キャンディ


 彼の美しい微笑みが、嫌いだ。
 何もかもを押し隠して押し潰す仮面だ、嫌いだ。
 氷室は誰にも愛される男である。美しい容姿、人柄は温厚で、優しい。甘い微笑みと、綺麗な声と、不意に色気をはらむ眼差しで駄目押しだ。
 これで好かれないはずもない、彼を嫌う人間がいるのならばそれは相当の変わりものである。たまに、いや、しょっちゅうか、厄介な懸想をされているが、自己責任というものだ、何故ならそのすべてが彼の計算であるから。
 温厚? 優しい? 笑っちまうぜ、氷室ほど鬱陶しくて、ひねくれている男など、紫原は他に見たことがない。
 ならばオレは相当の変わりものに属するのか、などとも思う。
 違うか、氷室のことは好きである、ただその微笑みが嫌いである。
 隠し通せていると彼が思っているのなら愚かだ、そのうんざりするほど汚い部分に、誰も気付いていないと思っているのなら愚かだ、見えているよ、その完璧な仮面はまれに透けている。
 多分、ほとんどの人間は彼の計算通り、その外面の良さに騙されているのだろう、浅く広く手玉に取るのは彼の得意とするところらしい、別に自分が口を挟む義理はない。
 だが、いくらか深く付き合えば、いやでも知れる、彼はその身のうちに、気分が悪くなるほどの醜い鬱屈を飼っている。
 面倒くさい男だと思う。
 紫原がその鬱屈に、気付いていないと彼は信じ込んでいる。微笑むその目に嫉妬と憧憬が、ぐちゃぐちゃ入り混じっていることに、気付かれていないと信じ込んでる。
 特に紫原は鈍いから、尚更気付くまいと思っているに違いない、馬鹿か、いくらオレでもそんな目で見上げられたら分かるよ、この男を、ほんとうに捻り潰してやりたいと思うことがある、そうすればもうその微笑みを見なくて済むのだろ。
 彼は紫原を、自分によく懐いた、図体のでかい子供だと認識している。
 すべてを与えられて、その事実を理解もしない子供、憎たらしい、悔しい、羨ましい、ああ、素晴らしい。
 なんの冗談だ、すべてを与えられてなどいない、手に入らないものは山ほどある、例えば氷室の素顔だとか。
 それは彼の、彼なりの復讐なのかもしれない、彼に与えなかった神への復讐なのかもしれない、お前が選んだ人間にだって手に入らないものはあるんだよ、と。
 勘違いである。
 何もかもがこの大雑把な手から逃げていく、そう思う。ひとつを与えられる代わりに、他は全部諦めろと言われているようだ、紫原から見れば、氷室のほうがより多くの恩恵を受けている、何故分からない、そうか、きっと分からないんだな。
 焦がれているうちは分からない。代わりたければ代わってやってもいいよ、と、言ったら彼は自分を叩きのめすだろうか。お前に何が分かる、アツシ、そう喚くだろうか。
 同じセリフを返したい。想像するだけで鬱陶しい、うんざりする。
 でも、微笑みは消えるかもしれない。
 ならば。
 いや、そんなことを言えば、彼はもう二度と自分を見ないだろう、綺麗で汚い瞳は一生、自分を映さないだろう、それは厭だ。
 だから黙って隣に突っ立っている。何も知らないふりをして。餌付けを試みる彼の手から、菓子を食っては懇願のような命令に従う。
 彼の指に与えられる、夢色のキャンディは、甘くて苦い、すぐに溶けてしまう、まるで氷室そのものだ。





 もう他にはひともいない、遅い時間の体育館、用具室で後ろから彼を抱きしめた。
 氷室は毎日のように、部活後にひとり残って自主練習をしている、そこまでしなくてもとは思うが、まあ彼が好きでやっているのだから口出しはしない。
 たまに請われてそれに付き合う。
 シュートを止めてみせると彼は、少し困ったように笑って、そうか、まだこれでは無理か、などと呟く、胃のあたりがむかむかして、こちらのほうが困る。
 綺麗に決まってしまえばそれで終わるのだろうが、手を抜くと怒られるに違いないので、きっちり止める、まああらかた止まる。時間切れまで粘ってから、彼はほんの僅かにきつい目になって体育館の床を睨み、そして、紫原を見上げ、微笑む。凄いな、アツシは。
 だからその顔は、嫌いだよ。
 ボールを片付ける彼を緩く抱きしめると、彼は一瞬身体を強張らせてから腕の中で振り返って、色っぽい笑みをみせた、そうだ、そういう顔のほうが、まだいい、全然いい。
「どうした、アツシ。お菓子なら、あとでたくさんあげるよ」
「……意地悪。オレが食べたいのは、室ちんだし」
「いま? ここでか?」
 目を瞬かせる彼の表情には、拒絶はない、氷室とはそうした男である。性的な事項に関して禁忌がない、ひとが来るよ、だとか、見られたらどうするんだ、だとか、言うだけは言うがあまり本気では嫌がらない、これが相手が自分でなくても同じ反応なのだとしたら、と思うとくらくらする。
 いや、きっと、同じ反応だ。武器にしているのかただ投げやりなのかは知らないが、彼はいたって奔放である、そう見える。
 紫原は氷室以外の人間の肌を知らなかった。
 大して興味もなかったし、彼くらいの体躯がなければそれこそ相手を潰してしまいそうで怖かったし、だから誰とも寝たことがなかった、それでも勿論分かった。
 氷室はセックスに慣れている。
 それはもう、厭になるほど。
 右目の下にあるほくろを舌先で舐めてから、腕を離し、紫原は用具室の隅に積んであったマットを適当に引きずり下ろした。そこに腰を下ろして、座れ、と自分の脚を叩いてみせると、悩ましげな笑みを見せて氷室は首を横に振った。
「中、洗わないと、できない」
「じゃあ、五分で戻ってきて。待ってるし」
「可愛いな、アツシは。オレがこのまま逃げるなんて、思っていないんだろ」
 くく、と笑って氷室は、紫原に背を向け、ロッカールームに去っていった。その背中を見送ってから、紫原は下着ごと服を引きずり下ろし、右手で自分の性器を掴んだ。
 憎いというのなら、だ。
 オレのほうが彼を憎んでいる。
 美しい微笑みひとつで、優しい手で、甘い菓子で、自分を懐柔できるなんて思うなよ、そう言ってやりたいのに言えるわけがない。そのうえ性欲まで彼の手に握られて、どうして抗えばいいの、仮面の裏の素顔を見てやりたい? これをひとは恋愛感情というのではないか。
 いつの間に落ちていたのか。
 これでは、彼に群がる蟻と大差ない。
 彼は確かに自分に執着しているが、それは自分だけにではない、例えばあの頸に下げられたリングはいつ外されるのか、きっと死ぬまでそこにあるのだろう。
 彼が自分に抱いているものが、恋愛感情などという温いものではないことは、承知している。ほらね、手に入らない、彼の目論見通り、オレの手には何もないよ、何もない。
 氷室は、さすがに五分では帰ってこなかったが、十分程度で用具室に戻ってきた。まあ確かに、彼が逃げるなどとは思っていない、どちらかと言えば獲物は自分のほうである。
 右手で性器を擦っている紫原を認めると、彼は深い笑みを浮かべてその両脚の間に身を屈めた。唇で捉えられて、喉の奥で小さく呻いた、ほら、慣れている、厭になるほど。
 生温い温度と、濡れた感触が気持ちよかった、きゅっと吸い上げられて目眩がする、どうやら今日の氷室は機嫌がいいらしい、自分が誘ったからか。
「室ちんてさ、躊躇いなくしゃぶるよね、それ、好きなの、おいしいの」
 他人のものなどそうじっくり見る機会もないが、自分の性器は結構扱いづらい大きさだと思う、それでも彼は構わず口を使ったし、尻も使った。唇を塞がれている彼が、答えられないのをいいことに、生々しいセリフを言うと、上目遣いに視線を投げてきた彼と目が合った。
 ぞくりとした。
 まるで狩りを愉しんでいるような瞳の色だった、或いは猛獣を躾ける飼い主の目か、奉仕されているはずなのに、傅いているのは自分のほうだと思った、オレはいまこの男に食われている。
 そこには確かに愛情などない。
 氷室は、喉の奥まで使って、紫原を愛撫した、先端が接する粘膜がひくひくと震えていて、身体に火がつくようだった。吐き気を堪えているのだろう、時々漏れる彼の声と、睫にぽつりと滲んだ涙が欲を唆る。
 このまま達してしまいたいとも思ったが、やめた、繋がって果てたかった、突き立てられて余裕を忘れたときの、彼の微かな声が聞きたい、今日は、今日だけは。
 何本もシュートを止められた彼が、両手でボールを抱え、紫原の前でぽつりと言った言葉を覚えている、いつもの仮面の微笑みはなかった。
 だから余計に腹が立った。
 タイガなら、お前に敵うのかな、アツシ。
「ん、う」
「室ちん、口離して、もういい」
 つやつやとして、手触りのいい黒髪を掴んで言うと、彼は素直に紫原の性器から唇を離し、軽く息を乱しながら身を起こした。何を言うまでもなく、下だけ服を脱いで、マットの上に座っている紫原の腰を跨ぐ。
 手を伸ばすと、その場所は既に濡れて開いていた、十分という短い時間で、よくここまでできるものだなと思った。
「自分で広げたの?」
「そうだよ、アツシ、お前と早くしたくて」
「……室ちんは、ときどき、卑怯」
 好きにしていいよ、と言うと、彼はやはり恐ろしいくらいに艶めかしく笑って、紫原の性器を片手で掴み、そこへ腰を下ろし始めた。
 じりじりと飲み込まれる感触に吐息が漏れる。紫原を焦らしているのか、単純にそのサイズが手に余るのか、彼はたっぷり時間をかけて性器を根本まで受け入れた、途中でその腰を掴んで、引き寄せたくなる手を我慢するので精一杯だ。
 全部を咥え込んだ位置で、緩く腰を揺らして、氷室は小さく喘いだ、ああ、アツシ、好きだよ、アツシ。
 嘘を吐け、彼が自分を好きであるはずがない、ずいぶんと残酷な嘘である、彼の中にあるのは精々が羨望、ないしはただこの行為が好きなだけだ。
「動いて、室ちん、気持ちよく、なって」
 シャツの中に手を入れ、背筋を撫で上げると、彼は紫原の上で綺麗に背を仰け反らせ、震える瞼を閉じた。いやらしくて、美しいと思う、悔しい、そんなことを思う自分が、オレだけがどっぷり嵌って、この年上の男は知らんぷり、楽しいだろう、夢中になるオレを見ているのは、満足なんだろう、彼が唯一欲しいものを持っているオレを、飼い慣らすのは。
 オレはね、そんなものはいらない、いらなかった、もっと欲しいものならたくさんあるのに。
「ん、は……ッ、アツシ、下から、突いてくれ、お前の、凄く、いい」
「いいよ、たくさん突いてあげるから、ねえ室ちん、顔見せて、オレを見て、オレのこと呼んで」
「アツシ、ああ、堪らないよ……、アツシ、アツシ、お前が、一番、好き」
 欲情に塗り潰された瞳が、自分を見つめている。髪を両手で掻き乱されて、少し痛い。
 ああそうか、でも、これを手に入れていなければ、彼は自分と身体さえも合わせなかったのだろう、興味も持たなかったろう、この男は強欲で単純で、それでいてねじ曲がっている、欲しい欲しいと喚けばいいのに、プライドが、理性が、その足掻きを美しい微笑みに変えてしまう。
 一番好き、か、何が?
 あなたに与えられなかったものですか。
 オレの気持ちなんて、どうでもいいんだよね。
 思えば久し振りの行為だったので、それほど長くはもたなかった。いっていいかと訊くと、彼は、中に出していいよ、と答えた、彼は大抵の場合はそう言う、あとで面倒だったり痛かったりするのは彼自身であるのに、構わないらしい、好きなのか。
 腰を突き上げ、ぎりぎりまで彼の中に侵入して、奥深くに射精した、いいよと言うのだからそうさせてもらおう。氷室は、右手を自分の性器に添えて、それとほとんど同時に、てのひらに達した、ぎゅうぎゅう締め上げられて思わず呻く、堪らないのはこっちだよ。
「あ……! アツシ……ッ、中、で、出てる」
「室ちん、出されるの、好きなの」
「好きだ……、たくさん、出して」
 冗談みたいなセリフを吐く男だなと、改めて思った。
 びくびくと痙攣する彼の身体を抱きしめて、最後まで精液を出し切ってから、手を離した。彼は、はあはあと息を喘がせ、しばらく動けずにいたが、数分も呼吸を貪ってから、そろそろと紫原の上から身体を退かした。
 まだ硬い性器が抜けるときに、少し眉を寄せた、それが吐き気がするほどに色っぽい表情で、マットに押し倒してやりたくなったが、やめた。
 夢中になってはいけない、たとえ夢中になっていてもそんな顔を見せてはいけない、ただ身体が欲しいと、性欲を満たしたいと、ひと気のない場所で抱きしめればいい、それ以上は禁止だ、彼がいくら自分を好きだと言ったとしても。
 同じ言葉を返した途端に、彼の興味が冷えることなど充分ありえる話である。
 この男は残酷なのだ。
「アツシ、先に戻っていいよ、お腹すいただろ」
 氷室は全く平然と、手についた精液をタオルで拭きながら、紫原に言った。どんな顔をしてそれを洗濯するのだろうかと思ったら、少し愉快な気持ちになった。
 まだ少し頬が紅潮している、色気のバケモノだなと開き直って感心する、例えば昨日、明日、彼が自分以外を咥え込まないなんて誰にも断言できない、こいつは多分そういういきものである。
 適当に服を直して、引きずり下ろしていたマットを用具室の隅に積み直した。室ちんは戻らないの、と訊くと、始末したら行くよ、と答えて彼はにっこり笑った。
 その美しい微笑みが、そう、嫌いだ。
「やってあげようか? オレのほうが、指長いし」
「自分でできるから、いいよ、ありがとう。ほら、食堂閉まるから、早く行け」
 右手を振った彼に、用具室を追い出される。紫原は少し考えてから、結局は彼に背を向けてロッカールームに向かった。氷室がこういう言い方をするときには、逆らうだけ無駄である。
 広い体育館を突っ切る。宙に浮いたゴール、それに自分は簡単に手が届く。
 彼が欲しいものは、こんな身体なのだろうか、不格好に繋がることで、何か手に入れた気分になれるのだろうか、だとしたら。
 いずれ歪んでいる。
 自分も彼も歪んでいる。
 甘くて苦いキャンディよりも、オレは彼が食らいたい、欲しいものを欲しいと言えずに、笑うことしかできない彼に、頭から噛みつきたい、オレの欲しいものは彼の手の中、彼の欲しいものはオレの手の中、交換できたら素敵じゃない、決してできないことではあるが。





 彼の美しい微笑みが、嫌いだ。
 何もかもを押し隠して押し潰す仮面だ、嫌いだ。
 氷室は誰にも愛される男である、だが、何故そうして笑っているのかが理解できない、愛されるためなのか、誰よりも愛してほしかったものには、愛されなかった彼にとって、有象無象の愛情なんてどうでもいいものではないのか。
 そうしてせっせと壁を作って、身を隠して、まるでなんでも持っていますよというような顔をして、笑う。それでも自分の目には飢えが透けて見えてしまうのに、その自分にさえ、笑う。
 泣けばいいのに、馬鹿め。
 そうすれば彼のためになんでもしてやるのに、馬鹿め。
 気づくと結構いい時間になっていた。ふらりと食堂に向かい、カレーをつついていると、少しして氷室が入ってきて、テーブルの向かいに座った。手にしたトレーにはやはりカレーが乗っている。
 この時間ではさすがに、食堂にはほとんどひとがいない。
「もうカレーしかないとか、酷いし。オレだってハンバーグ食いたかったし」
 ぶつぶつ文句を垂れる紫原に、氷室はやはり綺麗に微笑んで、まあ、食べるものがあるだけいいじゃないか、アツシ、と言った。
 体育館の用具室で、自分に跨がり腰を振っていた男と、同一人物だとは思えない。いや、そんなこともないか、視線の端だとか柔らかい言葉の語尾だとか、この男はふと性的な色を見せつけてくる、わざとなのかもしれないし、無意識なのかもしれない、どちらにしろたちが悪い、オレが相手じゃなくてもこうなのだろ。
 右目の下にあるほくろに、なんとなく触れたくなる右手にスプーンを掴んで、ひとつ溜息を吐いた。
「どうした、アツシ。幸せが逃げるよ」
「幸せ?」
「溜息を吐くと、幸せが逃げるんじゃなかったか?」
 疑問に疑問形で返されても困るが。
 紫原は、もうひとつ溜息を零してから、知らない、と呟いて、ぼんやりと目の前の男を眺めた。彼は、箸を使うのは得意ではないようだが、スプーンを口に運ぶ動きは上品だった。当たり前か。
 カレーを食べる唇を見る。
 その唇が、少し前には、自分の性器を咥えていたわけだ。
 ほんとうに、こころの底から、狡い男だと思う。葛藤も鬱屈も、全部包み隠す美貌でオレを誑かす、微笑みも優しい声も、菓子を差し出す手も全部嘘だ、分かっているのに嵌る、この男が悪い。
 ああ、違う、氷室は、悪くはない。
 と、彼は言うだろう。
 オレは悪くないよ、悪いのは神様だよ、あるいは神様に愛されていながら、無駄遣いばかりしているアツシだよ。
 だから、ちょっと意地悪しようかな、さあ、オレを追いかけてくるんだ、アツシ、オレはお前には捕まらないよ、だって憎いから。
 知っているさ。
 でも、知らないふりをする。
 餌付けをされたペットみたいに、室ちん、室ちん、と追いかける、指示をされれば言うことも聞くし、要求されればボールも持つ。指先に摘まれたチョコレートを唇で受け取って、躾は完了、オレはもう彼の大きな飼い犬だ。
 こんなのは、ほんものじゃない、互いにそう思いながら。
 慣れ合って、抱き合って、欠落を埋め合うどころか掘り出し合って。
 欺瞞である。
 彼の仮面の微笑みを、憎む権利など自分にはない。
「アツシ、カレーが冷たくなるよ、早く食べろ」
「ああ。うん、もういいや。お腹いっぱい」
 彼は優しい言葉を使うのが常だが、ときどき命令し慣れたような口調を使う。そういうときにはなおさら思う、オレは彼のなんなのだろうかと。
 彼が見ているのは紫原ではない。
 その後ろにいる、いるのだと彼が思っている、何か絶対的なものだ。
 歯痒い、という表現で、合っている?
「仕方ないな、アツシは。あまりお菓子を食べ過ぎないほうがいい、栄養が偏るから」
「お菓子いっぱいくれるの、室ちんだし」
「食事も入らないほど食べろとは言っていないよ」
 穏やかな声は、心地よく、息苦しい。
 氷室がカレーを空にするのを待って、ふたりでトレーを片付け、食堂を出た。階段を下りる途中で、先に立っていた氷室がふと振り向いて、右手を紫原の方に差し出した。
 首を傾げたその目の前で、てのひらを上に向け、指を開く。丸くて赤いキャンディが、手の中で転がっている。
 そんなもので。
 オレが操れるわけがない、分かっているよね。
「自主練、付き合ってくれてありがとう、アツシ」
「室ちんのお菓子、おいしい」
 さらりと言って、身を屈め、てのひらからキャンディを盗んだ。彼のくれる菓子ならば、なんでもおいしい、そうだよ、それでいいけれど。
 見下ろす彼の肌に銀色のリングが光っている。ねえ、その男にならば、素直な顔を見せるのか、氷室。
 妬ましい、悔しいと、泣いて喚いて縋るのか、それが欲しい、もっと欲しいと、こころのままに叫べるか。
 オレでは何が足りないか。
 彼の手から奪ったキャンディは、やはりどこか複雑な味をしていた、これはきっと彼の涙の味なのだろうと、だからとてもからいのだろうと、彼の後ろ姿を眺めながら紫原はそう思って、またひとつ幸せを逃した。

(了)2014.02.06