吐き気がするほど甘いよね(サンプル)


 私はあなたを必要とする。尚色濃い闇がそこに存在しないと、私は私を認識できない、愚かだ。
 だが、あなたは私を必要としない。そもそも彼は誰をも必要としていない。ひとりきりで闇の中に立つ、その姿を美しいとは思う、思うけれど。
 私はあなたの背に寄り添うこともできないね。
 濁りのない影を、ひととき奪い去ることすらできないね。



 夜だ。その日も夜だった。
 我々は夜に出会うことが多い。まるでその時間にしか身動きのできない動物みたいだと思う。昼日向に姿を見せてはならない種族、ひと目から隠れて暗い道を歩く、言ってしまえば私たちはそのようないきものではある。
 私立病院の職員駐車場、その入口に彼が立っていた。
 薄い明かりの下、淡く煌めく銀髪に、一瞬目を奪われた。ついブレーキを踏もうとして、やめた、馬鹿馬鹿しい、何故いちいち停まってやらなければならないんだ。
 ぞくりと、寒気のような安堵のような、分類しがたい感情が背筋を這った。
 そうか、来たのか、死神。来るとは思っていた、そして来ないとも思っていた、来てほしいと願ったし、来るなと祈った。
 私は私がよく分からない。
 希望はない、楽観などはしない、無駄、無理、把握して足を踏み出したはずである。力の限り運命に、歯向かわなければ足場が崩れる、誰のためでもなく自分のために、だから私は来た。
 だが。
 闇に浮かぶ彼の姿を目にして、何を思った? 邪魔をするな、手を出すな、それから、そう、助かった、と。
 駐車場の隅に車を停めると、彼が特に急ぐでもなく歩み寄ってきた。相変わらずのダークスーツ、手にはトランクをぶら下げている。仕事だ。
 死の間際にベッドで見上げる彼の美貌は、どんな表情を浮かべているのだろう、とどうでもいいことをふと思い、頭から打ち消した。知るか、そんなもの。
 エンジンを切って、運転席のドアを開け、車を降りた。彼はその私の前に、数歩の距離を置いて立つと、いつもの調子で言った。綺麗な姿勢だ、この男は死神に相応しく、どのようなときでも美しい。
「やあ、ブラック・ジャック先生。陰鬱な夜だね」
 陰鬱な夜、か。つまりは仕事後だ。
 溜息は勝手に零れた。こころの中で複雑に絡まり合う感情を処理できない。どうすればいい? 何を言えばいい? 私が抱くべき思いはなんだ。
 怒り。
 怒りなのだろう、知っている。知ってはいても、巧く手繰り寄せられない。何故なら私はもうひとつ知っている。この男はときに私に甘いのだ、反吐が出るほど。
「……殺したのか」
「ああ。そうだね」
「おまえは……おまえは、卑怯だ。キリコ」
 足元から力が抜けていくような感覚だ、身体を支えるために車に背を凭れさせると、彼が一歩踏み寄ってきた。まったく自然に片手が伸びてきて、しかし途中で止まり、結局は彼は私に触れることなく手を戻した。
 救済の手だ、最後の救済の手、いまひとの命を奪ったそのてのひらで、私を掴まえてくれてもよかったのに。
 彼は、しばらく黙って私を見つめていた。それから、ふわりと、珍しく毒もなく笑い、穏やかな声で言った。ああ、卑怯だ、こいつは卑怯だ、こんな夜にそんな顔を、声を、使うな。
「今夜は殴りかかってこないの、先生?」
 馬鹿め。
 やわらかな笑みを浮かべるその隻眼に過る悲哀、おまえのせいだ。
 分かっていたさ、百パーセント無駄であることなどは誰でも分かる。そのうえ私は私の手が持つ可能性の幅をよく知っている、夢も見られない、だからこそ、分かる、無駄である。
 それでも抗おうと決意して、いまここにいるのだ。背を向けてしまえば終わりだ、私が終わりだ、だが。
 諦めていなかった、とは言わない。
 そうだな、お前は優しいよ。甘いよ、死神。どうせ死ぬ、分かっている、私を苦しめたくなかったか?
「引き受けるつもりはなかったよ。でも、あの女を自らの手で殺せば、先生きっと立ち直れないから」
 夜風になびく銀髪が、美しい、私を見つめる淡い色の瞳が、美しい。
 ねえ、どうしてそんなに哀しそうな目をしているの、私は惨めか、私は無様か。いつものように皮肉に笑って、去れ。おまえにできる次の仕事は精々それだけだ。
 いや、駄目だ。
 行かないで。
 ひとり取り残されれば壊れてしまう。
「……助けられるなんて思っていたわけじゃない。死ぬものは死ぬ。ただ、おれは藻掻きたかった、何もしないでいるくらいならば絶望したほうがましだ」
「おれは先生に、絶望してほしくなかったよ。だから先生より先に来た。責めてもいいよ、怒ってもいいよ、それで気がすむのなら」
 気がすむのなら、か。
 狡いよね。
 殴るべきだ、分かっている、胸倉を掴んで罵るべきだ、詰るべきだ。それが我々のあいだにある決まりごとだから。
 でも、できない。きっとこの男の言葉に嘘はない。彼はただ私から絶望を取り上げたかったのだろう、死にゆくものへの愛というよりも。
 決まっていた運命を少し早めた。
 奇跡は起こらない、不可能は可能にはならない、私も彼も、息苦しいほどにそれを理解している。だから彼は早めた。私の手が血に濡れる前に、彼女の命を摘み取った。
 私のため、なのだろうか。
 あの女を自らの手で殺せば、先生きっと立ち直れないから。
 私のため、なのかもしれない。甘いんだよ、私が絶望で立ち上がれなくなったとしても、それで結構ではないか、おまえには関係のないことだ、むしろきゃんきゃん喚くうるさい犬がいなくなってせいせいするだろうに。
 風がさらりと通り過ぎる。今夜の風はひどく感傷的だ。
「……なんと言っていた」
 低く問うと、彼は特に迷いもためらいもせずに、答えた。
 澄んだ眼差し、いやになる。ひとひとり殺しておいて、その目か。刃物のように鋭くて、どこか甘さを秘めている、この男の背負う闇は純粋で濁りがない、悲哀の色さえ綺麗だ。
 悔しい。
 彼の姿を目にしたときに、確かにこころにさした安堵、助かった、と、そう思ったろう、ほんとうは、怖かったから。
「先生を苦しめるくらいなら、先に死にたいってさ」
「……苦しむべきなんだ。おれは無力だから」
「無力じゃないよ」
 無力じゃないよ? 馬鹿言え、無力だよ。その証拠に罪もない女が死んだ。私の手に力があれば、彼とて手出しはしなかったろう。
 無駄だ、と、知っていたからこそ彼は仕事をした、こいつは私と同じように、私の持つ可能性の幅をきっちり把握している。
 間近に立つ彼を、片手で押しのけて、凭れていた運転席のドアを開けた。いまさら私が病棟まで足を運んだところで意味もない。
 行かないで。ひとり取り残されれば壊れてしまう。
 くだらない、ひとりだよ、ひとりだ、我々はひとりだ、殊更こいつはひとりだ、孤高の死神に縋るのか? 馬鹿馬鹿しい。
 シートに座り、ドアを閉めようと右手を伸ばすと、それを引き止めるように彼がドアに手をかけた。つい目を上げたら、いやに繊細な笑みを浮かべた彼と視線が重なった。この、息が詰まるような胸の痛みの正体を、誰か教えてほしい。
「帰るんだろう? 乗せてよ、おれ今夜は車出してない。それで、途中の街なかで降ろして。酒を飲みたい」
「酔えないくせに」
「酔えなくても飲みたいときって、あるじゃない?」
 うわばみの事情など知らないが。
 しばらく睨みつけてから、黙って助手席を指さした。彼は、満足そうに目を細めて、車の後部を回り、遠慮なく助手席に乗り込んだ。
 ふわりと彼の匂いが漂う。
 夢見るような香りだった、夢見るようにひとの命を刈って歩く男に、血の匂いは似合わない。その通りだ、夢見るような香りをまとうべきだ。おまえは常に完璧だよ。
 シートベルトを引っ張る彼を、振り向かずに言った。
「家に、旨いワインがある」
「誘ってくれてるの? 嬉しいね」
 ふふ、と笑う声が色っぽい。くだらない、馬鹿馬鹿しい、だが、縋りたい夜もあるだろう。
 私はあなたを必要とする。尚色濃い闇がそこに存在しないと、私は私を認識できない、愚かだ。
 だが、あなたは私を必要としない。そもそも彼は誰をも必要としていない。ひとりきりで闇の中に立つ、その姿を美しいとは思う、思うけれど。
 私とあなたは背中合わせに寄り添うこともできないか。
 こんな夜でも、あなたは私に傷を見せてはくれないか。


(中略)


 ためらいをこころの隅に押し込んで、寝室に向かい、ドアを開けた。
 彼はジャケットを脱ぎ、ネクタイを解いてはいたが、服は着たままだった。部屋に踏み入ると、その彼にすぐに抱き寄せられた。やはり夢見るような香りだ、知らず吐息が溢れる、この男とは寝たことどころか抱き合ったこともなかった、こうも安心するものだとは知らなかった。
 揺るぎのない腕、揺るぎのない精神、魅せられる。必要であると肌で感じる、この夜に、私は彼の抱擁を必要としている。
 あなたが少しでも私を、必要としてくれればいいのに。
 いや、愚かだ。彼が必要とするものは、己のみである。
 彼はしばらくそうして、強く私を抱き寄せたあと、抱き返せもせずに突っ立っている私の唇に、軽く、甘く口付けた。驚いた。セックスをするだけではないのか、そこまでするのか?
「どうしてそんな顔をしているの? 怯えないでよ。男と寝たことあるんでしょ」
 彼は、くすくすと声に出して笑ってから、私の腕を掴んでベッドに歩み寄り、まったく遠慮のない動きで、まったく簡単に、私を仰向けに組み敷いた。まあ、手慣れている。
 耳の付け根から肩まで、やわらかく唇を這わせられて、動揺した。おい、そんなに慎重にしなくていい、女相手でもあるまいし。
 いいからさっさとやれ、の意味で、手に持っていた、クリームのチューブを彼に押し付けた。
 彼は、気配だけで少し笑ってから、私の主張は無視して、上半身をじっくりとキスで埋めた。こんな縫合痕だらけの身体を、よくそう引きもせず大事そうに扱えるものだな、と目覚める肌を持て余しながら思った。
 馴染むほどに男に抱かれてきたわけではない。
 だが、知っていることは確かだ、何もかもを投げ出せるような快楽の予感に、きつくシーツを握りしめる。巧みな愛撫、この男はきっと器用に私を開くのだろう、何より私はいま、彼を、欲している。
 反応している性器をさらりと撫でてから、彼は私の脚に手をかけ、やはりためらいもなくあっさり折り曲げた。露骨な体勢に唇を引きつらせていると、彼は淡々と、それでもどこか甘い声で言った。逆らえるか。
「脚、自分で押さえて。できるでしょ。広げてあげるよ、おれがやりやすいようにして」
「は……、適当、で、いいから、切れても、いいから」
「馬鹿言うなよ、おれは紳士よ。ああでも、おまえ結構切羽詰まってるのね、じゃあしつこくしないから協力して」
 言われるままに足を押さえてみせると、彼は尻にクリームをたっぷり塗りつけて、それから迷いもせずに指を挿し入れてきた。違和感に声が漏れた。だから、経験があるとはいえ、慣れてはいないんだよ。
 指先で、やや強引に入り口を解されて、頭の中で思考がぐるぐる回る。なんだっけ、おれはどうしてこんなことをしているのだっけ、そうだ、病院の駐車場で彼と出会った、彼女を殺したその手で私のことも一度殺せと。
 傷を舐め合わない?
 そんなセリフで誘われた。
 傷、傷か、おまえにそんなものはないだろう。いや、違うか、軸がぶれると。
 おれは先生に、絶望してほしくなかったよ。
 揺るぎのないおまえが、軸を歪めてまで、私を掬い上げたかった? 何故? 私のことなど、そして他の誰をもだ、必要としていないのだろう? 情けをかけたつもりか。
 しなくてはならないことだったけれど、してはならないことでもあった。
 助かった、駐車場で彼の姿を目にしたとき、私は確かにそう思ったはずだ。この手で死なせずにすんだ、この手で殺さずにすんだ、そんなものは。
 卑怯というのならば、私のほうである。



(サンプル終わり)