あなたの手が、私に触れないのなら。
 私の身体など、もう要らない。



 彼に抱かれる夢を見て、目が覚めた。
 ひとりきりの出先のホテル、気付けばびっしり汗を掻いて、呼吸も荒い。
 飛び起きたベッドの上、反射的に隣を見ても、彼の姿はない。当たり前だ。
 夢、夢なのだから。
 幾度かの夜は、こうも祟るのか。
 一足先に、患者のところには、彼が来ていたらしい。そう聞いた。だが、今回は、彼は何もせずに帰ったという。
 あとで私が来ると聞いた彼は、少し困ったように苦笑して、それじゃあブラック・ジャック先生に譲るよ、とだけ言い残して去ったそうだ。
 そういうことをするからだ、と思う。
 憎めもしない、嫌悪も湧かない、ただ、その面影を追うしかない。


 三度? 四度? 私は彼と寝たことがある。数えるほどだ。
 男に抱かれることは、別に好きではないが、不慣れでもない。
 しかし、何故、彼なのか。
 顔を付き合わせれば、言い争いばかり、それでも、彼はふとした瞬間に、酷く甘い表情をするときがある。
 力強い腕がこちらに伸びる。最初はさすがに吃驚もしたが、何処か納得もあった。
 私は彼に弱いのだと思う。
 執着が変質して、何か違うものにすり替わっていたような。手の届かないものに背伸びをし続けて、いつか欲しくて欲しくてたまらなくなっていたような。
 私は彼の背負う暗闇の、一端を知っていると思う。
 だから、こんなふうに取り残されては、憎めもしない、嫌悪も湧かない、ただ、その面影を追うしかない。


 湿ったシーツの上で頭を抱え、私は溜息を吐く。馬鹿め、おまえは私を待っていなければならなかったのだ。
 私が仕事を終えたそのときに、いつものようにふらりと現れて、いつものように皮肉な口調で、ひとつふたつ私の傷を抉るようなことでも言わなければならなかったのだ。
 彼は本当に去ったらしい。
 病院を出て、暗い敷地内を見渡しても、あの美しい銀髪は何処にも見あたらなかった。
 気紛れな、酷い男だと思う。
 そう思う自分が女々しくて、反吐が出る。
 では、あの夜、或いはあの夜、あの夜に、私を抱いた腕は何だったのだろう。
 次はいつ会おうだとか、口約束など出来ぬ関係、だから、こうして糸が繋がった地点で、彼は私を待っていなければならなかった。
 彼の名を聞くだけで、腹の中で頭を擡げる欲。
 私は囚われている。恋情でも、ましてや愛情でもないけれど。
 ただの劣情と言い切ってしまうには、彼の纏う闇は魅惑的に過ぎた。
 死神め。その色素の薄い、冷ややかな目で、おまえが私を見ないのならば。
 その長い、器用な指で、おまえが私に触れないのならば、私など、もう要らない。


 仕事は失敗した。
 はじめから知れていた結果だとは言え、仕方がないとひとことで片付けられるものでもない。
 肌の下で、無力感と自己嫌悪と、敗北感がぐちゃぐちゃに混ざり合って、何処かからはみ出てきそうだった。
 どうしてこんな夜におまえはいない?
 吐き出せない感情を無理矢理飲み込んで、シャワーを浴び、ホテルの真新しいシーツの上に横たわったら、この夢だ。
 暗い寝室に、自分の吐く、荒い呼吸だけが散っている。
 いちいち手を伸ばさなくても、興奮しているのは判った。厭になる。うんざりする。うんざりするのに、熱が去らない。
 夢の中で、彼は、優しく、そして強引だった。私は、この皮膚の中に巣くう鬱屈を、彼に投げ出すようにして派手に喚いていた。彼は、幾度かの夜にもそうしたように、この傷だらけの身体を撫で回し、口付け、その凶暴な性器を私の中に押し込んだ。
 もう駄目だ、もういく、と、私は夢の中で叫んだような気がする。
 そこで目が覚めた。
 負の感情は倍増しになって私に押し寄せた。もう、こんなに惨めな、使えない男は、死んでしまえばいい。


 飛び起きた身体を掻き毟るように抱き締めてから、私は再びベッドに横たわった。 
 死神め。責任を取れ。たった何度かの戯れで、私はこの有様だ、おまえの所為だ。
 枕に顔を埋めるが、自分の熱い吐息に当てられて、少しも身体が冷えてくれない。目を閉じれば、夢の残像が。
 彼の、美しい瞳、美しい髪、美しい肉体、私を屈服させる彼の総てが。
 私の記憶に色濃く刻み込まれている。本当に、祟るものだ、あの男だけを相手にしているわけでもないのに。
 暫く躊躇ってから、私は結局は、右手を自分の下肢に伸ばした。
 バスローブを捲り上げ、きつく勃ち上がっている性器に触れる。
 ぞくりと快楽の触手が、私の中を這い上がった。握り締め、ゆっくりと擦った。そうだ、これはあの男の手だ。
 いやらしいね、先生、もうこんなにしているの?
「は…、あ、キリコ、」
 そうだ、私はいやらしい、はしたない、汚い男だ、好きなだけ踏みにじればいい、おまえの揶揄は何処かしら甘ったるくて、私の熱を駆り立てる。


 膝を付いて、腰を上げて、おれのこれが欲しいんじゃないの。
 つい今し方の夢で聞いた彼の声が、否応なしに蘇る。
 自分で拡げられる? 出来るよね、だっておまえ淫乱だもの。
「クソ…、助け、ろ、死神…っ」
 私は、頭の中に響く声に従って、ひとりきりのベッドの上、俯せになって腰を上げた。性器を握り締めたまま、左手の指を唾液で濡らし、尻の狭間に這わせる。
 その場所は、誰に何をされたわけでもないのに、熱く脈打っていた。
 歯を食い縛りたがる唇を解き、息を吐いて指を押し込む。
 絡み付くように指を締め上げる肉は、まるで自分の身体ではないようだった。僅かに奥まで差し入れて、良く知っている場所を指先で押し上げる。
「あ…! ああ、は…ッ」
 背筋を震わせるような快感が走り抜ける。少なくともその瞬間は、私の頭には、彼と、彼のもたらす愉悦しかなかった。他の総ての事象が霧散する感じ、例えば、私が今日死なせた誰かのことも。


 もっと、もっと、身体が壊れるような、気が狂うような恍惚が欲しいと思った。
 足りない。欲しい。おまえが欲しい。
 尻に突っ込む指を二本に変え、擦り上げるようにその部分を刺激しながら、片手で性器を扱く。
 我慢しきれない体液が洩れ出し、ぐちゃぐちゃと卑猥な音を立てたが、それすらも私の興奮を煽った。
「キリコ…、キリコ…! もっと、くれよ…っ」
 絶頂の間際で、そのもどかしい感覚に眩みながら、私は、普段であれば決して言えないようなセリフを吐いては、自分に酔った。
「おまえの、太くて、硬いのを、くれよ…ッ、ひとりで、いっちまう…、アア、もう…ッ」
 頭の隅にある、何処か醒めた部分を強引に無視して、瞼の裏に彼の気配を追う。
 見てくれ、この無様な姿を。おまえがいないと、私は片輪者、身の内に溢れる感情も、身体を焦がす欲も、解放することさえ出来やしない。
 これは依存? おまえが私を要らないというのならば、私など。
 身体の隅々から、波が打ち寄せるように、愉悦が押し寄せてくるのを感じた。尻に押し込んだ指がきりきりと締め上げられ、肌が粟立つ。
「いく、あ…、キリコ、おまえも…、」
 性器を擦る右手の動きが、勝手に早くなる。そのときだ。
 ホテルの一室、静かに、だがはっきりと、ドアを叩く音が響いたのは。


「…!」
 ざっと全身から血の気が引くような気がした。
 俯せにベッドに突っ伏し、性器を握り締めていた右手が思わず空を掴む。
 ドアを叩く音は、一度鳴ったあと、暫く止んだ。それから再度、また、静かにはっきりと、空間を刻むように。
「…リコ、」
 私はごくりと喉を鳴らしたあと、無意識に彼の名を呼んだ。
 誰? 誰かなんて、もう判っている。
 いま、そのドアの向こうにいるのは。
 今度は一気に頭に血が上り、私は混乱した。違う。欲しかったわけじゃないんだ。いや、欲しかったんだ。
 会いたかったわけじゃないんだ。いや、会いたかったんだ。
 この葛藤を。この苦痛を。この欲望を。
 おまえの、その手で。
 いや! 私はただ。
 一定の間隔を置いて、ドアは鳴り続けた。私はベッドの上で、呆然と座り込んだまま、長い時間、その音をただ聞いていた。



(了)

2011.5.6