いい顔見せてよ


 好意を告げたのは、好きだからだ。
 それに間違いはないが、単純に、恋情だとか愛情だとか、だけであるかと問われれば、多分そうでもない。
 氷室辰也が好きである。
 美しい容姿が好きだ、色気のある声が好きだ、それ以上に、その屈折した精神が好きだ。捻れていて拗れていて思考の罠に自ら落ちる、助けてくれと素直に言えない程度にはプライドが高く、それでも全身で助けてくれと懇願している、素晴らしい。
 これが氷室でなければ、おそらく見向きもしなかったろう。面倒くさいし、鬱陶しい、そんな男は嫌いである。彼は特例だ、綺麗な笑顔の裏で、ぐるぐると暗闇の中をうろつき回る、あからさまにされれば切って捨てる、しかし、彼は隠そうとするから。
 悪くないね、オレの前でその惨めな姿を晒してごらんよ。オレの前でだけ、晒してごらんよ。
 悩むかな、と思った。
 自分が好意を告げれば、このひとは、悩むかな。
 彼が苦悩する姿を思い浮かべると、ぞくぞくした。その感情の正体は分からないにせよ、少なくとも快感の一種ではある。苦悩の原因が自分である限り、それでいい、散々悩んで、いい顔見せてよ、氷室辰也。
 あるいは自分のほうが、捻れて拗れているのかな、とは思った。
 知るか。ほら、ねえ、オレに必死になって、オレに夢中になって、室ちん。
 秘すこともできたが、だから、敢えて告げた。
 彼はまず非常に複雑な顔をして、返事は待ってくれ、と小声で言った。そんな彼の表情はあまり見ない。そして案の定、悩んだ、一週間ほどか。
 気持ちがよかった。
 そうだ、悩め、悩め、氷室辰也。オレのことばかり考えて、オレで頭をいっぱいにして、悩め、いいね、まったく好ましい。誰も隙間に入り込めないくらいに、朝も昼も夜もないくらいに、こころの中をオレで塗り潰して、全部全部、オレの色で染めてしまえ。
 そうだね、確かに快感だよ。
 好意を抱く人間が、苦しむさまが見たいだなんて、気違い沙汰だ、でも、このひとは自分のために苦しんでいるわけだから。
 部活の最中でさえ、彼は時折その綺麗な瞳に、困惑をちらつかせた。めったにない、どころか、はじめてではないか? さすがに、フォームが崩れるだとかパスの軌道が狂うだとかいうことはなかったが、例えば休憩のときにタオルを渡す手が掠めただけで、彼は眼差しを強張らせ、目の縁を赤くした。
 可愛いね、室ちん。一言、ノーサンキューと言ってしまえばいいだけなのに、馬鹿なの。
 まあ、もちろん、彼がそうはできないことを把握して、告げたのではあるが。
 彼は自分を拒絶できない、知っている。氷室に自覚があったのかなかったのかは分からない、しかし彼にとって自分は特別な存在であることは、知っている。恋情とか愛情とか、そんなものではないのだろう。嫉妬も羨望も、憎悪も憧憬も、一緒くたに詰め込んだ目で、彼は紫原を見る。
 背中からしがみつけば、よろこぶ。
 差し出される菓子を受け取ってやれば、よろこぶ。
 好きだから、可愛いから、それは多分その通りだ、しかしそれだけではない。懐かれるのは嬉しい、大きくて強い、天才に好かれるのは嬉しい、でもね、アツシ。
 妬ましいよ、悔しいよ、オレはおまえが憎たらしいよ。
 ちょっとした好意と優越感と、負の感情をぐちゃぐちゃに混ぜ合わせて笑う。
 ああそうだな、自覚なんてないか、どうして己がよろこぶか、彼は理解していなかったに違いない。ダブルエース? 結構だ、オレはおまえの隣に立つだけの価値はあるさ、アツシ、でも、お前はオレじゃ物足りないか、だってオレは何も持っていない。
 だからせめて。
 抱きしめてくれ、名前を呼んでくれ、この手から甘いチョコレートを盗んでくれ、お前のためならばなんでもしてやろう、オレを好きになって、疎ましがらないで。お前に愛されなければ、オレは欠落品なんだ。
 理解していなかった、あるいは、理解したくなかった、そうでしょう?
 じゃあ、理解して。そして、悩んで。
 紫原が好きだと告げてから一瞬間、氷室は散々考えたらしかった。いつも通りに触れる手を、振り払いこそしなかったにせよ、そのたび不自然に視線を揺らせて自分を見た。どう? 苦しい? 己の汚らしい感情と向かい合うのは苦しい?
 オレのこと、好きなんだろ、そして嫌いなんだろ、分かってるよ、そしてどうあれ彼は自分を失うわけにはいかないのだ。
 オーケイ、アツシ、オレもお前が好きだよ。
 悩んだ結果、紫原にそう答えた氷室の声は震えていて、気分がよかった。
 そこにあるのが恋愛感情なのか、打算なのか計算なのか、そんなことはどうでもいい。彼が自分のことで目一杯になって、自分以外のものを瞳に映すこともできなくなって、苦悩してくれれば充分だ、取り澄ました笑みなんかより、いい顔見せてよ。
 掠れた声を、聞きたかったさ、好きだよ。
 ふたりはそうして密やかな恋人になった、春だ。自分がどうしてこのような欲を抱くようになったのかは、多分知っている。冬のゲームで、殴られ、泣かれたからである。
 抱え込んでいた鬱屈と、鮮やかな怒気で感情を高ぶらせた彼は、それはそれは綺麗だった。
 普段であれば、鬱陶しいと背を向けたろう、そう、相手が氷室でなかったならば。当然だ。ゲームの最中に、泣く? 他人の胸倉を掴んで、泣く? 衆人環視の中、泣く? ありえない、信じがたい。
 ただ、彼がとても綺麗だったから。
 殴られた頬はまあ痛かった。それでも抗うことを忘れた。彼ははらはらと涙を零しながら、笑った。ぞくりとこころの中で何かが蠢いた。
 好きだというのなら、それ以前から確かに好きではあったが、惚れたというのなら、あのときか。
 ねえ、いやというほど苦しんできたんだろう、少しは涙で洗い流せたの?
 癖になるね。
 純粋な感情ではない、承知している。恋情、愛情、存在している、そしてそれ以外も存在している。自分の言葉で、自分の行動で、態度で、思い悩んでほしい、そして泣いてほしい、あのときのように。
 そうすれば彼はオレのものであると言えるだろう。
 満足だ。だから、いい顔見せてよ、室ちん。
 梅雨のさなかに、ベッドに誘った。唇に触れたことはあるが、肌に触れたことはなかった、自分にしては耐えたほうである。
 悩むかな、と思った。
 彼はやはり、まず当惑して、ぱちぱちと目を瞬かせた。それから、潜めた声で囁いた、笑ってしまいたくなるようなセリフだ。
「……アツシの好きは、セックスを含むのか?」
「それは含むでしょ、子供じゃないんだし。ねえ、オレ、結構我慢したと思うけど?」
「そうか……」
 視線を下に外し、伏せがちな目で、彼はしきりに瞬きを繰り返した。これは悩んでいるときの癖だ。そう、いい顔だ。
 睫毛が長いな、と考えるでもなく考えていると、彼は今度は一週間は待たせずに、その場で答えた。あいだ数分? この男にしては早い返事ではある。
 真っ白だった顔に、ふわりと血の色が差した。
 恐ろしいほどエロティックだなと、殆ど感心した、知ってはいたが。
「オーケイ、アツシ、オレもお前としたいよ」
 さて、何を考えた? 断れば断れる、でも、断ったら嫌われる、捨てられるかもしれない、オレはお前を手放せないんだよ、アツシ、だから、だから、そんな感じ?
 見上げてきた瞳の色が必死で、それが心地よかった。
 もっと、もっと、必死になってみせて、殴っても泣いても結局は切り捨てられない嫉妬に、焼かれながらオレの隣で苦しんで。
 その顔が見たいんだ。
 でも、する場所なんかないよ、アツシ、呟いた彼の耳元に、わざと低く言った。彼は自分のこの声が結構好きらしい、くちづけの合間に名前を呼んでやると、小さく震える程度には。
「夜、室ちんの部屋に行くから、いい子に待ってて、逃げないでね」
「……さすがにばれるだろう。どこか、外に」
「無理、余裕ない。室ちんが、派手に悲鳴を上げなければ、大丈夫だよ」
 遊んでいそうな印象を受けるが、この男はこれで案外、奥手であるようだ、観察してきた限り。
 紫原の言葉に、氷室は眉を寄せて、仄かに呼吸を喘がせた。いや、無意識なのだろうが、いまからそんな性的な顔をされても困る。
 ひとつ、浅く頷いた彼の顔を覗き込んで、中まで洗える? と期待はせずに緩く訊いた。
 彼は、一瞬迷ってから、もうひとつ、浅く頷いた。違うな、印象通り、こいつは、遊んでいるのか。オレに対して奥手なだけだ。
「男と寝たこと、あるの」
「……嘘はつかない。ないわけじゃない」
 あ、そう。
 彼がひどく苦しげな表情を見せたので、それ以上の追求はやめた。誰と? いつ? どうして? 訊けば訊けたが、自分が惨めになるだけだ。
 アツシ、と弱々しい声で言った彼の髪を、片手でぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。そうだ、悪くないね、悪くない、オレに申し訳ないと思うのか、ならば罪悪感を持て余せ、そして、いい顔見せてよ、氷室辰也。





 氷室は従順だった。
 身体中にキスを降らせると、それだけで彼は肌を赤く染めた。
 場所が場所なので、殆ど声はなかったが、漏れる鋭い吐息は紫原を欲情させた。
 少しくらいは抵抗もされるかと思っていた。しかし、そのようなことはなかった、氷室はまったく素直に紫原に従った。愛情からなのか、犠牲的精神なのか、やはり打算か計算なのかは、知らない。
 こんな行為には、慣れているのだろう。そう思わせるためらいのなさだった。
 事実彼は慣れていた。自分で足を押さえて、と言えば、特に困りもせずに相応しい格好をしてみせたし、力を抜いて、と言えばその通りにした。慣れていなければ、こうはできない。
 たっぷりジェルを塗り込めてから指を挿し入れた場所は、最初こそ食いちぎられそうなくらいにきつかったが、すぐに紫原に馴染んだ。美貌を見やると、うっとりしたように目を伏せていたし、一度勃ち上がった性器が萎える様子もない。
 胸に何か黒いものが湧いた。
 どんだけ慣れてるの? このひと。
 兆した苛立ちは隠さずに、少し雑に指を増やした。三本目の指を入れたときに、氷室はぱっと目を見開いた。瞳が濡れている、綺麗だ、泣くなら泣いてくれよ、オレの目の前で、オレだけの前で。
「アツシ……ッ、ゆっくり、苦し、い」
「苦しい? そんなふうには見えないけど? これだけ慣れてれば、いまさら苦しいも何も、ないでしょ」
「……オレは」
 噛み合った視線がゆらりと揺らめいて、彼は結局目を閉じてしまった。中途半端な言葉には、続きがなかった。哀しそうに震える唇を噛む、その顔に見蕩れた、加虐的な欲を唆る表情だ、ああ、素晴らしいね、実に素晴らしい、氷室辰也、好きだよ。
 苦しいくらいが、ちょうどいい。
 ぬるいセックスで過去に埋もれるよりは、いま、オレでいっぱいになってみせてよ。詰られて傷つけよ、もがけ、足掻け、自分の慣れた身体を憎め。
 いい顔見せてよ。
 右手で彼を広げながら、左手で自分の性器を緩く擦った。触れなくても充分に反応している自分に呆れたが、構わない、オレはこのひとの潤んだ目が好きだ、見つめられれば勃つ程度には。
 準備にはそれほどの時間を要さなかった。
 指を抜いた場所は、赤く開いていて、ぞくぞくと鳥肌が立った、興奮した。
 氷室のことが、好きである。
 もちろんだ、でなければこんな行為はしていない、ただ、自分が抱えているものは、純粋な恋情、愛情だけではない、そんなに可愛らしいものではない。
 拗れて縺れた氷室が好きである、それを必死に隠す彼が好きである。
 苦悩してくれ、オレのためだけに、悩んで悩んで、泣いてくれ。
 オレもこのひとと同じように、拗れて縺れているよね。
 ひとはこの感情を、なんと呼ぶのだろう? 恋愛とは呼ばないか、執着か、でも、そうだな、ならば恋愛などよりもよほど強く濃い感情だ。苦しむのならばオレの腕の中で苦しめ、その姿を見ている時間が、大好き。
 紫原が覆いかぶさると、彼は、噛みしめていた唇を解いて、はあはあと乱れた呼吸の合間に、囁いた。
「好きだ、アツシ……」
 目眩がするようだった。へえ、そんなことを言っていいんだ、だってあなたどうせ、オレに縋っているだけなんじゃないの、オレを失えないから、オレに捨てられるわけにはいかないから。
 見下ろした瞳は、複雑な色をしていた。
 好きだ、それは嘘ではないのだろう、しかし、この男が抱えているものも当然、純粋な恋情、愛情だけではない。どろどろとした嫉妬、その他諸々、隠せてないよ、室ちん、ほんとう、可愛いの。それでも好きだなんて言っちゃうんだ。
「オレも好き、室ちん」
 薄っすら笑って言葉を返してから、べたべたに濡らした場所に性器を押し当てた。いくら指で開いたとはいえ、簡単には入らないそこに、半ば無理やり先端を捩じ込む。
 氷室は微かな声を上げた。
 それから、脚を押さえていた右手を外して、咄嗟に口を覆った。快感と苦痛に歪んだ、いい顔だ。
 彼が手放した脚を、さらに折り曲げさせて、じりじりと根本まで押し込んだ。待つのはやめた。きっとこの身体は、少々強引にしないと、この夜を記憶にも残さない。
 口を塞いでも漏れる、密やかな喘ぎが、熱を煽った。
 そうか、そんな声も出すのか、知らなかった彼をまたひとつ見つけた。
「ん、は……ッ、あ、アツシ、おおきい」
「うん。おれみたいなの、知ってる? 知らないよね? ああ、でもアメリカだと珍しくないの?」
「知ら、ない……アツシ、が、いい」
 長い睫毛で縁取られた瞼が上がって、いまにも泣き出しそうな目に見上げられた。この男はほんとうにいい顔をする。
 他の男に抱かれた身体でごめんなさい、でもお前がいいんだよ、懸命に眼差しで訴えられるが無視をした、さあ、それならば、もっといい顔見せてよ。
 彼の中は、やわらかく、あたたかく、それからきゅうきゅう吸い付くように蠢いた。
 快感を覚えているのだろう、その通り彼の性器はきつく勃起していて、紫原を満足させた。このひと多分、後ろを突かれるだけでいけるんだろうな。
 最初から、あまり遠慮もせずに腰を使った。
 綺麗な瞳は瞼に隠れてしまったが、まあいい。
 見下ろす彼は、どこを狙って刺激するよりも、単純に深く穿ったときに、快楽と苦悶のあいだぎりぎりの、感じ切っている表情を見せた。なので、奥を貫いた。
 素晴らしいね。
 眉を寄せ、きつく目を閉じて、オレに揺さぶられている。こういう姿を見たかった、好きだ、このまま時間を止めて、オレがすべてになってしまえ。
 オレの与える快楽で、飽和してしまえ。
 言うほど酷いことをしたつもりはない、しかしまあ、確かに知らないサイズだったのだろう。しばらく大きな動きで彼を抉っていると、彼は苦しそうに片手でシーツを掻きむしり、小さな、掠れた声で言った。色に濡れていて、いやらしい。
「アツ、シ……ッ、も、いく。無理……、いきたい」
 ああ、たまらない。
 耳まで血色に染め上げて、彼は非常に美しく、性的だった。そうだ、彼のこんな表情を見るのは、もうオレだけであればいい。
 気持ちいい? 誰よりも気持ちいい? 知ってるよ、室ちん、あなたはオレが大好きだ。
 動きは緩めないまま、答えた。彼の内側が痙攣しはじめていて、それが鳥肌が立つほどの快楽になった。
「もう? いいよ、いけば。どうしてほしい?」
「その、まま……、ああ……ッ、ぜんぶ、入れて、くれ。いくから……ッ」
 微かな声だったが、はっきりとした口調だった。慣れているのだ。
 根本まで押し入れて、その位置で揺すり上げると、彼はあっけなく己の腹に達した。ひときわ強く締め付けられて、思わず熱い吐息が漏れた、ああ、たまらない、たまらないよ、このひとオレでいってるんだ。
 いまこの瞬間に、彼は自分のものである、間違いなく。
 これでこのひとが、オレに溺れてしまえばいいのに、明日も明後日も、朝から晩まで快楽の記憶に浸って、泥沼に沈んでしまえばいいのに。
 彼の綺麗な瞳が、自分以外の人間の姿を、映すのがいやだ。
 何も見えなくなるくらいに、オレのことだけ考えて、そうだな、苦悩がいいだろう、彼にはよく似合う、いくらだって苦しめてあげるし、いくらだって悩ませてあげるから、ねえ、オレしか見ないで、そして、いい顔見せてよ。
「……すごい締まるね、室ちん。中、ひくひくしてる、いい。このまま続ける? 抜く?」
「抜い、て……! 飛ぶ……、声、無理……ッ」
「ふうん。そんなに感じちゃうの? じゃあ、抜くけど、オレのこともいかせてね」
 切れ切れの言葉でも、言いたいことは分かった、なので素直に腰を引いた。確かに彼は、射精のあとも絶頂の波から下りられないというように、全身を硬直させていた。このまま続けたら壊れるかもしれないな、とは思った、そんな姿も見てみたいが、彼の主張通り、場所が悪い、こんなところではわあわあ騒げない。
 くたりと脱力した彼の腕を掴み、シーツから下ろした。
 ベッドの端に座って、フローリングにぺたんと座り込んだ彼に、自分の股間を指さしてみせた。
「ほら。オレまだいってないし。室ちん、がんばって」
「……ごめん、アツシ」
 呼吸を喘がせながら、氷室は何故か謝った。この男は確実に慣れているのに、どこか偏った印象を受けた。彼のしてきたセックスは、あまりいい経験ではないのだろうか。
 それから彼は、紫原の両脚の間に肩を入れて、ついいままで己の中に入っていた性器を、少しの躊躇もなく、咥えた。手を使うとか、舌を出して舐めるとかではなく、口に入れた。なかなか大胆だ。
 いきなり強く吸い上げられて、少し驚いた。この男は自分の前では、普段奥手なのである。自らはキスをしないし、抱きしめるのだって紫原の仕事だ、それがこれか、自制心のヒューズでも切れたのか?
 見下ろす彼は、瞼を伏せ、睫毛を震わせて、綺麗な唇でグロテスクな器官を飲み込んでいた。色白の肌を仄かに色づかせているさまが非常に色っぽい。腹を精液で濡らし、男の前に跪いて、懸命に性器に食いついている、こいつはまったく目の毒だな。
 いい顔だ、いい顔しているよ、氷室辰也。
「ふ……、う、ん……ッ」
「気持ちいい。室ちん、上手だね、もうちょっと奥まで入る?」
「は、あ……ッ」
 頷こうが、首を横に振ろうが、関係ない。返答を待たずに、彼の黒髪を掴み、ぎりぎりまで引き寄せて喉の奥に性器を突き立てた。
 どう? 気持ち悪い? 誰よりも深い? そうだ、知らない場所まで、開いてしまおう、抗えないだろう? もっともっと。
 彼は必死に吐き気を堪えていた。いくら髪を掴まれているとはいえ、本気でいやがれば逃げられたはずだ、それでも彼はそうはしなかった。奴隷のように唇を明け渡し、唾液の音を立てて吸う、苦しげに歪む美貌が素晴らしい、オレはオレで苦しむ彼の顔を見るのが、大好きだ。
 長い時間楽しみたいとは思ったが、もう無理だ、とでも言うように、彼が薄く目を開けたので、それ以上苛むのはやめた。本当に嘔吐させたらあまりに哀れだ。
「もういける。出すから、飲んで」
「ん……ッ」
「喉締めて、そう、出るよ、いい顔見せて、室ちん」
 艶やかな黒髪を握りしめて、最後に数度、性器の先端を喉の粘膜に擦りつけてから、射精した。彼は一瞬だけ大きく目を見開いて、すぐにきつく瞼を閉じ、喉を鳴らして紫原の精液を飲み込んだ、健気なことだ。
 手を使って、彼の唇にすべて出し切ってから性器を引き出し、ようやく髪を離したら、彼は軽く噎せた、だがそれだけだ。悪態もつかないし、拳も飛んでこない。これは彼にとっては特に拒むべき行為ではないか。
 腕を掴んでフローリングからベッドに引っぱり上げてやると、まだ、半ば呆然としている目と、視線が合った。顎に伝った唾液を片手で拭いてやっても、彼は目をそらさなかった、と言うよりは、そらせなかったのか。
 多分いまのオレは酷い顔をしているんだろうな、と思いながら、笑ってみせた。獲物を追い詰めるケダモノの顔だ。否定しない、食うよりもまず追い詰めたいよ、傷つけて、血を啜って、苦痛に悶えるその顔が見たい。
 オレのために。
 オレのせいで、悩んで、苦しんで、たくさんもがいて。そういうあなたの姿が、好き。
 いい顔見せてよ。
「あいしてるよ、室ちん」
「……愛しているよ、アツシ」
 交わす言葉は薄い、駄目駄目、全然足りない、さあ、苦悩の罠に嵌まって足掻け、氷室辰也。





 氷室はぐったりとシーツに埋もれてしまった。
 身体的にというよりも、精神的に疲れたのか、肌を汚す体液を丁寧に拭いてやり、彼が落ち着くまで隣に横たわって片手であやした。
 彼の知っているセックスが、どんなものなのかなどは興味もないが。
 さっさとオレに夢中になればいい、オレしか見えなくなればいい、大丈夫、この男はきっと、より強い獣が好きだ、オレだ。
 しばらく彼の肌を撫でて、強張りも抜けたころに、ベッドから下りた。背を向けたまま服を着て、ドアに向かうと、呼び止められた。
「アツシ」
 縋る声だ。
 いいね、あるいはもうオレに夢中なんじゃない? このひとは。ちょっとは歯ごたえがないと、すぐに消化しちゃうよ。
 間を置いてから、振り向いた。彼は、ベッドの上に身を起こして、どこか必死な目でこちらを見ていた。
「アツシは……オレがいやになるんじゃないか?」
 ああ、可愛いよ、室ちん。
 鬱陶しく視界にかかる髪を掻き上げて、答えた。いやになる? なんで?
 知っていること、そのいち。この男はオレが髪を掻き上げる仕草をすると、見蕩れる。知っていること、そのに。この男はオレが少し冷めた声を使ってやると、酔う。
 自分が彼の素顔を見たがるように、彼も自分の素顔を見たいのだろう、それは分かっている、だからあまり見せない。効果的にちらつかせるべきだ、我々の関係において自分は常に優位でいなければならない、でないとこのひとは苦しんでくれない、悩んでくれない、もがいてくれない。
 てのひらに乗せて、その姿をたっぷり鑑賞しよう、強くあれ、余裕であれ、揺るがずにただ。
 見ていなくては。
「……オレが、他の男を知っているからだよ、アツシ」
 苦しげに囁かれた言葉に潜む、悔恨が心地よかった。そうか、悔やむか、別に構いやしないのに、馬鹿なの。
 彼はオレが、彼に何を見ていると思っているのだろう。美しい容姿が、色気のある声が好きである、もちろんだ、そしてそれ以上に、その屈折した精神が、好きだ。
 捻くれていて、拗れていて、縺れていて救いようがない。無駄なプライドに邪魔されて、誰かに助けを求めることもできない。まるで海の中に放り出された泳げない魚だ。
 綺麗だよ。
 でも、全然綺麗じゃない。すごくきたない。
 そこが好き。
 分かっていないだろう、そうして、悔やむ姿こそが実に美味であると。欲しいものはそれであると。旨そうな傷口を晒しちゃって、ほんとうに、馬鹿なの。
 そんなことは関係ないよ、室ちん。
 いま室ちんがオレを好きなら、それでいいよ。
 と、言うべきシーンであることは分かる。なので、言わない。
 代わりに、視線を目一杯引きつけてから、無言のまま、短く舌打ちした。これでどうよ。
 彼は、見事なまでに青褪めた。こんなふうに鮮やかに絶望できる人間を、他には知らない。彼の片手がシーツから持ち上がり、届くわけもないのに自分のほうに伸びた、多分無意識なのだろう。
 最初は、追いかけてみせた。
 そろそろ、あなたが追いかけるばんでしょう。
 ほら、苦しいね、つらいね哀しいね、どうしたらいいのか分からないね、さあ、いい顔見せてよ、氷室辰也、悩めよ、オレのためにオレだけのために、悩め、あなたの屈折は全部オレが引き受けよう。
 欲しいんだよ。
 あのゲームで、オレを殴って泣いたのは、失敗だったね、室ちん、こんなに執着されちゃうなんて思ってなかったでしょ。
 手を浮かす彼とまっすぐ眼差しを重ねたまま、唇の動きだけで言った、あいしてるよ、伝わらなかったかもしれないが構わない。そんなセリフはこの状況においてぬるいだけだ、声に出す意味すらないほどに。
 彼が何かを言う前に、背を向けて部屋を出た。このひとはこれでひと晩中、いや、ひと晩ではないか、この先関係が続く限り延々と、苦しむのだ、そう思うとぞくぞくとした快感が這い上がった、セックスよりも切実な愉悦だ。
 アツシに嫌われた、どうしようどうしよう、オレが汚いからだ、どうしようどうしよう、シーツの中で身体を丸めて、あなたひとり虚ろな目をすればいい、アツシ、アツシ、捨てないで、もっと使っていいから、この身体、唇も、だからアツシ。
 落ちたね。
 案外簡単だねえ、まあ彼は強いものにとても弱いから、仕方がないか。
 消灯時間もぎりぎりの廊下を歩いて、自分の部屋に向かった。最後に見た氷室の真っ白な顔が、瞬きをするたびに瞼の裏に蘇った。素晴らしい。
 そうだよ、ほかの誰でもない、オレが、彼を、苦しめている。
 舌打ちひとつで顔色を変えるなんて、もう、室ちん、オレに必死すぎ。
 気持ちいい。
 さあ、もっとだ、もっとだよ。もっと必死になってみせて。もうオレしか見えないと、もうオレ以外はいらないと、その綺麗な唇で言って。
 もう一度、泣いて。
 いいよ、なんでもしよう、外側から埋めるのと内側から埋めるのはどっちがいい? 素早く沈めるのとじっくり沈めるのはどっちがいい? オレはそのために生きるよ、あなたが苦悩する姿を見つめるために生きるよ、ああそうだ、確かにオレは頭がおかしい。知るか、どうでもいいよ。
 彼はもう自分から離れられない。
 分かっている。だから、ねえ、世界でいちばん大切なひとよ。
 鬱屈も苦悩もぜんぶ抱え込んで、オレにいい顔見せてよ、あなたに似合うのはそんな表情だ、氷室辰也、自覚して、あなたはもうオレの檻の中から逃げることはできないと。

(了)2014.05.17