欲しかったわけじゃないんだ。いや、欲しかったんだ。
会いたかったわけじゃないんだ。いや、会いたかったんだ。
この葛藤を。この苦痛を。この欲望を。
おまえの、その手で。
一定の間隔をおいて、ドアは途切れることなく鳴り続けた。
無視してしまいたかったが、出来なかった。そこにいるのが彼だと判っていたから。
何故判るかと? 知るか、ただ判るだけだ。この夜、このタイミングで、現れる人間など他にいるか。
暫くの間、私はシーツの上に呆然と座り込んでいたが、結局はベッドを下りた。まだ熱の冷め切らない身体は自由がきかず、足にも力が入らない。
どうしてこの場所が知れたのだろう。いや、ここは仕事先が用意したホテルの一室なのだから、簡単に知れるか。
乱れていたバスローブを直し、蹌踉めきながら寝室を出て、ドアの前に立つ。
私のその気配を察知したのか、ドアを叩く音が止んだ。見事だと思う。
彼は私の欲しがるものを完全に把握しているに違いない。そして、時に気紛れに伸ばされる手で、私の総てを攫っていく。
「…誰だ」
ドア越し、訊ねた声は掠れていて、自分で自分が厭になった。
ドアの向こうの人物は、少し考えるように黙ったあと、いつも通りの皮肉たらしい声を聞かせた。
「おれが誰かなんて、言わなくても判っているじゃない? ブラック・ジャック先生」
「…キリコ」
どくりと心臓が大きく脈打ったような気がした。その声は、当然のことながら夢に聞いたものよりも深く鮮やかで、鋭く私のこころに突き刺さった。
そうだ、そうして名前を呼んで欲しかったんだ。
役立たずの私を揶揄して愚弄して、最後にはそれごと全部奪って欲しかったんだ。
この感情を何と呼べばいいのか。
必要としているなどとは思いたくない、だが、必要としている、切実に。
「…何故、ここにいる。おまえはとうに帰ったと聞いたが」
「病院に電話をしたら、おまえがここにいると聞いたんでね。落ち込んでいやしないかと思って」
ドアを挟んでいても、低い彼の声は充分に甘く耳に落ちた。彼は、答えになっているような、なっていないようなことを言って、それから私の言葉を待つように、口を閉じた。
この男は卑怯だと思う。傍に居て欲しくて居て欲しくてたまらないときに限って、不意に現れる。
或いは優しい男なのではないかという錯覚に陥る、そんなものは、嘘だ、嘘なのに。
いや、嘘ではないのか。
「自分に腹は立っているがね」私はドアにそっと両手を押し当て、まだ静まらない鼓動を持て余しながら、彼の体温を測ろうとした。「それで? 落ち込んでいるかも知れない私に、皮肉のひとつも言いに来たのか? 全くご苦労なことだ。おまえに何を言われたって、今更だ、傷付きやしないさ」
「傷付けるのは簡単だけど、別にそんなことをしに来た訳じゃない。知ってるだろう? おれはおまえに甘いんだ」
「甘いものか。おまえは冷たいよ。本当に甘いのならば、おまえは帰るべきじゃなかった」
「だから、こうしていまここにいるじゃない」
言ってから、自分が派手に彼に甘えていることに気が付いた。思わず舌打ちをすると、ドアの向こうにいる彼が、くすくすと小さく笑った。
死神め。祟るものだ。
幾度かの接触で、私は彼と繋がったつもりになっていやしないか。あんなものはただ欲を満たすためだけの行為なのに。
彼があまりにも優しく、強引に、私を抱いたから。
私は勘違いをしている、私はどうかしている、彼は誰のことだって、ああして抱くのかも知れないのだ。
「…帰れよ、ドクター・キリコ」
一応、口に出した言葉は震えていて、まるで彼に縋り付くようだと、自分でも判った。ここにいてくれ、傍にいてくれと、全力で言っている。私は力なくドアに凭れて、溜息を吐いた。駄目だ。
つい先程まで見ていた夢がふと蘇る。彼は完璧な手順で私を抱いた。
無力感も、敗北感も、消し飛ぶような時間だった、消し飛ぶまでに、彼は私を喘がせ、喚かせた。
そうして欲しいんだろう? 知っている。私は惨めだ。
自分ひとりでは食らい尽くせない、この闇、この棘、彼に触れてから、私は弱くなったと思う、それまでは、背負って纏って生きていたのに、そうせざるを得なかったから。
彼は、くすくすと笑う声を消さぬまま、ドアの外からいやに柔らかい口調で、言った。
「開けてくれるんだろう? ブラック・ジャック先生。意地を張らなくてもいいじゃない、おれとおまえの仲なんだから」
「…開けないよ。帰れ、死神。ひとりにしてくれ、私はいま誰をも必要としていない」
「でも、おれの名前を、呼んでなかった? 必死にさ」
「…」
かっと頬に血が上るのを感じた。聞こえていたのだろうか。確かに、聞こえていたのかも知れない。
ならば、私がひとりで何をしていたのかなど、お見通しだ。
その場に蹲りたくなるのを耐えて、私は再度深々と溜息を洩らした。今更だ、今更、この男を相手に、何を恥じらうことも有りはしないが、浅ましいと思う、私は、反吐が出るほど浅ましい。
数分か、ドアを挟んでふたり、無言だった。
それから私は、ドアのロックを外して、待った。さすがに、開けて招き入れるまでは出来なかった。
彼は、ロックの外れる音を聞いてから、ゆっくりとドアを開けて、部屋に入ってきた。照明を落とした室内では、ホテルの廊下の灯りを跳ね返す銀髪が、それはそれは美しく見えて、私は無意識に見蕩れた。
ドアを閉める。後ろ手にロックをかける。所作のいちいちが流れるようで綺麗だと思う。そして彼は、手ぶらだった両手を躊躇いもなく伸ばし、ふわりと私を抱き締めた。
「キリコ、」
「何を怯えているの? 嬉しいなら嬉しそうな顔をしてもいいんだぜ、先生」
包み込むような、優しい抱擁だった。
思わず、身体を強張らせた私を宥めるように、彼は私の背を幾度か摩った。そうだ、あの夜も、あの夜も、彼はそうして私を抱き寄せた。飼い慣らし切れない苦痛に、私が藻掻いていた夜。
この男は何故私を、こうして抱き締めるのかと思う。
彼の内包する闇は、私のそれより尚深い、私の闇を受け取って、そして益々深くなる。それで良いのか。
頬を擽る柔らかな銀髪、彼の香りに満たされて、私は酔いそうだった、いや、事実酔っていた。
「私は、そんなに弱くない。放っておけば良いんだ」
「放っておいてもいいんだけどね、おまえも知っての通り、おれはおまえに甘いから」
「…今夜は、何だかおかしいんだ。こんなのは、私じゃない」
「そんなおまえもおまえだよ、いいじゃない、素直に甘えてみたら?」
彼は長い抱擁を解くと、私の腕を掴み、真っ直ぐに寝室へ引きずった。足が縺れて、二度、三度、転びそうになったが、彼は易々と、腕を掴む手で私を支えてみせた。
ベッドのすぐ脇で、スーツのジャケットを脱ぐ彼から目をそらすと、シーツの乱れたベッドがあからさまに目に入った。居たたまれなくなった、そうだ、私はこの場所で、夢の残像を追いながら、ひとりで自分を慰めていたのだ。
ジャケットをソファに放る彼の腕を、肩を、行き場のない視線を泳がせて見る。シャツの薄い生地越しに、しなやかな筋肉が浮いて、美しいと思う。そして私は、その腕が私を抱くときの快楽を、もう知っている。
数えるほどだ、数えるほどなのに。
彼はくっきりと私に刻み込まれてしまった。
成る程、確かに彼は私に甘い。例えばこんな夜に現れる程度には。狡い。どうしてその誘惑に抗えよう? この男に何もかもを託して放り投げて、楽になってしまいたいという誘惑に。
私は彼を利用しているのだろうか。では彼は何故私を抱くのだろうか。
相手に困る男にはとても見えない、私を甘えさせて骨抜きにして、彼の利などあるのだろうか。
「脱ぎなよ。脱いで、ベッドで待ってて、出来るだろ?」
言うと、彼は襟元から抜いたネクタイも放り出し、寝室を出て行った。取り残された私は、よろよろとベッドに歩み寄り、そこに座り込んだ。
少し前までの部屋と同じ場所の筈なのに、一瞬で空気が変わったようだった。彼の気配が、彼の香りが、私を安堵させる。安堵? どうして安堵するのだろう。彼ならば、総て受け入れてくれると思うからか。
私は弱い生き物になったのかも知れない、彼無しでは、居られないなんて。
彼はすぐに寝室に戻ってきた。右手に、バスルームからくすねてきたらしいアメニティを持っている。ベッドに座り込んでいる私を見て、仕方ないなあ、と言って笑い、さっさとバスローブを剥ぎ取ってしまうと、ベッドに押し倒してきた。
「キリコ、」
「まあ、逃げないで待っていただけ、良いか。いや、逃げられないか? 何をする前からこれだもの」
「あ! よせ、触る、な…っ」
「触らないで何が出来るんだよ。ひとりでしていたんじゃないの。もう安心して良いよ、満足させてあげるから」
彼の手が、静まり切れないでいた性器を軽く掠めるだけで、びくんと身体が跳ね上がった。ひとりでしていたんじゃないの? 違う、違う、おまえが夢になど出てくるから、夢で私を抱くから、だから。
身を委ねてしまいたかったんだ。恍惚に。おまえに。
他には何も出来ない癖に、それさえも満足に出来ない私は、きっといつかあっさり消えてしまう。
誰かが死ぬのは、もう厭だ。
「は、あ…ッ」
首筋、髪に隠れるあたり、きつく吸われて掠れた声が散った。ただそれだけで、鮮やかに思い出した、夢よりもくっきりと。
過去の幾度かの交歓を。
彼はこの、縫合痕だらけの肌を、気持ち悪がりもせず、丁寧に撫で回した。女相手ではないのだ、そんなことをする必要もないのに、彼はどの夜も、必ずそうして愛撫をした。
初めて寝たときか、その次か、何故かと訊いたことがある。彼はうっすらと笑って、確かこう言った。傷跡をなぞりながら。これがおまえを生かしているんだろう。
この男が甘いというのは本当だ。普段は厭味ばかり言う癖に、こちらが手負いだと、躊躇なく匿う。
それがこの男の生き方なのだろうか、だとしたら、この男が手負いのときに、匿う人間は何処にいる?
彼はやはり今夜も、焦れったいくらいの時間をかけて、私の肌を撫で上げた。気紛れのように、時々、場所を選ばず口付けを落とす。胸、膝、太腿の内側。
はじめこそ、声を殺そうと唇を咬んではいたが、途中で諦めた。彼の引きずり出す欲は凶暴で、ただもう、彼で満たされたいと、それしか考えられなくなる。
余裕がない。こんなセックスは、他に知らない。
「ひらいてるね」アメニティの、ローションだかミルクだかで濡らした右手を、私の尻に這わせながら、彼がいやらしく笑った。「自分でここも弄っていたの? 気持ちいいの? 自分の指じゃ物足りないだろ。ひとりでするときはいつも触るの」
「触ら、ない…。おまえが、夢の中の、おまえが」
「夢?」
「は…。自分で、やれと言うから…、」
「そうか。おれの夢を見たのか、可愛いね」
膝を立てさせられたと思ったら、すぐに長い指が差し込まれた。つい先程まで、自分の指を押し入れていたその場所は、少しの抵抗もなくあっさり彼の指を飲み込んだ。
内側から敏感な箇所をまさぐられて、身体中、鳥肌が立つ。彼ははぐらかすことのない行為をすると思う、意外にも。だから誤魔化しがきかない、逃げ場がない。もっと、飾り立てるような、冗談めいたものならば、話も違うのだろうが。
私のそこが充分に弛んでいることを確認してから、指は二本に増えた。掻き回すように蠢かされて、私は高い声を溢れさせた。
彼は手慣れていたが、技巧に走るセックスをしない。それが私を錯覚させる、或いはこの男も、私が欲しいのではないかと。
「ああっ…、キリコ、駄目だ…ッ」
「駄目? 気持ちよくない?」
「気持ちいい、から…っ、早く、早く、おまえを…、」
彼の腕を引っ掻いて、恥もなく私は強請る。そうだ、そうして欲しかったんだ、私はおまえが欲しかったんだ。
彼は、くすくすと笑い、可愛いね、と繰り返してから、指を抜き、自分の服を寛げた。それから、掴み出した性器に、ローションだかミルクだかの液体を擦り付けると、それを私の尻に押し当ててきた。
部屋に、彼の使う香水の、オリエンタルな香りと、アメニティの華やかな匂いが充ちる。それに半ば酔っているうちに、脚を抱え上げられ、ずぶずぶと彼が侵入してきた。
はっと意識が覚醒するようだった。僅かな痛みと、信じられないような違和感、肉と肉が擦れて、肌を掻き毟りたくなるような快楽が生まれる。
「あああ! あ! 深い、破れる…!」
「自分の指よりも、いいだろう? 夢の中のおれとは、どっちが良い?」
じっくりと、時間をかけて、根本まで突き刺してしまうと、その位置で暫く、彼は私が馴染むまで待った。紳士的なのだろうとは思う、ただ、その凶器は獰猛で、私は馴染むどころの話ではなかったが。
記憶を塗り替えるような鮮やかな感覚、私の内側を、まるでこころの中まで、犯し、満たす、彼の熱。
欲しかったんだ、私の総てを掌握する、おまえが。
「そろそろ動くよ、大丈夫だろう?」深くまで繋がったまま、二度、三度揺すり上げてから、彼は腰をゆっくりと使い始めた。「欲しいときには、おれを呼べ、健気に、一生懸命、今夜みたいに。そうすれば、おれは必ずおまえのところに来る。判っているでしょ? おれがどんなにおまえに甘いか」
「は…! 熱い、壊れる、ばらばらに…っ」
「ばらばらに、なっちまえば? あとで繋いであげるよ、そうされたかった癖に」
「は…ッ! ああ! そんなに、したら…ッ」
徐々にテンポを上げながら、彼は私を穿った。弱い場所を、張り出した先端で何度も突き上げられ、目が眩む。身体の底のほうから、愉悦が込み上げる。
シーツに縋り付いて耐えていると、今度は彼は、その全長を使って、私の最奥を貫き始めた。深く叩き付け、抜けるほど引き抜き、また奥を突く。結合する部分から、ぐちゃぐちゃといやらしい音が聞こえる。
ふたつの動きを交互に繰り返されて、私は喚いた。私という存在が欲と快楽で膨張する感じ、それ以外の、闇も、棘も、霧散する感じ、彼という鍵を差し込まれて。
救いを求めていたんだ。
手を差し伸べて欲しかったんだ。
死神め。おまえの纏う闇は甘く、優しい、きっと誰にでも。
「キリコ…、もう、もう、いきたい…ッ、ああっ、あ、あ…!」
一際深くを突き込まれて、私は耐えきれずに彼の腕に爪を立てた。微かに彼が笑う気配がして、きつく瞑っていた瞼を上げると、滲む視界の中で、彼が信じられないほどに美しい微笑を浮かべていた。
一瞬、怖くなった。
誰の暗闇をも飲み込んで、この男はどうなってしまうのだろう。この男は誰をも救うが、この男のことは誰も救えないのだ。
「いいよ、いきなよ。沢山気持ちよくなって」
「あッ! キリコ…ッ、いく、いっちまう…ッ」
「忘れな。過ぎたことなんか」
「アアッ! もう…ッ!」
彼の右手が伸びて、私の性器をやや強引に擦り上げた。予感に強張る手足の先から、這い上がる愉悦、私は逆らわずにそれに身を委ねた。
絶頂は激しく、切実で、頭の中が真っ白になった。いまこの瞬間が総てだと思った。彼に触れ、彼と繋がり、果てる、この瞬間が。
彼は、身体を痙攣させている私を何度か揺さ振ってから、私の中で達した。どくどくと精液を注ぎ込まれ、私は切れ切れに喘いだ。内側から浸食されるようだ、それは思考を越えた悦びだった。
過ぎたことなど忘れろ? 出来るか、そんなことが。
それでも、いま、彼と言葉を交わし、彼と抱き合ういま、私は確かに忘れている、あの内蔵が腐り果てるような感覚を。
甘いのだ。
彼は、私の波が落ち着くまで、その体勢で待ったあと、私の中から性器を引き抜いた。まだ、半ば硬い性器が出て行く感触に、私は喉の奥で呻いたが、彼はそれを聞かぬふりをした。
シーツの上、優しく抱き締められて、気怠い身体から力が抜ける。この男の抱擁には躊躇がないと思う。だから託してしまう、総てを。
瞼の上、こめかみ、思い出したように口付けが降る。そうだ、いまだけは、何もかもを投げ出して良いのだ、彼が居るから。
私は目を閉じて、彼の身体に緩くしがみついた。一定した彼の鼓動を聞いているうちに、麻痺にも似た安堵に襲われて、気が付いたら彼と抱き合ったまま、眠りに落ちていた。
目が覚めたら、彼の姿は、もうなかった。
私はひとりきり、暫くベッドの上で怠惰に過ごしたあと、バスローブを引っかけて起き上がり、シャワーを浴びた。
バスルームの鏡で自分の身体を覗き見る。彼は情交の跡を残さない。昨夜だけでなく、幾度か抱き合ったどの夜も。まあ、手慣れている男の仕事だ。
彼が触れた場所を順番に、肌の上、自分の指を滑らせながら、こころの中を探る。痛みは消えたか? あの無力感は。どうにもならない敗北感は。
逃げだ。
あの男は逃げ場を用意してくれる、いつだって。
優しい腕で、見せ付けられる強引さで、意識を覆い尽くされる、あの男は甘い。
バスルームから寝室に戻り、クロゼットを開けて、スーツを着た。リボンタイを結びながら、次に彼に会えるのはいつなのだろうと考える。
約束など出来ぬ関係、それでも、あの男は、私が傷付けば現れる。
力強い腕を伸ばす、少しの迷いもないように。ならば、彼が傷付いたときには、私は腕を伸ばせるか?
無理だ、背負い切れない。彼は、どうしてその傷を癒すのだろう、或いは癒しもしないのか、血濡れたまま歩いて行くのか。
彼は、逃げないのだ。
怖いと思う。その道は、あまりに過酷ではないか。それでもあの男は真っ直ぐ、ただひたすらに、真っ直ぐ歩く、暗闇の中、銀色の髪を、夜の帳に隠して。
結局は私が甘えているだけだ。
スーツの上からコートを羽織って、ソファに投げ出していた鞄を手に取った。シーツはぐちゃぐちゃに乱れていて、昨夜の交歓の気配を色濃く残していたが、知ったことか、そのまま私は寝室を出る。
彼の感触が、皮膚に貼り付いたみたいに、まだ残っていた。
半ば熱に浮かされているような足取りでドアに向かい、ドアノブに伸ばした手が、ふと止まった。
昨夜、彼はこのドアを叩いた。
そして私は、ロックを外した。
依存なのかも知れない。好きだとか嫌いだとかは考えたことはない。このまま慣れてしまっては駄目だ、彼に荷物を押し付け続けるような真似は。
ああ、でも、その時間は、私にとって、陶酔の極みなのだ。
この先も、彼が私のこころの扉を叩くというのなら、私はきっと何度でもロックを外してしまう。
一度は引っ込めかけた手を伸ばし、私はドアを開けた。彼の香りが残る空気が、さっと散って、希薄になった。
せめて。
ひとときの快楽でも良い、それを私が彼に与えられるようになるのなら、私は何でもして見せよう、死神よ、私はおまえの傍にいたいのだ。
(了)
2011.05.22