月のない夜空の下を、ふたり無言で歩く。
凍て付くような冬の寒さは、あまり気にならない。
遠くで。
誰かの声が聴こえたような気がした。幻聴か。
だって今度行ってしまえば彼は、二度と戻って来ないのに。
「こうやって歩くのも最後だなあ」雲で濁って星のない空を見上げながら、彼は沈黙を破ってそう言った。どうでも良いことのように。「なあ、ブラック・ジャック先生? もし今後、おまえと逢うことがあったとしても、おれはおまえの隣には居られない。淋しいか?」
「…淋しいものか。清々するよ、キリコ先生」
「また強がって」
くつくつと笑う彼が、まるでいつも通りなのが憎たらしい。
鉄の門を乗り越えて入りこんだ図書館の敷地には、当然のことながらひと気はなかった。同じように、追われてここに逃げ込んだのは、もう何年前のことだったか。
あの夜も、月はなかった、星もなかった、だが。
「もう、何年前になるのかしらね」
私のこころを読んだように、隣で彼が言った。思わず振り向いた私にその白皙の顔を見せつけて、彼はにっこりと笑った、蕩けるように。
美しい男だと、そう思った。
闇夜に映える長い銀髪、淡い色の瞳。手を伸ばせば届くのに、手を伸ばせない。
「…憶えているのか、あの夜を?」
「忘れる筈がないでしょ、おまえに初めて触れた場所だもの」
「…そういう言い方を、するな」
「じゃあ、どういう言い方をしろと?」
月もなかった、星もなかった、ただあの夜も、彼が居た。
建物の陰に隠れていた私を見付けて、あとから逃げ込んできた彼は、悪戯に笑ったものだ。あの夜に限り、私と彼は共犯者だった。
だから拒まなかった。私の髪を梳く彼の指先を。
出逢えばいつでも罵り合いばかり、それでも惹かれていたのは多分事実だから。
遠くで。
また、誰かの声が聞こえたような気がした。しつこい幻聴だ。
「それで、どうしてこんな場所に呼び出したの、先生?」
いつでも傍に居れば、壊れてしまう、そんなことを思った、あの夜に。
彼にも判っていたのだろう、年に数度の逢瀬、境界線を越えても、それは変わらなかった。口汚く喚き散らしたあと、血を静めるように抱きしめ合う、それで充分だと思っていた、そう、こんな夜が来ると知るまでは。
わざとらしく訊ねた彼を睨み上げて、それから私は目をそらし、溜息を吐いた。欲しいものが去ってゆく、それでも私には縋る権利がない。
「最後だと思ったからだ」
「何が? おれに逢えるのが?」
「そうだよ。馬鹿な男に逢えるのが、今夜で最後だと思ったんだ」
「そうか。おれのことが、そんなに好きなんだね、先生」
不意に、手首を掴まれ、私は思わず足を止めた。彼は、少しの迷いもない足取りで、私の手を引っ張って、建物の陰に私を連れ込んだ。
眼が眩んだ。そこは、あの日、あの夜、私と彼が接触した場所。
一瞬で蘇る記憶、初めて触れた彼の身体は、想像を裏切って温かく、私の警戒を溶かした。
「キリコ、」
「おれと離れるのは、淋しいだろう?」
コンクリートに背を押し付けられ、間近に眼を覗き込まれる。淡い色の瞳に吸い込まれそうで、私は身動きも出来なくなる。
嫌いだ、こんな女々しい私など。
背を向けて忘れれば良いではないか? 他の誰かにしたように。
「淋しいんだろう、ねえ、先生」
「…そうだな。淋しいのかもしれないな」
「おれに、行って欲しくないだろう?」
「おまえの好きにすればいいさ」
行かないで、と。
言えれば少しは楽になるか。
彼はまた、くつくつと面白そうに笑って、それからいやに無造作に私の唇に口付けた。私は思わず身体を強張らせ、彼の胸に両手をついたが、押し返そうとする力は弱く、結局はその黒いコートにしがみついた。
冬の風に冷やされた唇が、触れ合い徐々に熱くなる。絡み付く眼差しは言葉より饒舌で、放したくない、離れたくないと、互いのこころに囁いた。
唇の輪郭を辿っていた彼の舌が、口の中に忍び込む。濡れた感触に身体の芯が抜け、コートに縋り付く手の力を、私は必死に強くした。
駄目だ、欲しい、傍に居て、壊れても良いから。
彼が去ると知ってから、私は漸く理解する、この気持ちは恋愛に似ていると。
焦がれて、惚れて、堕とされて、一緒に居れば死んでしまうなんて怯えて、まるで幼稚な恋だ、馬鹿馬鹿しい。無駄なひとり寝の夜を、おまえで埋めてしまえば良かった、どうして私には判らなかったのだろう。
失えないんだ。
でも、消えてしまうんだ。
ああ、ひとつだけ願いが叶うのならば、神様、悪魔、何でも良い、彼を私から奪わないでくれないか。もう二度と。
嫌いだなんて言わないから。
「ん、」
生温い舌に、舌を絡め取られて、その生々しい感触に私は身体を震わせる。最後だ、さようならだ、彼の瞳、彼の唇、彼の体温、何もかもが、もう私のものにはならない、なることはない。
何故?
何故なんだ?
何故おまえは、私では無いものを選ぶんだ!
「は…、キリコ」
「好きだよ、先生」
ふたり分の唾液を啜り、喉を鳴らして飲み込んだ。彼のコートを掴む指が解け、その場に座り込んだ私の頭上から、甘く、切なげな彼の声が聴こえた。
「でも、おれは行かなければならないんだ。これがおれの宿命だから。おまえには、判ってもらえないかもしれないけど」
「…キリコ、もう良い」
「おれは行くよ。最後だ、さようならだ。出来ることなら、おまえを攫って逃げちまいたいけど、おれには出来ない、だから、行くよ」
「もう良いんだ。行けよ…未練なんて、らしくないぜ、キリコ先生」
行かないで。
行かないで。
あの夜からもう一度、総てをやり直せるのなら。
そうか、でも、同じだ。彼は必ず私を捨てる。彼は必ず決断する。彼は必ず。
ひとりきりで死ぬ。
膝を抱え、俯いたまま言った私の言葉に、彼が苦笑するのが判った。くしゃりと髪を撫でられて、漸く顔を上げると、既に私に背を向けていた彼の姿が眼に映った。
暗闇の中に、溶け込む銀髪の死神。
儚い、気高い、命、私には、止められない。
見詰める私を振り返らずに、彼は真っ直ぐ、私の元から歩み去った。黒いコートの裾が風に揺れ、弧を描く、美しいと思う。
夜の中、彼の姿はすぐに消えた。足音も聴こえなくなり、あたりは静まり返った、それでも、彼の気配だけは濃密に残っていた。
遠くで。
誰かの声が聴こえたような気がした。あれは幻聴なんだ、好きだ、好きだ、傍に居て、傍に居て、叫んでいるのは私ではない、決して私ではない。
コンクリートを背に、ずるずると立ち上がる。コートについた塵を片手で払い、私は冬の空気を深く吸いこんだ。
両頬を、温かい涙が伝って、顎から落ちる、知らない、知るものか。
彼は止まらないのだろう。
誰にも止められぬのだろう。
ならば。
「…畜生」
勝手に喉が嗚咽を洩らす、私は私を哀れだと思う。惨めだと思う。次から次へと涙が零れるのをそのままに、私は月も星もない夜空を仰いだ。
彼の気配が遠のいていく。彼の感触が一秒、一秒、過去になっていく。
手を伸ばす。彼の名を呼ぶ。二度、三度、自分の声が、夜に飲みこまれていくのを細く聴いた。もう彼の耳には届かないのか。もう彼が私を振り向くことはないのか。
さようなら、さようならだ。
二度と逢えない、さようならだ。
暗闇、真っ暗な空、何も観えない、それでも。
私はあなたを待ち続けよう、この一瞬の世界がいつか消えるまで、たったひとりで。
(了) 2013.02.10