最初は耳を疑った。
リボンタイを締めるその背中に、彼が、もう少し一緒にいたいね、などと言ったから。
ホテルの一室、朝の気怠い空気、当然抱き合う腕はなく、くちづけを交わすこともない。甘ったるい一夜は夢か幻、そうであらねばならなかったし、そしてそれは事実でもある。
欲しい、欲しいが、それだけだ。
愛でも恋でもありはしない、もちろんだ。
戯れに肌を合わせたとしても、我々の間に感情はない、手を伸ばす権利も義務もない、気紛れである。いつでも切り捨てる準備はできている、同時に、いつ切り捨てられても構わない。
同じ暗闇に立っているのだろう。
こころを蝕む傷もどこか似ているのかもしれない。
だが、視線は逆を向いていなければならない、背中合わせだ、私と彼とはそうした関係である。振りかかる諦念に嫌気が差して、ひとときの快楽に溺れる、許し合いたいわけではない、一瞬妄想に浸って忘れたい。そこには、感情なんて必要ないだろう? 邪魔だろう?
だから、一緒にいたい、などと言ってはならない。
それが無言の約束である、我々を繋ぐ冷たく脆い鎖が解けてしまう、一緒にいたいともし思うのならば、一緒にいたいとだけは言ってはならない。
乾いた指で、手探りで、相手の体温に触れる。
夜が明けてしまえば、視線も合わせず右と左に別れる、そう、それ以外にできることなど。
私はおそらく相当動揺したように見えたろう。実際動揺した。背を向けていたので表情までは読まれなかったはずだが、露骨に身体が強張った、これではどんなに鈍い人間にも、狼狽が伝わる、無様だ。
彼の美しい隻眼には、どう映ったか。
「三日間でいいよ」
彼は私の背に、やわらかな声で言った。肩を引きつらせている私を、からかいも笑いもしなかった。
何を考えている? 何を考えている? 必死に彼の気配を探るが、特にそこには緊張もなく、そして誘惑といえるほどの甘さもなかった。一晩中絡み合ったあとの、緩い雰囲気、ああ先生、雨が降っているね、そんなことを言うくらいの素っ気なさ。
彼の声には色気が潜んでいると思う。毒だ。足元から寒気のようなものが這い上がってきて、巧く頭が働かない。
「三日間、おまえの時間をおれにちょうだい、ブラック・ジャック先生。少し北に行くと、おれのコテージがある。幸いにも来週の月曜日から、おれは三日間仕事が入っていない」
「……おれはそんなに暇じゃないぜ、キリコ先生。大体、何故三日間もお前に付き合わなければならないんだ」
「一緒にいたいからでしょ、ふたりきりで過ごそう。へえ、意外だね、先生、そんなに忙しいの? 三日間くらい空けてくれよ、じゃあ、いつならいい?」
一緒にいたいからでしょ。
ふたりきりで過ごそう。
そんなことを。おまえ、終わらせたいのか?
三日間。
混乱する頭の中で、懸命にスケジュールを確認する。従ってやる必要はない、いや、従ってはならない。切れてもいい、切られてもいい、そう嘯きながら細い糸を繋いだ。そうだ、切れてもいい、切られてもいい、その通りだが、苦くも認めてしまうならば私は彼に触れたい、次にどこかで出会ったその闇の中でも。
嵌まっているとは思いたくない、そこまでではない。
だが、片足くらいは捕らわれている、この男は罠だ。だからこそ。
従ってはならない、彼の言葉は関係の破綻を意味する。月もない夜に絡まり合って、太陽が昇ればさようなら、そうでなくてはならないのだ、それ以外を持ち込んではならないのだ、我々は。
月曜日は。火曜日は。
仕事だ。水曜日、木曜日、金曜日は。
暇じゃないと言えば、意外だねと返されるくらいには、毎日予定があるわけではない、確かに。
彼に背を向けたまま、少し躊躇してから答えた。これは彼の提案を了承したことになるのだろうか。
「……水曜日からなら」
彼は私の言葉に、ふふ、といやに艶めいた笑い声を零した。彼は毒のようであり、罠であり、強い酒みたいでもある。そばにいれば染まってしまう、一瞬の邂逅で精々だ、それ以上に一緒にいれば。
壊れる。
三日間? コテージ? ふたりきり? どうして? おまえだって把握しているはずだ、我々には刹那の快楽しかないのだと。それで充分なんだ、感情など介在してはならない、真っ暗な迷路で同じ景色を違う目で見つめている、視線を合わせてしまえば、おしまいだ。
ああだが、そうさ、否定はしない、できない、もう少し一緒にいたいよ。
彼はソファに座ったまま、私の背中に淡々と言った。好きな声だ、そう思う。私は彼を肯定しないが、彼のことは多分好きである。長い銀髪も、色素の薄い瞳も、白い肌もしなやかな筋肉も、それから、歪みない精神も。
「じゃあ、水曜日の午前十時に、このホテルの前で待ち合わせね。車は一台でいいだろう、先生は電車かタクシーで来て。それとも、家まで迎えに行こうか? そういうの、いやじゃないなら」
「……ここに来る」
「そう。楽しみにしてるよ。さあ、着替えたら行こうか、チェックアウトをしないと追い出されるぜ」
彼が立ち上がる気配がして、靴音がドアに向かった。私は慌ててスーツのジャケットを着込み、鞄を掴んだ。ぞくりとした。私と彼とは、次に会う約束などをしたことは、かつてない。
だってそうしてしまえば。
ただたまたますれ違っただけだから、ただたまたま居合わせただけだから、そんな言い訳さえきかなくなってしまう。何日、何時、楽しみにしているよ、そんなものは。
崩壊の始まりである。我々の関係が変容してしまう。終わるのならばそれでいい、そう言い聞かせ、思い込み、いまがある、だが。
彼が開けたドアから、先に部屋を出る。紳士的な男だ、嫌味なくらいだ。
だが、そうだな、おまえの言う通りだ。ふたりきり、一緒にいたい。北、か、三日間の逃避行は我々に何をもたらすのか。
コテージと言っていたが、何を持っていくべきなのか、皆目分からない。
何せ死神の生活が想像できない。我々が接するのは精々仕事場、もしくはベッド、一緒に食事を摂ったことくらいは何度かあるが、それだけである。
まあ、ものは食うのか、しかし誘った以上は食料は死神が勝手に用意するのだろう、やつが普段摂取しないようなもの、と目で探して、林檎をふたつ、三つトランクに投げた。
あとは下着と、それからなんだ。酒? 酒でも持っていくか、知る限り彼はうわばみである。
しかしまずは何を着ていけばいいんだ。
少し悩んでから、結局はいつも通りにスーツを着た。これはないなと自分でも思ったが、他に思いつかないのだから仕方がない。
家の電話を、留守番電話にしてから、外に出た。
距離のある駅まで、酒で重いトランクをぶら下げて歩き、切符を買った。国内で電車に乗る機会はあまりないので、新鮮ではある。
乗り継ぎを二回、待ち合わせ場所であるホテルの前まで辿り着くと、すでに彼の車が正面から少し外れた場所に停められていた。見慣れているのでいまさら間違えはしない、とはいえ、そのドアを開けたことはかつて一度もない。
運転席を覗き込むときには、僅かに緊張した。
午前十時、場所を決めて落ち合う、そんなことを我々はしてはならない、ならなかったはずだ。
続けたいのならば。
この危うい関係を続けたいのならば、慣れ合うべきではない、楽しみにしているよ、数日前に彼が言ったその声を思い出す。この男はどうしていきなりあんなことを言い出したのか、分かっているはずだろう、偶然の交差、それで充分であるし、それ以外であってはならない。
欲、だけだ。
好意は決して示さない、たとえどんなに強固に捕らわれていようと、いや、捕らわれているのならばなおのことだ、気紛れに、素っ気なく抱き合ってさようなら、そうでないと終わるのだ。
彼の誘惑に抗えなかった。三日間、か、我々は何がしたいのか、彼は。
見やった運転席には、確かに見慣れた死神が座っていた。何をしているわけでもない、あるいはラジオでも聞いているのかもしれないが、ドアに隔てられていて聞こえない。かつかつとウインドーを叩くと、私の姿を確認した彼は、無造作に助手席を指さした、乗れ、ということらしい。いまさら躊躇しても仕方がないので、助手席側に回ってドアを開けた。
ふわりと、彼が身にまとっている香水の匂いが、仄かに漂った。
ここは彼のテリトリーなのだと思った。さあもう逃げられない、こうなってしまえば私は彼の獲物である、物好きにも自ら足を差し出した獲物、そうではないか、獲物というのならばふたりともだ。
狩って、食って、それでおしまい、そうだ、おしまいなのだろう。
助手席に乗り込み、言われる前にトランクを後部座席に投げた。死神は私をいつも通り、その鋭い、甘い視線で眺めてから、なんでスーツなの、と笑った。
彼はラフな服装をしていて、見る限りはリラックスしていた。キーネックから覗く鎖骨が色っぽくて、つい目をそらした。駄目だ、そんなふうに笑わないでくれ、何かを勘違いしてしまうから。
私がシートベルトを引っ張るのを待ち、彼は車を出した。少なくとも一般道では、彼は意外なくらいに安全運転だった。まったく冷静だったし、ハンドルを切る動きも丁寧だった。隣に私がいるからなのか、あるいはいつもこうなのかは知らない。
高速では少し飛ばした。
と言っても不安になるほどではなかった、慎重でスマートで、憎たらしくなるような運転だった。私のほうがまだ荒くアクセルを踏むと思う。
車中、大した会話はなかった。当然だ、共通の話題も特にない。だが、盗み見る彼の横顔は、どことなく楽しそうだった。三日間、日常からの逃避行、この男にとっての毎日は、きっとつらいばかりなのだろう。
途中、サービスエリアに寄って、売店でコーヒーを買い、ふたりで飲んだ。喫煙所で煙草に火をつけながら、彼は少し悪戯な目をして私を見やった。知らない表情だなと思い、胸の奥がずきりと痛くなった。
「先生、楽しい?」
一本もらった紙巻きを噛んで、言葉を探した。楽しいよ。楽しくないよ。どう答えても嘘になる気がする。
もう少し一緒にいたい、と、あの朝彼が言った理由は分からなかった。分かる必要はないのだろうし、分かったところでいまさらどうしようもない。ただ、互いに知っていることがある、我々は失敗している、今後も気紛れに肌を合わせたいのならば、こんなふうに近寄ってはならない。
終わりにしても構わないと。
おまえは、そう思っているのか?
無言で返事を待たれたので、低く答えた。啜ったコーヒーがいやに苦く感じた、気のせいだ。
「……おまえは、楽しそうだ」
私の言葉に、彼は、はは、と軽く短く声を上げて笑った。確かにこんな彼は知らない、卑怯だ、見せつけないでくれ。
ベッドの上で快楽に吐息を零す、その音色だけ知っていれば充分である。素顔などは晒さない、何故なら私と彼とは恋人でもなく、友人でもないのだから。
なのに。
「おれは楽しいよ、先生。多分最初で最後でしょ」
「……心中旅行でもあるまいし」
「なるほどね? じゃあ心中しちまうか、幸いおれはプロだから、気持よく送ってあげられるよ」
死神の冗談は、つまらない。
コーヒーを飲み干して、再び彼の車に乗り込んだ。広がる風景はあっという間に、紅葉も眩い山々で埋め尽くされた。確かに何もかもを投げ出したくなるような、妙な高揚感に襲われた、こころが浮わつく、淡い香水の匂いと真っ赤に色づいた視界。
多分最初で最後でしょ。
理解はしているのか、この男も。そうだよ、最初で最後だよ。
高速に乗っていた時間は、二時間足らずだった。山の合間のような一般道を辿り、しばらくすると、若干古びた、それでも造形の綺麗なアーチ橋が架かっているのが見えた。
こんなふうに、私と彼とのあいだにも橋が架かっていれば、いまとは何かが違っていたか、腐った関係も秋の木の葉みたいに色づいたか?
いずれもう遅い、おそらく出会ったそのときには既に我々には溝があった、同じ空間にいるかもしれない、同じ闇を生きているかもしれない、だが、決して越えられない、深い溝が。
「この道路橋を越えれば、あとは早いから」
淡々と言う彼をちらりと横目で見やる。常から絵になる男ではあるが、紅葉に銀髪が映えて、今日の彼は息を飲むほどに美しかった。
見せつけるな。再度、そう思った。
橋を下りてから二十分ほどで、目的地に着いた。洒落た外観、木造の、想像していたよりは広そうなコテージである、二階建てだ。彼が何故このようなものを所有しているのかは知らない、憂き世に飽けば現実逃避にでも訪れるのだろうか、ひとりで、それとも、誰かを誘って。
水道とガスの栓を開け、車から荷物を運び出しながら、彼は、その私の考えを読んだかのような正確さで、言った。
「おれ、ここに自分以外の人間を連れてくるのは、はじめてだよ」
「……嘘をつくな」
「嘘じゃない。このコテージはおれの繭で、鳥かごだから、半端なひとはキープアウトだ。先生は特別」
特別、ね。
後部座席からトランクを掴み出し、彼の抱える荷物をいくつか奪って、ドアに向かった。彼は特にいやがりもせず、ああ、ありがとう、と言って片手に鍵を鳴らした。素直だ。
ドアの向こうは綺麗に片付いていた。彼は先に私を室内に通すと、不意に私の首筋に、低い、艶めいた声で囁いた。思わず両手の荷物を取り落としそうになった。
「愛の巣だね」
馬鹿なことを。やはり、死神の冗談は、つまらない。
(中略)
いつもと同じセックスのようでいて、いつもとは違う行為だった。
紅葉の中、寄り添うことに慣れてしまった、我々の関係は変容してしまうのか。
違う、塗り潰すのだ、緩い笑みも甘い声もこころに封じてしまえばいい。幾つもの夜にそうしたように切羽詰まった欲に溺れて、それがすべてだと確認し合おう、私の立ち位置はここ、おまえは溝の向こうに立っている、壁で隔てられている、束の間の快楽しかないんだ、紅葉の下で私の手を引く彼の指はただの感傷であり、いまこの瞬間に消えるもの。
そうでなければならないのだ。
愛のように抱き合えば終わってしまう、分かっているくせに。
このまま背を向けて消え去るつもりか? 許さない、だからセックスで私を落としてくれ。素顔など見せなくていい、そうして我々は細い糸を繋いだのである、一夜孤独を共有するために。
彼はあっさりと、私を仰向けにシーツへ押し倒した。
私が請わなければ背を抱いたまま眠ったのだろう、彼にとってはこれは必要な行為ではない、理解してはいるが私には必要だ、失いたくはないから、強欲だと言わば言え。
彼は丁寧に、私の身体に触れ、私を高ぶらせた。唇が、指が、長い銀髪が肌を擽り、息苦しくなった。
知っている手順だ、そして知らない手順だ。チェス盤、林檎、スケッチブック、すべてを冷たいガラスケースに閉じ込めろ、何度も繰り返した交歓とひとつも違わない、そう思い込め。
「は、あ」
乳首を吸われたときには、思わず声が漏れた。
自分で聞いていやになるような色めいた声だ、だが、これでいい、慣れた快感に沈めよ、いまできることなんて、それくらいだ。
長い銀髪に指を絡めると、彼はいたずらな声で、噛み付く合間に言った。
「飢えてた? 興奮してるね、先生。誘ってあげられなくて、悪かったよ」
「ん、……は、飢えて、る、それしか、考えられない」
「大丈夫。おれは把握している。明日になれば開放してやるから、そうしたら全部忘れて、また不毛な関係に戻ればいいさ、ねえ」
畜生。
私はおまえほどには器用ではないんだ、だから、だから。
忘れるために。
その場所に散々歯を立て、舌を這わせてから、彼は心電図でも取るときのように指先で肋間を数え、弾力を確かめる手つきで腹筋をなぞった。指を追いかける唇に身悶える、幾つか痕を残されたのが意外だった、少なくともいままで彼は、くちづけの痕跡などを私の肌に残したことはない。
そういう男なのだと思っていた、夢のように快楽を積み上げて、証拠も残さず去っていく。馬鹿め、全部忘れてと言うのならば、抱き合った証などをつけるものではない。
ほんとうに、把握しているのか?
いや、敢えて、か。
ほんの気紛れに山に隠れて、ただ悦楽に身を任せただけ、私の欲する儀式には、何もかもを攫うような色濃い記憶が不可欠である。印を刻むことがそのいち過程であるというのなら、刻んでくれ、もっと、深く強く。
「おまえは……、興奮、しているか」
しばらく彼の指に、唇に肌を委ねてから、覆いかぶさる彼を押しのけ、身を起こして彼の性器に手を伸ばした。ひとりだけ酔うのもおかしいし、そもそも使えないのでは話にならない。
彼はそれなりには反応していた、私の傷痕だらけの皮膚を舐めるだけでこうなるというのなら、大したものだ。口を使おうかと身を屈めると、手でいいよ、先生、と緩く言われた。
「おまえに触れれば、おれは勃つよ。可愛らしくて、とても色っぽい、欲情する」
「……誘わなかった、くせに」
「もったいないかと思ってさ。一緒にいられれば満ち足りたから。でも、悪かった、そんなのはおれの身勝手だな、おまえには区切りがいる、不器用だから。気持よくさせてあげるから忘れていいよ。ありがとう、手、もう離していい」
擦り上げるたびに、てのひらで熱くなる彼の、硬い感触に既に犯されているような気になった。
もう少しこうしていたいと思ったが、離していいと言われてしまえば仕方がない。指示通りにするとその腕を掴まれ、これもまたあっさり、シーツの上へうつぶせにされた。慣れているのだ。ためらいは殺して、膝を立て、腰を掲げた、そうだよ、飢えているんだ、おまえをよこせ、そしてふたりで溺れよう、快楽に。
だってそれだけでしょう、私たちのあいだにあるものなんてそれだけでしょう、それだけでなくてはならないでしょう、そうあるべきでしょう。
手放せないと思うのならば。
好意、恋、愛? 知らないね、数日間の逃避行、与えられたものはすべて閉じ込めて、セックスに耽るんだ、我々に許されているのはそんな夜だけだ。
(サンプル終わり)