そうして君は嘘を吐く。


 静かな夜は大嫌い。


「だからっておまえ、そんなに騒ぎたてることないだろう? まるで発情期の猫みたいにさ」
 彼の家の、診察室に踏み入って、棚に並んだ医学書を床にぶちまける。
 カーテンを引き裂き、シーツを掻き毟る。こんなときでも頭の芯は厭に冷静で、ガラス製のシリンジだの、組織標本の山だのは、指が勝手に避ける、馬鹿みたいだ。
 彼にもそれは判っているのだろう、だから平気な顔をして、私を眺めているのだ。
 私のこころも、知らないで。この罅割れた、憂鬱で、凶悪な。
「疫病神め! 人殺し! おまえなどに診察室なんて必要ないだろう、どうせ殺すんだ!」
「昨日は死人のようなツラして寝込んでいたと思ったら、今日はこれか。全くお忙しい先生だ。ちょっとは自分をコントロールする術を身に付けたらどうなの、ブラック・ジャック」
「おまえが悪いんじゃないか! おまえが、おまえが、」
「ああ、ああ、判ったよ、先生。おまえの言う通りだ、おれが悪かった、だから落ち付けよ、な?」
 床に散らかった医学書を踏んで、彼が近づいてくる。私は毛を逆立てた猫のような目つきをして、彼を睨みつけた。
 彼は何も悪くはない。それは知っている。
 彼は彼の信念で動いている。外野が文句を付けることではない。
 だが、その姿がいつでも私の邪魔をする。
 崩れ落ちそうに、乾いた指先で高みに手をかける、その手首を彼の持つ鎌が、容赦なく切断する。
 そんなものは紛い物だよ。
 笑みを含んだ声が耳元に聞こえて、鳥肌が立つ。
 だってどうしたらいいのか判らないんだ、他に方法を知らないんだ、その場所はとても遠くて目に観えなくて、答えなど出ぬままに手を伸ばすしか。
「ほら、血が出てる」不意に、近付いてきた彼が私の手を取り、てのひらを仰向けにして指差してみせた。「紙で切ったんだろ。いい子だからあまり暴れるな。それとももっと怪我をしたいの、だったらおれが痛くないように、上手にたくさん切ってやるよ」
「厭、だ。放せ、キリコ」
「静かな夜が嫌いだって? おれの寝物語でも聴くか? お安くしておくぜ」
「放せと言っているんだ…! おれに、おれに触るな…!」
 手を握り締められる、彼の体温にぞくりとする、そうだ、そうして。
 彼は私の邪魔をする、明日が怖いと怯える私を嘲笑する、何とか這い蹲って進もうとする私に、そっちは前じゃないよ、などと言って、それから立ち去ってしまう。
 微塵の執着もなく。
 見せつけられたてのひらには、成程投げ散らかした医学書で切ったのか、赤い血の線がひと筋走っていた。
 生きているのだと判る。意識した途端にその場所がちくちくと痛む。気付くと息が上がっていて、ちらと見回した診察室はひどい有様だった。
 放せ放せと喚くと、彼は苦笑して手を離し、それから両手を肩のあたりに上げて、ひらひらと振った。
 降参、降参、もう触りません? 知っている、彼はそうしておいて、あとで反吐が出るほど私に触るのだ。
「何も…、何も知らないくせに、自信満々な顔をして、おれに触るな」
「何がそんなに怖いの。不安が騒ぐのかい、先生? 泣きたけりゃ、泣けばいいじゃない。おれは傍にいてやるよ」
「知ったようなことを言うな…! おまえなどに、判るものか、おまえのように、傲慢で、悪魔みたいな、死神に」
「甘ちゃんだなあ、先生は。まるで子供だ。そうやって弱い者同士、傷を舐め合うの。言っておくけど、おれは傲慢じゃないよ、悪魔みたいではあるかもしれないけどね」
 むしろ、どうして伝わらないんだ? こんなにも間近で叫んでいるのに!
 ああ、そうではないのか、彼にはすべて判っているのか、判っているから、嗤うのか。
 もう無理だ、もう進めないと、思いながら私は今日を生きている。僅かでもあの場所へ近づくために、そう、まるで手足の動かぬあのころの私のように、祈りとともに。
 その祈りを、彼は端からさらっていく。そんなものは嘘だよと嘯いて。
 何故嘘だ? どうしてだ? おまえの目には何が見えているんだ? 美しい、淡い色をした彼の瞳が、時々怖くなる、ひとりになりたくなる、逃げ出したくなる。
 それでも私は彼から離れられない、だって彼以外に知らないんだ、私の総てを把握して、私を侮辱できる人間を。
 彼は、眉を歪めて彼を睨みつける私を観て、そんな顔をするなよ、と言い、にやにやと笑った。
「可愛い可愛い子猫ちゃん。何がそんなに不満なんだ? 今更何かが壊れると思っているの。そんなに震えちゃってさ」
「おれは…おまえが嫌いだ…」
「そう。じゃあ、久し振りに交尾でもする? 肌を寄せ合えば通じるものもあるってね」
「馬鹿か…! 嘘を吐け…!」
 一度は離れた彼の手が、再度伸びてきて、私は思わずそれを振り払った。だが、彼の力は強く、私の二の腕のあたりを掴んだと思ったら、有無を言わさず引きずって、先程私がシーツを掻き毟ったベッドの上に押し倒した。
 点滴スタンドが、派手な音を立てて、横転した。覆い被さってくる彼の下で、私は力の限りもがいたが、彼はそれをものともせずに、私を押さえこんでしまった。
「キリコ…厭だ…! もう、厭だ、もう、」
「何が厭だ? いつも泣いて歓ぶくせに。おまえは本当は、おれとこうするのが好きなのさ、静かな夜が嫌いになるほど」
「違う…! おまえなど、何も知らないくせに…!」
「じゃあ、おまえはおれの片目の行方を知っているのかい」
「…!」
 咄嗟に、抵抗する腕から力が抜けた。彼はそれをいいことに、私の襟元からリボンタイを抜き、慣れた手つきでシャツのボタンを弾いた。
 行方? 片目の行方だと?
 知らない。私は知らない。
 彼は私の身体中、隅々まで知り尽くしているというのに、私は彼をよく知らない、そんなことがあってたまるか。
 言われるまで気付かないなんて?
「馬鹿な先生だなあ、傷付いた顔をして」彼は、私の頬の傷に音を立てて口付けてから、可笑しそうに言った。「知らなくたっていいじゃない。伝わらなくたっていいじゃない。おれはいまここにいて、おまえはそこにいる、それで充分じゃない。もっとも、それはおまえの言葉がおれに伝わってないという意味じゃないけれど」
「おれが、どれだけ必死に歩いてきたかなんて、」
「必死じゃない人間なんていないよ。誰だって必死に生きて、死ぬんだ、おれだって」
「おれは、」
 言葉に詰まる。シャツをはだけさせる彼の手首を力なく掴み、形ばかりの抵抗を見せるが、きっと私はよく慣れた猫のようだったろう。
 おれだって?
 おまえが必死に生きているだって?
 薄い笑みを浮かべて地獄を渡る死神、両手には刈り取った命の灯を抱えて、絶望よりなお暗い眼差しをして、それでもおまえは必死に生きていると言うのか。
 嘘を吐け、嘘を吐け、いつだって境界線を越えてしまいそうな顔をして。
 美しい銀色の髪は、まるで死人のそれのよう、おまえがいるのは生と死の狭間、バランスを崩せば奈落へ真っ逆さま。
 いや、だからこそ?
「おれは時々、おまえが邪魔ものに思えるよ、先生」
 躊躇なくベルトを外し、下着ごと服を引き下ろされても、最早私は抗うことが出来なかった。
 馬鹿な、それは私がいつも、いつも、いつだって、思っていることだ。
「小うるさくて、キャンキャン吠えて、煩わしい。邪魔だ。でもさ、その邪魔ものがいなかったら、おれはもしかしたら、いま、生きてはいないかもね」
「邪魔なのは…邪魔なのは、おまえだ。いつでもおれに敵対ばかりする、おれがひとりでいるときだって、おまえのことを考えると、怖くなる、おれは或いは間違えているんじゃないかと。おれの辿りつきたい場所は…、」
「そうか。ひとりのときでもおれのことを考えるのか、可愛いね」
 ぐちゃぐちゃに乱れたシーツの上に転がっていた、何かのチューブを手に取り、彼はその中身を右手に絞り出した。脚を左右に開かれ、尻にペースト状のものを塗り付けられて、そのひんやりとした感触に、私は眉を歪めて耐えた。
 彼は何と言ったっけ? 肌を寄せ合えば通じるものもある? そんなものはまやかしだ、精々が体温を交換できるくらいだ。それから、痛みと快楽と。
 知らなくたっていいだって? 何も知らない同士が交わって、そこに意味が生じるか?
 私には判らない。私にはあの、決して目に見えぬ高みしか観えない。辿り着きたいんだ、指先だけでも触れたいんだ、ああ、でもその場所に立ってしまったら、私は次に何をすればいい?
 私には判らない。
「は…、キリコ、」
「ようやくおとなしくなった。この診療所、片付けるのに何時間かかるんだ?」
 性急に指を押し込まれて、私はシーツを握り締め、目を固く瞑った。この男に抱かれるのだと思うと、奇妙な感覚に陥った。もう、何度も、そうしているのに。
 死神が私に覆い被さる、指で尻を拓きながら、唇で素肌を吸う。長い髪が触れてくすぐったい、身体中が俗物に作り替えられるようなこの瞬間。
 私は、生きている。確かに、生きている。
「ん…ッ、指、指が」
「当たる? 少しは慰められる?」
「ふざけるな…! あ、」
 いったん抜けた指が、二本に増えて、再び押し入れられた。先ほどから弄られていた場所を、二本の指でしつこく押し上げられて、私は掠れた声を上げた。
 彼は焦ってはいなかったが、時間をかけもしなかった。二本の指を捩じるように使って、私の強張る入り口を、慣れた手順で解していく。
 彼がベルトを外す、かちゃかちゃと言う金属音が聞こえて、私は閉じていた目をうっすらと開けた。彼は、寛げた服の隙間から性器を取り出して、自分の手で軽く扱いた後、私に重なってきた。
 彼の匂いを強く感じる。香水の匂い、それから、人間の匂い、牡の匂い。
「可笑しなもんだなあ」彼は、私の片脚を抱えながら、くすくすと笑って言った。「おまえも勃ってるが、おれさえも勃ってるもんなあ。何故だか判る? 判るか、先生?」
「知、らな…」
「そう。じゃあ、判るまで悶々としていなよ、ひとりでいるときもさ。おれのことを考えて、怖くなっていなよ」
「ああっ! 待て…ッ」
「待てない」
 尻に押し当てられていた彼の性器が、ずぶずぶと中に沈んできた。指で広げられただけのそこには、その違和感は圧倒的すぎて、私は無様に叫んだ、紛れもない快感と、痛みが、同時に私に押し寄せた。
 彼は、動きを緩めぬまま、じっくりと私の内壁を味わうように、一定の速度で根元まで侵入してきた。身体の中を征服されるみたいな感覚に、一度は開いた瞼をぎゅっと閉じ、私は耐えた。
 耐えた? 耐えたのか、酔ったのか。
 この行為は、所有したりされたりするものではないと思う。奪ったり奪われたりするものでもないと思う。でも、ならば何だと言うのだろう。私を縫いとめ、私を拓き、私に総てを与えている男は、いま、何を考えているのだろう。
「おまえがいけるまで、動くから」
 彼は言うと、手を伸ばして、硬く瞑っている私の瞼を撫で、それから腰を使い始めた。
 最初から、遠慮のない動きだった。私はシーツを両手で掻き毟り、彼に強く揺さぶられるままに、声を上げた。
「ヒ、ああ! あ! 壊れる、駄目だ…!」
「加減してるよ。壊さないから、感じて、おれを」
「キリコ…、溺れる、溺れちまう…ッ、は、あ!」
「溺れちまえば? 気持ちいいんだろう? もっと擦ってやるよ、おまえの中、いつもより熱い」
 感じて、おれを。
 ああ、感じている、厭と言うほど。
 あの葛藤も、困惑も、嫌悪も、散り散りになるような快楽、私は何が欲しかったのだろう、何が欲しいのだろう、何が。
 彼は、しばらくそうして腰を使ってから、片手を私の性器に伸ばした。指で刺激していた弱点を、性器の固い先端で突き上げなら、私の性器を緩く擦り上げる。
 長い時間、彼に触れていなかった肌には、それが限界だった。私は無意識に頸を左右に振って、女のような啜り泣きを零した。見苦しいとは思った。
「ああ…キリコ…、もう、もう、無理だ…ッ」
「いきそう? いくなら、いくって言ってね。そう言うときのおまえの顔、好きだよ」
「いく…、いかせてくれ、もう、そのまま、擦って、」
「判らないなんて、馬鹿な男だね。少し考えれば、判るでしょ、先生?」
 判らない? 何のことだったか?
 彼は、私の求める通り、私が馴染むように同じテンポで中を突きながら、私の性器を意図的な動きで擦り上げた。私は悲鳴のような声を洩らし、あっという間に達してしまった。乞うてから一分ももたなかったと思う。
 ぎりぎりと締め上げる、彼の性器の感触が、たまらない快感だった。
 自らの腹の上にぶちまけた精液に、不快感を覚える前に、尻から彼が抜かれ、愉悦に酔う暇もなく髪を引っ掴まれた。
 ベッドから引きずりおろされ、気付いたら、彼の隆々とした性器を口元に押し付けられていた。彼は私の目の前で、ガーゼを使って適当に自分の性器を拭き、私の唇の間に指を押し込んだ。
「口でやって。中に出されるの、厭だろ。咥えてるだけでいいから」
「ん、ん…ッ」
「可愛いよ。いやらしい顔をして。おれが出したの、全部飲みこんでよね」
「ぐ…、あ、はっ」
 指で開かされた唇の間に、強引に彼の性器の先端が捻じ込まれた。顎がおかしくなりそうなのを堪えて、必死で頬張っていると、彼は彼の手を使って、意外とあっさり射精した。
 私に負担をかけまいとしたのか、単に面倒だったのかは知らない。
 口の中に溢れる牡の味を、眉をしかめて飲み込むと、彼は、よく出来ましたと言うように、私の髪を撫でた。つい先ほど、髪を鷲掴みにして、ベッドから引きずり落としたその手で。
 身体中がまだ興奮に沸き立っている。
 彼は服の乱れを直すと、茫然と床に座り込んでいるその私の前に片膝を付き、右手を差し出した。
 薄い笑み。いつもならば死人のようだと思う銀髪が、そのときばかりはまるで天使のように美しく観えた。錯覚だ。
「大丈夫だよ。先生、大丈夫だ」
「…嫌いだ、おまえなど」
 大丈夫?
 そんな言葉を、簡単に言うな!
 
 
 
 
 
 結局は、彼の診療所の片づけを手伝った。
 大体が、診療所を荒した全責任は私にあるし、そのまま去るのはあまりにも私のプライドを傷付ける行動だ。
 ならば最初から暴れるなとは思うが、時々、どうしても、抑えられなくなる。
 弱みを見せるのは、彼が相手のときだけ。
 ならば、構うまい。
「医学書は種類別じゃなくて、年代順に並べてくれ」
 今更ながら、紙で切ったてのひらがちくちくと痛む。もうとうに血はとまったのに。
 床に散らばった医学書を抱えていた私に、カーテンを取り付け直していた彼が淡々と言った。
 その後ろ姿を観ていて、背が高いなとどうでもいいことを思う。確かに私は彼のことを、何も知らぬには違いない。
「何故。種類別でないと不便だろう」
「歴史的背景が判らないと、毒物なんて使えませんよ、センセ」
「…死神め」
 ひとつ舌打ちをしてから、言われるままに一冊ずつ背表紙をめくり、刊行順に医学書を並べていく。窓は開け放っていたが、つい今までの情事の匂いが残っているような気がして、居心地が悪かった。
 邪魔ものに思える、と言われた。
 だが、その邪魔ものがいなければ、いま生きているか判らないとも。
 何故か判るか、と言われた。
 判らないなら、判るまで、ひとりで悶々としていれば。
 判らない。判らない。彼を邪魔にしているのは、私のほうのはずなのに。ならば、私は彼がいなければ、いま生きているか判らない?
 そうなのかもしれない。
 そんなものは嘘だよと、幻だよと切り捨てる彼を見返したくて、私はあの高みを目指しているのだろうか。
 大丈夫だ、と言われた。
 そんなことを言わないで欲しい、私はそんなに強くはない。
 そもそもが、何が大丈夫なのか。
「本、片付けたら、帰っていいよ、先生。疲れたろ」カーテンを取り付け終えた彼が振り向いて、言った。淡い色の瞳は錯覚なのか、とても穏やかに観えて、私は少し混乱した。「おまえ、加減して暴れるから、片付けが楽でいい。あとはベッドを何とかすれば終わりだから」
「…ひとりで寝込めと言うのか。おれはいま調子が悪いのに」
「だから、いい年して、自分をコントロールする術を身につけたら? 泊まりたいなら泊っていけよ」
「…言っておくが、おれはお前のことが嫌いなんだ、嫌いだから醜態をさらせるんだ」
「はいはい、判ってますよ」
 医学書の、最後の一冊を本棚に押し込んで、私はぷいと彼に背を向けた。診療所から続いている、彼の家の居間へと足を向ける。
 大丈夫。
 大丈夫、か。
 ならば、朝も夜も、昨日も今日も、休まずそう言い続けてくれ。
 たとえ嘘でも冗談でも、私がそれを一瞬信じられるそのときまで。
 
 
 
 (了)
 
 2012.05.03