マルガリータ

　綺麗な話を、しようと思った。
　あなたの傍に、居たいと思った。
　それなのにこの死神ときたら滅茶苦茶だ、何でも良い、誰でも良い、世界中に愛を振りまいて、おれもおまえも、可愛い命。
　こんな男、制御できない。
　目を閉じる、瞼の裏に映る情景は、薄闇色、おまえの姿は、一体どこにあるのだろう。
　手を伸ばせ、掴まえろ、そうしなければきっと何処かに逃げちまう。
　手を、伸ばせ。
　ああでも、瞼を開けたなら、おまえはもうそこには居ない、痕跡すらもない。
　知っている、私にとっての唯一が、私を唯一としていないことを。
　知っている、この感情は、飛び切り無意味であることを。
　だったら！　仕方がないじゃないか、尚更肌を寄せ合って、快楽を貪って最後にキスを交わして。
　私と彼とのつながりを、ほんの僅かでも強固にするために。
　そう、セックスしよう、愛し合うんだ。
　
　
　
　彼のテリトリに、入り込むのは厭だった。
　あの死神は、諦念に浸り切っているくせに、それを誰より愉しんでいる。
　天然色、極彩色、飛び散るスパンコールに煌めく雨、艶めく血の色、青白い肌、彼の眼にはきっと、総てが愛おしく、総てが憎たらしく観えている。
　だからこそ彼は愛している、世界を、おれを、おまえを、総てを。
　そう、私を、だけではないのだ、彼は愛を振りまいて歩く死神の化身、辛くなったらおいで、抱き合おう。
　見せ付けられるのは怖い、だから彼の居場所に私の居場所はない。
　たとえば街角、たとえばショットバー、たとえばカウンター席の左端、たとえばその隣。
　私は彼に詳しくなったと思う。健気で醜い、哀れで虚しい。
　許しも請わずに高い椅子に座ると、銀髪がきらきら淡い照明に揺れて、彼がこちらを観た。
「…あれ？　ブラック・ジャック先生、なんでここに居るの？　待ち合わせ、したっけ」
「別に。何となく、逢いたくなった、それじゃ駄目かい」
「一体誰が情報を流しているんだ？　おれの居場所はＧＰＳで管理でもされているの」
「そうだよ、勘だよ、おれの勘はＧＰＳより詳細なんだ」
　こんな薄暗い店の片隅でなら、私は少しだけ彼に接近できる。
　彼の白皙の貌が薄ぼんやりとしか見えない、こんな場所でなら。
　それにつけても彼は酒が好きである、辛い酒から甘い酒、ショートもロングも良く飲んだ。いつみても呆気にとられる、それでいてこの男は僅かたりとも酔いはしない。まあ、酒の味が好きなのだろう。
　カーディナルと、カミカゼと、バラライカを付き合った。
　自分は普通に酔いもするので、マイペースで飲んでいたら、隣からショートグラスを滑らされた。
「…何」
「ここのマルガリータ、旨いよ、ちょっと飲んでみて」
「ああ、そう。おまえが言うなら旨いんだろう、じゃあ少しだけ」
　グラスを縁取る塩の粒を舌に乗せ、ひと口酒を飲んだ。テキーラの味が口に広がる、確かに良い酒を使っているなと思いながら、唇の端にくっ付いた塩の粒を舐めようとすると、不意に、目の前に銀髪がさらりと流れて、気付いたら唇に付いた塩粒を舐め取られていた。
　思わず目を見開いて、彼を観た。彼はすぐに身を離すと、悪戯な顔をして、唇に舌をちらりと這わせてみせた。機嫌が良いのか？　悪いのか？　両極端の、そのどちらかだ。
「また、ここは塩が旨い」
　バーテンダーは、ふたりの行為を、観なかったことにしてグラスを拭いている。
　この男には、欲しいものなど、何もないのだと思った。
　いや違う、ひとつだけある、それは、愛、愛すること、世界中を、愛すること。総ての人間を、愛すること。例外はない、おれも、おまえも。
　彼の中で死と愛は、限りなくイコールに近いのだ。それが完全にイコールでないところが、彼が人間である証である。
　死神。苦しくはないのか？
　死神。泣きたくはないのか？
　抱き寄せて、抱き締めたい、もう良いからと、その煌めく髪を撫でたい、だが。
　私では、おれでは、足りない、力が足りない。死神を鎖に繋ぎとめて、鉄格子の向こうにぶち込んでも、彼はその隙間から空気のように逃げていく、捉え所のない、奇妙な男、愛が総て、愛が総てと嘯いて。
　そうだ、綺麗な話を、しようと思ったのだ。
　あなたの傍に、居たいと思ったのだ。
　こんな隙間のような時間、空間だけで良い、彼の隣に居たかった、先程の、冗談みたいな接触は、口付けのうちに入るのか？
　好きだとか、嫌いだとか、良く判らない、そんなものは何でも良い。
　ただ、私は、この男を失えない、決して失えない、彼がいつでも私を失えるのとは正反対に。
　彼が居るから私は、私で在れる。彼が居なければ私は、塵のように消えてしまう。だからお願い、そんなに無防備でいないで、いくら彼が死神だからとて、腹でも切り裂かれたら死ぬのだろう。
　耐えられない。
　マルガリータで調子が狂った。珍しく、甘い酒が飲みたくなって、ブラックルシアンを頼んだ。
「出来ればウオッカ多めで、カルーアは少なめで」
　カウンターの向こうのバーテンダーは、器用に私が言った通りの配分で酒を作り、綺麗な所作で私の前にグラスを置いた。
　それにぼうっと観惚れていると、カウンターの下で、脚を軽く蹴られた、どういう意味？
　訝しむ眼で観た死神は、私の耳元に唇を近付け、聴き取れないほどの低い、小さな声で、囁いた。
「おれ以外の男に、見蕩れるな、おまえはおれが居れば良いんだろ」
「…自信過剰じゃないのか、キリコ先生」
　そのまま、ちゅ、と耳元にキスをされて、ぞくりとする。蹴られた足で彼の長い脚を蹴り返すと、彼は唇を寄せたときと同じくらいの素っ気なさで、身体を引き、くすくすと笑った。
「じゃあ、なんで先生、いまここに居るの。別におれじゃなくても良いのなら」
「…仕事が巧く行って結構なことですね、と、厭味を言いに来たんだよ」
「あれ？　単に逢いたかったって言ったのは嘘？」
「別に嘘じゃない、なんとなく、逢って厭味を言いたかったんだ」
　へえ、それはまたお暇なんですね、と彼は言って、その右手を私に伸ばした。薄暗い店内、客もそう多くはなく、皆が皆自分の話に浸っている、だから誰も観ていないとは言っても。
　さらりと腰を撫でられる。指先で背中を辿られて思わず周りの様子を窺ってしまう。彼はこういう遊戯をときに好むが、それは感情が昂ぶっているときと決まっている。
　後悔しているのか？　死神よ。
　満足しているのか？　死神よ。
　おまえはそうして愛でもって、誰かに安寧を与えるかもしれない、しかしそれなら誰がおまえに、安寧を与えると言うのだろう。
　救われない乱痴気騒ぎ、愛だ、愛だと叫んでも、残るものなど何もない、おまえを待つものなど何もない。
　私では。
　私では、救えないんだよ！
　彼の右手が、左脚の太腿を摩った。そのまま膝までゆっくりと撫でられて、ふるりと身体が震える、私の肌は彼に慣れている。
　彼に聴こえる程度に、吐息をゆっくりと零した。合図のような、そうでないような、決めるのはいつだって彼だ。
「は…、キリコ」
「飢えてる？」
　隻眼が私の顔を覗く。私は目を細め、先程彼がそうしてみせたように、自分の唇をちらりと舐めた、このくらい曖昧なほうが死神はお好みだ。
　くく、と彼は笑って、私の前からブラックルシアンのグラスを掴み、一息に空けた。腕を掴まれ、高い椅子から引き下ろされて、少しよろめく。
　上昇か、下降か、上機嫌か、絶望か、私が確かに知りうることではないが、私の見る限り、彼はいま、後者だ。
　ならば。
　さっさとカードで支払いを済ませた彼に、腰を抱いて店から連れ出され、いつの間に呼び付けておいたのか、店に横付けされていたタクシーに押し込まれた。隣に乗り込む彼は、相当に酒臭いがやはり少しも酔っていない、酒に逃げることも出来ないなんて、哀れな男だと思う。
「ホテル。馬鹿みたいに高級なところが良い。泡銭はさっさと使わなけりゃな」
　タクシーに乗り込んでしまえば勝ちなのか、彼は私を後部座席に半ば押し倒しながら、運転手にそう言った。運転手も慣れたものなのか、酔っぱらいをあしらうように、じゃあこのあたりで一番高級なところに付けますね、と陽気に言った、酔っ払いではないのだが。
　口付けが降る。舌を差し込まれ、堪らずに絡ませる。
　もしも叶うことであれば、私が、彼の枷になれば良い、いつだって境界線を越えてしまいそうな顔をして、飄々と世界を見下ろす、この死神の足枷に。
　だから仕方がないじゃないか、尚更肌を寄せ合って、快楽を貪ってキスを交わして。それしか方法を知らないんだ。
　私と彼とのつながりを、ほんの僅かでも強固にするために。
　そう、セックスしよう、愛し合うんだ。


（了） 2013.06.21