クリーンインストール


 クリーンインストールをしようかな、と、隣に突っ立った紫原が言った。
 放課後、他には誰もいない美術準備室である。窓の外には青空、画材の匂い、所狭しとイーゼルが並んでいて、失敗作らしい油絵が転がっている、悪くはない。
 自分の部屋には必要なもの以外を置かない主義だ。
 無駄に囚われるのが厭である。でなくとも既に、充分に、この身は囚われている。過去に、無力に、絶望に。
 それらはとても汚い。なのでなるべく整理する。理性で箱を作って、理論でその中に並べる、たとえどんなに汚かろうが醜かろうが、捨てられないもの、捨ててはならないもの、大事なものだ。しばしば箱からはみ出して暴れる、手に負えない化け物であれ、囚われる必要があるのならば囚われよう。
 だから、必要のないものは、容赦なく捨てた、物もひとも。泣きつかれようが知ったことではない、でなくては生きていけない、氷室とはそうした人間である。
 生活空間は、せめて綺麗であるべきだ。
 だが、こういう雑多な場所も、否定はしない、自分のテリトリーでないならば。
 何も自分に害なさない、何も自分を脅かさない、そう思えば気楽だ。ごちゃごちゃとして、宝物からごみまで一緒くた、まるで学生に相応しい場所のようである、いや、正真正銘、自分も学生ではあるのだが。
 石膏像、七宝焼きのパーツ、無機物の群れ、悪くはない。
 ボールもない、シューズもない、好きで好きで好きで嫌いで、そういう意識を奪うものは何もない、落ち着く。
「そうか」
 抱えていたスケッチブックの山を、低い作業台の上にどさりと置いて、氷室は紫原に短く答えた。素っ気ないその返事が気に入らなかったのか、紫原は隣の氷室をじろりと見やって、意味分かってんの、と低く言った。
 いつでも甘くて穏やかな声で話す男である。緩いというよりは、多分、わざとだ。
 その男が、氷室の前では比較的感情を見せる。怒り、苛つき、あとはなんだ?
 が、このタイミングでなぜ彼が、そういったものを表面に出すのか、確かに意味が分からない。氷室は、相変わらず菓子を噛んでいる男を見上げて、分かっているよ、と言い、にこりと笑ってみせた、まあ笑っておけば機嫌も直るだろう。
「パソコンの調子が悪いのか? やり方分かるか、アツシ。ちょっと面倒くさいぞ」
「面倒くさいのは知ってる。あれでしょ、大事な設定のバックアップ取って、アンインストールして、インストールして、バックアップしたやつを放り込めばいいんでしょ」
「まあ、単純に言えば、そうだな」
 大体合っている。
 合っているが、彼にできるのかどうかは氷室の知ったことではない。
 最悪、パソコンがおかしくなったら修理に出すか、買い換えればいいだけの話である。構わずにドアに向き、じゃあ部活に行こう、アツシ、と言った、その腕を、後ろから紫原に掴まれて、立ち止まった。
 ぐいと引かれて、よろめいた、思わず振り向いた身体を、長い腕で抱きすくめられた。
 彼は甘くて優しい匂いがすると思う。おそらくこれは、彼が四六時中頬張っている菓子の匂いである。
 やはり意味が分からず彼を見上げると、キスするよ、とか、キスしていい、とかの確認の言葉もなく、くちづけられた。
 画材の匂いと、彼の匂いが混ざって、胸が痛くなるような感慨に襲われた。
 そうだ、まったく意味が分からない。





 スケッチブックを十五冊ほどか、両手に抱えて廊下を歩いていたら、紫原に発見された。
 氷室を部活に誘いに来たのか、ただたまたま出くわしたのかは分からない、どちらだとしても構わないが、この男が自分を探していたのだとしたら気分がいいな、とは思った。
 発情期の動物みたいに、顔を合わせればセックスばかりするのは嫌いだ。
 それでも、紫原とは何回か寝た、最初に行為に誘ったのは自分かもしれないが、物欲しげな顔をしたのは彼のほうだと思っている。
 言外にでも要求されれば、にっこり笑って差し出す、もう条件反射のようなものだ。
 勿論、相手がそれなりでなければ端からそんな気にもならないが、氷室の基準はそれほど高くはない、例えば恋人である必要などはまったくない、そうだな、男であれば、自分より秀でていればそれでいい。
 だから、紫原ならばいい。
 自分より大きな身体、自分より高く飛び、どんなに祈りを込めたシュートでもあっさり止める、充分だ、欲しいというのならばくれてやろう、知らないのならば教えよう、オレはそうした男だよ。
 優位に立ちたいのかもしれない。幻想にすぎないことは理解している。
 紫原は、男にこそ慣れていなかったが、セックス自体を知らないということはないようだった。どこのどいつがこの大きな子供を食らったのかと、少し苛立ったが自分だって同じことをしていると気付けば可笑しかった、むしろ大きな子供であるからこそ誘惑も多かったのかもしれない、その肌を暴いてやろうと自分が思ったように、どこかの誰かも思ったのだろう。
 彼に開かれ、彼に貫かれるのは、気持ちが良かった。
 嵌ったのだとは思いたくはないが、例えばこの一、二か月で何度したっけ、と指折り数えれば少しは嵌っているのかもしれない。
 一度は与える。しかし、一度与えたら焦らす。そういう遊びが氷室は嫌いではない、遊べない相手もいるとは恐れ入る。
 その彼が、大きな身体に制服を着込んで、校舎の廊下を歩いているのは、なんだか妙な心地だった。毎日のように顔を合わせていても、いくら経っても、どうにも見慣れない。
 体育館で見る彼にはさほど違和感がないが、制服を着ている姿はやはりどことなく馴染まない、彼は彼なりに有象無象の群れに溶け込もうとしているのかもしれないけれど、目的を共有しているわけでもない人間の中で姿を消すには目立ちすぎる。自分のように愛想笑いを貼り付けられるほど器用でもなかろうし。
 廊下でよく知った甘い声に呼び止められて、振り向いた先に菓子をさりさりと噛んでいる彼を見つけたときには、だから、氷室はいつものように、少し声に出して笑ってしまった。お前、存在感がありすぎるだろ、相変わらず。
「なあに? 室ちん、ひとの顔見ていきなり笑うとか、失礼だし。ねえ、何持ってるの」
「スケッチブック。今日が美術の課題の提出期限だからね、ぎりぎりまでねばった、というか、ぎりぎりまでやらなかった人数が、十五人くらいかな、オレも含めて」
「ふうん。で、なんで室ちんが、その十五人くらいのスケッチブックを、ひとりで持ってるわけ」
 彼は菓子を次々と口に運びながら、大して興味もなさそうに訊いた。いや、興味がないわけではないんだろうな、と氷室は思った。ほんとうにどうでもよければ彼はさっさと背を向ける、たとえ相手が何度か寝たことがある男でも、だ。
 紫原はあまりセックスに重きを置かない。
 だから相手ができる、その時間には没頭もできる、彼に気に入られている自覚はあるが、セックスができるからという理由ではないだろう、多分彼のような身体を好むやつはそれなりにはいる、ならば放っておいても蟻は群がる、摘み上げるのがオレだけというわけはない。
 身体を目当てにされているのではないのだ。むしろ、まさにそう、懐かれている、そんな感じか。
 それはオレが力があるからだろうね、と氷室が曖昧に答えると、押し付けられたの? とそこで彼はようやく不機嫌そうな声になった。
 優しいんだな、アツシ。可愛いよ。
「いや、ついでだから持って行くと、オレが言ったんだよ」
「あ、そう。じゃあ、半分持ってあげる」
「大丈夫だよ、そんなに重くないから。アツシは早く、部活に行けよ?」
 にこりと笑って、伸びてきた腕を拒否すると、紫原は少し困ったような目の色をして、別に付き合うし、とぽつり呟いた。見れば彼は既に荷物を肩に引っ掛けていて、体育館へ向かえる様子だったが、まあ、付き合いたいというのならばそれでもいいだろう。
 美術室前の廊下には、ひと気がなかった。放課後だ、授業もないし、美術部はどこかへスケッチにでも行ったのだろうか。
 となれば教員もいない? 声をかけて入った美術準備室には、思った通り誰の姿もなく、イーゼルに埋もれていたホワイトボードを見ればやはり、今日の日付の欄に一行、美術部外出、と汚い字で書いてあった。
 参ったな、アツシ、取り敢えずこれを置いて部活に行こうか、と紫原に声をかけた。彼は少し視線を左右に振ったあと、唐突に、そうだ、クリーンインストールをしようかな、と、それに答えた。
 そしてくちづけをされた。
 まったく意味が判らない。





 あっさりしたくちづけだった。
 思い返せば、彼とは何度か寝たとはいえ、あまりキスをした記憶がなかった。
 この男はそれが嫌いなのかもしれない、と氷室は思っていたが、別にそういうわけでもないのか、放課後の美術準備室などで仕掛けてくるのならば。
 彼の唇は、彼が作業台に投げ出した、甘い菓子の味がした。
「……アツシ?」
「大事な設定のファイルだけは、バックアップ取るべきでしょ」
 彼は、抱き寄せていた氷室の身体を離すと、大股でドアまで歩いて単純な構造の鍵をかけ、すぐに作業台まで戻ってきた。身を屈め、氷室の顔を覗き込む、綺麗な紫色の瞳に見つめられて密かに感嘆する、この男はやたらと大きいのでそればかりに目が行きがちではあるが、とても美しいと思う。
 整った顔立ちだ。いつもどこか眠たげな眼差しが、はっきりと自分を見るとぞくりとする。何より色合いが好きだ、この男が何を考えて何を感じて生きているかなどは知らないが、真っ直ぐな人間なのだと思う、ときに誰かを刺し貫いてしまうくらいに、それを象徴するような緩衝するような素晴らしい色合いである。
 彼の手が伸びて、目の下に触れた、ほくろに触りたがる人間は過去にもいた、セクシーだと言われてもありがとうと返すしかない、なるべく右目を見せて笑おうと心がけるくらいである。
「これでバックアップ完了ね。じゃあ、いまから室ちんを、クリーンインストールします。準備いい?」
「え? アツシ、パソコンは」
「オレのパソコン、別に絶好調だし。聞いてないの? クリーンインストールするのは、室ちんだよ」
 意味不明だ。
 制服に伸びてくる彼の手に軽く抗って、氷室は意識的に紫原を睨み上げた。普段は温厚、化けの皮を剥げば獰猛、そんなのは彼だけの専売特許ではない。
 彼はその視線に、少し呆れたように溜息を吐いて、駄目だ、このひと全然分かってないし、と呟いた。
 分かるか、だいたいお前はこんなところで誰かの服に手をかけるような、飢えた男ではないはずだろう、何がしたい?
「クリーンインストールだよ、室ちん」
 警戒を隠さない氷室の髪をくしゃくしゃと片手で掻き回して、紫原は普段通りの甘い声で言った。それから、髪を撫でていた手を改めて氷室の制服へ這わせ、ネクタイを解き、順番にボタンを弾いていく、なかなかに強引である。
 殴ってやろうと右手の拳を握りしめて、やめた。
 ほんとうに厭ならば、殴る、だが、紫原がそうしたいというのなら構わないか、こんな場所で肌を晒されるような遊びが、嫌いというわけでもない。
 シャツをはだけられて、それでも、怪訝に歪んでしまう表情を隠せなかった、クリーンインストール?
「だからね、過去は全部アンインストールしちゃうの。消しちゃうの。室ちん、なんか無駄に抱えてるみたいだし」
 言われて、ぴくりと素肌が震えた。触れていた彼のてのひらにも伝わったろう。
 過去は全部アンインストール。
「大事な設定はバックアップ取ったし。ちゃんと思い出すから大丈夫」
「……設定?」
「オレが室ちんの恋人ってこと。それから、オレとダブルエースってこと?」
 設定。
 ざっと全身に鳥肌が立った。ああ、なるほど、お前の言いたいことは把握した。
 この男はオレに、むかしのことなどさっさと忘れろと言っているのだ、挫折、敗北、それから無意味に誰かと肌を合わせた夜の記憶、データ削除、アプリケーションごと消して、もう二度と蘇りません。
 まっさらからやり直せと、そう言っているのだ、綺麗なことだけ考えればいい。
 恋人? ダブルエース? 馬鹿な、そんなふうに、お前、思っていないだろう。
 だいたい、違うよ、違うだろう、アツシ、むかしがあっていまがあるんだ、過去があって現在があるんだ、それをなくしてしまえばオレは、オレでなくなってしまう。
 無駄に抱えていると言わば言え、これこそがオレという人間である。
 不要なものならば、きちんと捨てている、だから、いまオレにあるものは、たとえお前の目には無駄に見えたとしても、すべて必要なものなのだ。
 優しいね、優しいんだな、アツシ。
 開放されてしまえばいいなんて、そういえば誰にも言われたことはなかった。
「……室ちん。これも、アンインストールしていい?」
 肌を撫でる彼の指が、ふと、頸から下げたリングを掠めた。掴もうと伸ばした手を、思い直したように止めて、彼は氷室を見た、その瞳の色がなんだか息苦しそうで、切なくなった、そうか、お前はそんな目をするのか。
 駄目だ、駄目なんだよ、アツシ、人間はクリーンインストールはできない。
 すべてを背負って生きていくんだ、失敗も後悔も苦悩も全部、欲しい設定だけ残してリセット? そんなに都合のいい話はない。
 取捨選択には厳しいほうである、これは、オレがこの身に飼って生きていかねばならぬものだ。
 室ちん、と繰り返されて、小さく首を左右に振った。
「アツシ、それは無理だ。大事なものだから」
「……あいつのこと、好きなの? オレよりも、好き?」
「タイガはオレの弟だよ」
 分からないか、分からないかな、お前には。
 例えば紫原に、捨てたい過去などあるのだろうか、栄光の軌跡を生きていまある男である、彼にはその意味が多分よく分からない。
 どんなに足掻いても藻掻いても欲しいものが手に入らなくて、やけのように身体を投げ出した、もう覚えてもいない数の人間がこの肌に触れ、去った、それでもやはり欲しいものは手に入らない。
 生まれついて持っている人間を知っている。
 火神のような。
 そして、紫原のような。
 そばにいて、少しもこころが痛まないなんて、そんなわけがあるか。
 それでもオレはお前の隣にいるだろう? そして許される限りその場所で走る。過去が、艱苦があってこそだ、クリックひとつ、簡単に消してしまっていいものではないのだ。
 分からないだろう。
 お前はオレの過去が邪魔か。悔しいか。
 紫原は氷室の言葉に、じゃあ、あいつもバックアップしていいし、特別だよ、と少し不満気に呟いた。それから、低い作業台の上に氷室を押し倒し、強気な仕草でそのベルトを外した。
 下着ごと制服を脱がされて、反射的に淡く抗うが、本気でもない。
「捨てちゃって。室ちんが欲しがるものは、オレが全部取ってあげるし。オレには手の届かないものなんてないよ、なんでもあげる。だから、捨てちゃって」
「アツシ、こんな場所では、駄目だ」
「大丈夫。誰も来ないし」
 オレには手の届かないものなんてない。そんなセリフを。
 一度でいい、言ってみたかった。
 紫原は、自分の制服のポケットに手を突っ込み、取り出したコンドームのパッケージをぱらぱらと作業台の上に撒いた。常備か。いったい何枚持っているんだ。
 そのうちのひとつを取り上げ、氷室の視線の前で、右手の人差指と中指に被せる、彼の長くて太い指がいきなり二本入るのかどうかは疑問だったが、まあ慣れた身体だ、なんとかなるだろ。
「室ちん、ゴムのぬるぬるだけで大丈夫? 何か塗る?」
 彼は、もう抵抗を放棄した氷室の脚を大きく左右に開かせ、コンドームを被せた指で尻を探りながら淡々と訊ねた。こういうときに、冷静な声を使う男は好きである、遠慮なく快楽に溺れられるから。
 大丈夫、と答えると、彼はすぐに指を二本差し入れてきた。いきなりの違和感に、さすがに身体を強張らせると、宥めるように上半身にいくつかキスを降らされた。
「は……、苦しい」
「うん、ごめんね。早く入れたい。ここ、触るから、よくなって」
「う、ああッ、アツシ……ッ」
 作業台から、積み上げたばかりのスケッチブックが、ばさばさと音を立てて落ちたが、気にする余裕はあまりなかった。二本の指で前立腺を擦り上げられて、思わずきつく目を瞑る、はじめて彼と寝たときに、その場所を教えたのは自分である、覚えのいい子は好きだよ。
 クリーンインストール、と。
 繰り返した彼の声が、頭の中で反射を繰り返して飛び交っていた。
 思考が快楽で濁る、ああ、そうだねアツシ、全部捨てて、お前のことだけを考えて、生きていけたら素敵かもしれないね。
 優しくて甘くて美しい恋人、コートに立てばダブルエース、何も疑問を抱かずに、笑っていられたら楽だろう。アツシ、アツシ、もうお前しか見えないよ、アツシ、アツシ、むかしのことなど忘れてしまったよ、何があったっけ、悔しい? 羨ましい? 欲しい? 何が? オレはなんでも持っているのに、お前がなんでも取ってくれるのに。
 ああ、でも。
 そんなものは、オレではない。
 オレはもっと意地汚くて、醜いいきものである、それでいい。
 彼は、あまり時間をかけずにその場所を広げてしまうと、指を引き抜き、コンドームを引き剥がして作業台の上に放った。それから、新しいコンドームのパッケージを歯でちぎり、自分で制服をくつろげて掴み出した性器に被せた。
 こういう仕草はいちいち慣れていると思う、自分とはじめて寝たときには既にこうだった、だったらお前もクリーンインストールするか? 一緒にすべて捨てて笑ってみるか?
「室ちん、入れるから、力抜いてて、指二本しか入れてないし、きついと思うけど」
「大丈夫……、アツシ、オレに優しく、しなくていいよ」
「馬鹿言わないでよ……。室ちんはオレの、恋人だって言ってるでしょ?」
 腰を引き寄せられて、押し付けられた性器が、じりじりと侵入してくるのに身を任せた。まあ確かに、勢い任せに突っ込んでこないのだから丁寧なのか、多少無理をされても平気であるし、そうされるのが嫌いでもないが、わざわざ明言するまでもないことなので、曖昧な表現にとどめた。
 馬鹿みたいに太い性器を、なんとか根本まで差し込まれたときには、呼吸も乱れていたし、薄っすらと汗ばんでもいた。快楽は確かにあった、そういうふうに作り変えた身体だ、彼の肩に抱えられた右脚がかたかた震えているのが自分で見て分かる、オレはいまとてつもなく淫らな男のようだろう。
 彼はその氷室を、いやに切実な目付きで見つめて、クリーンインストールだよ、室ちん、と繰り返した。氷室のための行為なのか、紫原のための行為なのか、こうなってしまえば分からないなと思った、お前はオレに詰め込まれた、醜いこころが嫌いだ、受け入れられないのならば冗談でも恋人だなんて言わないほうがいいぜ。
 だってこれがオレだ、これこそがオレだ、嫉妬も葛藤も諦念も全部全部、オレを形作るものだ。
 なかったことには、できないんだよ、アツシ。
 彼はしばらく、深くまで挿入した位置で氷室が馴染むのを待ってから、ゆっくりと腰を使い始めた。廊下が気になり、声を出すのが厭で唇を噛んでいると、気づいた彼が片手を伸ばして唇を塞いでくれた。
 それでも微かな声が漏れた。
 気持ちがいい、ああ、気持ちがいいさ、この行為に、それ以上の意味を持たせるなんてできやしないのだ。
 アンインストールでもインストールでもない、ただのセックスだ、恋人? ダブルエース? 知ったことか、愉悦に溺れて腰を振って、こんなの、猿にだってできる、それだけだ。
 アツシ、可愛いね。
 互いに苦しむのならば忘れてしまえ、躊躇もなく言えるのならば素晴らしいよ、お前は純粋で綺麗だ、ときどき無性に汚してしまいたくなるほどに。
「ん……ッ、は、アツシ……ッ」
「室ちん、いきたい? いいよ、ゴムつけてあげる、そこに出して」
「お前も……ッ、いけ、よ、アツシ」
 奥を突かれて、目眩がする。
 彼の手が、触れられるまでもなく勃ち上がっていた性器にコンドームを被せて、軽く擦った、それで限界だった。瞼の裏がちかちかするような絶頂に飲まれながら、この不器用そうな男が、こういう作業だけは器用だなんて皮肉だなと頭の隅で思った。
 彼は、締め上げる氷室の中が気持ちよかったのか、珍しく熱い吐息を零して何度か性器を出し入れし、それから、氷室が苦痛を覚える前に深く差し入れて射精した。自分の内側で、どくどくと脈打つ性器が、紫原のものであるという認識は甘い痛みになって胸に落ちた、ああ、好きだよ、好きなんだ、何が? 彼に与えられた才能が? 神に選ばれし男が? それともオレに懐いた可愛い子供が?
 アツシ、お前はどこにいる。
 バックアップを取るほどに、重要な設定だというのなら、オレを少しも惑わせずに攫ってくれ。
「室ちん、好きだよ」
 性器を抜き取られて、作業台の上で身体を引っ張り起こされる。強く抱きしめられ、耳元に囁かれる言葉が切ない、この男はセックスにはそれなりに慣れているのかもしれないが、恋愛というものをしたことがないのかもしれない、それは勘違いだ、その感情は、そして、そうだな、オレも恋愛はしたことがない。
 少しは嵌っているというのなら、その身体にだろう、お前は何もかもがおおきいから、好きだ、委ねていいような気になる、肌を合わせる短い時間だけは。
 何枚かのコンドームは、紫原が回収した、どうするのかと見ていたら、置いてあったティッシュペーパーに包んで、普通に、平然と、美術準備室のゴミ箱に捨てた、いや、ばれるだろ、まあいいけれど。
 作業台から下りて、差し出された服を着ようとするが、快楽の余韻で巧く指が動かない。見かねた紫原が、自分の服を直してから、手を伸ばして手伝ってくれた、いい子だ。
「お前は、優しいね、アツシ」
「室ちんて、オレに、優しいとか可愛いとかは言うけど、好きって言わないよね、絶対」
「そうかい? ならばオレは意外とシャイなんだよ」
 言えないんだろうが、言及するな。
 紫原は、氷室のボタンを慎重な手付きで留めてから、最後にネクタイを結んで、はい、できた、と笑った。この男の笑顔はとてもいい、と思った、どちらかと言えば普段は無表情な男である、不意に笑うと美しい造作に柔らかな花が咲く。
 オレのように微笑みを安売りしない。
 それでも彼は、自分の前では比較的よく笑うと思う、素晴らしい。
 彼は氷室に背を向け、美術準備室のドアに掛けた鍵を外しながら、それで、どうなの、と甘い声で訊ねた。意味が分からず首を傾げていると、振り返った彼に呆れたように溜息を吐かれた、いや、言葉が足りないのはお前のほうだから。
「クリーンインストール、できたの。変な場所でセックスして非日常を味わったでしょ。少しは忘れた? だったらバックアップ戻すし」
 言われてから、ああ、そうだったなとつい苦く笑った。彼はオレをクリーンインストールすると言ったのだった、無駄に抱えた過去を捨てて、やり直せ。
 だから、それは駄目なんだよ。
 汚いこころも醜いこころも、すべてを内包して美しく笑う、それがオレだ。
 なくしてしまえば楽かもしれないが、そうしたらオレは何ものでもなくなってしまう、ただ氷室辰也であるために、見惚れ、羨み、崇めながら、お前の隣で走るために、オレは背負う。
 間違えたのかもしれない、しかし、間違えたのもまたオレだ。
 後悔しないわけではない、しかし、後悔するのもまたオレだ。
 消さないよ、消さない、オレはこういう人間である、見苦しくて厭になるだろう、アツシ、お前こそオレを捨ててもいいんだよ。
 オレは何人もの人間を捨ててきた、肌に記憶を擦り付けて、積み重ねて、あとはさようなら、女も、男も。
 お前は捨てられないものだ、必要だ、だからそばにいるが、お前に捨てられるというのならば、それは仕方がないことである。
 言葉を少し探してから、氷室は紫原に視線を向けて、にこりと微笑み答えた、ごめんね、アツシ。
 紫原は眉をひそめて、無言でその氷室を睨みつけたが、しばらくの沈黙のあとに、もうひとつ深々と溜息を漏らした。
「ああそう。それなら仕方ないし。面倒くさいのは知ってるし。室ちんが油断したころに、またやるし」
「アツシ、いいかい。人間はね、クリーンインストールはできないんだよ」
「……オレに惚れろって、言ってるだけでしょ。室ちん、馬鹿なの?」
 彼にしては投げやりな声で言われた。
 不覚にもぞくりと肌が震えた、オレに惚れろ? ああ、クソ、嫌いだ、真っ直ぐで純粋な男、憎たらしい。
 こんな男を好きになってしまったら、終わると思う、なんでも持っていて、なんでも容易く手に入れる、手の届かないものはない、隣に立つ氷室のぶんまで取ろうと手を伸ばす。
 駄目だ、アツシ、駄目だ、オレは自分の手で掴み取る、永遠にそれができないのだとしても、足掻く、藻掻く、だから駄目だ。
 好きになるということは、依存のはじまりだろう、彼に縋るような惨めな思いはしたくない、対等であれ、オレの何もかもがお前に及ばないというわけではないはずだ。
 氷室は、ドアの前で待つ紫原に歩み寄りながら、色気のある視線を投げて、じゃあ、頑張れ、アツシ、と囁いた。惚れてくれと彼が言うのならば、この関係はまだ自分のほうが優位である、だったら簡単に、思い通りにはならないよ、オレを手に入れようなんて百年早い。
 馬鹿だね。
 これは愛でも恋でもない、いいところ刷り込みか、ぱちりとひとつ指を鳴らせば、目がさめるような夢、そんなに決定的な言葉を使わないほうがいい、欲しいと思っていたものが一瞬で価値をなくす、そういう冷たい遊びだ、相手がオレでなければ引きずるぜ。
 作業台に組み敷かれた背が、少々無理をされた尻が痛い、これで部活をこなせるだろうか。
「オレは恋愛をしたことがないんだ、多分一生しないだろうな。それを振り向かせたいって? まあ頑張れよ、アツシ」
「じゃあ、オレが初恋だね、室ちん。燃えるし」
「ああ、せいぜい燃えてくれ」
 イーゼルの山、石膏像、画材の匂い。
 何も自分を追い詰めない、居心地がいい、けれど、違うな。
 オレの居場所はコートだ、お前の隣だ、アツシ、期間限定、同じユニフォームを着られるあいだはそこにいよう、そしていつか向かう道がふたつに分かれたときに、それでも引き止められるかはお前次第、引き止めるかはオレ次第。
 クリーンインストールをしようかな、と、紫原は言った。
 分かったよ、お前は優しくて、我儘で、甘くて残酷な男だ。
 バックアップを取って、アンインストールして、インストール。面倒くさいのは知っている。
 残念だ、オレのソフトはそんなにやわではない、ハードが壊れてもきっと壊れない、捨てられなかった雑なデータが積み重なって、挙動が不安定になっても、オレはそのまま走る、だってその雑なデータこそがオレのひとつひとつを組み立てているのではないか?
 お前はオレをクリーンインストールできない。
 そんなに温いことを言っていないで、オレの過去をまるごと受け止めろよ。
 もう一歩先へ、さらにもう一歩先へ、泥に塗れた足跡をくっきり残しながら手探りで進む、人間とはそういういきものだ、アツシ、お前に分かるかい、お前の足跡は迷いなく崩れもせず綺麗だ、分からないのだろうな、ならば厭わずオレの深淵を覗き込め、見たこともない景色を目にしてお前はなんと言うのだろう。

(了)2014.02.14