵を知っている人間に、委ねたかった、私が深淵を知っている男の熱を、感じたかった、欲しかった。
 手に入れた。五回。
 この記憶を必死に抱いて、そうだ、さまよえるだろう? またひとりきり、暗闇を。
「……どうしたの」
 見つめていた彼の瞼が、僅かに震え、ゆっくりと目が開いた。私が起きた気配に目を覚ましてしまったのか。咄嗟に顔を背けようとしたが、淡い色の瞳に視線を捕らわれて、できなかった。
 確かに寝起きであるはずなのに、彼の眼差しはいつもと変わらずシャープで、仄かに甘かった。
 ねえ、その目は、ベッドを下りれば、もう私を見ないのか。
「先生。哀しいの? 可愛いね、泣いちゃって。おれと終わるのが、いやなの」
「……キリコ」
「素直に答えられたら、絆されるかもよ」
 馬鹿め。この男に限って、絆されるなどということはない。
 彼は私を緩く抱き寄せたまま、片手を伸ばし、私の涙を拭いた。そんなことをされたものだから、余計に涙が零れた、残酷な男だ、抱いてくれと請えば五回ねと答え、最後の夜に抱きしめて眠る、泣けば指先で慰める、残酷だ、明日から私はどうして生きればいいの。
 終わるのがいやなのかと問われたので、掠れた声で、いやだ、と答えた。精一杯だ。
 彼はうっとりするような笑みを浮かべて、じゃあ、回数制限を外してみなよ、と囁いた。
 地獄の淵を覗き込み、死神の鎌を握って歩く男である、その男が私に向かって、甘く微笑みかけている、あなたの闇と私の闇は隔てられている、だが、同じものだ、深い深い亀裂の向こうから、手を差し伸べてくれませんか。
「……どうやって」
「おれを口説け。抱けと言われたら、おれだって、それしかできない。他にしてほしいことはないの。ほんとうはどうしてほしいの」
 こめかみを伝う涙を、飽きず拭い取る指、狡い、狡い、どうせ拒絶するくせに、気紛れに拾った捨て猫の面倒など見られやしない。
 ほんとうはどうしてほしいの。
 ほんとうは、どうしてほしいのだろう。
 分かってほしいなどとは言わない、言わずとも互いに理解している、そして理解できない。影踏み歩いていたらいつの間にか、真っ暗になっていた世界で出会った銀色の死神、背負ってきたものは似ているようで違うもの、手にする光はまったくの別もの。
 暗いよ、何も見えないよ。
 そうだろう、おれも見えないよ。
 ああ、でも手を伸ばせば、そこには体温がある、声が聞こえる、いままでひとり罠だらけの路を、手探りで歩いてきたんだ、欲しかったんだよ、その存在が、受け入れられたかったんだよ、その存在に、私はひとりではないと、教えてくれる男がいたから、せめて身体だけでも、繋げたかった。
 ほんとうは、ただ。
「……あいしてくれ」
 小さく震えた、聞くに堪えない酷い声だ。
 彼はひとつ瞬いてから、じっと私の顔を覗き込んだ。いつでも鋭い視線が、しかしそのときは僅かに緩かった。そしてやはりどこか、甘い。
 彼はしばらくそうして私を見つめてから、腕を巻きつけていた私の身体を、強く抱きしめた。数秒だ。すぐにふわりと開放されて、私は目を白黒させた、待て、おまえいままでこんな抱擁を、したことはなかった、一度たりとも。
 馬鹿だね、と唄うような声で言われて、見やった彼は綺麗に笑っていた。卑怯だ。
「あいしてくれというのなら、そんなの、とうにあいしているけど? 出会ったころからずっとだよ、おまえはおれの闇に一閃翻る光だ。とても眩い。でなけりゃ言われてはいそうですかと抱かないでしょ」
「……え?」
「ほんとう、馬鹿だね、先生。じゃあ、今度はおれがおまえを口説こうか」
 囁かれる言葉の意味が理解できない。そんなの、とうにあいしているけど?
 瞼に、こめかみに、涙を追うように唇が触れる。こんなことをされたら誰でも勘違いする。思わず押し返そうと伸ばした片手を、逆に握りしめられて私は身体を強張らせた。何がしたいんだ、おまえは。
 五回ね、と。
 薄っすら笑って死神は言った。もちろん覚えている。だから、これで最後、最後なんだ、最後だからってサービス過剰じゃないか?
「おれはおまえの願いを聞き入れた、次はおまえが聞き入れるばんだ。五回の制限、なしにして、六回も七回も、おれに抱かれてください、先生。言うこと、聞くよね?」
 頭がついていかない。
 片手を握りしめられたまま、私は呼吸を喘がせた、駄目だ、都合のいい夢だ、信じるな、最後だと、彼は何度も繰り返したではないか。
 それでいいと思ったのだ、ひととき、愛し愛される幻想に浸れればそれでいいと、欲しかったから、欲しかったんだ、おまえなどに私の気持ちが分かるものか。
 おまえが五回と言ったんだ、低くそう返した。
 彼は、はは、と軽く声に出して笑って、強情なのね、先生、と言った。
「五回も寝れば、おまえも素直になるんだと思ってた。抱いてくれないか、なんて、言われる身にもなれよ。それより愛の言葉が先にあるべきでしょ。なのにおまえときたら、最後まで好きだとも言わなかった。でももういいよ、愛してくれと言えるようになったんだから、えらいね、おまえは捻くれているというよりも、単に馬鹿だ」
「……最後じゃ、ないのか?」
「最後じゃない。強いて言うなら、最初かな。いまからだ、たくさん抱き合おう、おまえが信じられないというのなら信じられるまで、回数無制限でね」
 最後じゃない。
 最後じゃないのか。
 なんとか彼の言葉の意味を把握して、と言っても多分半分も分かっていないのだろうが、私は唇を噛んだ。泣き声を上げるなんて惨めすぎる。
 ますます派手に溢れる涙を見て、彼は目を細め、私を優しく抱きしめた。この男はこんなふうに、誰かを抱きしめることができるんだ、と思った、あるいは、私だから?
 禁忌である。
 磁石の同じ極が決して重なり合えないようなもの、私の目に映る景色と、おまえの目に映る景色は、同じであり真逆である、混ぜ合わせてはならぬもの、身体を繋げるだけでも危ういのに、それでもこの男はそんなことを言うのだ。
 ならば、そうか、溺れてしまえ、ふたりで嵌って落ちるならいいだろう、抱擁の回数制限は解除されました、いつまでも続くものではないと知っている、それでもまだ彼は私を抱きしめる。

(了)2014.04.11