紺瑠璃


 死に魅せられたら、逃れることなど出来やしないように。
 死神に嵌ってしまえば、もう溺れることしか出来やしない。
 毎夜のように思い出す、彼の肌の感触、一度だけだと思ったし、そう口にも出した接触は、いやにあとを引く、私の精神の柔らかい場所を掻き乱す、もし再び出逢うことがあれば、私は彼に縋るかもしれない。
 誘惑は、瑠璃の色をしている、紺色を帯びた濃い瑠璃色だ。
 彼の纏う気配の色、スーツの、コートの色、その色と街中すれ違うだけでふと目で追ってしまう、これは相当重症である。
 もし再び抱き合うことがあれば。
 私はおそらく彼に夢中になってしまう。
 揺らぎのない彼の手が、死神の鎌を握って歩く、足掻きはするだろうが私には敵わない、死の前に生は無力だ。
 おまえの指先は愛を知っている、私は決して断罪出来ない。
 何故なら私のこの願いより、彼の祈りのほうが切実なのかもしれないから、正解なんて誰にも判らないが、私は彼を間違いだと言い切れない、だってその瑠璃の色が。
 とてもとても情熱的な色だと、私は知っている。優しく深い色だと私は知っている。誰があの男を否定出来るというのだろう。彼ほど終焉と、命と、対峙している男など他にはいないのだ。
 日本、東京。
 訪れた病院敷地内に、大型のバイクが停めてあるのに気付いて、なんだか厭な予感がした。
 依頼者には一週間ほど前に、術前検査のオーダーをかけておいた。その結果を見に来た土曜日の夜、そんなものを見かけてしまったものだからぞくりと鳥肌が立った、思い込んでしまえば何処かで観たことのあるような。
 まさか、ここは日本である。こんなところまで彼が来るわけもない。
 病院の裏に回り、職員出入口のドアを開けた。そこで院内から出てきた背の高い男と肩がぶつかった。
 ダークブルーのスーツにコート、スカイグレイの長い髪、微かな香水の匂いが、目で観て把握するよりも先に識別した、ドクター・キリコ。
 咄嗟に、ぶつかった相手を気遣い腰を抱いてから、それが誰であるかに気付いたらしく、彼は僅かに目を見開いた、青みがかった淡い色合いの瞳が、いつ見ても美しかった。
「ドクター・キリコ。何をしている、こんなところで」
「ああ、ブラック・ジャック先生? これは奇遇だ。そうか、ここはあなたの暮らす国でしたね」
 じろりと睨み上げると、私を支えようと伸びていた彼の手はあっさり引かれた。もう片方の手にはいつも持っているトランクをぶら下げている。
 稼業が稼業だ、いつか再会するのかもしれないとは思っていたが、それが今日だとは思っていなかった、不意打ちだ、唐突過ぎて目が眩む。ふと毎夜の夢を思い出して、震える肌を彼から引き離す、冗談でもそんな表情はしない、可能な限り平然と憮然と。
「患者に何かしたんじゃないだろうな、最上階の特別室だ」
「成程……いえ、まだ何もしていませんよ。ま、だ、ね。観てきたら良いんじゃないですか」
「……クソ」
 彼の身体をかわして、入口の警備員に片手を振り、病棟に走った。最上階まで階段で駆け上がり、特別室のドアを両手で開ける。
 果たして患者は目を覚ましてそこに居り、私が跳ね開けたドアに驚いたらしく、きょとんとこちらを見ていた。つかつかと歩み寄って視線で探る、瞳の色、肌の色、唇の色、どこかに針を刺された形跡は。
 変化なしだって?
「誰かここに来ましたか」
 訊ねるが返事はノー、いや、これは嘘かもしれない。取り敢えず本人の許可を得てから脈拍を取る、少し速いが私の所為か。
 廊下を覗き、通りかかった看護師に、術前検査の結果を持ってきてくれるよう頼んだ。血液検査、一般検査、心電図、ひと通り目を通してから再度患者の様子を見る、変化なし、か。
 私の来訪を聴いてやってきた病院の医師と、手術日の確認をして、あとは任せたと病室を出た。その際に医師にも訊ねた、誰か来ませんでしたか? 答えはやはり、ノー。
 いまこの病院には、この患者以上に重症の人間はいない。死神の言う通り、まだ、私の患者は無事のようである。だが、用事もなく彼がここに来るはずもない、確実に彼は患者と接触している、何故手ぶらで帰る? 殺すまでもないと思ったか。
 いずれ患者が喋るまいと思えば、私にはどうにもしようがないことである。
 階段で一階に下り、職員出入口から外に出た。駐車場に向かうと、その目の前に大型のバイクを横付けた彼に引き止められた、律儀に待っていたのか。
「ブラック・ジャック先生、お帰りですか」
 淡い色の瞳に見つめられて、ふと息苦しくなる、瑠璃色の誘惑が私の前に具現化している、もし再び出会うことがあれば、私は彼に縋るかもしれないと。
 何度も思った、毎夜その瞬間を夢見た、その彼が、目の前にいる。
「食事でもどうですか? 先生。せっかくこうして逢えたことですし」
「……どうしておまえと食事をしなければならないんだ」
「あなたを待っている間に、ホテルを予約しました、レストランも。おそらくあなたには、私を説得したいことがあるんじゃないかと思いましてね」
 唇の端に笑み、この男の表情は華やかではないが地味でもない、そして私はそれが嫌いではない、おまえが説得されるような男か、とわざとらしく舌打ちしてから、私は自分のセダンに歩み寄った。
 食事でもどうですか? ホテルを予約しました? まるであの夜の再現、心臓がおかしくなりそう。
「先導しろ、死神め」
 そうだ、そうしてあの夜私と彼は、肌を晒して抱き合ったのだ。
 彼は、余裕の様子で私に頷いて返すと、全くの安全運転で私の車をホテルまで連れて行った。彼の取ったレストランはホテル内のフレンチで、余計にあの夜を思い出した、ふたりで殆ど黙々とコースを食べながら、私はひたりと自分に張り付く彼の眼差しに戸惑っていた。
 どうしてそんな目で見る、おまえは私に何を見ている。
 おまえも思い出すことがあるのだろうか、あの夜を。
「……私が止めれば、おまえは仕事をしないか?」
「さあ。上手に止めてくれればね」
 会話らしい会話といえばそれだけで、会話と言っても仕事の話である。
 前菜からデザートまで、といってもデザートは遠慮してコーヒーを飲んだだけだが、それなりに時間をかけて食事をし、席を立った。彼が実にリラックスしている様子なのに対し、私は肩から、腕から、緊張が消えなかった、だって幾度かの邂逅で見慣れた、そして一度はその肌に触れた、紺瑠璃が私の目の前にいる。
 レストランを出て、フロントでチェックインを済ませる彼を、ソファに座って待った。
 低いが通る声が聞こえる、いや、ダブルで、そう、キングサイズ以上。男ふたりでダブルの部屋を取るというのか? 気違いめ。
 いや、荷物は少ない、案内は不要、ルームキーだけ頂きたい。
 彼はさっさと書類にサインを残すと、キーを片手に振り返り、ソファに座っていた私に視線を寄越した。私は立ち上がってエレベーターホールに向かった、今更逃げ出したって仕方がないし、逃げ出せるとも思っていない、この男がターゲットと決めたからには私はターゲットだ。
 そして、私にとっても、おまえはターゲットだ。
 私に歩み寄った彼に、横に立たれる。
 仄かな香水の匂いに、おかしくなりそうだ。
 部屋は二十六階だった。先に立って歩く彼に大人しく着いていき、ドアを開けて促され、室内に入った。馬鹿みたいに広い部屋だった、ソファに硝子テーブル、それとは別に背の高いチェアと木のテーブル、部屋の中に配置されていても全く圧迫感がない。東京でこれならば贅沢な空間である。
 冗談のように大きなベッドは、見回すまでもなく、ひとつだけしかなかった。
「一緒に寝るしかないですね、あの夜のように」
 彼がウオークインクローゼットを開け、コートをハンガーにかけながら、私を振り向いて薄っすら笑った。あの夜のように? そうか、おまえは覚えているのか、あの夜を、ならばおまえも夢に見たりはするのだろうか。
 私の肌を。
「……最初からそのつもりで、おまえに着いてきたよ」
 部屋の中央に突っ立ったまま、私は彼に低く答えた。言葉通りだ。だから縋ってしまうと云ったじゃないか。
 彼は面白そうに眉を上げ、その私にゆっくり歩み寄った、まるでいまにも罠に掛かりそうな獲物を逃がすまいとするように。
「おや、素直ですね、どうしたんです? たとえここで私にその身体を差し出しても、私が仕事を放棄するとは限りませんよ」
「そんなことは考えていない。ただ、ずっと、毎晩のように思い出したから。おまえのことを」
「正直なあなたは好きですよ」
 紺瑠璃が私に近付いて、私を抱き寄せた、ぞくぞくと震える身体をごまかすように、彼の背に手を回した。誘ったのは彼なのか、それとも私の言葉なのか、もう良く判らない、ただこの男が欲しいと切実に思った。
 落ちてくる口付けを受けながら、私は目を閉じる。死神よ、いまだけはその手の鎌を束の間下ろして私に触れてくれ、おまえの皮膚の熱さを、魂を、情熱を私に擦り付けてくれ。
 もし再び抱き合うことがあれば。
 私はおそらく彼に夢中になってしまう。
 そう思っていた、ならば私は彼に夢中になるのか? 構うまい、抱きしめてくれ、その魅惑的な死への誘いでもって、私を唆してくれ、瞼の裏に広がる紺瑠璃が闇に変わる、差し込まれる舌に従順に従う、そうだ、欲しかったさ、確信に満ちたその指先が。





 シャワーは別々に浴びた。
 先に私が、そのあとに彼が。
 出来る限り内側も外側も洗ったが、慣れているわけではないので無駄に時間を食った。待たされた彼は、特に文句も言わずに入れ違いでバスルームに消えた、片手にハンガーを一本持っている、私はといえばスーツもコートもぐちゃぐちゃに部屋に持ち帰ってきた、まあ、余裕があるかないかだ。
 バスローブ一枚で、広いベッドの中央に、仰向けに寝転がった。
 目を閉じれば、あの夜のことを鮮明に思い出した。
 借りた本を返しに行ったのだ、だが風来坊の彼はなかなか捕まらなかった、漸くその後姿を捉えたとある病院の裏口でその旨を告げると、ホテルで食事でも、と誘われた。
 あとは何がどうして彼と肌を合わせることになったのか判らない、いまでも判らない、気付いたら彼に抱かれて泣いていた、私はさほど自分の身体に執着がないし、あとは彼の誘惑が巧妙だったのだろう。
 そしてこのざまだ。
 彼は、あまり時間をかけずにバスルームから出てきた。片手にアメニティから盗んできた小さなボトルを何本か持っている、化粧水? 乳液? 化粧水はあまり役に立たないと思うが。
 彼はベッドに歩み寄ると、それらをシーツの上に散らかしてから、ぎしりとベッドを軋ませシーツに乗り上げた。動かない私に覆い被さって、バスローブの紐を解く、彼のまだ濡れているスカイグレイの髪が頬に触れて擽ったかった。
「あの夜のことを、思い出すんですね、先生」
 バスローブの前を遠慮なくはだけて、記憶で微かに反応している性器を掴まれ、私は眉を顰める。彼はその私の表情に、薄く笑って一旦身を起こし、自分のバスローブを肩から落とした、綺麗な裸体が露わになって私は今度は目を細めた。
 成程彼は隅から隅まで美しい男である、長い髪、鋭利な美貌、しなやかな筋肉がついた細身の身体までもが。
「思い出すよ……。おまえは私の特別だから。おまえだって覚えているんだろう」
「ええ、覚えていますよ、私はあなたに恋をしていますから」
「……どこの誰にでも、そういうことを云うんじゃないのか」
 恋。恋か。
 彼は、私の言葉にくつくつと笑ってから、私の首筋に顔を埋めた、その黒い眼帯を引き剥がしてやりたいと思う、いくら抱き合っても彼には秘密がある、私は暴かれるばかりなのに。
 薄い皮膚に口付けられて、吐息が洩れた。首筋から鎖骨、第一、第二、第三肋間、舌で探って胸にキス、手順書でもあるみたいに、彼はあの夜と同じように私に触れた、わざとか。
 この死神が恋をするなど、信じない、信じられない。
 ベッドの上での睦言だというのなら、意地の悪いことである。
「あ……ッ、あまり、するな、そこ」
「何故です? 気持ち良いんでしょう?」
「恥ずかしい……んだよ……ッ」
 乳首を吸われ、咬み付かれて、私は彼の髪を掴み、引き剥がした。そんなところで感じるのは、言葉の通りただ恥ずかしい。彼は私を見下ろして、くく、と笑い、指先で濡れた乳首を弾いてから、恥ずかしがるあなたも可愛いですがね、と云った。
「厭だというのなら、いまはしません。もっと時間をかけてゆっくりね、あなた今夜はあまり余裕が無いようだ」
 いまはしません? いつかはするのか? 余裕だと? そんなものがあるか。
 私は彼の官能めいた笑みを見ていられずに、目を閉じた、その私の脇腹だの、腰骨だのに飽きず口付けて、私をはっきりと目覚めさせてから、彼は身を起こした。
 紺瑠璃の目眩が私を襲う、私はその目眩に自ら溺れる、逃げられやしないじゃないか、世にも優しい、愛を知る死神から。
「は、あ、キリコ」
 誰が聴いても先を強請る声で私が喘ぐと、彼は私の片脚を肩に抱えて、私に伸し掛かった。枕元に放り出していた小さなボトルを手に取り、眺めているがよく判らないらしい。
「これはミルキー・ローション? 日本語は漢字が難しい」
「それで良い……」
 乳液のボトルを手にしている彼に言うと、そうですか、と彼は云い、あっさり蓋を開けて右手にミルキー・ローションを流し出した。躊躇わず、脚を抱えて露わになった尻に手を伸ばし、たっぷりと塗り付けてくる。
 場違いに華やかな香りが部屋に散った、彼の淡い香水の匂いが一瞬かき消されたほど。
「ん、ウ」
 すぐに押し込まれた指の違和感に、私はシーツを握り締めて耐えた。これが、彼が私を侵蝕する感覚だというのなら、快楽である。
 彼は、私が傷付かないように丁寧に入口を開いてから、指を更に中に入れた。前立腺を弄られて思わず掠れた声が洩れる、畜生、そんなことをされたら、もう強がりも出ない。
「は、ああ! 駄目だ、気持ち良い」
「気持ち良いなら結構。何が駄目なんです?」
「いっちまうから……ッ」
 しつこく前立腺を指先で擦り上げられて、勝手にぱらぱらと涙が零れた。女とならば幾らも寝たが、男と寝たことなどは殆ど無い、だから判らない、男とセックスするということはこうも切羽詰まったものなのか。
 私の言葉に、彼は、うっとりするような笑みを浮かべ、じゃあ遠慮します、と言って一度指を引き抜き、二本の指を尻に挿し入れた。圧迫感に唇が引き攣るが、無様な声を上げるのは我慢した、彼はそれでも慎重な手つきで私を開いたから。
 それ以上弱点を苛まず、途中でローションを注ぎ足しながら、彼は時間をかけて私のその場所を解した。その感触に私が蕩けたころに、彼は指を抜き、自分の性器にローションをまぶして先端を尻に押し付けてきた。熱い、張り詰めた感触に喉が鳴る。
「入れますから、受け入れてください、どうすれば良いかなんて、もうあなたは知っている」
 ぐっと力を込めて、彼は囁くように言った、彼の言葉に答える前に、ずるりと先端を突き立てられた。どうすれば良いかなんて? 知るか、そんなこと。一度二度寝たくらいで、判るならばこんなには惹かれない。
「ああ……ッ、太い」
「ゆっくり入れますから、痛かったら云ってください」
「は……、あたる、キリコ、いきそう」
 そのまま、ずるずると性器を挿入されて、私は息も絶え絶えに喘いだ。彼は、私の言葉に、見逃すほど淡く笑って、それでも動きを止めずに自身を私に突き刺した。
 最後は、なかなか入り切らない根本まで、腰を使ってやや強引に押し入れた。それで限界だった。ただ性器を入れられただけで、私はあっさり達してしまった、きつく瞑った瞼の裏に、紺瑠璃の渦巻き模様が広がる。
「あ……!」
「ああ、気持ち良い、あなたの中は」
 精液がぱたぱたと腹に落ちた。彼はしばらく、私が達したその位置に居座ったまま、内壁の痙攣を味わっていたようだが、私がいつまで経ってもまともに息も出来ないのを見て取ると、少し腰を引いて、枕元のティッシュペーパーで精液を拭きとってくれた。
「大丈夫ですか? 一度抜いたほうが良い?」
「大丈夫……、ただ、おまえが中にいるから、エクスタシーが消えない」
「そうですか。では、もっと強いエクスタシーを、ふたりで経験しましょう」
 満足そうな声、普段は顔にも声にもまともな表情なんてないような男だが、こうして抱き合ったり、触れたり見詰め合ったりすれば、微かに透ける、その心が愛おしいと思う。
 おまえは私を見ているか?
 おまえは私に何を見るのか?
 そんなことは判らないが、彼が私を見るときの、瞳の色はとても良いと思う。
 彼はそれから、じっくり時間をかけて、私を掻き回した。何度か達しそうになったが、それをはぐらかされて、少し落ち着いてからまた穿たれた。
 まあ手慣れた男の仕事である。
「も、キリコ、来る……ッ、いかせろ……!」
 何度目か、絶頂の予感を覚えたときに、私は恥も外聞もなく泣きながら、そう彼に請うた。彼はその私の表情をじっと見下ろしてから、判りました、いって良いですよ、と云って、それまでよりも激しく腰を使った。
「ああ……ッ」
 シーツを掻き乱し、今更まともな声にもならない声を散らして、私は再度自分の腹の上に射精した。彼は、がくがくと震えている私の身体を、変わらず深く突きながら、私の頭上で柔らかく言った。
「私もいって良いですか? あなたの中で」
「いけ……」
 抉られ続けているものだから、全く愉悦が去らない、掠れた声で彼に答えると、彼は数度先端から根本まで使って私の内部を擦り上げてから、奥深い位置で達した。
 どくどくと、注ぎ込まれているのが判って、鳥肌が立った。
 嬉しいのか、私は、彼に、内側から浸されて。
「ああ……あなたの身体は素晴らしい」
 腰を使って、精液を全て出し切ってしまってから、彼はまだ硬い性器をずるりと抜き出した。抱えていた脚を下ろし、甘く私を抱き締める、そんなに優しくしないで欲しいと思う、ますます嵌ってしまうだろ。
 もう一度くらいするのかと思ったが、彼はそれ以上は私を追い詰めず、広いベッドの上で枕を引き寄せて、シーツを被り、私を寝かしつけた。
「ちゃんと処理、しておきますから、眠ってしまって良いですよ」
「自分でやる……少ししたら。いま動けない」
 眠れるわけもないと思ったが、瞼を下ろせば必ず襲われる紺瑠璃は、今夜はいやに落ち着いた色で、気付いたら眠りに落ちていた。
 何か夢を観た。ダークブルーのスーツを着て、スカイグレイの長髪を靡かせた死神が、血に濡れた死神の鎌を片手に、死地に赴くような夢だ、詳細はよく覚えていない。
 私は彼を止めなかった。彼がその場で死ぬというのならそれが彼の望みなのである。いや、私は彼を止められなかった。
 おまえの祈りを多分少しは私も知っているから。
 だから私は。





 ルームサービスで朝食を摂った。
 フレッシュ・ジュースだとかコーヒーだとかの気が合うのはまあ判るが、卵料理のオーダーがふたり揃ってスクランブル・エッグだったときには、込み上げる笑いを堪えるのに唇を咬んだ。
 彼はパンにバターを塗りながら、私には視線をくれずに言った。
「昨日、日本に来て漸く、患者のカルテを見ました」
 私はサラダをつつきながら、それに答えた、少なくとも、昨夜のフレンチのときよりは会話がある。セックスというのは恐ろしい、この仮初めの親近感。
「死神の鎌を、振るいたくなるような相手だったかい」
「オペの予定があると聞きました。十中八九失敗するだろうとは思いましたが、手を下すのはその結果を見てからでも遅くないかと」
「甘いじゃないか」
 彼はバターを塗ったパンを、私に手渡して、薄く笑った。なんだ、この男は、自分のためにではなく私のために、バターを塗っていたのか?
 私は素直にパンを受け取り、手付かずだった自分のパンの皿を彼に渡した、こういう何ということもないやりとりは、こころを犯すと思う、私の知る死神はこんなにも私を甘やかす、その指先が、誰かの命を刈り取る宿命にあるなどと、信じられるか、信じたくない。
 でも、それが彼であるから、それこそが彼であるから。
 そして私が嵌ったのは、そういう彼であるから。
「明け方にでも、眠っているあなたを置いて、病院に行こうと思えば行けたんですが、身体を張られてしまったのでね」
 それはなんだか楽しそうな笑みだった、彼の右手が伸びて、スクランブル・エッグで汚れた私の唇を拭う。おまえは私の恋人か、母親か。
 手を払って眉を顰め、私は低く言った、唇に触れた彼の指先の感触に、昨夜の交歓を思い出しながら。
「……私はそういう意味で、おまえと寝たんじゃない」
「では、どういう意味で私と寝たんですか」
「だから、毎夜のように、おまえを思い出すから」
「私に、惚れているんですか? 恋をした?」
 器用にスクランブル・エッグを口に運びながら、彼が軽く目を細めた。スカイグレイの髪は、朝の室内で淡く輝いていた、綺麗な男だと思う、綺麗と云うにはその瞳に過る影が濃すぎるが、それでも綺麗だ、紺瑠璃の気配を纏って神秘的な男。
 おまえのその暗い、青い色が好きだと思う。
 絶望の色だ、それが好きだと思う。
 お願いだからひとりでいかないで、私は必ずあとを追うから、旅立つときには知らせてくれ、君、その鎌は重くはないのかい。
「……知るか」
 一言で切って捨てて、それから、自分の予定を彼に告げた。患者のオペは明日月曜日、今日は暇だからのんびりしていようと思う、云うと彼は椅子から立ち上がり、ドアノブからプレートを取り上げて私に見せた。
 PLEASE DON'T DISTURB.
「ならば、あなたが判るまで、抱き合いましょうか、幾度でも、幾度でもね」
「……コーヒー」
 空になったコーヒーカップを掲げると、ドアの外にプレートをかけた彼がテーブルに戻ってきて、ポットからコーヒーを注いでくれた。至れり尽くせりとはこのことだ。
 見詰める頬に手を置かれて仰向かされ、テーブル越しに甘ったるいキスをされた。優しく啄まれて、ゆっくりと舌が入ってくる、私は目を閉じてそれを受け入れ、軽く舌を絡めてから歯を立てた、ぴちゃぴちゃと唾液を交換する音がする、ああ、こんな口付けは。
 そう、まるで恋でもしていなければ。
 おまえは。
 ならばおまえは、私をどう思う。
「は……」
「あなたはすぐに、私に夢中になりますよ」
 口付けを解き、くつくつと笑って、彼は私の耳元で言った。
 ああ、ああ、そうかもしれない。私はある意味では確かに死に魅せられている、逃げられない、そして死神に嵌っている、その手が愛を知っているから。
 葛藤など見せもせずに鮮やかに奪い、或いは目もくれず立ち去る、私は彼を信じている、彼の意思に間違いはないと信じている。
 惚れているんですか、ね。
 彼の瑠璃の色は、深い闇の色によく似ている、気高く絶望せよ、我が愛しき死神よ。
 この思いが恋に似ているというのならば、それでも良い、溺れてしまえ、おまえならその私を受け止めてくれるのだろう?
 紺瑠璃の恋人、ならば私をもう一度抱き締めて、邪魔なものなど忘れるくらい、そうすれば私は答えられるだろう、惚れているのだと、決して重ならぬ羅針盤でも、ひととき磁場を狂わせて抱き合おう、だからあなたもその血塗れた死神の鎌を地に置いて、束の間の快楽に浸ればいいんだよ。


(了)2013.11.15