念入りなくちづけを解く瞬間の切なさは、嫌いだ。
昨夜、いや、明け方まで続いた交歓の記憶が生々しく肌に蘇って、息苦しくなる、もうこれでおしまい、またいつか出会う夜までさようなら。
またいつかって、じゃあいつだ。約束は交わさない無言の決め事、傍にいたいだとか、逢いたいだとか、言ってはならない、我々の関係が破綻する。
どんなに傍にいたくとも。
どんなに逢いたいと思っても。
駄目駄目、口に出さないで、昨夜のように偶々出会って、ふたりとも偶々ホテルを取りそこねて、ふたりして程近い山間のロッジまで車を飛ばして、総て偶然と気紛れ、そんなふうに私と彼とは抱き合わねばならない、この危うげなバランスを、なんとかぎりぎり保つには。
近付き過ぎてはいけない、だから綺麗に忘れるためのくちづけを、彼の熱を飲み込んで声を上げたあの長くて短い時間は、キスで封印、封印完了、だから唇が離れるときの儚さは、嫌いだ。
きっちりスーツを着込んで、ネクタイまで締めたあと。
ロッジの窓の外には雪、カーテンの隙間から覗いている、そうだ、この雪に閉ざされた密室で、私と彼とが互いに手を伸ばしたことなど忘れてしまうがいい。
夢、幻、錯誤。そんなものでいいじゃない。
私はただ、人恋しかっただけ、そんなものでいいじゃない。
唇と唇の間に唾液の糸が引き、つい眉を歪めると、彼が軽く笑って、そんな顔をしないで、先生、と云った、珍しい表情だ。
「そんな顔?」
「もっと欲しい、もっと欲しいって顔をしている、あれだけしたのに?」
「馬鹿言え……」
唾液の糸はすぐに切れた。
腰を抱く彼の腕を、それでも振り払わずに、私は云い返した、声が掠れていて忌々しい。彼は私の濡れた唇を指先でなぞりながら、悩ましげな目付きをして私を見た、それがいやに色っぽくて私は困惑する、同じ言葉をそっくりそのまま返してやろうか。
「セックスの最中の顔だよ、そんなに気持ちが良かったの」
「良くなけりゃ……おまえなんかとするか」
私はそんな顔をしているのか。
そうだ、肉欲だけだと云いたくて口にした言葉は、別の意味に聞こえたかもしれない。唇を撫でていた彼の指がリボンタイに伸びて、結んだばかりのそれをあっさりと解いた、何のつもり?
シャツのボタンを、ふたつ、三つ外された。それから彼は俯いて、私の鎖骨の上にきつくくちづけの痕を残した。
彼が私に行為の印をつけるのは珍しい、薄い皮膚を吸い上げられる感触に、快楽の余韻が目覚めかける、思わず眉を寄せると、彼はまた、そんな顔をしないで、と云った。
「お望み通り、もっともっとしてあげたいけれど、おれはこれから仕事なんだ」
「……おれだって仕事だ」
「ふたりでふけちまう? 命がひとつかふたつか、消えたり灯いたりするだけだ」
右手のてのひらで、首筋を撫でられる、どうせ本気じゃないだろう、と呟くと、彼はうっとりするような笑みをみせて云った、ほんとうに美しい男だと今更のように思う。
「おれはいつだって本気だよ」
嘘をつけ。
首筋を擽っていた右手の指先で、鎖骨に残るくちづけの痕を辿られる、勝手に淡い吐息が溢れる。暖炉の火は落としたロッジで、体温が上がる、窓の外は雪なのに。
こんな朝、攫って逃げてくれてもいいんだぜ、遠い遠い雪の彼方へ、ふたり凍りついてしまうまで。
そうすれば言い訳など要らずに、傍にいられるでしょう、決して隣に寄り添えぬさだめの私と彼が、呼吸も血流も止めて手を繋げるでしょう。
こんな朝。
彼は、私が洩らした吐息を真似るように、耳元で囁いた、もっとしたい?
首を左右に振る、頷ければ楽か、そうすれば彼は迷わず私を奪うのだろう、全てを放り出してでも。
もう一度押し倒して組み伏せて、正気も飛ぶような行為に耽る、命のひとつかふたつかというけれど、馬鹿なやつ、誰よりその重みを愛しているのはおまえのくせに。
最優先事項は私。狡いね、そんなことを、わざわざ云わなくたっていい、先に云われてしまっては同じ言葉は返せない。
「でも」
「でも?」
「キスを、もう一度」
震える声で言うと、彼は微かに笑って、鎖骨をなぞる指はそのまま、焦らしもせずに唇にくちづけた。
彼の唇は、僅かに冷たい。なるほどこれが死神の唇かと、触れるたびにまた思う。
啄むだけのキスを何度も繰り返してから、彼は遠慮のない仕草で舌を差し入れてきた、それはひんやりとした唇の印象を裏切って温かく、目眩を呼んだ、この男は生きているのだと知らしめられる、セックスよりも多分切実に。
彼は行為の最中に、あまりくちづけをしない。
だが、ふたり右と左に別れる朝には、必ず甘いキスをした、さあ忘れよう、処理済みのブラックボックスへ、そういう意味だと私は思い込む、唇を重ねることにそれ以上の理由があってはならない。
肌を合わせることのほうが、私にとっては余程簡単だ、くちづけよりは。
一番敏感な部分を触れ合わせて、相手の体温を知る、不慣れである、身体を誰かに使わせることには、いくらかは慣れているが。
おまえでなければ。
おまえでなければ許さない、唇だけは、その事実を、おまえは知っているのか。
「は……、キリコ」
息のしかたがよく分からなくなる。
彼は、慣れない私のためにときどき唇を引いて、呼吸を貪らせた。いつの間にか彼のスーツに縋っていた指に力を込めて、喘ぐ声で彼の名を呼ぶ、好きだ、好きだよ、行かないで、傍にいて、そんな言葉は許されていないから、せめて。
ねえ誰か、教えてくれよ、私はどうすればいい。
この男を失えないのに、彼はいつか言い訳もせずに不意に消えてしまいそう、生きることへの執着がないのだ、その手でひとを殺めてきたから。
早く終わりにしたいと願っている、そうだろう、死神よ、卑怯じゃないか、ならば私になどはじめから、触れなければよかったのだ、おまえは。
私に夢を見ても駄目だ、私に祈っても無駄だ、私は神ではないし、優しくも甘くもない、そんなこと、君が一番良く知っているだろう。
そのうえおまえの所為で私は骨抜き、底なし、虚勢を張って別れを告げるが、そのたびにこころが千切れそうになる、なあ、知っているだろう?
「舌を出して、絡めて、もっとだ、おれが欲しいんでしょ」
「ん、う」
「可愛いよ」
誘い出された舌を絡め取られ、歯を立てられて鳥肌が立つ、身体が疼く、この男はくちづけが巧いのだろうと思う、比較対象があまりないのでよく知らないが。
砕けそうになる腰を、強く抱き直されてくらくらした、彼は、しばらく私を噛みしだいてから、再度唇の隙間に舌を滑り込ませてきた。
彼の味に犯される。
身体で受け入れるよりも濃密だと思う、この瞬間、瞬間の狂おしさ。
閉じていた瞼を薄っすら開けると、彼の視線と噛み合った。醒めた眼差しにほんの僅かな熱が潜んでいる、美しいと思う、この男は実に美しい。
見つめ返そうと思うのに、舌先で口腔を探られる感触に意識を奪われ、結局はまた目を閉じた。
夢中になって唾液を啜り、喉を鳴らして飲み込んでは溺れていく、私はこの男に飛び切り弱い、そんなこと、ずっと前から知っている。
彼はくちづけに時間をかけた。
私が完全に蕩けるまで、丹念に舌を絡め合わせてから、唇をそっと離す、ああだから、このときの切なさは、儚さは、嫌いだ。
鎖骨を彷徨っていた指先で、軽く肌を引っ掻かれて、ちくりとした、そこに残るキスの痕に、呪文でもかけられたみたい。
こんな朝だ。
攫って逃げてくれ、遠い遠い雪の彼方へ、ふたり凍りついてしまうまで。
欲しいものなら目の前にある、それでも欲しいと言えぬふたりなら、永遠に融け出さない氷に身を変えて、抱き合っていよう、他には何も要らないんだ、いま、このひととき。
離れたくない、離したくない、どうか、どうか。
背を向けて、行かねばならない場所があることは把握している。
彼はくちづけを解いたあと、喘ぐ呼吸が落ち着くまでしばらくは私を強く抱き寄せていたが、やがて腕を離した。シャツのボタンを留め、器用にリボンタイを結びながら、唄うように云う。
「こんな雪の朝、おまえを攫って逃げちまいたいね」
伏目がちな瞼の縁を彩る、長い、銀色の睫が綺麗だ。淡い虹彩の色に見蕩れる、この男はほんとうに美しい、夢見るように美しい。
促されるまま僅かに顎を上げる、しゅ、とリボンタイが擦れる音を聞く、私の密やかなる祈りを盗んで声に出す彼が憎たらしい、だったら攫ってくれよ、抗えもしないように鮮やかに。
「……本気じゃないだろう」
「おれはいつだって本気だよ」
彼の手が襟元から離れる、離れてようやく気付く、寒い。
巧く伝わらない感情、衝動、願望、愛でも恋でもありはしないが、確かに私は彼が欲しかった、もっと、もっと。
その指、その肌、その唇、彼といういきものが欲しかった、おまえは私が欲しいだろうか、もっと、もっと。
ねえ、だったら雪の中へ消えてしまいましょう。
ふたりで消えてしまいましょう。
分かっているよ、夢だ、冗談だ、さあ行こうか、決して重ならない路を夢中で走り抜けようか、それでもときに交わる一夜があるから、私とおまえは生きていける。
手探りの暗闇は怖い。
君はきっと細い糸の上を、揺らぎもせずに真っ直ぐ歩くのだろう、恐れるものなどひとつもないよね、もし悪夢に怯える夜には私を思い出して。
重なる肌の熱さを、絡めた舌の感触を思い出して、記憶の中でしか傍にいられないふたりだから、そうして寄り添うしかできないから、せめておまえに濁りのない闇を。
目に映る絶望と一閃の光が、美しくあれ。
「嘘つき」
呟くと、ドアの前、ほんの一瞬指先に指先を絡められ、まるでそれが甘いくちづけのようだと思った。コートを着込み、照明を消し、ふたりでロッジをあとにする、指先を離したらもう視線も合わせない。
淡い香水の匂い。
肌を撫でる指先の温度。
唇に残る唾液の味だとか。
身体の隅々まで彼で埋め尽くして、私は今夜どう眠ればいい、いまここにある彼の気配は、いましか、ここにしかない。
「キスが好きなの、先生?」
「好きでなけりゃ……おまえなんかとするか」
ふたり視線をそらせたまま、私にはそれで精一杯。
そうだ、キスが好きなんだ、あんたが好きなわけじゃないよ。
開けたドアの向こうは、一面の雪景色だった、誰の足跡もついていない雪は真っ白なクリームみたいに滑らかで、朝日を照り返していた、眩い、まるでどこまでもどこまでも沈んでいけそう、この漆黒さえも。
汚れた私を飲み込んでくれるかい。
「綺麗だね」
「綺麗だ」
囁く声で言葉を交わす、ああでも、知っている、まだこの純白に蕩けてしまう訳にはいかない、しんしんと降り積もる雪の中に、ふたり消えてしまう訳にはいかない。
皮膚の奥深くまで零度に浸して抱き合えれば幸せなのかもしれないが。
そうすれば二度と離れず傍にいられるのかもしれないが。
我々には、なすべきことがある、己で決めたことである、だから行こう、振り向かずに行こう、そうすることでふたりの距離がますます離れるのだとしても。
それしか生きる術を知らないんだ、だから行こう。
大丈夫、私たちは必ずどこかで交差する、これは運命だから。
「じゃあ、またね、先生」
「ああ」
淡々とした彼の声は心地よい。
私は彼に背を向け、右手の指に車のキーを鳴らす、じゃあまたね、死神、私の可愛いひと、またいつの日にか巡り会おう、そのときまでごきげんよう。
革靴で雪を踏む、くっきりと足跡が残る。
きっとすぐに消える、この肌に印された口付けの痕みたいに。
彼から去る、この一瞬が嫌いだ。ねえ君、もしいま振り向いたら、君は私にもう一度、くちづけをしてくれるのだろうか。
甘く溶け出すようなくちづけを、してくれるのだろうか。
判っているよ、それは禁忌、私は決して振り向かない、そして冷たく優しいあなたは私を追わない、判っているよ、さようなら、厭になるほど寒い雪の朝。
だから、最後のくちづけを解く瞬間の切なさは、嫌いだ。
(了)2014.01.05