クリームパスタ

 彼は勘違いをしているのだと思う。
 私は天使ではない、私は悪魔だ。
 誰をも何をも救わない、救うつもりなどもない、私はただ物事を、あるがままにそうあるべくように、終わらせるだけ。
 私の纏う闇は、優しくも甘くもない、癒しでもない。何処までも何処までも続く、暗い絶望、終焉、冷たい海の底。
 安寧の腕など持ち合わせていない。


 彼は勘違いをしているのだと思う。
 だから彼は私に弱いのだと思う。
 抱き寄せる、口付ける、組み敷く。儚い抗いを見せながら、それでも彼が私の手をいつでも待ち望んでいるのは、彼の目には私の背に、羽が、私の背後に、密のような闇が、見えているからなのだろう。
 欲しいのか。
 偽物の救いが、私の愛が。勘違いだ、私はこの身に、何をも持ち得ていないのに。





 濃いブラジルがいい、と言うと、彼は露骨に眉を顰めた。
 彼の家、午後のキッチン、気怠い空気の、柔らかな質感。
「…そんなもの、ない。ブレンドで我慢しろ。大体何事につけても、おまえは注文が多いんだ。おれのいれるコーヒーが飲めるだけでありがたいと思え」
「用意してないの。おまえらしくないんじゃない、ねえ、ブラック・ジャック先生?」
「おまえの嗜好など知らん」
「おれの家で出すコーヒー、大体が濃いブラジルじゃないの」
 言うと、彼は聞こえるように舌打ちし、薬缶を手放してどさりと椅子に座った。にやにや眺めた彼の顔には、面白くない、と書いてある。私が自分の好みを押し付けることがではなく、私の好みを把握し切れていないことが。
 健気で従順で、可愛らしい男だと思う。彼は私のことが大好きだ。幻の、私のことが。
 緩い、ぬるま湯のような時間、私は意外とこんなときが嫌いではない。穏やかにどろりと溶けてなくなりそう、何も私を脅かさない、誰も私に爪を突き立てない、目の前には彼がいて、その赤い瞳はまだ少し濡れている。
「酒も煙草も食い物も」テーブル越しに手を伸ばして、雑に整えたばかりの彼の前髪に触れると、彼はびくりと視線を跳ね上げ、それからじろりとわざとらしく私を睨んだ。「おれの好きな物を何だって、せっせと用意しているくせに。おれがいつここに来ても良いように。そんなにおれに傍にいて欲しい? おまえは本当に可愛いな、まるで拾われて馴らされた子犬だ」
「…、…おまえが、文句ばかり言うからだろう。あれがない、これがないと騒がしい。おまえは本当に我が侭だ、相手をするおれの身にもなれ」
「好きで相手しているんじゃないの。厭なら追い出せよ」
「…死神を追い出したら、祟られそうじゃないか」
 前髪を弄んでいた指を、こめかみに、首筋に滑らせる。無理矢理浮かべてみせる嫌悪の表情を裏切って、彼の肌が僅かに紅く色付く。
 羽が。
 救済の闇が、見えるのだろうか、その目には。
 私は天使ではない、私は悪魔だ。残念ながら、私の背には羽がなく、私の闇には救いもない。
 私は、おまえの夢見ているような、人間ではないよ。
 きっともう、人間ですらないよ。私は悪魔、この手に命を狩り捕って、背負う罪さえ愛おしい。
 あとはただ、消えゆくためだけの道のり。
 ときにふと指先を掠める、おまえの熱が、私を繋ぎ止める。
「キリコ、」
「そんな物欲しそうな目をするなよ」つい先程、結んでやったリボンタイをするりと解いて、くつくつ笑ってやると、彼は今度こそ、ぱっと派手に頬を赤らめた。「さっき、したばかりじゃない。もう欲しくなった? おまえはおれのことが好きで好きでしようがないんだな、可愛がってやろうか? おまえがしたいのならば」
「巫山戯た…ことを…、」
「おれは、そういうおまえのことが、好きだよ」
「…ッ、」
 ふたつ三つボタンを弾き、シャツの胸元に忍ばせた指先で鎖骨を引っ掻くと、彼の唇から微かに色の付いた吐息が零れた。条件反射みたいなものだ。私は笑みを深めて彼の素肌を強く撫で上げてから、椅子を立ち、彼の背後に回った。
 見下ろす耳が、血の色に染まっている。私を振り返れもせずに固まっている彼を眺めて、可哀想に、と思う。おれはおまえの思うような人間じゃないのに。
 それでも、彼に求められていると思えば、知らず小さく胸がざわめく。とうのむかしに捨てた、感情のようなものが、厳重に封をしたその蓋を、こじ開けて滲み出る。
 食い荒らしてしまえばいい。
 優しくこの腕に捕らえてやればいい?
 判らない、他人の愛しかたなど知らない、興味もない、だが、欲しいものがひとつ。
 揺蕩う空気の手触りを。その温度を。
 私は実感していたい。
「おい…っ、キリコ…」
 身を屈め、真っ赤になっている耳を後ろから軽く咬むと、彼は半ば咎めるような、或いはもっとしてくれと言うような、戸惑う声で私の名を呼んだ。私はそれに気をよくして、尖らせた舌を彼の耳孔に突き刺し、後ろから椅子の背ごと囲い込むように回した手で、彼の身体をじりじりと撫で回した。
 彼の吐息が乱れ、てのひらに触れる鼓動が早くなる。
 死にゆくものにばかり触れてきたこの指先を、掠める鮮烈な熱、私は動物みたいに彼の項に食い付いて、生きている彼の匂いを嗅ぐ。
「は、あ…、よせ、」
「立てよ、先生。椅子が邪魔」
「待てっ、く…、」
「なんだ、もうこんなにして? そうか、へえ、さっきのじゃあ全然足りなかったんだな。それならそうと言ってくれればいいのに、おれは幾らでもしてやるよ、ほら」
「ウ…、やめ、ろ、アッ」
 背に覆い被さって手を伸ばした彼の股間は、少しばかり私に身体を触れられただけなのに、きっちりと反応していて、私を愉しませた。つい先程までの行為を思い出したのか、それとも相手が私ならばこの程度の接触で充分なのか、どちらにせよ、この男は本当に可愛らしいと思う。
 そうだ、可愛いよ。可愛い。おまえは実に私に弱い。その赤い瞳に見えている私は、私ではないけれど。
 私は天使ではない、私は悪魔だ。乾いた絶望を抱え、命を狩って歩く悪魔だ。
 私は、おまえを救わない。救えない。
「ああ…っ、駄目だ…」
「ちゃんと立って」
 触れた股間を指先で、服の上から軽く刺激すると、彼は両手でテーブルを掻き毟って、たまらないと言うように細身の身体を震わせた。服越しにも判る、熱くなる肌、生け贄だ、と私は思う。この男は、私という悪魔に供された、生け贄だ。
 ふたりの間にある椅子の背を掴んで退かし、崩れ落ちそうになる彼の腰を支える。そのまま彼の上半身をテーブルの上に放り出して、高く掲げさせた尻から、さっさと服を剥ぎ取った。
 彼は、自分が何をされているのか判らないのか、暫くされるがままになっていたが、私が一旦彼から離れると、テーブルにしがみついて、捧げた尻だけ剥き出しにしている自分のあからさまな格好に漸く気付いたのか、肌を紅く染めたまま身じろいだ。
「キリコ…、冗談は、」
「何がいいかなあ」私は勝手に冷蔵庫を開け、彼の言葉は無視して適当に中を漁った。「せっかくキッチンでするなら、面白いものを使いたいじゃない。オイルは途中で乾いて痛いし、バターは溶かすのが面倒くさい。そうだな、ああ、これでいいか」
「…、…する、なら、ベッドで、」
「こんなところで勃ってるやつが、煩いよ」
 彼の小声の懇願は切り捨てて、私は冷蔵庫から取り出した生クリームの紙パックを手に、彼の元に戻った。テーブルに突っ伏している彼の髪を掴み上げ、その目に映るように生クリームを見せ付けると、彼は屈辱にか、乃至は期待にか、低く呻いた。
「変態野郎…ッ」
「その変態野郎が好きなんだろう? 嬉しいくせに」
 何故、羽など見えるのだろう。
 その幻想は、何処から来るのだろう。
 死神、死神、と彼は言う。私はそんなに御立派なものではない。この憂き世に、掃いて捨てるほどいる悪魔のひとり、甘言を囁く代わりに、頂戴するのは命の重み。
 彼の見る私は美しいだろうか、優しいだろうか。どうして生きていられるのだろうか。
 誰かの魂を積み上げないと、存在できない私の法則を、彼は一生理解出来ないに違いない。
 汚れるのも可哀想だったので、彼の足元から完全に服を引き抜き、テーブルの上に投げ出した。畜生、だとか、キチガイ、だとか、悪態を吐く彼の背を宥めるように撫でてから、生クリームの紙パックを開けて、遠慮なく中身を彼の尻にぶちまけた。
 白い、重い液体が、肌を汚し、太腿を伝って落ちる。
 ぞくりと肉欲に小さな火が灯る。確かに私は彼の言う通り、変態野郎なのかも知れない。
「は…、何を、アッ」
「何だかもう犯されたあとみたい」ぬるぬると暫く感触を愉しんで、それから指先を彼の尻の狭間に這わせると、彼は鳥籠の中の鳥みたいに従順に啼いてみせた。「何人もの男に囲まれてさ、散々ここを犯されて中にも外にも精液かけられて、勃起したままぐったりしているおまえを想像すると、興奮するよね。いまちょうど、そんなふうに見えるの。で、それを助けに来た王子様のおれが、何をするかっていうと結局犯すっていう」
「ああ、キリコ…ッ、指、指を、」
「全然痛くなさそう。気持ちいいだろう? 気持ちいいって言えよ」
「あっ、駄目だ、そんな…、ン」
 生クリームを擦り付けて指を差し入れた彼の尻は、つい先程の行為の所為で、解す必要もないくらいに緩んでいた。それはそうだ、あれだけやれば。
 すぐに指を増やして、彼の弱い部分を探る。もう片方の手で彼の身体を撫で回せば、突き刺した指の動きに応じてびくびくと震える、彼の肌の戦慄きが伝わってくる。
 何の意味があるのだろう、こうして接触して、接続して、果てることに。
 何の意味もないのだろう、そもそもが私達はただ無意味に生きている、誰もが無意味に生きている、そうでなくては生きられないから。
 まやかしならば要らない、真実、現実が欲しいのだ、だがそうすれば、おまえは私の腕から逃げ出してしまうのか。
 感じてくれ、この快楽だけが唯一だと。
 優雅な羽も、救いの闇も、嘘っぱちだ。私は天使ではない、私は悪魔だ。おまえの魂に歯を立てて、貪り食うしかできやしない。
「キリ、コ…」見下ろす彼は、尻に指を突っ込まれ、それでも健気に腰を掲げたまま、しがみついたテーブルにぽたぽたと涙を零した。「いい、から…もう、いいから、早く…ッ、頼む、から…。つらい、欲しい…っ、早く、」
「このままいってもいいよ、いかせてあげようか?」
「はあ、ア、駄目だ、駄目…、おまえの、おまえの、で」
「へえ、おれのものがいいんだ、そんなにおれと繋がりたい? 可愛いね」
 勝手に唇の端が歪んでしまう。切れ切れの喘ぎが耳に心地よい。
 だが、ならば、私は彼の何を知っていると言えるのか。
 彼の暗闇、彼の傷。彼の欲と、彼の願い。
 知らない。きっと知らない。
 私達は互いに幻影を見ている。己の影をどっさり詰め込んだ、鏡みたいな幻を。ああ、そこにはひとしずくの光もないのに。
 自分の服を寛げながら、ゆっくりと指を引き抜くと、彼は怖がるような、期待するような声を上げて、無意識に私の指を追いかけた。滴る涙の所為で、テーブルの表面がそこだけ濃く染まり、痛々しい、可哀想に、と思う。
 紙パックに余っていた生クリームをてのひらに取り、掴み出した性器に塗りつけてから、彼の尻にあてがった。びくりと震え、強張る身体を片手であやし、もう良く知っているその場所へ、腰を使って捻り込む。
「先生、力抜いて、もっと尻上げて、入りにくい」
「アアッ! ア、ア…! 太、い…、ひらいちまう、駄目、だ…っ、」
「欲しいとか駄目とか一貫しないなあ。大丈夫だよ、とうに開いているから、おまえのここ」
「は、あッ、深い、そんなに、大きいと、すぐ、出ちまう…ッ」
 わざとなのだろうか、いや、そんなに野暮な真似はしないだろう、抑えた喘ぎに混じる彼の言葉は、下手な漫画みたいで、官能的と言うよりも、粗野だ。
 搾るような圧迫感を強引に押し開き、根本まで貫いた。彼はテーブルに爪を立て、ひくひくと震えていた。触れなくても、彼がいまにも達しそうなのは、結合した部分の熱さで判った。それが判るくらいには、私は彼に慣れていたし、彼も私に慣れている。
 落ち着かせてしまうのもつまらないので、まだ衝撃に馴染まない内壁を、大雑把に穿ち始めると、彼は、普段の声からは想像も付かないような、上擦った調子で高く喚いた。
「キリコ…! あッ! 待て、そんなに…っ、したら、もう…!」
「たくさんしたのにね、随分元気だね? いっていいよ、手伝ってやらないけど」
「き、つい…、頼む、から…! 触って…、擦って、くれよ…、アッ、キリコ、きつい…ッ!」
「自分でやれば?」
 性器を出し入れするたびに、生クリームが泡立ち、ぐちゃぐちゃと卑猥な音がする。このプライドの高そうな男が、私の前ではまるで玩具だ。
 白く濡れ、これで精一杯というように私を飲み込んでいるその部分を眺めながら、短く言い捨てると、彼は、屈辱にか羞恥にか、獣のように唸り、テーブルを掻き毟っていた手を握り締めた。
 それからその片手を、じりじりと自分の下半身に伸ばす。我慢ができなかったのだろう。
 ねえ、これが幻影だと、おまえは気付いているのかな。
 私は天使ではない、私は悪魔だ。その目に映る私は私ではないと、おまえは知っているのかな。
 私の目に映るおまえが、おまえではないように。
 こうして無為に体温を交換し合って、手に入れる薄っぺらい悦楽が総てだ。掠める気配、通り過ぎる声、そして背負う罪、それだけがこの霞む存在の輪郭を、束の間色付ける。
 おまえの前に、天使は舞い降りない。在りもしない美しい景色に見惚れている背に、忍び寄る悪魔は、私だ。
 さあ、目覚めてくれ、早く。私はここにいる。
 振り返って私の姿を見てくれ、この汚らしい、醜悪な、悪魔の姿を。
「は…ッ、も、いく…、突いて、突いて、いてくれ、そのまま…っ!」
「いいよ。いけよ、ほら」
「ああッ、駄目だ、もう…! いく、アッ、アア!」
「…可愛いね、センセ」
 躊躇いがちに自分の性器を掴んだ彼の手は、多分、大して動きもしなかった。私を締め上げる内部のうねりが、彼の身体に込み上げる愉悦を伝えてきたが、私は私の肉欲を遠くへ追いやって、単調に彼を貫き続けた。機械みたいに。
 彼は一度射精したあとも、すぐにまた次の欲望に飲まれ、私に尻を掻き回されながら、涙を零し、いやらしい言葉を吐いた。私はそれに厭きるまで彼を貪ってから、性器を引き抜き、彼の下半身に精液を振りかけた。
 生クリームと混ざり、彼の脚を伝い落ちる自分の痕跡を眺めて、私はいつものように、ブラックボックスから僅かばかりはみ出していた感情のようなものを、再び箱に押し込んで厳重に封をする。こんなものはないほうが良い。こんなものはないほうが、悪魔に相応しい。
 おまえが見ている私の幻影は、少しは私に似ているだろうか。
 抱き締めもしなかった、と、どうでもいいことをあとからふと思う。口付けもしなかった、愛を囁きもしなかった、そうだ、それが似合いだ、私と彼との交歓には。





 彼は勘違いをしているのだと思う。
 私は天使ではない、私は悪魔だ。
 欲望だけが息づいている。罪を纏って初めて己の在処を確認できる。私が誰かの命を狩るのなら、それは私のために他ならない。握り締めた灯火でてのひらを焼かれ、私は悦びを得る、そうして私は生きている。
 おまえは?
 おまえは何故生きていられる?
 羨ましいと思う。妬ましいと思う。だから私は毒を盛る。その清廉な魂の内側から汚れてしまえばいい。
 ああ、私はおまえのことを、何も知らないのだ。


 浴室から引っ張り出してきたタオルで、彼の身体を拭き、服を着せ、椅子に座らせてやる。
 彼は、ぐったりと椅子の背に凭れ、疲れ切った表情をして、私を見やった。
 下瞼の縁が紅い。長い睫はまだ濡れていて、瞬きをするたびにきらきらと煌めいた。
「…おまえは、最悪だ。最低だ。限度も常識も知らない。死ねばいいんだ」
「死んだら泣くくせに。いいじゃない、愉しんだろう?」
「…そういうところが、最悪なんだ」
 いま、抱き締めればいいのだろうか、とも思ったが、それも気味が悪いのでやめた。テーブルを回り、彼の向かいに、まるで何事もなかったかのように座ると、彼は改めて、深々と溜息を吐いた。
 僅かに髪が乱れている。直してやろうと手を伸ばしかけ、やはりそれもやめる。ボタンが二、三個外れたままのシャツから覗く素肌が、上気していて旨そうだと思った。
「夕飯は抜きだ」行為の余韻で少し掠れた声で、彼が低く言った。「腹が減ったら、出て行け、何処か他所で食え。おれは作らない。待っていても何も出ないぜ、おまえが全部悪いんだ」
「ちょっと、それは冷たいんじゃないの」
「材料がないんだよ」
「は?」
「おまえが使っちまったんだよ」
 気付けば窓の向こうには、冷え冷えとした夜が近付いてきていて、心なしか肌寒い。
 だが、それでどうしようとも思わない、億劫だ。気怠い時間、どろりと溶けて消えそうな、この贅沢で孤独な時間。
 私はこのひとときが、嫌いではない。
 彼がいて、私がいて、空間があって時間がある。何も通い合うものはない、それでも、私はこの瞬間瞬間が、嫌いではない、いや、通い合うものがないからこそ。
 私は生きているのだろう。
「クリームパスタ。おまえが食いたいと言ったんだろう? 生クリームがなくて、どうやって作るんだよ」
「おれ、食いたいって言ったっけ」
「言った。言っておいて忘れたのか? おまえは馬鹿か。欲しいものがないと文句をつけるくせに、用意してやれば台無しにして、そのうえ忘れるとはいい根性だ」
「ああ…。それは悪かった」
 クリームパスタ?
 そうだ、煙草も、酒も、食い物も。
 言った本人も覚えていないようなものなのに。
 この男は、私のために、健気に用意して待っているのだ。
「…なあ、先生」きっと次に来たときには、何も言わなくても濃いブラジルが出るのだろう、と思いながら、私はふと訊ねた。「ときに、質問なんだが。このおれが、例えば、おまえには何に見えるの。おまえの目には、何が映っているの」
「え? おまえが何かって? さあ、変態かキチガイだろ」
「いや、それはそうなんだけど。例えば、天使のようだ、とか、ないの」
「はあ? 天使だと? おまえは正真正銘の馬鹿か?」
 力の限り、気持ちが悪そうに、まるで毛虫でも見るように顔を歪めて、彼は私を見た。
 赤い瞳に濁りはない。もしかしたら、勘違いをしているのは私のほうか。
「おまえは天使じゃない。おまえは悪魔だ」
「…」
 そうだ。その通りだ。
 私は一瞬、虚を突かれ、押し黙った。なんだ、おまえは知っていたのか。
 私は天使ではない。私は悪魔だ。
 そんなことは、そうか、判らないはずがない。
 押し黙ったあと、私はつい、くつくつと小さく声に出して笑ってしまった。彼が眉を顰めたまま、その私をじっと見つめていた。
 私は天使ではない。私は悪魔だ。
 狩り捕った炎を両手に抱いて、闇よりなお暗い闇をゆく。行方などないけれど、この目に映る幻影が、正体を現すまで生きているのも悪くない。


(了)

2010.12.19