世界中の誰よりも、私を甘やかすことに長けたひと。


 病院の職員出入口、扉に背を凭れさせて、彼が待っていた。
 夜だ。
 いい加減にこのシチュエーションには飽きてしまう。前にもこんなことがあったじゃないかと、妙な既視感に囚われるが、疲れている所為ばかりではない。
 彼は足元にトランクを置き、腕を組んで目を伏せて、何やら考え事をしているようだった。私の足音にふと目を上げ、そこに私を見付けて二度三度瞬いている、予想外に早い登場に、少々驚いたといったところか。
 話しかけようとする彼を目で制し、真っ直ぐに歩み寄る。それから、彼の邪魔な身体を押し退けて、出入口の扉を開ける。
 相変わらずの黒いスーツにコート、触れた彼の身体からは、香水の仄かな匂いがした。
 服越し、張りのある筋肉の感触に、この男は生きているのだと思った、この男は生きている、その奇跡に感謝しなければならない。
 遍くひとり、ひとりの生命の奇跡に。
 彼は、押し退ける手に抗わず、私を出入口に通した。それから、トランクを掴み、私のあとについて、病院の外に出た。
 夜だ。
 常夜灯が星を霞ませる、月のない夜空、仰ぎ見ても夢のない闇を見詰めて、私は溜息を吐く。
 死神にも招集がかかっていたのだとは知らなかった、今夜の仕事、まあでも、彼がここにいるならば、つまりはそういうことだろう。
 よくあることだ、飽きが来るほどに。未来がないなら夢のように死なせてくれって? 甘いんだよ、それでもひとは生きるんだ。生きられる限り、最後の一瞬まで。
 諦念の淵を覗き観る気持ちならば、少しは知っている。
「早かったね、ブラック・ジャック先生。そろそろおれの出番かな」
 後ろから腕を掴まれて、駐車場に立ち去ろうとするのを止められた。私は彼のその手に抗わず、足を止めた、抗っても無駄だから。
 中途半端に振り向いて、彼の隻眼を観た。淡い色の瞳は、いつだって冷ややかであるのに時に甘くて戸惑う、今夜の彼はどちら? そうだな、今夜はまだどちらでもない。
「状態が悪化したから、オペの時間を早めたんだよ。ちなみにおまえの出番はない、ここで解散だ」
「悪化? あれ以上悪化するか? まあお仕事が成功してよかったね」
「誰も成功したなんて言ってないぜ」
 腕を掴む手に力を込められて、彼と正面から向かい合う、こうして観ると鏡のようだと思う、死地に赴く黒装束、互いの目に満ちるのは、鮮やかな絶望。
 例えば我々が片時も離れず傍に居るならば、それは穏やかな死を意味するのだろう、優しく殺してと囁いて、そっと両手を伸ばす、私がおまえに、おまえが私に、多分そうすることでしか癒やされないのだ。
 だから傍には居られない。
 侵食してしまう、ふたりの絶望が重なりあって色濃くなる。
 どうしてこうなってしまったんだろうね? 理解なんて生温い言葉では表現できない共鳴。
「巧くいかなかったかい?」
 腕を掴んだまま、私の目を覗き込んで訊く彼に、軽く頷く、軽く軽くだ、まるで傷付いてもいないように、屈辱も感じていないように。
 籠から出れば、何もかもを忘れてしまう鳥みたいに、勿論そんなことはできないと、誰より自分で判っているが。
「駄目だね。さすがにおれもお手上げだ。だから、今更おまえが行っても無駄だ、やることなんかないぜ」
「最初からおれに任せておけば良かったのに」
「おまえが来ることさえ知らなかったよ、ドクター・キリコ」
 彼が来ることさえ知らなかったと。
 それは事実だ。では知っていれば、少しは私も躊躇したか。
 腕を掴む彼の手を払って、私は彼に軽く片手を振った、役に立たぬメスをオペ室の床に落としてから、感覚のない右手を、軽く軽くだ、まるで今日は何も起こりませんでしたと、自分に、彼に言い聞かせるように。
 ひとりで泣いて、泣いて喚いて、それで気が済むのならばそうしよう、こんなところで愚痴なんて、吐きたくもない、こんなやつ相手に。
「じゃあ、おれは車で来てるから、お先に失礼、死神先生」
「ちょっと待て」
 身を翻そうとしたところを、右手首を掴まれ阻止された。
 ぎょっと足を止めると、その目の前に、自分の右手を見せ付けられた。白く血の気を失って、がたがた震えている右手、みっともない。
 振り払おうと思うのに、彼は手を離さなかった。震える右手を自分に引き寄せて、白い指先に軽くキスをした、悪い冗談だ。
「これで車運転するの。事故るぜ、先生」
「……大丈夫だよ。いつもこんなものだ。慣れているから」
「近場にホテルでも取ろうよ。おれも車だから、明日の朝そこに停まってる、おまえの車まで送り付けるよ」
 掴んでいた私の右手を下ろし、今度は左手で手を繋いで、彼はさっさと駐車場の方に私を引き摺った。飽きてしまったシチュエーションのあと、こうなることにも慣れてしまった。
 私は、震える右手を彼に差し出したまま、はっきりとした口調で言った。
「キリコ、おれはセックスをする気分じゃないんだ、帰らせろ」
「別に、しなくても良いじゃない。そんなにぼろぼろで、何言ってんの、放っておけって?」
 彼は少し苛付いたように言ったあと、自分の車を見付けてロックを開け、助手席に私を押し込んだ。私の咄嗟の抗いを、唇への淡いキスで封じて、自分は運転席に座り、エンジンをかける。
 綺麗な横顔だと思い、思ってから自分が彼を見詰めていたことに気付く。ほんとうはこうして欲しいんだろう、強引に攫って欲しいんだろう?
 そうだ、知っている、彼は、世界中の誰よりも、私を甘やかすことに長けたひと。
 例えばこんな夜ならば、決して私をひとりにはしない。
「寝てて良いよ、適当に入るから。おやすみ」
 彼は見詰める私を振り向いて、珍しくにこりと毒のない笑顔を見せてから、視線を戻し、アクセルを踏んだ。私は小さく溜息を零してシートに埋まり、目を閉じた。
 眠れるわけはなかったが、寝ろと言われれば仕方がない。
 自分の右手を左手で掴んで、震えよ止まれと念じても、全く収まる気配がない。死というものは魅惑的でありながら、怖い、何より怖いものである、たとえ反撃の刃を抜いたとて、敵うわけがありはしないのだ、彼のように寄り添えれば、少しはこの世も生きやすいか。
 或いは死の誘惑に、魅入られてしまうのか。





 シャワーを浴びた素肌にバスローブ一枚で、ふたりひとつのベッドに潜り込む。
 クイーンサイズベッドのツイン、別々に寝れば良いのに、彼に同じシーツへ連れ込まれては抗えない。
 知っている、おれはこの男に飛び切り弱いのだ、彼がおれに飛び切りに甘いから。こうして差し出される手を拒めない、縋り付いてしまえなんて、理性の裏側にいる私が唆す。
 シーツの海、子猫のように優しく抱き寄せられた彼の腕の中は、記憶よりも温かくて、私を密かに嘆息させた、この男は生きている、また、そう思う。
 脚を絡ませ、濡れた髪を縺れさせて口付けた。されたというよりも、引き寄せられるみたいに、唇を寄せ合った。彼は確かめるように、触れるだけのキスを繰り返していたが、私が強請る仕草で唇を開くと、迷いもなく舌を挿し入れてきた。
 遠慮無く口腔を探られ、舌を絡め取られて吐息が洩れる。暫く彼の唾液に侵食される恍惚を味わってから、誘われるままに舌を差し出すと、彼はさも愛おしげにそれに歯を立てた。
 柔らかく咬みしだかれて肌が震える。卑怯だ、こんな甘い口付けは。
「は……ッ」
 シーツの中で、彼の背に手を回し、密やかに爪を立てた。彼はその、丁寧で濃密なキスで私を窒息させてから、吐息を喘がせている私の顔を、間近に覗き込んできた。
 揺らぐ視界に彼の美貌が映る、白くて長い睫が綺麗だと、どうでも良いことを思う。
「その気はないんじゃなかったっけ、先生。なに唆してんの」
「キスくらい良いだろ……」
「キスじゃ済まなくなったら、おまえの所為にしていいわけ?」
 彼の眼差しが正確に、私の瞳の奥をスキャンしていく。脈拍、心拍数、こころの中まで見通して、どうすれば私を甘やかせるかを測っている。
 憎たらしい男だ、あんなふうに抱き寄せられたら、その誘惑に抗えるわけがあるか。
 大体おまえ、セックスもせずに抱き合って眠ったら、最後の言い訳さえ効かなくなってしまう、知っているくせに、おまえは別にしなくても良いなんて、そんなセリフを平気で言うのだからたちが悪い。
 介在するのは愛ではなく欲だと、初めて抱き合った夜にふたりで決めた。
 世界中の誰よりも、私を甘やかすことに長けたひとだから、彼は私の逃げ場は確保したまま、私を器用に追い詰める。
 もう一度、甘ったるい口付けを交わし、私に散々唾液を飲み込ませてから、彼は唇を離した。互いに腰を押し付けて、興奮を伝え合う、眼差しで探る、おまえは何処からどこまでが本気なのか?
「勃ってるね、先生、その気になった? おれとする?」
 大抵は、負けたふりをして彼が先に言う。
 私は頷かず、かと言って退けもせず、ただ視線を斜めにそらす、それが私なりの精一杯の合図だ、これ以上を求められたら背を向けて逃げてしまう。
 彼は、視線をずらした私を見やると、右手をバスローブの紐に伸ばして、簡単に解いてしまった。確かにこの男は、私を扱うのもサインを読み取るのも、巧いと思う、誰よりも。
「中、洗ってやろうか」
「もう、洗った」
「そう。おまえは可愛いね」
 短い言葉のやりとりで、確認しあう、おれとする? ああ、したい。そう、おまえは可愛いね。
 私をシーツに組み敷くと、彼は丁寧に、上半身をキスで埋めた。声を洩らし、身を捩らせる私を、緩くきつくてのひらで拘束して、もう引き返せない場所まで追い上げる。
 彼のセックスは巧妙だと思う、それは多分介在するものが欲だけではないから、だが、たとえそうでも我々はそれを欲と決めたのだ、だからこれは総て欲であらねばならない。
「ああ、キリコ、もう、」
「うつ伏せて、腰上げて、いい子にして」
 何度目か乳首に咬み付かれて、耐え切れずに私が洩らすと、彼は音を立てて胸元に口付けてから身を引いて、片手で私の身体を引っ繰り返した。
 シーツの上であっさりと、彼の言葉通りの姿勢を取らされて目が眩む。何よりその場所に彼が珍しく、唇を寄せたので青褪めた。
「キリコ……やめろ、何か、あるだろ、そのへんに……」
「洗ったんじゃないの、じゃあ良いだろ」
「クソ……、そういう、ことを、するな……!」
 一瞬血の気の失せた頬が、すぐに紅潮してくるのが判って、私は咄嗟に枕に顔を埋めた。快楽に脱力した身体では、まともに藻掻くこともできず、微かな抵抗は尻に唾液を塗り付けていく舌と、そこに食い込む指先に奪われた。
 彼は無理はしなかったが、特に遠慮もしなかった。
 時々前立腺を弄り、私に悲鳴を上げさせながら、指で入口の筋肉を解き、届く限りの深さまで抉った。粘膜を啜り上げるように舌を這わせては、二本に増やした指の隙間に唾液を注ぎ足す。
 自分の身体から、ぐちゃぐちゃと淫らがましい音がしているのが判った。彼の唾液を彼が掻き回す音、わざとらしい、だからこそ、嵌る。
 唇から尻から注ぎ込まれて、私は彼に完全に侵される、きっとそれが必要だと彼は思ったのだろう、今夜、私を甘やかすためには。
 彼は最終的には指を三本まで突き立てて、私を喚かせた。それから、自分の性器を何度か擦り上げ、指を引き抜いた場所に押し当てた。
「もう入るから、入れるよ、良い」
 拒否は前提にない声だ、私は必死に幾度か頷いて返した、だったら最初から訊かないで欲しい、キスして良い、触って良い、抱いて良い、全部全部、私に言わせないと気が済まないか。
 彼は、私の素振りを確認してから、押し付けていた性器を挿入し始めた。指で慎重に開いたから良いと判断したのか、いつもよりも大雑把に腰を使って、張り出した先端をずぶりと中に埋めてくる。
 確かに散々広げられたので、痛くはなかったが、衝撃に声が散った。いつもは気が遠くなるほど時間をかけるくせに、なんだと言うんだ。
「あ、ああ! キリコ、強い、」
「偶にはこういうのも燃えない?」
「おまえは……燃えるのか?」
 彼の言葉に、シーツを握り締めながら言い返す。彼は、私の返事が意外だったのか、先端を押し入れたところで少し動きを止めたが、ああ、燃えるよ、と囁くように答えて、そのままずるずると一気に、性器を深くまで突き立ててきた。
 一息には入り切らない分を、腰を使って捻り入れる。彼は私が喚いても、泣いても、根本まで食い込ませるまでは動きを緩めなかった。らしくない、どういう趣向だ、ことセックスにおいては強引さなんて普段は縁遠い男だが。
「泣け、先生」
 なんとか総てを突き刺して、その位置で腰を揺すり上げながら、彼は淡々とした調子で言った。言われずとも、そうして身体を揺らされるたびに、悲鳴を上げて私は泣いていた、涙が溢れては枕に滲み、もう何故自分がここに居るのだかも判らない。
 ああそうだ、どうしておれは、彼とこうしているのだっけ?
 病院で、患者の急な病状悪化、オペ室に飛び込んで、それから、それから。
 右手の震えが収まらないのを。
 彼に見咎められたのだ。
「誰かが死ねば、いつもは泣き喚くくせに、邪魔して悪かったな。だからいま泣け、喚け、叫べ、好きなだけ」
「は、あ、キリコ、きつい、いきたい、ああ」
「泣いた?」
 深々と貫かれた尻を捧げて、頷いて返した。その間にもはらはら落ちる涙が、枕に沈んでいった。
 彼は、もっと泣けば良いのに、と呟いてから、性器を半ばまで引き抜き、尻を掴み開く両手で私の腰を固定して、先端で前立腺を突き上げ始めた。
 がつがつと突かれて、掠れた声で喚き散らす、性器には触ってくれないんだろうなと頭の隅で思ったら、それを見透かしたように、背後から彼の声が降った。
「自分で擦っても良いよ」
「ふ……」
 自分で擦れということだ。
 私は操られるように左手を自分の下肢に伸ばし、厭になるほど勃ち上がっている性器を掴んだ。内側を刺激されるだけでも達しかけていたそれは、二度、三度撫でるだけであっけなく精液を吐き出した。
 てのひらが濡れる。きりきりとこめかみに愉悦と痛みが響く。なんだかいやに物理的な快楽だと思った、そうか、そういう趣向か。
 身体を引き攣らせて、最後まで体液を搾り取り、汚れた左手をシーツに落とした。独りですることなどそうないが、多分こんな感じなんだろうと思った、自分だけに都合の良い行為、自分だけが気持ちの良い行為。
 これは私のための行為。
「あ、は……、キリコ、抜いて、くれ」
「口でしてくれる」
「する、から」
 中から彼が出て行かないと、絶頂が去らずに辛かった。彼は、それでも暫くは私の痙攣を愉しんでから、引き抜くときだけ殊更ゆっくりと、性器を尻から抜いた。
 尻から手を離され、堪らずにシーツに崩れ落ちる。一呼吸つく間もなく、彼の右手が髪に伸びる。
 待て、するって言っているじゃないか。
 非難は声にならず、髪を掴まれ引き寄せられた目の前に、彼の性器を突き付けられた。綺麗に勃起した、美しい性器だ、彼のパーツパーツは、異常なくらいに造形が整っていると思う、髪の先から爪先まで、彼に欠落があるとしたら、その片方の目くらいか。
 闇しかない精神と。
「口、開けて」
 左手の指を、唇の間に突っ込まれて、歯を押し開けられた。そこに性器をあてがわれ、慌てて口を大きく開くと、彼は一瞬も躊躇わずに唇を犯し始めた。
 この男にしては、性急だと思う、多分こうすることに意味がある。
 性器を突き刺され、必死にその先端に舌を絡めると、彼は少しは気持ちが良かったのかそこで動きを止めた。だが、結局は満足せず、偶に口でするときには必ずそうするように、喉の奥まで性器を突き立てて、私を喘がせた。
 込み上げる吐き気を堪える、私の苦痛が彼の快楽なのだと思えば報われる、彼は、私の髪を掴み、暫く深い位置で腰を使っていたが、また私が反射的にぱらぱらと泣き出したものだから、僅かに腰を引いた。
「きつい?」
「は、」
「じゃあ、唇締めてて」
 彼が髪を掴んだ手を引いて、性器を抜こうとした。私は彼の肌を両手で掻き毟って抵抗し、彼を喉深くに再度咥え込んだ。吐き気、頭痛、目眩、これは数時間前の再現じゃないか、それで死神が笑うというのなら、私は構わない。
 彼は、私の行動に少し驚いたように右手から力を抜いたあと、じゃあすぐにいくから、と言って、髪を掴み直した。それから、喉の奥に性器の先端を幾度も擦り付けて快楽を盗み、一番深く突き刺した位置で射精した。
「ウ……、あ、」
 吐き出せもしない場所に出されて、どうしようもなく飲み込んだ。どろりとした精液が喉を伝っていく感覚に、ぞくりと鳥肌が立った。
 これが彼の愉悦の証なのだと。
 そう思ったら内側から身体が熱くなった。
 彼は、腰を使って最後まで私の口に注ぎ込んでしまうと、まだ硬い性器を唇から引き抜いた。左手の指を、入れるときと同じように唇の間に突っ込んで、無理やり口を開かせる。
「飲んだ? ああ、飲んだね、いい子だ」
「あんな、深くで、出されたら……、吐き出せ、ないだろ」
「へえ、顔に出したほうが良かった?」
 憎たらしい。
 軽く咳き込んだ私の背を、それでも優しく撫でてから、彼は私の腕を掴み、またシーツの海に潜り込んだ。もう一度くらいするのかと思ったが、そんなつもりもないらしい、酷く儚く抱き寄せられて、私はその壊れものめいた感触に、いやに切ない気持ちになった。
 甘い男だ。
 ベッドに誘って、キスをして、組み伏せて泣かせて恍惚を積み上げて、それでも最後には犯してみせて、全部おれの所為だよと黙って眠る。甘い。
 ああ、そう、だって彼は世界中の誰よりも、私を甘やかすことに長けたひとだから。
 それでもこんなのは厭だ、こんなふうに夢と消えそうなのは。
 儚い抱擁が耐えられず、私は彼にしがみつくと、互いにまだ硬い性器を擦り合わせるように、彼に腰を押し付けた。彼がぱたぱたと瞬くさまを観て、白くて綺麗な、長い睫だと思った、この男自体は決して温いわけではないが、パーツパーツが美しすぎて、ときどき胸が痛くなる。
「どうした。物足りないかい、先生」
 唇を捻じ曲げて笑う彼を睨み付け、私は彼の首筋に顔を埋めた。シャツを着て、スーツを着てしまえば見えない場所に、きつく口付けて痕を残す。
 多分そのあたりに香水を付けるのだろう、彼の匂いが濃くなって、私はひとり密かに呼吸を喘がせた。
「なんだよ、珍しいことするじゃない」
「……足りねえよ」
 そのまま耳朶を咬み、吐息を吹きかけるようにして彼の耳元に言った。そうだ、物足りないよ、私の死神、私がその足元に平伏すまで、私を支配してくれないと足りないよ。
 誰かを死なせた私ならばより死の間近に。
「もっと、いかせてくれよ、キリコ先生」
「……仰せのままに?」
 くく、と笑って彼は言い、私の肩を掴んでシーツに組み伏せた。すぐに落ちてくる口付けに酔いながら、私はそっと目を閉じた。
 世界中の誰よりも、私を甘やかすことに長けたひとだからこそ。
 こんな夜にはどうすれば良いか? ひとつひとつ教えてやらなければいけない場合もあるだろう。唇で、肌で、体温で。
 愛し合うには遠いけれど、慰め合うならおまえが良い。
 おまえには見えているはずだから、私の苦痛、私の暗闇、私の祈り。
 私におまえの足掻く姿が、遠く刹那に見えるように。





 眠れるはずもなかったが、気付いたら眠っていた。
 昼だ。
 いい加減にこのシチュエーションにも飽きてしまう。前にもこんなことがあったじゃないかと、妙な既視感に囚われるが、疲れている所為ばかりではない。
 彼は、片腕で私を緩く抱き締めたまま、枕元の電話で何やら話をしていたが、私が目を覚ましたのを見て取ると、僅かに、失敗した、という顔をして、電話を切り上げた。
「ああ、あと一時間ほどで出ます」
 フロントか。
 彼は受話器をさっさと放り投げると、その手で私の髪を撫でた。それがまるでほんとうに愛おしいものにするような仕草に見えたから、私は戸惑った、寝惚けているのかもしれない、そんなことを思うなんて。
 軽いキスが降ってくる。拒む理由もないので受け入れると、彼はすぐに唇を離して、それから私の目を覗き込んだ。
 長くて白い睫、淡い色の瞳と重なって、この空間に蕩けそう。
「おはよう、ブラック・ジャック先生。お目覚め如何」
「……おはよう、キリコ先生。ちょっと……身体が痛い」
「無理をしろって、おまえが言ったんだぜ」
 もう一度、私の唇に、咬み付くような短い口付けをして、それから彼はエアコンの風と健気に戦っていたシーツを剥いだ。
 バスローブの裾が少し乱れる、そういえば夜中にふたりでシャワーを浴びた、水滴に溺れそうになりながら、バスルームでも一度した。
 彼は、私が上半身を起こすのを待って、自分も起き上がると、私の右手を自分の右手で掴み、私の目の前に差し上げた。
 私がきょとんとしていると、少し焦れったそうな目付きをした、彼のこんな表情を観るのは、久しぶりだ、いや、初めてか。
「漸くひとの色になった」
 言われて思い出した、そうか、昨日の夜、私は分厚いコートを着こみながら、血の気のない右手を出して、彼に振ってみせたのだっけ、さようなら、ごきげんよう、がたがたと震えつつ。
 だってこの手で命を握った。たった一瞬だったのだろうけれど。
 そう思えば誰だって。
 多分私は変な顔をしたのだろう、彼は慌てるでもなくもう一度、今度は私の瞼に口付けて、右手を離し、正面から私をふわりと抱き締めた。
「どうした? 昨日の夜からもう一度やり直そうか」
「いや……大丈夫」
 咄嗟に彼の背に回した右手を、恐る恐る彼の肩越しに観た。真っ白くなって怯えているのかと思ったが、特にいつもと変わりない、私の手だった。
 そうだ、いつまでも引き摺るたまじゃない。
 忘れることは決してないが、私は過去を積んでいまここに立っているのだ、何故なら私はここに居なければならないから、そう私が決めたから。
 喪失の夜に。
 泣いて喚いて、そうすれば目が開く、そんなことを教えてくれたのは誰だったか。
「先生、腹減った?」
 抱き締められたまま髪を撫でられ、背筋をするりと辿られて、私は自分が愛玩犬にでもなったような気分になり、慌てて彼から飛び離れた。
 観れば彼は別に拍子抜けした様子もなく、にやにやと笑いながらこちらを眺めている、いつもの笑みだ、嫌味ったらしい、いけ好かない笑み。
 そう、世界中の誰よりも、私を甘やかすことに長けたひとだから。
 甘やかしたあとには、ちゃんと現実に返してくれる。何の未練も見せずに歩み去る。
「……別に、減ってない。家で食う。車まで送ってくれ」
「つれないの。一緒に飯食わないかって誘ってんだけど」
「食わない。判ってるだろ? 良いから車まで……」
 上目遣いで睨み付け、むきになって言いかけると、彼がくつくつと笑ってあっさりベッドを降りた。クローゼットの前に立ち、背中を向けてバスローブを落とす。
 綺麗な裸体が一瞬露わになって、すぐにシャツに隠れた。
 その綺麗な身体と、一晩中抱き合ったというのに、最後の方はもう記憶も危うい。
「怒るなよ。ちゃんと送るから、着替えて、先生」
「ああ……。ありがとう」
「お礼が言えるようになったんだね」
「……送ってくれるなら礼を言うという意味だ、それ以外じゃない」
 さっさとスーツを着込み、ソファに凭れた彼の目の前で、もそもそと服を着る。やりづらいったらない。それでも、観るな、と文句を付けるのは違うような気がして、黙ってシャツを羽織り、スーツを着た。
 彼がソファから立ち上がり、リボンタイを結びに来た。
 これも文句を付けるところではないと思い、彼の手の好きにさせた。
 絆されている? いや気の所為だ。流されている? いや気の所為だ。私はただ彼が、どれだけ綺麗に引き際を決められるか、それを見定めているだけだ。
 こうして偶に見せ付けられる、彼の甘さは悪くないと。
 溺れて目覚めた岸辺で思う、おれはつまり彼に弱いのだ。
「コートは自分で着て。そんな物騒なもん、触りたくないよ」
 クローゼットの鏡で観る限り、私より巧みにリボンタイを結んでから、彼はトランクとルームキーを手にドアに向かった。私は慌ててコートを引っ掛け、彼のあとを追った。記憶を辿るに鞄は彼の車に置いてきた、勿論財布さえ。
「おい」
「鬱陶しいこと言うなよ、こんな日に」
 金を立て替えろ、という意味のことを言おうとした唇を、右手の人差指で封された。目を白黒させていると、今度は唇で、軽く音を立てるだけのキスをされた。
「昨夜はごちそうさまでした。ここはおれの奢りね」
「なにを……おれは……おれはただ……」
「帰ろ、先生」
 ドアの前、悪戯に腰を抱きに来る彼の手を叩くので精一杯だった。くすくすと笑ってドアの向こうに逃げてゆく彼を追いかけて、気付いたらホテルのエントランスでぽつんと、チェックアウトを済ませる彼を待っていた。
 ああ、畜生、彼はやっぱり、世界中の誰よりも、私を甘やかすことに長けたひと。
 魔法のように誘われて、魔法のように日常に戻される。そこで初めて私は気付くんだろう、今回もまた、彼に救われてしまったと。
 彼がカウンターから離れ、駐車場の方向を指さした。
 私は頷いて、その方向へと足を向けた。
 でもまだ夢のなか、いまはまだ夢のなか、だから助手席に座ったら、一番最初にこう言おう。現実との境界線、彼がエンジンをかける前に。
 昨夜は助けてくれてありがとう、と。
 彼はきっとぎょっとして、魔法をかけ過ぎたかと焦るのだ。私はそれを見ながら、密かに後ろを向いて笑おう、右手をぎゅっと握り締めてみる、昨日はがたがたとしか動かなかった指がスムーズに動く、こんなふうに私を治せる男、私はいまや彼以外には知らないから。


(了) 2013.09.28