復讐


 羨ましいだとか妬ましいだとか、そういう当たり前の、ある意味自然な感情は、いつの間にか薄れた。
 いや、薄れさせたというべきか、飼い慣らしたというべきか、ふと、吐き気がするほど鮮やかに蘇るときがないとは言わないが、それでも仮面の裏に押し隠して、地面に穴を掘って捨てた、氷室とはそういう男である。
 欲しくて欲しくて這いずり回って、それでも手に入らないものもあるのだという諦念と、それを手にしている人間への崇拝にも似た憧憬の念は、日に日に色濃くなった、それは非常に苦い味がした。
 決して自分には与えられないものを、持っているのが普通だと言わんばかりに、手にしている気分はどうだろう、自覚もないか、そうだな、お前には、自覚すらない。
 悔しいだとか憎いだとか、そんな感情も勿論捨てた。
 いや、捨てようとしている、どんなに思っても無駄だ、選ばれなかったという事実を受け入れて邪魔な雑念は消せ。
 紫原の隣にいることは、だから不快ではなかった。
 不要なものは薄めて捨てて、この大きな子供を操る自分に満足すればいい、彼は畏敬の対象として充分な存在である、その彼に自分は誰よりも懐かれていると思う、持つべきは優越感だ、それから巧くてのひらの上で転がす手段を知ること、いまさら嫉妬なんて。
 戦意は必要である。
 だが、冷静な判断もまた必要だ。
 取り縋るのはいただけない、神はもうこちらを見ていない、見ていないというのなら最初からか、世界が不公平で成り立っていることなど、とうに理解していたはずではないか。
 手に入らないのならば、仕方のないことである。
 しかし、と時々思う、それならばお前には、手に入らぬものがあるのだろうか。
 そんなものはないのだろう、そうだろう、その大きな手で何でも掴み取る、可能性の塊、一身に神の恩恵を受けて、感謝もない不遜で我儘な子供。
 だったら、手に入らぬものを作ってやればどうか? 自分と同じように、焦がれても焦がれても手に入らぬものを。
 決して彼のものにはならない何か、その何かを、作ってやろうか?
 何故そんなことを思うのか、知らなかった、違う、そうではない、知りたくなかった。
 苛つくだけの感情が、まだこのこころのどこかに巣食っている、認めない、認められない、そんなものは押し潰したはずである。嘘だ、気のせいだ、冗談じゃない。
 だからただ、その想像は、そう。
 愉快だった。
 なんでも平然と手にしている彼が、欲しい欲しいと足掻く姿を頭の中で思い描くと、愉快だった。お前でも手に入らないものはある、自分と同じように苦しめ、実に見ものだろうよ、知れ、切望を、渇望を、絶望を。
 さてでは、何にしようか、お前が欲しくても求めても何をしても決して手に入らないもの、作ってやるんだよ、そうだな、ではそれは、オレのこころにしよう。
 自分のこころを欲しがって欲しがって、結局は一欠片も己のものにできなかったときの、彼の顔を想像するのは、快感だ。
 彼が自分を充分に気に入っていることは知っている、気に入っているというのではないか、意識している。容易だ、あんな男、つつけばすぐにこの手に落ちるさ、自分にかかれば造作も無い、なにせ相手は天才とはいえ大きな子供である。





 部活終了後、自主トレーニングに紫原を誘った。
 彼は、疲れただの菓子が食いたいだの、散々拒否を示したあと、氷室がにこりと笑ってやると、仕方ないなというようにその練習に付き合った。多分自分以外が彼を引き止めようとしてもできないだろう、子供というのはこう扱うのである。
 一時間ほど走り回ったあと、ロッカールームに縺れ込んだ。ふたりきり、汗だくで、軽く息も切れている、氷室が手を抜くなと命令したので、紫原も彼にしてはよく動いた、それはまあこうもなるか。
 ロッカーを開け、濡れたシャツを脱ぐ。先に着替え終わっていた彼の視線が、ふとこちらに向き、そこでぴたりと止まるのが分かった。ああいいとも、じっくり見ろよ、オレの身体は綺麗だろう。
 その眼差しに気付いたのは、実は意外と最近である。見られている気配に振り向くと、そこに紫原がいることは多かった、それは慣れたものではあったが、その目が色を帯びていると、気付いたのは。
 そういうものには敏感な方である。
 それなのに、紫原の視線が性的なものであると把握するのに、氷室にしては少し時間がかかった。
 図体ばかりがでかい、子供だと思っていた。雛が親鳥のあとを追いかけてくるように、自分を見ているのだと思っていた、勘違いだ。いや、最初はそうだったのかもしれない、年上で、自分を甘やかしてくれる、優しい男、しかしいまは完全に違う、そう知って見れば、結構露骨に欲を滲ませている目である。
 汗を拭いたり、スポーツドリンクを飲んだり、しばらくそうして裸体を彼の眼差しの前に晒してから、氷室はシャツをまとい、紫原を振り向いた。
「どうした、アツシ」
「オレさあ、今日、頑張って付き合ったと思わない? 室ちんの自主練」
 彼の声は甘くて緩やかで、いいと思う。
 どこかすっぽり抜けているような印象を受けるが、この男はこの男なりに繊細だということは知っている、それを表現するような声だ、とてもいい。
 氷室は小さく笑ってから、そうだな、ありがとう、と答えた、シャツのボタンを止める指先を、頸から下げたリングを、紫原の遠慮ない視線が辿り、最後にかちりと目が合った。
 短い時間見つめ合って、彼はすぐに目を逸らせた。あからさまなのだか臆病なのだか分からない。
「何かご褒美ないの。オレちゃんと相手したよね、今度は室ちんがオレの相手する番じゃない」
「分かってるよ、たくさんお菓子買ってあげるから」
「……そうじゃないし」
 普段はあまり表情を動かさない彼が、氷室の言葉に微かに眉を顰めて、一度は外した視線を噛み合わせてきた。そのまま、つかつかと歩み寄られ、間近に顔を覗き込まれて少し驚く、この頃の彼にしては珍しい距離の詰め方だ。
 彼はあるときから、氷室から一歩遠ざかるようになった。
 当然のごとく肩に回されていた腕が、躊躇いがちになり、やがて触れなくなった。
 彼は自分で気付いたのだろう、自分が氷室を見る目に、性的な色が宿ってしまうことを。だから容易く触れることができなくなってしまったのだ、そういう感情には慣れないかい、可愛い男だね。
 その紫原が、この至近距離か、開き直った? 覚悟を決めた? 挑発が挑発だと彼に知れたとは思えない。まあ知れたところで構わない、彼はおそらくは自分に逆らわないし、力尽くでどうこうされることもない。
 紫原は、氷室に対しては、従順だ。
 そのように躾けた、とっておきの微笑みで、優しい声で、仕草で触れる手で、そして自覚する美貌で。自分の容姿が何にも有利に働くことはよく知っている、邪魔な虫も寄ってくるがそれは税金みたいなものだ、仕方ない。
「知ってるよね」
 身を屈めた紫原は、吐息の触れる距離で言い、どこか苦しげに目を細めた。ああそんな表情は、と氷室は思う、自分以外の誰にも見せては駄目だ、この男はオレのものなのだから。
 似合わない、全く似合わない、すべてに恵まれて生きている男には、似合わない、悩ましげな目付きだ、彼はもし自分が去れば、あるいは自分に興味をなくせば、他の人間にその眼差しを投げるのか、そんなことは許さない、一生オレを見ていろ。
「オレが室ちんをどう思ってるか、知ってるよね、気付かないはずないよね。例えばいまここで、オレが室ちんをどうにかしようと思えば、できるんだよ、力あるし。でも、ふたりきりになった」
「何の話だ? まあ、暴力でオレに敵うと思わないほうがいいよ」
「ごまかさないで」
 やはり、この男は子供だ、駆け引きなんて知らないのだ。
 ぐいと肩を掴まれて、つい眉を歪めてしまう、彼が自分から距離を取るようになってからは、久し振りの感覚だ、彼としては力を入れているつもりはないのだろうが、少々痛い。
 綺麗な色の瞳が必死だった、美しい、この男のこんな目は自分しか知らないのだと思えば、知らず優越感が湧き上がった、悪くない、そしてそう、お前には決して手に入らぬものを作ってやらないと。
 オレのこころだ。
 でないとあまりにも、あまりにも不平等だろう?
 すべてを持っている男、何ひとつ持っていない自分、そうだ、あまりにも不平等だ、だからお前に欠落をやろう。
 すぐ目の前で、自分を見つめている彼の頬に、両手を伸ばした。彼は一瞬、ぎょっとしたように身体を離そうとしたが、睨み付ける目で見つめ返すと、氷室の肩に置いた手を引き剥がすこともできず、その場に固まってしまった。
 散々走り回ったあとなのに、彼の頬は少しひんやりとしていた。
 ほら、くれてやる、こんなものならくれてやるさ、ただしこころは明け渡さない、お前がどんなに欲しても。
 唇と唇が触れてしばらくは、彼は唖然と目を見開いて、すぐそばにある氷室の瞳を見ていた。滅多に見ない表情である、面白い。
 何度か音を立てて、触れるだけのキスを繰り返し、それでも彼が硬直したままなので、取り敢えず舌を入れた。彼はそこでようやく、何度かぱたぱたと瞬き、それから両腕を氷室の身体に絡み付かせ、もうどうしようもないというように力を込めて抱きしめた。痛い、この馬鹿力。
 さあ、どうだ? 唇なんて手に入ったら、余計に欲しくなるだろう、見てみたくなるだろう、それでもあげないよ、オレのこころはあげないよ、精々足掻け、欲しい欲しいと泣き喚け。
「は……」
 彼は、巧みとまでは言わないが、それなりには慣れているようだった。
 差し込んだ舌を、甘く切なく噛みしだかれて吐息が漏れる、なんだ? こんな行為は知らないのだろうと決めつけていたが意外である。
 誰がこの子供と、くちづけをしたのだろう。
 そう思うと、意味の分からない小さな痛みが、ちくりと胸に刺さった、抱きしめられる苦しさとはまた別の痛みだった。
 いや、いいんだ、過去などどうでもいい、いま、彼の目にオレしか映らないのであれば、それでいい、彼がオレを欲しがるのならば、それでいい。
 オレはこの世の誰よりも、お前にとっては、美味だ。
 男も女も関係ないね、お前はオレが一番、そうだろう?
 紫原は、氷室の舌に好きなだけ舌を絡め、歯を立てると、今度は自分の舌を氷室の唇に突き刺してきた。彼がしたのと同じように噛み付き、唾液を啜りながら、氷室は彼の少し長い髪を両手で掻き乱した、畜生。
 肌がひりひりする、自分はこの行為で快楽を得ているのか、キスなんて誰とでも飽きるほど交わしてきたのに、この男が何だというのだ。
 彼を自分のものにするための手段である。
 夢中にさせる、引き返せなくさせる、そのための手段である。
 それなのに。
 この身体を抱きしめる腕が、こんなにも力強くなかったら、完全に冷めていられたかもしれない、自分はこの男に何を見ているのか、崇拝も、憧憬も、苦いだけなのに、それでも夢を見るか。
 そばにいれば一緒に高みへ連れて行ってくれるかもしれないと?
 その片割れであれるかもしれないと?
 馬鹿な、自分で、ひとりきりで這い上がるしか方法はないのだ、しかも自分の前にある階段はひたすらに長く、天には繋がっていない。
「ん、アツシ、駄目だ」
 ぴちゃぴちゃと音を立てて舌を絡ませていると、不意にシャツの中へ、彼の手が忍び込んできた。両手で彼の髪を掴んでくちづけを解き、氷室は、濡れた唇の合間に甘く囁いた。
 薄く笑ってみせる。この顔が扇情的かつ支配的であることは知っている。抗えまい?
 そうだ、誰もオレに抗えなかった、欲望の前では誰も、簡単に捌けるんだ、そんなもの、指先だけで。
「こんな場所では駄目だ。誰かに見つかったらどうする? アツシ、いい子だから、手を退けて」
「……室ちん。自分からしておいて、ここでやめろってのは無理だし」
「少し待て。食事をして、風呂に入ったら、オレの部屋においで、入れてあげるから。ね、アツシ?」
 指先で優しく、綺麗な色の髪を撫で付けて、言い聞かせる。自覚があるのかどうだか知らないが、この男は美しいと思う。
 美しい、美しい、オレの獲物。
 そうだよ、抱き合おう、セックスしよう、オレはそう提案している。
 紫原は、うう、と唸り声を上げてから、氷室に巻きつけていた両手を離した。確認するように瞳を覗き込んできた目は、複雑な色を映していて、しばし見蕩れる、ああ、性欲だけでもないのか、そこには恋情があるのか、なるほど。
 了解しました、ならば話は尚更早い、この男を傅かせるのなんて簡単だ、天賦の才に恵まれた男が、オレの前に跪く、心地いい、その瞬間には神にさえ勝てる。
 彼は、じっと氷室を見つめてから、屈めていた背を伸ばし、じゃあ室ちん、早く帰ろ、と言って腕を掴んできた。彼がこんなに近くにいるのはいつ以来か、氷室は俯いて密かに笑った、実に容易だ、思い通りだ、もうお前はオレに夢中だろ。
 距離を取ることもできないほどに。
 キスを交わす最中に感じた痛みを、頭の中で、処理済みのブラックボックスに放り込む、惑うべきはお前だ、オレは少しも動揺しない、何も思わない。
 そう、迷って悩んで苦しんで、それでもお前はオレだけを見ていればいいんだ、そして気付け、決して手に入らないものがこの胸にしまわれていることを、たとえナイフで肌を切り裂かれたとしても、お前には、お前にだけは渡すまい。





 夜遅く、紫原は、ふらりと氷室の部屋を訪れた。
 まさにふらりと、たまたま通りかかりました、だから気紛れに、とでも言うように。
 拍子抜けしてしまう、ロッカールームであれだけがっついたくせにその態度はない、失礼な男である。きっちり中まで洗って、枕元にジェルのチューブまで投げた自分が馬鹿のようだ、こいつはやる気がないのか?
 いつもの彼と違う点といえば。
 菓子の類を持っていない、それだけだ。
 まあ多分それだけでも、彼にしてみれば一大事なのかもしれないが。
 紫原は部屋に入ってくると、無言のままドアに鍵をかけて、それから我が物顔でフローリングを踏み、ベッドにどさりと腰を下ろした。最近は彼がこの部屋にやってくることはまずなかったが、あるときまでは殆ど入り浸っていた、なんだかそのころに時間が巻き戻ったような気がして、氷室はひとり目を瞬かせた。
 苦しかった。
 諦めるまでは。
 或いは手が届くのではないかと、無駄に足掻く時間は苦しかった、長身の影を見つめるだけで、胸がきりきり痛んだ、あの感覚をふと思い出す、薄めて捨てて、それでもまだどこかにはこびりついている、紫原の態度はその錆のような感情を掻き立てた、蘇らせたくない、殺したい、オレはオレのこころを鉛の扉で覆いたい。
 ベッドに座った彼は、しばらく黙って目の前の空間を見つめたあと、特に困ってもいないような声で、ごめんね、室ちん、と平坦に言った。ドアの横に突っ立ったまま、氷室は小さく溜息を吐いた、ようやく喋りやがった、と思った、彼の言葉に感情があまり乗らないのは、いつものことである。
「何がだい、アツシ?」
「オレね、セックスしたことないの。誰ともしたことないの。だから、どうすればいいのか、なんとなくは分かるけど、なんとなくしか分かんない。いま、あんまり冷静でもないし、嫌なら追い出していいよ」
「……そうか。キスには慣れているのにな?」
 あまり冷静ではないのか。
 歩み寄って、ベッドを軋ませ、彼の隣に座った。彼の顔を覗き込むと、綺麗な色の瞳に見つめ返された、一見平然としているが、確かにその目は冷静ではない、焦燥と不安が透けて揺らめいて見える。こうなってしまうと歳相応、或いはもっと幼い印象である。
 誰ともしたことがない、と言った。
 彼を食らうのはオレがはじめてか。
 足元から這い上がってくる優越感は、いままでの比ではなかった、新雪に足を踏み込むみたいに、オレはこの天才に消えない痕をつけるのだ、そして何も与えない、唇、身体、それしか与えない、こんなに愉快なことがあるだろうか、神が見ているのならば精々唾を吐いてやる。
 お前の愛した子供は、オレのものだ。
 紫原は、だってキスじゃ誰も壊れないし、と僅かに目を細めて呟き、それからするりと視線を逸らせて淡々と言葉を繋げた。
「だからキスくらいはするし。でも、セックスはないでしょ、オレが例えば女の子に乗っかったら死んじゃう、そもそも入らないんじゃないの、裂けて死んじゃう」
「女性の身体は受け入れるようにできているんだから、そんなに心配しなくてもいいと思うけど。やっぱりやめるか? 女がよければよそで探せよ」
 最後は少々乱暴な口調を使う。
 彼は、逃していた眼差しを氷室に戻し、じろりと睨み付けて、意地悪、と低く言った。知らない人間が聞けば怖いのかもしれないが、これは単純に拗ねただけである、そのくらいは知っている、長くも短くもない付き合いだが、その時間はひどく濃密だったから。
 死んじゃう、か。お前は優しいね。
「室ちんがいいから、ここにいるんでしょ、オレ。分かってるくせに」
「……アツシは可愛いな」
 ああそうだ、可愛いよ。
 オレにかかればいちころだろう、こんな男は。赤子の手をひねるより楽だ。
 立ち上がり、ベッドに座る彼の目の前で、わざとらしく時間をかけて服を脱いだ。その動きをじっと見つめている紫原に、にこりと笑って、お前も脱ぐんだよ、アツシ、と囁いた。逃がさない、逃がすものか、オレと抱き合ってお前は何かを失うんだよ、そして一生焦がれるんだ、欲しくて、欲しくて、それでも手に入らないものを、追いかけ回せ、オレはその姿を見て悦に入りたい。
 彼は言われるままに、のろのろと服を脱ぐと、全裸の氷室に手を伸ばし、あっさりシーツに押し倒した。慣れているようにも思える動作だったが、まあここまでか、彼にしてはよく頑張りました、取り敢えずミスといえば女がどうとか口に出したことくらいで、それ以外にはない。
 無駄に体格のいい男ふたりが絡まるベッドが、ぎしりと軋んだ。狭いし煩いし、これなら床でやったほうが楽しめるかとも思ったが、言わないでおいた。電気も消さなくて構わないだろう、よく見ればいい。
 両手のてのひらを這わせて、覆いかぶさる紫原の身体を探る、何をしたわけでもないのに、半ば反応している彼の性器は、確かに、裂けて死んじゃうと彼が言うだけはある、ちょっと引くようなサイズだった、全体がでかいのだからパーツもでかいのは当たり前か。
「好きにしていいよ、アツシ、オレはそんなにやわじゃないから、少しくらい無理しても、死なない」
 押し倒してはみたものの、それからどうしたらいいのか分からず、困ったように自分を見下ろしてくる紫原に、うっとり笑って氷室は言った。
 この男はほんとうに知らないのだと、いま自分を組み敷いているのがはじめてなのだと、そう思うだけでぞくぞく肌が震える、奪ってやるよ、実に愉快だよ、オレが決して手に入れられないもの、それを簡単に手にしている男をこの手で奪うのだ、笑っちまうぜ、さあいま誰が一番優位に立っている?
 オレだろう、間違いなく。
 何ひとつ与えられなかった、このオレだろう。
「それとも、教えようか? お前のしたいようにしよう、アツシ、どうしたい」
「……教えてよ、室ちん。室ちんが痛いのは、いや」
「アツシはとてもいい子だね、オレのことなんか気にしなくていいのに。じゃあ、これで、広げて」
 枕元に放ってあったジェルのチューブを渡すと、彼は、じろりとそれを見やってから、素直にキャップを開けた。まったくもっていい子だ、それに尽きる。
 彼は従順だった。
 氷室の言葉に従って、慎重に指を使い、その場所を解した。
 長い指を差し込まれ、思わず喉の奥で呻くと、瞼に不安がるくちづけを落とされた。オレの指、太いよね、痛いの。首を左右に振り、淡く笑ってみせる、じわりと肌に汗が滲むのが自分で分かった、これは、快楽だ。
 この身体に、いまさら痛みなどはない、散々使い倒したし、これからも使う、そうやってしか生きていられないのだ、他に使えるものもなし。
 自分の手で押さえる脚が、微かに震え始める、卑怯者め、頭の隅で誰かが喚くがもう遅い。仰る通り、オレは卑怯者だよ。
 紫原の手は、馬鹿みたいに大きい。
 その指を三本突き刺されたときには、さすがに唇の端が引きつった、結構な異物感だ、いや、このくらいしないと多分入らないのだが。
 単純な快感が欲しくて、前立腺の場所を教えると、彼は意外にもあっさりそれを把握した。指先でぐいぐい刺激され、小さく声が散る、場所が場所だけに好き勝手喘げないのは残念だ。
「は、あ……ッ、アツシ、気持ちいい。もっと、ぐちゃぐちゃに、濡らして」
「慣れてるんだね、室ちん。どうして?」
「ん……。そんなの、秘密、だよ」
 彼の、熱を灯す綺麗な瞳に、僅かな嫉妬が過る、それが心地よい。
 時間をかけて指で開かせてから、氷室は、彼の性器に手を伸ばした。口でしてやろうと思っていたが、それが充分屹立していたのでやめた、その欲情が冷める前に咥え込んでしまったほうがいい。
 シーツに投げ出されていたチューブを掴み、彼の性器にジェルを塗り付けた。彼はされるがまま、微かに息を乱して氷室の手を見ていたが、もう入れていいよ、と言うと、あからさまに喉を鳴らした。
 自分の身体を持て余す、大きな子供、オレは、その体躯が欲しかったよ、それから、スピード、力、もっともっと。
「室ちん、裂けない? 結構きつきつじゃない?」
「裂けない、大丈夫。ゆっくり入れてくれ、アツシ」
「痛くなったら、ストップって言って、オレ、ちゃんと止まるし」
 アツシ、と氷室が彼の名を呼ぶたびに、彼はどこか苦しげに目を細めた、そうだな、恋愛感情だな、そんなものは。
 うつ伏せのほうが楽なのだろうが、彼の顔が見たいので、背をシーツに擦りつけたまま自分で脚を抱えて彼を誘った、きっとこの男は素晴らしい表情をするだろう、普段あまり感情を見せない彼が浮かべる、愉悦の顔とはどんなものか。
 彼は一瞬躊躇いを見せたが、氷室が薄っすら笑ってみせたので、それで制御のラインを一本切ったらしかった。その余裕が悔しかったのか、明らかに他人を知っている身体に怒りを覚えたのか、それでも欲しがる自分が嫌だったのか、それともその全部なのか、なんとも言えない眼の色をして、覆いかぶさってくる彼に満足した。
 挿入は、確かに慣れていない様子だった。
 怖いのか? オレを壊してしまうことが。怖いのに、逸るのか。
「ああッ、アツシ、ゆっくりだ……」
 太い先端を、半ば強引に押し込んだところでひとつ吐息を漏らし、それからぐいと更に突き刺してこようとする彼に、声をかけた。なるべく柔らかく言ったつもりだが、どうだろう、いくら使い倒した身体とはいえこのサイズは知らない、衝撃に目が眩んで巧く目を開けていられなかった。
 彼は、氷室の言葉に一瞬肌を強張らせてから、要求通りじりじりと差し込む動きに変えて、ねえ室ちん、痛くないの、と掠れた声で言った。ぱたぱたと彼の身体から落ちる汗が肌に散った、この感じは嫌いではない、必死な相手を飲み込む感じは。
「痛く、ないよ、アツシの、は、気持ちいい」
「全部、入れていいの」
「いいよ……」
 気持ちがいい、それは嘘ではない。厄介といえば厄介な大きさだが、まあぎりぎり入るだろ。
 彼は氷室の身体に覆いかぶさり、きっちり根本まで埋め込んでから、はあ、と大きく息を吐いた。こうしてみるとやはり身体の大きい男だなと、快感と違和感でがんがん痛む頭の隅で思う、違う、羨ましいだとか妬ましいだとか、そんな感情はもう捨てたのだが。
 それでも、胸がきりきり痛む。
 この恵まれた体格を、彼はどう認識しているのか。幸運だとは思うのだろう、だが、影がある。
 死んじゃう、そんな言葉を、口に出すほど邪魔か?
「……室ちん、これで、オレのものになる?」
 奥まで入った位置で、腰を揺すりあげて、彼は苦しげにそう言った。チェーンで頸から下げていたリングが、肌からシーツに落ちるのが分かった。
 なんとか眼差しを上げると、視線が重なった。美しい、美しい男だ。
 さあ、どうですか。
 捕まえた、神が愛した子供をひとり、あとは鬼ごっこだ、決してオレは捕まらない、お前はオレを手に入れられない。
「ならないよ……。オレは、お前のものには、ならない、アツシ」
「室ちん」
「動いて。もっと、気持よくなろう、ね」
 淡く笑ってやると、彼は一瞬泣き出しそうな目をして、氷室を睨みつけた。感動を覚えるほどの剥き出しな瞳だった。これが選ばれたものの表情か、ただの男じゃないか。
 そうだ、こんな行為に、天才もクソもあるか。
 深く突き立てられた性器を、意識して締め上げると、彼は小さく呻いてから、腰を使い始めた。ずるずると内壁を掻き回され、微かな声を上げてシーツに沈む、オレは性的だろう、お前の知らなかったものだろう、溺れろ、オレに、嵌まれ、オレに、いま侵されているのはオレではなく、お前のほうだ。
 オレのものになるか、と。
 そんなことを訊く男、手に入れるのは造作もない。





 腰が痛い。
 無理をされたとか、無茶をされたとか、そういうことはなかった、待てと言えば彼は待ったし、少し休みたいと頼めば彼は動きを止めた。
 それでも、セックスにかかった時間は長かった、馬鹿じゃないかと言いたくなるくらい長かった、何度も中に出された、彼はなかなか満足しなかった、いずれ氷室が受け入れたからではあるが。
 快楽はあった、彼よりも多く達したと思う、泣きごとは言わなかったが、泣きはした。
 なんだかもうよく分からない愉悦に追い詰められて、頭がおかしくなりそうだった、そんなことがいままであったろうか、少なくとも記憶にある限りはない、それでも。
 オレのものになるかと問われれば。
 ならない、と答えた。
 もう見栄もなく、彼の見ている前で尻に自分の指を突き刺し、なんとか注ぎ込まれた精液を掻き出して、気を失うように眠りについた。朝練の時間に合わせてあるアラームが鳴り、はっと目を覚ますと、狭いベッドで自分を抱きすくめている紫原の腕の中にいた。いつの間に服を着たのだか、記憶にない。
 腰が痛い、そのうえ頭も痛い、畜生。
「アツシ。起きろ、アツシ、朝練」
 すやすやと平和そうな顔をして眠っている大男の髪を引っ張って、声をかけた、少し掠れてしまうのが憎たらしい、こんな場所である、そんなに喚いていないのに。
 彼は、ああ、とか、んん、とか、いつもの調子で唸って目を開けると、そこに氷室がいることに驚いたのかぱちぱちと瞬きをし、それからたっぷり十数秒は沈黙してようやく、昨夜のことを全部思い出しましたという目の色になった。
 のそりとベッドの上に起き上がり、一緒に身を起こそうとした氷室の頭を、枕に押さえつける。
「……眠い。腹減った」
「早く食事して、朝練に行こう、アツシ。手、離してくれ」
「ねえ室ちん、身体、大丈夫なの」
 じろりと見下ろされる。相変わらず感情の読みにくい目付きだが、この男が自分を心配していることは分かる、甘い。
 大丈夫だよ、と答えると、彼は、ふうん、と呟いて、じゃあまさ子ちんに言っとくし、今日は練習休んで、と続けた。どのへんが、じゃあ、なのだか理解不能だ、大丈夫だと言ったはずだが。
 彼は氷室から手を離し、ベッドを軋ませてフローリングに立ち上がると、ひとつ大きく伸びをして、怠そうな声で言った。ベッドに横たわったまま見ると、尚更大きいな、と思った、脚も腕も長い、スポーツはともかく生活の面では不都合もあるのかもしれないが、まあ、電球の交換には便利そうである。
「室ちん、オレのものになる?」
 しつこいな。
 簡単に嵌まりやがって、それはそうだ、オレがそう仕向ければ誰もがそうなるのだ、そのうえお前はオレに惚れているのだろ。
 ならないよ、と繰り返してから、ずきずき痛む頭を枕から上げ、恐る恐るシーツの上に身を起こした。まともに座れもしないのかと思ったが、それは意外と平気だった、慣れているのだ、こんな子供にがつがつ貪られたところで、どうということもない。
 お前のものになるかって?
 馬鹿め、なるわけがない。
 なんでも持っているお前が、唯一手に入れられないものに、ならなければいけない。欲しがれよ、泣いて欲しがれよ、オレのこころはお前などには差し出せないよ、残念でした。
 求めても求めても得られないものがあると知れ、そんなもの、いままでなかったろう、魅せられて惹かれて喉から手が出るほど欲しくて、それでも手に入らないもの。
 オレのように。
 オレのように苦しめ。
 これは神への復讐である。あんたの選んだものに、総てが与えられると思っているのならば、間違いだ。
 他の誰に分け与えても、この男にだけは捧げない、醜い嫉妬か、黙れ、そんなもの、穴を掘って埋めて、捨てて、ああでも。
 それができていたならば、素直に愛せたかもしれないね。
「室ちんが強情なのは、知ってる」
 ひとつ欠伸を洩らしてから、紫原は氷室を見下ろして、淡々と言った。甘くて緩やかな声、好きだ、大きくて可愛い子供、ほんとうは優しくて傷付きやすくて、健気な子供。
 羨ましいだとか妬ましいだとか。
 悔しいだとか憎いだとか。
 薄めたつもりか、消したつもりか、嘘つき、こんなにもどろどろとこの胸に溜まっているのに、憧憬の念は確かにあるが、そんなものはこの汚泥の中では。
「意地っ張り、狡くて意地悪。でも、きっとそのうち、オレのものになるし」
「……ならないよ。他の誰のものになっても、お前のものにはならないよ、アツシ」
 狡くて意地悪なのは確かだ。
 にこりと笑って言葉を返すと、紫原は、珍しく露骨に眉をひそめて、なんで、と問うた。分からないか、分からないだろうな、お前には。
 どんなに手を伸ばしても届かぬ場所に、平然と立っている者、彼は最初からそこにいたのだ、手を伸ばすまでもなく。
 ごめんね、アツシ。
 でもね、悪いのは、オレじゃない。
 少し考えてから、指先で、頸から下げたリングに触れ、すぐに手を離した。ますます険しい表情になる彼に、これ以上ないほどの、極上の笑みを浮かべて答えた。
「復讐だから」
「……意味分かんない」
 紫原は、氷室の言葉にその表情のままぽつりと漏らして、くるりとベッドに背を向け、大きな歩幅でドアに向かった。朝練終わったらまた来るから、と言い残して出て行く彼の背中を見送って、ひとりベッドの上で膝を抱え、氷室はくすくす笑った。
 惨めだ。
 そうだよ、お前のものだよ、と、言えたら楽になるのだろうに。
 ねえ、どんな気分? 欲しいものなら何でも手に入れてきたんだろう、右の端から左の端まで全部、手に入らないものはなかっただろう、その子供が、はじめて手に入らないものに出会った、ねえ、どんな気分?
 知っている。
 これは復讐などではない、幼稚な執着、まだ捨てきれない願望が醜く変容したもの。
 知っている。
 お前は何も悪くないのにね、アツシ。
 触れたら死んでしまうからと、誰にも手を伸ばせずに生きてきた、可哀想な子供を抱きしめるだけの力は、自分にはまだない。

(了)2014.02.05