あなたは鈍いね


 紫原敦と、寝たことがある。
 数か月前に、一度だけ、そう、一度だけだ。後にも先にもそのとき以外にはない。ただの気紛れだったのだろう、少なくとも、彼にとっては。
 どちらが誘ったというのでもなかった。ふたりきりの部屋で、なんとなくそういう空気になったから、手を伸ばして抱き合った。そんなものである。
 快楽はかつて知らないほどに強かったが、感情は介在していなかったし、多分飢えさえもなかった。単純に、文字通り、そういう空気になったから、だ。
 少なくとも、彼にとっては。
 試すように触れた指先で、互いに、こうした行為に慣れていることはすぐに分かった。だからためらいも湧かなかった。遠慮もしなかった。一番好きな体位を取って、一番好きな場所を告げた。紫原は珍しく、楽しそうな目の色を見せて、身体を使った。
 いや、セックスをするときには、彼はいつもそんな顔をするのだろうか? 知らない。
 そうだ、自分は、紫原の素顔などは知らない。知ったつもりになっていた、馬鹿馬鹿しい、オレはお前を知らないよ、アツシ。
 好き、好きだよと囁き合った。まあいつもの挨拶のようなものである。深い意味などはない、少なくとも、彼にとっては。
 少なくとも、彼にとっては。
 では、自分にとっては? そうだな、それは意味のある言葉だ。敢えて感情を殺して大きな身体にしがみついた、あの夜は、気紛れなどではない。
 隠した。
 あたたかい肌に頬を寄せて、うっとり微笑むその表情の裏に隠した。こんなもの、隠さなければ彼は逃げる。紫原は、面倒が嫌いなのである、他人の鬱陶しい感情が嫌い、暑苦しい想いが嫌い。
 だから氷室はただ笑った。精液を飲み込んだ唇で、いやらしく笑った。ああ、お前は、酷く純粋な味がするね。
 紫原敦は、天才である。
 混じり気のない天才だ。才能ある人間ならば幾人かは見てきたが、彼ほどの素質を持ったものには出会ったことがなかった。そう、酷く純粋に、天才なのだ。
 体躯に見蕩れる。力に、スピードに見蕩れる。もしかしたら、少しでも、そんな願いは一瞬で潰す。だからこそ氷室は紫原の隣にありたいと思うようになったのだろう。必死に藻掻いても、何をしても生まれ変わっても、届かない、隙を見せられるよりははるかに居心地がいい。お前のそばにいたいよ、アツシ。
 強い男は好きである。ならば、紫原がいい。
 そうだな、ぬるい男なんて、オレは嫌いだ。お前くらい冷淡なやつがいいさ。
 くちづけひとつなく、声を殺して互いに貪りあった夜、彼は最後に、室ちん、好きだよ、とだけ残してあっさり部屋を出て行った。オレも好きだよ、と返してにこりと笑った、あのとき以来、彼に求められたことはない、僅かな素振りもない。
 こちらから誘惑してもよかったのかもしれない、だが、できなかった。
 隠しきれる自信がなかった、ばれたら終わりだ、当然だ。第一、あんなに慣れた男、そう簡単に乗ってくるとも思えない。
 恋情、というのだろう、これを。
 知っているような知らないような、甘くてどこかが痛くなるような感情、はじめて彼に出会ったときに、それを抱くだろうとは予想していたが、こんなにあっさり? ここまで自分が単純ないきものだとは思わなかった。
 自分ひとりが抱えた熱に押し潰されそうだ。
 一度きりでも、彼にとっては気紛れでも、その肌に触れられて嬉しいと思う、そして、苦しいと思う。拒めなかった、それどころか欲した、馬鹿だ、オレは愚かに過ぎる。
 束の間手に入れてしまえば、押し殺すためには二倍も三倍も力を使うのに。





 南校舎の屋上で昼飯を食べよう。
 あっさりした本文のメールが届いた、それを見てふと目をやった窓の外は快晴だった。チャイムが鳴る数分前、授業中にメールを打つなと説教すべきか。
 屋上、ね。
 午前中の授業が終わると同時に、氷室は財布を掴んで席を立った。食堂へ誘う声を幾つか笑顔で断って、購買に行き、適当にパンを買って南校舎へ行った。
 昼休み、美術室、音楽室、家庭科室、それらがぽつぽつ並ぶだけの閑散とした校舎の階段を、ひとり上って屋上のドアの前に立つ。視線で探した階段の手すりに、南京錠がやる気なくぶら下がっていた。あの男は不器用なのだと思っていたが、このくらいならば外せるのか。
 重いドアを開けると、微かな風と、眩い陽射しを感じた。
 氷室を屋上に呼びつけた男は、大きなビニール袋を尻に敷き、ペントハウスにだらりと凭れて座り込んで、菓子を食っていた。相変わらずだ。
 校庭ではしゃぐ生徒の声は遠く、耳を澄ませなければ聞こえない。
 不意にこころに小さなピンが刺さる、ふたりきりだ、ふたりきりだな。
「室ちん、遅い」
 紫原は、特に不服でもないような声で不服を示して、自分が敷いていたビニール袋を引っ張り、左手で叩いた。その距離で隣に座れと? こいつはときどき確信犯なのではないかと思う瞬間がある。ねえ室ちん、どこまでその劣情を隠すつもりなの、隠せると思うの? そんな感じ。
 ためらったら敗けだと思ったので、彼の手に従って、肩の触れる位置に座った。彼のやわらかな香りが届く、いい匂いだと思う、菓子か。
 ペントハウスが作る僅かな影に隠れて、青空を見上げた。
 雲ひとつない。遠い、手を伸ばしても何ひとつ掴めない。お前ならば、その大きなてのひらに何かを握りしめられるのだろうか、この陽光の下。
「どうした、アツシ。食堂では言えないような相談でもあるのかい? 悩みごとか?」
 視線を前に向けたまま、なるべく優しく、なるべく穏やかに言った。この、面倒事が大嫌いな男が、南京錠をわざわざ開けたのだから理由くらいはあるのだろう。
 紫原は、ぱりぱりと菓子を噛みながら、短いあいだ黙っていたが、それから、これといって感情も窺えない口調で答えた。甘い、緩い声、好きだと思う。あとはそう、一度だけ寝た夜に聞いた、少し低い声も。
「相談はない。内緒話。オレいま、恋してるの。室ちんには言っとこうと思って」
「……そうか。うまくいくといいな」
 ざくりと胸に刃物を突き立てられるような。
 おい、咄嗟に笑って返したオレを、誰か褒めろ。
 紫原はすぐ隣で、飽きずぱりぱりと菓子を食べている。喉の奥で詰まってしまった息をそっと吐き出して、氷室は再度空を見た。
 視界を覆う薄暗い影を追い払うべく、何度も瞬く。惚れた男の恋の話を聞いたくらいでいちいち倒れてたまるか。ましてや自分は氷室辰也である、そんなに純情な人間ではないのだ。
 そうだ、そういうこともあるだろう、この大きな男だって、天才だって恋もする。当然のことである、まあ、一度は抱き合った男にそれを言ってしまうのは残酷だとは思うが。
 いや、あれは、気紛れなんだよ。
 彼の中では遠い過去、あるいは忘れ去った過去だ。曰く内緒話を聞かせてくれるだけこいつは自分に懐いている、それで結構じゃないか。
 ぬるい男は嫌いだ、冷淡なくらいがいい、そう思っている。嘘ではない。
 そしてこの男は、まったくぬるくない、冷淡だ、それがいい。
「どんなやつなんだい」
 空に視線を投げたまま、可能な限り冷静な声で言った。
 紫原の視線が、自分の横顔に向いたのが分かった、ちょっと待ってくれ、振り向けるような表情を探すから。
 氷室の問いに答える紫原の口調は、やはりいつも通り、腹立たしいほどにフラットだった。そういえばこの男が慌てたり、声を上げて笑ったりする姿は、殆ど見たことがない、とふと思った。そういうところが、そうだな、好きだよ。
「……背が高い。あとは、秘密。室ちんには、秘密」
「オレには、ってなんだよ。言っておこうと思ったのに、秘密なのか? 変なやつだな」 
「だから。相談じゃないし、悩んでもいないし。内緒話ならこれが限度でしょ」
 女か、男か、訊いてしまえば、答えがどちらであれ狼狽えると思ったので、訊かなかった。聞かされなくとも充分に動揺している、これ以上こころを引っ掻き回されてたまるか、許容限界を超えるぞ。
 惚れている男の恋愛話に、長々と付き合う趣味などない。
 さっさとパンを食べて、さっさと退散しようとビニール袋を探っていると、その腕を紫原に、不意に掴まれた。
 びくりと身体が震えたのが自分でも分かった。この男は比較的自分との接触を好むので、そのくらいは慣れたものである。慣れたものではあるが、いまはきつい。
 笑みも作れぬまま、思わず振り向くと、その氷室に紫原は酷く淡々とした声で言った。
「ねえ、室ちん。セックスしない」
 困惑した。
 いいよ。オーケイ。ああ、しようか。普段であれば精々性的な微笑みを浮かべて答えるが、この状況でそれはない。なんだその提案は。恋してるの、そう告げた唇で、お前は何を言っている?
 恋情をこじらせて、欲求不満なのか。冗談はよせ、それはオレだよ、アツシ。
 無理矢理にでも笑みを作ろうとして、やめた。こんなときにまで優しくしてやる必要はあるまい、腕を掴む手は振り払わずに、氷室はじろりと紫原を睨みつけた。
「恋をしているんじゃないのか? それは不誠実というものだよ、アツシ」
「室ちんなら、いい」
「……失礼だ。オレは道具じゃないよ。ノーカウントにはならない、セックスしたいのならば、好きなやつとすればいいだろう」
 真っ直ぐに見つめてくる綺麗な色の瞳には、欲どころか僅かな感情さえも映っていなかった。何を考えているのかまったく分からない。常から無表情な男ではあれ、ここまで消していることはあまりない。
 紫原は氷室のセリフに、淡く溜息を吐いた。こころが透けるとして、その程度だ、理解不能だ。
 たった一度のことであっても、過去に抱き合った相手に知らない恋を語って、直後に再度誘ってくる。冷淡だとか残酷だとかを通り越して、こいつは、馬鹿だ。
 オレをなんだと思っているんだ?
 彼は、ペントハウスに凭れて座り込んでいた身体を、怠そうに起こしながら、少し低く言葉を返してきた。クソ、やめろ、それはベッドでだけ聞かせるものだろう、その声は。
「失礼はそっちだし。ノーカウントとは言ってない」
「……アツシ。やめろ、オレは不愉快だ」
 大きな男に正面から、押さえ込まれて混乱した。壁に擦れる背が痛い。身じろごうにもこの馬鹿力相手ではどうにもならないというものである。紫色の綺麗な髪、美しい男、背景の青空が場違いで薄っすらと目眩がする。
 仕方がない、殴るか。
 きつく右手の拳を握りしめて、息を吸い込んだ。そのタイミングで、のしかかってきた紫原に唇に噛みつかれ、振り上げようとしていた腕が強張った。
 おい、何をしている?
 思い返すまでもなく、氷室は紫原とくちづけを交わしたことがなかった。確かにセックスはした、だが、あの夜でさえキスはなかった。
 すぐに、少しのためらいもなく舌を挿し入れられて、腕は力なく落ちた。思わず見開いた目の奥を探るような視線に刺し貫かれて、瞼を閉じることさえできなかった。
 頭ががんがん痛くなる。身体中の血が沸き立って、思考が飛ぶ。
 待て! いま、オレは紫原敦と、くちづけをしているのか。くちづけを?
 悪い夢だろ、言い訳が効かなくなる、オレも、お前も。弄る舌、ぬるい唾液、挨拶のそれではないとはっきり示す眼差し。こんな行為は。
 禁忌だ。
 殴るという選択肢を忘れた。紫原の胸に両手をついて押し返そうとするが、まったく意味はなかった。多分大して力も入っていなかったろう。
「アツシ……ッ、駄目だ……」
 無遠慮に口腔を舌で舐め回されたあと、様子を窺うように、唇のあいだに僅かな距離を作られた。乱れる吐息も隠せぬまま、その隙間に切れ切れに言った。ああそうだな、お前は慣れているよ、知っている。自分も、少なくとも同じ程度には、いや、おそらく彼よりもずっと慣れているはずなのに、何故か巧く逃げられないし、返せもしない。
 好きな男とキスをするというのは、こういうものだったか?
 よく分からない、忘れてしまった、遊びで誰かとシーツに埋もれた回数のほうがはるかに多い。
「なんで駄目なの。キス嫌いなの。オレは室ちんと、したいよ」
「好きなやつと……すれば、いい。身代わり、なんて、冗談じゃない」
「……室ちんて、ばかなの?」
 微かな溜息を聞かせてから、紫原は再度氷室の唇を貪った。貪った、という表現が正確だ、乱暴ではなかったが、抗えない程度には強引だった。
 唇を合わせたまま、シャツの上から肌を強く撫で回された。
 相手はこの男である、いやでも目覚める。流し込まれる唾液を意味も分からぬまま飲み込んで、小さな喘ぎを零すと、それを了解と取ったのか彼は上からひとつずつボタンを外しはじめた。意外にも丁寧な仕事だ。
 いや、待て、ここでセックスをするという意味なのか? 校舎の屋上で? こいつは猿か?
「アツシ、無理だ、こんな場所では……誰か、来たら」
 ようやく開放された唇で、細く言った。ボタンをすべて弾かれて、あっさりはだけられたシャツの下に這う彼の手に、重ねたてのひらは文字通り添えただけだった、押さえようとする意図も伝わらなかったろう。
 紫原は、座り込んだ氷室の両脚のあいだに割りこませた片膝を、ぐいと股間に押し付けてきた。声は殺した。だから、待て、オレはこの程度の接触で、興奮するくらいには慣れている。
 綺麗に晴れた真昼の空、熱を持ちはじめる身体、自分を暴こうとしているのは惚れた男だ、そしてそいつはこう言った、恋をしているのだと。
 あの夜、一度だけ肌を合わせた夜、どこか楽しそうな目を見せた彼はいま、酷く冷静な顔をしている。
「誰も来ないよ、こんなところ。大体いつも鍵かかってんだし。助けなんか来ない、諦めて」
「向こうの、校舎から、見えたら」
「見えない。ここが一番高いんだし」
 感じて、酔って、そういう手つきで肌を擦り上げられて、氷室はたまらずに目を閉じた。この男は巧みだと思う、どこをどう触れば相手が落ちるか、よく知っている。
 恋してるの。
 セックスしない。
 室ちんなら、いい。
 畜生、お前は残酷だよ。自覚もないのだろ。そしてオレはこの屈辱でしかない快楽の予感から、逃げ出すこともできやしない。ああ、不毛だよな、一方通行の矢印は的外れで、どこにも行き場がない、それでも体温を知りたいか。





 口でして、と言われて従った。
 大きな男の身体と、ペントハウスの壁に挟まれて、どうにもならない、藻掻こうにも藻掻けない。呼び起こされた欲を持て余す肌は火照り、一度は握りしめた拳も上がりやしない。
 丁寧に舌を這わせてから、口に入れ、唇で扱いた。
 薄っすらと瞼を上げると、眩しいまでの青空が目に映って、死にたくなった。
 違うだろ、お前、こんなところで薄汚れた男の身体を使って発散していないで、恋しているのだか愛しているのだかの相手に好意を告げにいけよ。オレはお前に似つかわしくないよ、抱き合うほどの価値はないよ。
 だが、人形のふりをするほど落ちてもいないよ。
 そんな雰囲気になったから手を伸ばした、それはそれでいい。割り切ったセックスには慣れているし、あの夜は自分からも確かに手を伸ばした。
 それでも、脳裏に違う誰かの姿を描く彼に抱かれるのはごめんである。冗談ではない、氷室辰也はそんなにお安くはないのだ。分け与えることに躊躇はない、ただし相手の求めるものが自分である場合に限る。遊びであれ、本気であれ。
 ああ、そうだな、そんなことを言ったところでオレは。
 数か月の空白のあいだ、誰を摘んでも満たされることはなかったオレは、オレの身体は、お前を欲しがっている、紫原敦。嘘はつけない。
 ひとり抱えた恋情を、どう処理すればいいのか分からないんだよ。
「もっと深くして、室ちん。あのときみたいに」
 頭上に淡々と言われて、指示通り太い性器を喉まで咥え込んだ。紫原は充分に勃起していて、その感触は氷室を満足させはした。熱くて、硬い、いまこの男は自分の唇で興奮している。次の瞬間に噛み切られないとも限らないのに、平然と明け渡している。
 あのときみたいに? なるほど、どんな夜であったかくらいは覚えてはいるのか。
 軽い吐き気を堪え、音を立てて吸った。口に入り切らない部分を右手で掴み、動きを合わせて擦った。ほら、いっちまえよ、アツシ、そして満足して、去れ。
 オレを追い詰めないでくれ。
 紫原はしばらく、己に食いつく氷室の姿を黙って見下ろしてから、氷室がその行為に苦痛を覚える前に、唇から性器を抜いた。え? 顎が痛くなるまで犯してくれて結構だが?
「ゴム、つけて」
 目の前に、コンドームを差し出されて、ついぽかんとした。
 紫原は数秒待ってから、そのコンドームを口元に運び、歯でパッケージを破いて、再度氷室の目の前に翳した。いや、包装を開けてくれと言っているわけではないぞ。
 そう、あの夜は。
 ずいぶんとしつこく口を使われたものだから、こいつはそういうセックスをする男なのだと思っていた。
「つけてよ、室ちん。洗ってないところに、なまで突っ込まれるの、趣味? それとも洗ったの?」
「……馬鹿言え。昼飯を食べようと誘われただけなのに、どうして洗うんだ」
「じゃあ、早く。我慢できなくなったオレに襲われちゃうよ。ほんとう、このひと、ガードが緩いんだかきついんだか、分かんない」
 この男に限って言えば、我慢が効かなくなって誰かを襲うなどということは、ないだろう。
 と、頭の隅で思いながら、受け取ったコンドームを彼の性器につけた。こんなことは自分でやればいいのにと言いかけて、まあこういうことをさせたいやつなのかもしれないなとセリフを飲み込む。
 恋をしている誰かにも。
 いずれこうして飄々と言うのだろうか。ゴム、つけて。あるいはもう言った? だからオレにも言うのか?
 頭痛はますます酷くなり、こめかみが血流に合わせて脈打って感じられるほどだった。嫉妬ではない。こんな天才、もとより手に入るとは思っていない、だから嫉妬ではない、もっと単純な、苦痛。
 まるごともぎ取ってしまいたいものが、端から削り取られていくような、それを黙って見ていることしかできないような。分かっている、分かっているよ、いくら惚れたと言ったところでオレのものにはならないさ、それでも一瞬、それでも一夜。
 オレはこいつと、強いてこの表現を使うのならば、愛し合ったのだ、幻想のように。
 紫原は、氷室の手が離れるのを待って膝をつき、氷室の制服を下着ごと剥ぎ取って、それをその場に放った。おい、汚れる。
 それから、このまま押し倒されるのか、後ろからされるのかと身構えていた氷室に、実に平坦な調子で言った。
「室ちん。上、乗って」
 思わず溜息が漏れた。この男はまったく強気である。
 氷室の腕を掴み、位置を交換してその場に座る紫原の上に、跨った。このままこのサイズのものを、突っ込まれたらさすがに破けるなと思い、せめてと自分の指を咥えて唾液をまぶしていると、紫原はその氷室を淡白な目つきで見つめながら、もう一枚コンドームのパッケージを切り、右手の人差指と中指にかぶせた。
 こういうことばかり器用なのだから、参ってしまう。
 この男がもっとがつがつしていて、欲情を露わにするようなやつであれば、少しは救われたのかもしれない。たとえ無理やり突き立てられて壊れても、だ。
「は……ッ、アツシ、丁寧、に」
「丁寧に、してるけど? 大丈夫、室ちん、指二本くらい余裕だし」
「クソ……、ここ、どこだと思っているんだ、変態……! 力が抜けないんだよ」
 ぬるりとした感触に震える間も与えず、紫原はじりじりと指を氷室の中に挿し入れた。太い、長い指に押し広げられて、咄嗟に目の前の逞しい身体に縋りついた。ああ、やっぱりいい香りだ、お前は優しい匂いがするんだな、アツシ。
 強引に快楽を引き出す動きではなかった。
 単純に、開く、広げる、そういう手つきだ。だからこそかえって切羽詰まった。自分の身体を緩めながら、いまこいつは何を考えているのだろう、共有したいというよりも、ただ、入れたい、入らせろ、と彼はその指で言っている。欲の欠片もありやしませんという表情をして。
 恋してるの。
 ああそうかよ、ならばオレは何だ、この行為は何だ? 練習? 実験? 発散? 遊び? 遊びにしたってもう少し、スマートに振る舞えるはずではないのか、お前は慣れているのだから。
 いや、違うか、彼が慣れているのはセックスにであって、恋愛にではないのかもしれない、あるいは。そうだな、だとしたらオレもだ、こんなときに立ち去れないオレもだ、想いを告げられないオレもだ。
 もし自分が彼に少しも惹かれていないのだとしたら、その肉体にしか興味がないのだとしたら、この程度のことで傷つきやしない、いいね、じゃあ楽しもうかと笑って頷いたろう。
 この男には伝わらないのだ。
 僅かたりとも届かない、承知している、大体が立つ場所さえ違うのである。そういえば一度だけ寝たことのある男がいたっけ、都合がいい、呼び出して少しばかり使ってしまおう、彼にとっては精々そんなものだ。この恋情には行くあてがない、投げても投げても的にはぶつからない、我々のあいだには絶対的な、壁、がある。
 綺麗な色の、長い髪。
 ペントハウスの壁に視界は塞がれて、青空は目に映らない。
「うん。こんなところで、あんあん喚かないのは偉いと思うよ、室ちん。でも、ちょっとくらい声聞きたいかな、オレの名前をいっぱい呼んで、なんかねえ、室ちんとセックスしてるんだって思えるし」
 腹が立つほどきっちりその場所を解してしまうと、紫原はいやに無造作に右手の指を抜いた。それから、コンドームを適当に放り、氷室が身体の強張りを逃す前に、両手で氷室の腰を掴んで己の身体に引き寄せた。
 尻に性器を擦り付けられて、くらくらと目眩がした。頭痛はいまや鼓膜を内側から破りそう、酷い耳鳴りがして紫原の言葉を半分も理解できない。
 名前をいっぱい呼んで?
 こいつは本物の馬鹿か? お前、オレとのセックスに浸りたいわけではないのだろう、練習、実験、発散、遊び、この接触はそれだけの。
「入れて。自分で入れてみて。オレのを掴んで、室ちんの中に入れて。無茶されたくなかったら、自分でして、動いて」
「あ、は……ッ、アツシ……ッ、あと、で、殴る……ッ」
「ああ、じょうずだね。え? 殴る? まあ別にいいけど、正直、殴りたいのはこっちのほうだよ。一度したきり、知らんぷりされて、さすがにオレでも軽くきれるし」
 一度したきり、知らんぷり?
 お前が言うか、お前が!
 野郎の上に跨る姿勢は嫌いではないが、少しきつい。この男が相手であるのならばなおさらだ、自分が所有する器官の大きさがどれほどのものなのかくらいは把握してほしい。
 といって、この状態で逃げ出すわけにもいかない、そのほうがなおさらきついというものだ。
 意識して深く息を吐きながら、ゆっくりと腰を下ろした。咥え込む性器の太さに、混乱と微かな恐怖と、明確な快感を覚えた。
 一度だけ、彼と寝たことがある。
 あのときに知った興奮は、都合のいい記憶の改竄ではなく、現実なのだと思い知らされる。
 紫原敦が、好きだ。
 好きでなければ、こんなふうには。
「室ちんて、躊躇なく根本まで食らうよね。オレ、普通あんまりここまで使わないんだけど、なんか痛そうだから。平気なの? 気持ちいいの?」
 深くまで飲み込んだ位置で、彼の肩に手を回し、身体に異物感が馴染むまでしばらく待った。紫原はさらりとした手の動きで、その氷室の性器にコンドームをつけた、制服に散らされてはたまらないと思ったのか、気の利くことで。
 滲む視界で、目の前にある美しい男の顔を見た。
 相変わらず表情はない。綺麗な色の瞳には、ああでも、ようやく僅かな熱が灯ったか、お前もオレで少しは感じるのか?
 気持ちいいよ、と掠れた声で返してから、慎重に腰を動かした。内側を擦り上げる圧倒的な質量に目が回って、手を置いた彼の肩に堪らず指先を立てた。
 こんな行為には慣れている。慣れているのに巧く衝撃を散らせない。そうだな、好きでなければ。
 笑ってみせることもできたろう、アツシ、オレの中はどう? 奪っているのは自分であると、そういう顔をして囁けたろう、可愛いね、アツシ、好きだよ、アツシ、いまは、いまだけは、お前はオレのものだ。
 恋してるの、か。
 無情というものだよ、それは。この身体が欲しいというのならば彼はそのセリフを言うべきではなかったし、言うのならば自分に手を伸ばすべきではない。そのくらいのことも分からないとは、こいつは力の限り馬鹿だ、そして結局はこうして退けられずに従っている自分も、等しく馬鹿である。
 皮膚が裂けそうなくらいに鮮やかな快楽と、こころが音を立てて壊れる苦痛。もうよく分からない、こんなセックスは知らないんだ、これほど切実なセックスは知らないんだ、駄目だ、いつものように余裕で表情を作って、甘く喘いでやらなくては。
 失う。
 この恋情に気づかれれば、おしまいだ、彼は面倒が嫌いなのだ。鬱陶しい想いなどを突きつければ遠くへ去る。
「室ちん。オレを煽ってるの? いっぱいいっぱいな顔してるけど、このくらいじゃ足りないはずだよねえ、氷室辰也なんだから。あのときみたいに、いやらしくしていいんだよ、もっと、もっと、オレを欲しがって、ほら」
「あ、あッ、や……めろ、手を、離せ……ッ、お前、自分が、どれだけでかいのか、分からないのか……ッ」
「いや? 分かってるし。でも、室ちんは、オレの知る限り、貪欲だから」
 緩く動かしていた腰を掴まれ、有無を言わさぬ力で身体を揺すられた。ずるずると出入りする性器に奥まで荒く開かれて、悲鳴を殺すので精一杯だった。加減できるくらいには慣れているはずなのに、こいつは自分に対しては遠慮をしないつもりらしい。
 一度だけ絡み合った夜に、そのように振る舞ったのは確かに自分ではあるが。
 だってお前、あのときには言わなかった、誰かに恋をしているだなんてことは。だから。
 彼の手で強引に身体を上下させられて、抑えても抑え切れない声が淡く漏れた。ぎちぎちと彼を飲み込む感覚は快感そのものであるのに、それが思考とリンクしなかった。
 普段であれば、思考などは意図的に飛ばせる、それが自分といういきものである。セックスにそんなものは必要ない。相手が紫原でないのならば。惚れた男でないのならば。そいつが平気で、残酷な言葉を吐かなければ。
 不自然な姿勢で体重を支える脚が、いい加減、痛くなってきたころに、計算も何も働かずにしがみついていた紫原の耳元で、言った。優位に立てるはずの体位だが、まったく支配できなかった、彼の手で好きなように操られ、酷くなるばかりの頭痛で目の前がちかちかした。
「アツ、シ……ッ、もう、いく。無理……、お前、も」
「うん。いいよ、いって。オレもいける。ねえ、一生懸命な室ちんも、可愛いね」
 完全に縋っていたので顔は見えなかったが、紫原は、少し笑ったようだった。何故笑う? 必死になるオレの姿はそうも無様か。
 これで最後、というように、何度か強く中を擦り上げてから、彼は氷室の腰を限界まで己の身体に引きつけた。意思のない人形にそうするように簡単に揺さぶられて、何がなんだか分からなくなる。これはセックスだよな、そうだ、オレのよく知る行為だ、そして知らない行為だ。
 より深くまで貫かれて、我慢もできずにあっさり達した。
 まあ、コンドームを使った彼を褒めてやろう、これでは手で受け止める余裕もない。
 絶頂に溺れる身体が、勝手にぎりぎり彼の性器を締めつける。それが気持ちよかったのか、紫原は微かに、色気のある吐息を零してから、氷室に根本まで突き刺したまま射精した。
 直接注ぎ込まれているわけでもないのに、まるで内側で彼の精液を受け止めているような錯覚に陥って、無意識に喘いだ。咥え込む彼がどくどくと脈打っているのが分かる、畜生、オレがどれほどお前を好きであるかなど、お前は少しも知らないのだ。この儚い切ない愉悦が、オレには気が遠くなるほど身に迫るものであることなど。
 恋してるの。そんなセリフを、平気で吐けるのだから。
 ああ、惨めじゃないか? オレと交わすセックスが、その誰かに対する裏切りにはならないのだというのなら、それは単に彼にとってはこんな行為は、取るに足らないものであるということだ、遊びにもならない遊び。
「好き、室ちん」
 気づいたら汗だくだった。
 その氷室の身体をきゅっと抱きしめ、繋がったまま彼は、酷くやわらかくそう言った。
 目の前にはペントハウスの壁、視界に入る綺麗な色の髪、そういえばここは校舎の屋上だった。昼休みに呼ばれて訪れた太陽の下、確かに自分は常から色汚いが、普段はこんな場所で盛るほどには非常識ではない。なんだというんだ。
 好き。
 耳元に吹きこまれた、少し低い声に、ぞくりとする。
 強張る腕で彼を抱き返しながら、答えた。好き、か、こいつの言うその好きにはどんな意味が含まれるのか、身体が好き、便利でいい、たまにてのひらで転がすには都合がいい、そんなところだろう。
「……オレも好きだよ、アツシ」
 恋情は押し隠した言葉に、自分でうんざりした。
 密かに血を吐くようにこんなセリフを口にしてまで、自分はこの男のそばにいたいか、どれほど傷ついても失いたくないか、愚かだ、まったく愚か極まりないというものである。





 買ってきたパンを食う気も失せたが、食べろと言われたので素直に食べた。味がない。
 氷室に昼食の摂取を指示した当の本人は、しかし黙々と菓子を食っているだけである。他人に飯を食えと言う権利もないだろうに。
 屋上のコンクリートに投げ出されていた制服は、叩けば落ちる程度の汚れしかついていなかったので、それは助かった。使用したコンドームは、紫原が回収して、菓子の袋に放り込んだ。見つかったら彼が犯人であるとすぐにばれると思ったが、知ったことではない。
 ペントハウスに凭れて、パンを齧りながら見上げた空は、綺麗に晴れていた。
 眩しい。もう少し照度を落としてくれないと、快楽を貪ったあとの目には厳しい。
 隣に座り込み、無言で菓子を口に運んでいる紫原に、どうでもいいことのように訊ねた。まさにどうでもいいことだ。食べ終わったパンの袋を片付けて、校庭で騒いでいる生徒の微かな声をはるか遠くに聞く、隔てられていると思う、その声からも、この男からも。
「溜まってたのか、アツシ?」
「別に」
 紫原は、じろりと隣の氷室を睨むように見て、短く答えた。別に? では何故いまこれなんだよ。
 笑顔を作る準備に数秒かかった。
 まあこれでいいだろう、と思える表情を決めてから、氷室は隣の紫原を振り向いて、にこりと笑ってみせた。ゴミを入れた白いビニール袋を、指先に引っかけてくるくる回す、そうだ、いつでも余裕であれ、こいつのそばにいたいのならば。
「お前が、セックスしようと言うなんて思わなかった。早く好きなひとに告白して、そいつとやればいいよ。オレではなくて」
 その氷室の言葉に、紫原はそこで珍しく、はっきりと不快感を表情で示した。不快感、いや、そうではないのか、焦燥感、苛立ち、そんなもの。
 胃が痛くなるような視線の交差を、敢えて自分からは解かなかった。
 まだ消え去らない頭痛に、薄っすら吐き気がする。違和感の残る身体は怠いのに、恍惚の余韻で熱い、内側が熟して刺激を欲している、もっと、この男を食らいたいと。
 だが、駄目だ。これ以上の苦痛はいらない。
 紫原はしばらく、じっと氷室を見つめてから、ふと視線を外して前を向き、青空に視線を投げた。深々とした溜息が聞こえて思わず目を瞬かせる。美しい横顔には、もう表情はない。
「……ここまで鈍いひと、はじめて見たし」
 鈍い? 鈍いだと?
 むっとして、片手を伸ばし、彼の長い髪を引っぱった。さらりと指先を擽られる、胸が痛くなる、オレはこの男のすべてが好きなのだろう、つま先から髪の一本まで。
 決して手の届かない場所に立っている天才がいました。
 彼はあらゆる点において恵まれていました。純粋な天才でした。だからただ見蕩れることしかできませんでした。恋情は罪でしかありませんでした。
 何故ならこの手には、それ、がないから。
「オレは鈍くないぞ、アツシ。気持ちよかったよ。お前は気持ちよくなかったのか? ひとのことを不感症のように言うのはやめろ」
「……もう黙ればいいし。ほら、食べたんだったら、行こ。午後はじまるよ、さぼるの嫌いなんじゃないの」
「撤回しろ、オレは鈍くない。心外だ。お前とするのは好きだよ、ただ、お前が誰かに恋をしているのなら、もうしたくないと言っているだけだ。気持ちいいよ」
 言葉を続ける氷室に構わず、紫原はさっさと腰を上げて、もうひとつ、今度は軽い吐息を漏らした。それから、氷室の腕を掴んで身体を引っぱり上げ、尻に敷いていた大きいビニール袋を拾った。
 腕を離され、その手で雑に手首を握られた。
 階段のドアへと引きずられて、少々困惑した。何故怒る。
「室ちんは、誰より鈍くて、誰よりばかだよ。知ってた」
 氷室の手を引きながら、背を向けたまま淡々と付け加えられた紫原の言葉の意味が理解できない。馬鹿だというのならば、お前のほうだろう、恋をしているのだと言いながら違う男をセックスに誘う、お前のほうだ。
 逆らえないオレが馬鹿なのだと、そう言いたいのか?
 ドアの前で手首を開放された。紫原は、重いドアを片手で開けると、先に氷室を通して、あとから長身を屈めてドアをくぐった。そうして自然に気遣う素振りをしてしまえるところが嫌味である。
 また、ずきずきとこころが痛くなった。
 こいつは誰にでもこうする、抱き合ったあとにはドアを開けてみせる、オレが相手でなくてもだ、むしろオレ以外のやつに対するときのほうがきっと丁寧だ。
 慣れているのだ、分かっているさ、だからあの夜触れられたのだ。さてではこの慣れた男が、恋をする対象は一体どんな人間なのだろう。オレよりも綺麗か? 当たり前だ、綺麗だ、だってオレはこんなにも汚い、醜い、見苦しい。
 一方的な恋情に藻掻いている。
 その資格もないくせにね。
 鍵を閉めていくから、先に戻って、という紫原の言葉に従って、階段を踏んだ。屋上に呼ばれて、彼の隣りに座って、恋の話をされて、パンを食べて教室に戻る、それだけだ、あとは忘れよう。
 現実を見つめてしまえば壊れてしまう。
 欲しいものはいつでも掴み取れないこの手で、無意味にしがみついた彼の肩の感触など、丸めて潰して、ゴミ箱に投げてやる。
 階段を下りながら、それでも溜息が漏れた。神経を直接掴まれるような酷い頭痛は治まる気配もなく、肌はまだしつこくざわめいている。
 きっといつか殺されるだろう、と思った。
 自分ひとりが抱えたこの感情に、熱に、きっといつか殺される。向かい合わない矢印は、いずれお前さえ傷つける。不本意だ。凡人は天才に触れてはならない、これは絶対だ。
 だから、それを避けるために。
 隠して、封じて、知らぬふり。お願いだから気紛れに手を伸ばさないで、コントロールの甘い爆弾を手にしているのだ、他人からの好意に鈍いお前は、気づかないのだろうけれど。

(了)2014.07.07