氷室辰也が、好きである。
違う。そう単純なものではない。端的に言うならば、氷室辰也が、自分のために、苦悩する姿が好きである。いつまででも見つめていたい。
恋情、愛情、存在している、もちろんだ。だがそれ以外も存在している、この縺れた欲はつまりそういうことだろう。もがけ、あがけ、必死になれ。
いい顔見せてよ、氷室辰也。
好意を告げたのも、セックスに誘ったのも、多分、思い悩む彼を見たかったからだ。恋人になりたい、抱き合いたい、そんな感情は殺すこともできた、無視もできた、それでも、声にした。敢えて、口に出した。
そう、見たかったからだ。
オレのためにオレのためだけに、たくさん苦しんで。
もっとだ、もっとだよ、もうオレしか見えないと、もうオレ以外はいらないと、その綺麗な唇で言って。そして、もう一度、泣いて。
オレは頭がおかしい。
紫原敦は、そう思う。オレのこころはいびつで狂っている。
知るか。気違い沙汰だと言わば言え、それで結構、なるほどオレはいかれているのだろう。彼の美しい顔が自分の言葉で、仕草で歪むさまを目にしたときに、湧き上がる快感は言葉にしがたい、身体を繋げる瞬間よりも、その愉悦は深くて強い。
氷室は簡単に、紫原の手に落ちてきた。
彼は強い男に弱いのである。知っているさ、そんなことは。
さあ、これからだ、てのひらの中にいる獲物を逃すほどの馬鹿ではない、ゆっくりじっくり締め上げて、涙を零す美貌を眺めよう。あなたはもうこれからは、オレの感触だけに怯え苦しめばいいんだよ。
好きだ。この世の誰よりも好きだ。だから。
いい顔見せてよ、氷室辰也、張り巡らせた包囲網、もうあなたはオレから抜け出すことなどできやしない。自覚して、諦めて、オレの目の前ですべてをさらけ出してしまえばいい。ねえ、愛しているよ。
春に恋人になった、梅雨のさなかにはじめて肌を合わせた、それから数週間経ったころか、妙な噂を耳にするようになったのは。二度目の行為に彼を引きずり込む前のことだ。
氷室辰也に、恋人ができたらしい、という噂である。
女も男も、誰も彼もが浮足立った、あまり見ない現象ではある。紫原に真相を訊ねる人間も少なからずいた、まあ、どこからどう見てもオレとあのひとは仲がいいから。
しかし、注目の的だね、室ちん。愛想のいい美形は得なんだか損なんだか。
オレのことかな、と最初は思っていた。氷室の恋人というのならば自分だろう、彼が何か言ったのだろうか。
いや、どうやら違う、とはっきり分かったのは、二、三日経ったころだ。噂には追記があった。氷室の恋人は、同学年の、美術部にいる背の高い男らしい。ずいぶんと具体的だ。
背の高い男、ね。
恋の相手が男だという噂も、特に意外には取られないのが、氷室らしいというかなんというか。これまた得か損かよく分からない。
同学年。美術部。なんだそれ?
まあいずれくだらない、目立つ人間には税金もかかるというものである。そんな噂が立ったことが、過去になかったわけでもないし、それが根も葉もないものであることは自分が一番よく知っている。
と、思っていたが。
ある日の放課後、紫原が気紛れに、わざわざ学年の違う教室まで氷室を部活に誘いに行ったときだ。彼が、バッグを持ったまま廊下の隅で、見知らぬ男と楽しそうに話をしている姿を目にして、いやな気分になった、というよりははっきりと、不愉快になった。
背の高い男だった。氷室よりも少し高い、だから相当高い。
片手に、画材を入れる木の箱をぶら下げている。なるほど、美術部か。
どういうこと?
いやいや、待て、氷室辰也を苦しめるのは唯一紫原敦であれ、その通りだ、しかし逆はない。オレが苛ついてどうする、オレが。
見なかったことにするかと、背を向けようとしても、巧く身体が動かなかった、こんな感覚は知らない。薄っすら吐き気がして、余計に不快感が増す、ああやっぱり無理だ。
事細かな噂と、目の前の光景、見逃してやるにはあまりにも合致しすぎる。そして、これを片手で意識から追い払えるほど大人になったつもりもない。
嫉妬だろうか。
氷室に対する独占欲は強い、否定はしない、でなければ自分のためだけに苦しめとは思うまい。そうだよ、あなたはオレを見ていればいい、そんなふうに誰かを見つめなくていい、誰かに話しかけなくていい、誰かに笑いかけなくていい、目を潰して、喉を潰して、美貌を潰してあげようか?
表情には出さなかったはずだ、どうだろう。
廊下の隅で会話を交わす、ふたりの男に歩み寄った。室ちん、部活に行こうよ、そう言おうかと思ったが、声を出せば感情が滲むような気がしたのでやめた。
背後から、いきなり氷室の腕を掴んだ。
彼は、紫原を振り向いて、アツシ、と言った。驚きましたという顔をしている。構わずに、無言のまま、廊下を、階段を引きずり、大きな歩幅で部室へ向かった。途中何人もの生徒に振り向かれたが、知ったことか、オレはいま苛立っているんだよ。
雑魚がこのひとと親しげにするんじゃねえよ。
部室は鍵は開いていたが、誰もいなかった。そこへ氷室を突き飛ばすように押し込んで、後ろ手にドアを閉めた。
よろめいた彼を壁際に追い詰めて、ひと呼吸置いてから声を出した、フラットに言おうと思うのにどうしても怒気が透けるか、まあいい、彼はオレのこういう姿は結構好きだ、知っている。
普段見られないぶん、素顔を覗く瞬間が好きだ、それは互いにだ。でもオレは、こんなことで素を晒したくなんてないんですけど。
「室ちん。変な噂、聞いた」
「……噂」
氷室は、その紫原の言葉に、微かに眉をひそめた。ああ、知っているのか、とは思った。彼は自分を取り巻く噂を把握はしているのだろう、氷室辰也に、恋人ができたらしい、美術部、背の高い、男。
次の言葉を視線で探り合った。
紫原がそれを目つきで拒んだので、氷室は複雑な表情を見せたまま、細い声で言った。
「どんな噂だい、アツシ?」
「室ちんが、美術部の男と、付き合ってるんだって」
「……馬鹿だな。本気にしているのか?」
素晴らしい顔だ。
ただし、それが自分に起因するものであるならば、だ。
困惑と苦痛とを混ぜ合わせた瞳の色にまず見蕩れて、それから余計に腹が立った。ねえ、いま、誰のために、誰のせいで、その顔をしているの、駄目だよ、オレを見て、オレだけを見て。
むかつく。否定も肯定もなしかよ。だいたい氷室辰也の恋人は、紫原敦ではないのか。
傷つける言葉を使おうとして、思いつく前にドアの向こうに足音が近寄ってきた。軽く身じろぐ氷室の耳元で舌打ちし、低い声で言った。
思い出せ。
数週間前か、同じような角度で、同じような声で、同じようなことを言った。ねえ、覚えてる? あなたはあのときとてもつらそうな顔をして、男と寝たことがあるのだと自分に告げた。
じゃあ、この数週間はどうなの。オレが彼に触れていない、この短いような長いような時間は。
しくじったかな、と仄かに熱を持った頭でそう思った。がつがつするのは好みではないし、彼の焦れる姿も見てみたかったからこそのブランクだが、横から攫われるくらいならば毎日のように押し倒せばよかったか。
「今夜、室ちんの部屋に行くから、いい子に待ってて、逃げないでね。噂がほんとうかどうか、浮気をしてないか、確認してあげるよ」
「アツシ、オレは」
氷室が何か言いかけたときに、部室のドアが開いた。短く溜息を吐いて、壁際から彼を開放した。ロッカーに向かう背に痛いくらいの視線を感じたが無視をする、言い訳なんて聞きたくない、噂があって、それを否定しない、その事実だけで充分だ。
部活中、氷室は殆どいつも通りだった。
だから多分、紫原以外の人間には、普段と変わらぬ彼に見えたろう。不意にこちらを向く、苦しげな視線に気づくのは、まあ自分くらいである。
そういう顔が好きだ、好きなんだけどね、オレまで苦しいって何よ。
普通に会話をした。パスも届いた。ただ、目が違う、物言いたげに自分を見る。駄目駄目、無駄無駄、逃がさないから覚悟して。違うんだ、アツシ、誤解なんだ、アツシ、そう言ってあなたが縋れば許してやれたのかもしれないけれど。
馬鹿だな。本気にしているのか?
そんなセリフで処理されてたまるか。
もうオレ以外の人間なんて、目に映りもしないように痛めつけてやる。他の誰にも渡さない。苦しんでくれ、悩んでくれ、オレのために。
いい顔見せてよ、氷室辰也、あなたに似合うのはそんな表情だ。
夜、まだ早い時間に、氷室の部屋のドアを叩いた。返事が聞こえる前にさっさと中に入り、声は出さずに氷室に歩み寄った。
彼はひとりぽつんと、心許なくベッドに腰かけていた。馬鹿なの、誰か呼ぶなり部屋を空けるなりすればいいのに、どうしてこのひとはこんなふうに、大人しく自分を待っているんだ?
いたぶられるために。
部活の最中と同じような、複雑な眼差しを向けられた、だが、言葉はない。
そうか。いますぐ納得のいく説明でもしてくれれば、手加減しないでもないのに、いいんだ。
氷室の前で立ち止まって、その視線を平坦に見返した。片手に持っていたジェルのチューブを無造作にシーツに投げ出す。いまさらスマートに振る舞っても意味がないし、使ってやるだけ丁寧だと思え。
この男が他の誰かと決定的な行為をしたのだとは思ってはいないが、この男だからこそしたかもしれない、とも思っている。
慣れているのだ。
貞操観念だなんてものは、きっとアメリカに置いてきたに違いない。だって、否定しないのだから。
「で、何、あの噂」
突っ立ったまま訊ねた。彼がそれを好きなようなので、冷めた口調を敢えて使うこともあった、しかしいまはできなかった、声には勝手に苛立ちが混じる。
無様だな、とは思った。氷室が自分のために苦しむ姿が好きだ、微笑みの仮面を手放して、素顔を晒す彼が好きだ。でも、自分のそんな顔はあまり見せたくないものである。余裕で、冷静に、優位に立たねば、このひとは多分逃げていく。
彼は、強い男が好きなのだ。
惨めな人間などは嫌いだろう、鬱陶しいし、そう、面倒くさいし。
氷室は数秒沈黙してから、口を開いた。いっそ露骨に怯えてくれればいいのに、彼はそのような様子は見せなかった、懸命に言葉を探しているさまは悪くないが、このひとはいま自分を恐れてはいない。
オレが、酷いことをしないと思っている? 甘いよ、氷室辰也。オレは大概酷い男だ、あなたをオレで飽和させるためならば、結構なんでもやるよ。
「さあ……。あっちが勝手に流しているんだろ、オレは普通にしているよ、アツシ」
「そのわりにはずいぶんと仲がよさそうに見えたけど? ねえ、室ちんの恋人はオレじゃないの。あの美術部とほんとうに付き合ってるの」
切羽詰まるのは彼の仕事であって、自分の仕事ではないはずだ。なんだこれ。
彼はぱちぱちと、長い睫毛に縁取られた瞼を瞬かせた。困っているときの、悩んでいるときの癖だ。そんな小さな仕草の意味を把握している程度には、自分は彼を観察している、もっと見たいから。
苦悩を。
でも、ねえ、あなたのいまの苦悩は、オレのためじゃないよね、そんなもの、吐き気がするくらいに不快だ。
否定しろったら。何故そうしない? 否定できないの? この男は呼吸をするように実に自然に嘘をつくときもあるが、自分が相手の場合は話は別だ、少しためらう、知っている。
嫉妬も羨望も、無理に押し込めるくせに、アツシはすごいなと笑って無自覚に自分の感情に嘘をつくくせに、他のやつと付き合っているのかと訊かれればただ曖昧な言葉を使って困惑してみせる、きっぱり嘘をつけよ、そうすればオレは腹を立てるだけで済ませられるかもしれないのに。
こんなふうに、苦しくならないのかもしれないのに。
「口説かれはしたけれど……しているけれど」
「断れよ。得意でしょ。それとも、何? そいつのこと、好きなの?」
「絵はね。好きだよ。とても美しい絵を描くんだ」
あ、そう。
彼は、自分の持っていないものを、持っている人間に、とても弱い。ならば、美しい絵を描く男にも、弱いのか?
身を屈め、ベッドに座っている彼の黒髪を掴み、間近に睨みつけた。彼はその紫原にまず見蕩れ、それからえらく切なげな顔をした。彼はいまあけすけである、それなのに、事実が見えない、焦れる。
そうだね、あなたは才能あるものが好きだ、だからオレが好きだ、そしてオレ以外にも、好きなやつだっているだろう。
睨み返せよ、馬鹿。
疑われるなんて、心外だ、アツシ、お前はオレを信じていないのか、オレにはお前しかいないのに、そのくらいのセリフは言えるだろ、氷室辰也なのだから。
「そいつと、寝たの」
汚いものでも吐き出すように問うた。
氷室は、紫原の言葉に眉をひそめ、何か言いたげに視線を揺らめかせた。だが、やはり否定の言葉はなかった。黙秘だ。
むかつく。
この男に、むかつく、そして、むかつく自分に、むかつく。こんな暑苦しい感情は、嫌いだ。
ベッドに押し倒す手が乱暴になったのは、計算だけでもない。さすがに抗う彼から、下着ごと、下だけ服をむしり取って、シーツの上にうつぶせに押さえつけた。力という意味ならば自分のほうが圧倒的に強い、この男は暴力に長けてはいるが、この状態ではどうにもならないだろう。
たくさんキスをして、甘く追い詰めて、どろどろに溶かしてやってもいい、でも、いまは無理だ。
氷室辰也が、自分のために、苦悩する姿が好きである。
なのに、どうしてオレがこんなに苦しい? 冗談じゃない。
「アツシ……ッ」
「言ったでしょ。浮気をしてないか確認してやるよ。室ちんは、オレだけ見てればいいの、オレだけ感じてればいいの」
口に出してから、まるでガキみたいだな、オレは、と思いはした。しかし言ってしまったセリフをなかったことにもできない。まあいい。執着されて、独占欲を剥き出しにされて、少しは怯えろよ。
強引に腰を上げさせ、シーツに放り出していたチューブを掴んで、絞り出したジェルを荒く彼の尻に塗り込めた。はじめて寝たあの夜と同じく、彼は最初は紫原を拒むかのように固かったが、すぐに解れて、やわらかく指を飲み込んだ。なのでさっさと本数を増やした。
こうも慣れた身体だ、いまさら遠慮もクソもあるか。
三本目の指を入れたときには、彼はきっちり勃っていた。色白の肌が、全身、仄かに赤く色づいている。こんなレイプじみたセックスでさえ、快楽を盗めるか、過去に何人の男に抱かれたんですか、なんて野暮なことは訊かない、でも、いまはオレのものなんじゃないの、ねえ、分かってんの?
弱点を避けて、入り口を露骨に広げた。入りゃいいんだよ、入りゃ。彼の背中が引きつっているのは見て取れたが、構うものか、少しくらいは無理をさせないとこの男はまったく把握しないのだ。
己の所有権が、誰にあるか。
雑にその場所を開いてから、自分の服を引きずり下ろして、勝手に反応している性器をあてがった。どちらかと言えば紫原は穏やかなセックスを好むが、氷室限定、こういう行為も悪くない。
さあ、苦しめ。
それなりに準備してやったのだから、オレは優しいだろ。
「アツ、シ……、きつい」
「知らねえよ。どうせ勝手によくなるんでしょ。いいから黙って、声我慢して」
「あ……ッ、入って、くる」
あの夜も、特に遠慮はしなかったが、今夜こそ意図的にすべての配慮を切って捨てた。先端を押し込んで、ぎゅうぎゅう締め上げてくる内壁を、押し広げるようにそのまま奥まで挿入した。
簡単には埋められない性器を、腰を使って、半ば強引に根本まで突き刺す。彼は微かに、泣き出す間際のような、切実な声を上げた。そうだ、そう、そうやって、オレに夢中になればいい。
氷室が落ち着くまで待とうとは思わなかった。
このひとは、あの男にもこんな姿を見せたのだろうか、と思ったら、頭の中が熱くなった。ふざけるなよ、オレを咥え込んでおきながら、他のやつに身体を開くなんてふざけるなよ、大体、満足なんかできないだろ、オレを知ってしまえば。
彼の中は、やわらかくてきつくて、目眩がするほど気持ちがよかった。右手で軽く触れた彼の性器が、これ以上はないというほど勃起していたので、満足し、同時に苛立った、誰が相手でもこいつはこうなるんだろう、一度、二度、触れただけで分かる程度には貪欲な身体をしている。
彼の性器から手を離し、両手で彼の腰を掴んで、はじめから、追い立てるように大きく穿った。
悲鳴を殺している彼の、それでも漏れる淡い声に、余計に煽られた。この男はいま間違いなくオレで感じている、オレで身体をいっぱいにして、オレを貪っている、この瞬間、あなたはオレだけのものだ。そうだろう?
恋も愛も囁きはしなかった。
ただ荒い呼吸を聞かせながら、深く、浅く、彼を突いた。
彼の肌が震えはじめるまで、精々十分くらいだったと思う。この男は快楽を隠さない、いや、もはや隠せないのか。シーツを握りしめている指先が力を込めすぎて真っ白だった、こんな行為をしている最中だというのに、なんだか芸術品のようだなと思った、身体中を、黒髪に覗く耳まで赤く染め上げている、指だけ白くして。
美しい。美しい男だ。
「アツシ……ッ、オレは、浮気を、している、身体か……」
絶頂も間近なのだろう、強張る肌を紫原に預けたまま、氷室は掠れた声でそう言った。
小さく舌打ちしてから、吐き捨てるように答えた。余裕をかますな、口もきけないほど溺れろよ、オレに。
この瞬間、この瞬間は。
そうだな、この瞬間にしか、オレはこの男を手に入れられないのかもしれない、だから、苦しむ顔を、狂おしい顔を、見たいのに。
「分かるかよ。こんな慣れた身体。室ちんだって知ってんでしょ」
「……アツ、シ」
氷室は紫原の言葉に、苦悩の色を混ぜて、小さく喘いだ。心地よい声ではあった。
だが、それから、紫原の勘違いでなければ、彼は気配だけで仄かに、笑った。
笑った?
笑った? いや、勘違いか。
アツシ、もういきたい、と彼が切羽詰まった様子で囁いたのは、紫原がそれに覚えた僅かな違和感を逃す前である。笑った? 笑うか、この状況で? 何に笑うと言うんだ、でも。
「アツシ」
啜り泣くような声で繰り返されて、紫原は不意に這い上がった悪寒のようなものを、切り捨てた。数週間彼に触れずにいた身体は、確かに熱を持て余していたし、そろそろ委ねたいと思うくらいには快感は強かった。
いけよ、と言葉にはせずに、促す動きで深くを抉った。氷室はそうされるのが好きらしい、というのははじめて寝たときに分かった。
右手を性器に添え、精液を受け止めてやった。
ぎゅうぎゅう絞り上げられて、目の前が一瞬赤く染まった。抜いてやるべきだとは思ったが、今日はこれでいいと思い直した。
セックスだ。
セックスだ、しかし、苛立ちを押し付ける行為でもある、汚れろ、オレで、満ちろ、オレで。
あなたはオレのものなのだから、そう、この瞬間は。
「中で出すから。そのまま、締めてて」
「は……、あ、アツシ、アツシ」
絶頂の引かない内壁を、擦り上げられるのがつらかったのか、彼は身体をよじらせて淡く喘いだ、だが、それだけだ。逃げようとする様子はなかった。
ならば躊躇もない。
最後に、破れそうなくらい奥まで貫いて、その位置で射精した。皮膚が痺れるような愉悦に襲われた。このひとの中に注ぎ込んでいる、このひとを穢している、素晴らしい。オレに内側から侵されてしまえよ。
彼は声を発しなかった。
というよりは、出なかったのだろう。余韻というには強い波に攫われたのか、更にきつく締め付けられ、思わず唇を噛んだ。バケモノめ。
ゆっくりと腰を、何度か押し付けるようにして精液を出し切って、性器を抜いた。途端にごぽりと溢れ出す自分の欲を目にして、無意識に唇を歪めた、どう? オレに完全に支配される気分はどう? オレに完全に。
支配、されている?
彼が自分のために、苦しむ顔が好きである。
好意を抱く人間が、苦悩するさまを見たいだなんて、気が触れていると思う。知っている、それでも、好きである。
ああでもいま、苦しんでいるのは誰なのだろう、このひとか、それともオレか。美術部、背の高い、男。よく分からない、嫉妬という感情には殆ど無縁に生きてきたが、やはりこれは、嫉妬なのだろうか。
だとしたら、救えない、そんなものが欲しいわけではない。
オレはただ。
「アツシ……」
細く呼ばれて、溜息を吐き、くたりと腰を崩している彼の身体をシーツの上で引き上げた。ようやく正面から見つめた彼の瞳は、いまにも涙が零れ落ちそうなくらいに潤んでいて、とても綺麗だった。
上気する頬。
噛みしめていたせいで赤く濡れた唇。
綺麗だね、綺麗だ、だからもっといい顔見せてよ、オレのためにいい顔見せてよ、氷室辰也。
ベッドに座ったまま、フローリングに跪いて、処理をする氷室の姿を眺めた。
一応、してあげるとは言ったが、拒否をされたので仕方がない。
トイレにでも消えるのだろうかと思った彼は、特にその素振りもなく、紫原の前であっさり自分の尻に指を入れた。それが男の目には扇情的に映るのだと、知っているためらいのなさだった。
慣れているな、このひと、ほんとうに。
ぼんやりと、あの男の前でもこうしてみせるのだろうか、と考えるでもなく考えて、やめろと思考から追い払った。オレが見たいのは、彼がオレで苦しむ姿である、オレが苦しむ顔など鏡に見たくはない。
時間をかけて、紫原が出した体液を掻き出してしまうと、氷室は丁寧に手を拭き、服を着た。それから、ベッドに座っている紫原の前に歩み寄って、やわらかく笑った。
よろめきもしなかったし、足を縺れさせもしなかった、そう、慣れているのだ。
「オレは知っているよ、アツシ」
不意の言葉が理解できず、紫原は、つい、意味のない視線を彼に向けた。普段は見下ろす美貌が、自分よりも高い位置にある。
結構な圧迫感だ。
この男は普段は意識して消しているが、それなりに体格もいいし背も高いし、何より少々引くくらいには美しいので、周囲に対して近寄り難さ、というよりははっきり畏怖を覚えさせる要素はある。
いまは消さないのか。
素であろうとしているのか、敢えてなのかまでは知らない。
「お前は、オレが苦しむ顔が好きなんだ、アツシ。知っているよ。いや、気づいた、かな? はじめて寝た夜に」
「……え?」
ぞくりとした。
お前は、オレが苦しむ顔が好きなんだ、アツシ。知っているよ。
待て。
それはオレの中で飼っている歪んだ欲だ、誰に知られるわけにもいかないものだ、ましてやこの男には、この男にだけは。
待てよ。
知れるはずがないだろう、そんなことを仄めかした記憶はない。自分はただ彼に好意を告げ、肌を合わせただけである、苦しめなどとはひとことも口に出しては。
違う。
あの夜、セックスのあと、他の男を知っている自分のことが、いやになるのではないかと訊ねた彼に、そうだ、舌打ちをした、露骨に。
「オレを泣かせたいか、アツシ? その顔を独占したい? だとしたら、それはつまり、お前はもう溺れるほどオレに嵌まっているということだよ。お前に自覚があるのかどうかは知らないが」
「……ふざけないでよ、室ちん」
「ふざけていないよ。その通りだろう、アツシ」
氷室の手が伸びてきて、長い髪を撫でた。だから、待て待て、オレはこの関係において、常に優位でいなければならないのに、これでは。
泣かせたい。独占したい。
それはつまり、お前はもう溺れるほどオレに嵌まっているということだよ。
ああ畜生、頭の中の本棚を端から引っくり返す、こういう場合にはどういうセリフを使うんだ、どうすれば立場を取り戻せる。
嵌まっている。
その通り、嵌まっているさ、嗜虐に嵌まっている、だからそれ以上に、このひとはオレに嵌まっていなくてはならない、そうだろう。
「お前は可愛いな。じゃあ教えてやろう、ならばオレだって、欲しいよ、お前がオレで必死になる顔が、見たい。いい顔見せてくれよ、紫原敦」
髪を梳く指先が気持ちいい。気持ちいいが。
ぞくぞくと、今度こそ悪寒だと分かる悪寒が這い上がった。行為の最中、彼が笑ったと思ったのは、勘違いではなかったのか。
この男は、愉快なのだろう。
嫉妬にもがくオレの姿を見て、愉快なのだろう、だから笑った。
いい顔見せてくれよ、紫原敦。
甘かった、一方的に、振り回せるなどと思った自分が甘かった。彼はしたたかだ、そして拗れて縺れている、クソ、分かっていたじゃないか、この屈折した男が素直にオレを、ただ好きであるわけがない、思いが強ければ強いぶんだけ。
曲がるのだ。
嫉妬だとか羨望だとか憧憬だとか、そんなものをごっそり詰め込んだ男だ、彼が抱くものが可愛い恋情などであるわけがないと、あれほど、あれほど知っていたはずなのに何故。
オレは馬鹿か。
いい顔見せてよ、氷室辰也。
そう、思っていたのは、オレだけでは、ない?
噂は、わざと、か。オレを怒らせるために、オレに嫉妬させるために、他の男と、寝た?
お前がオレで必死になる顔が、見たい。そんなことを。そんなことのために。
おい、頭がおかしいのか、このひとは、キチガイか。そこまでするか。それでもこれが氷室辰也の、恋愛か。
「風呂に入る。汗でべたべたして気持ちが悪い。お前は部屋に戻れ、アツシ」
ベッドに背を向けて、タオルを掴みながら、氷室が淡々と言った。気づけば罠の中、なんだこれ、幾重ものトラップを張り巡らせていたのは自分だったはずではないか。
ドアに手を伸ばした彼に、低く言った。彼の好きな声、意図的に使い分けてきたつもりだったが、いまは勝手に唇から零れた。
駄目だ、勝てない、こんなもの。だって考えてみてよ、捻れているというのならばこのひと筋金入りだよ。
「……もう一度訊くけど。噂になってる男と、寝たの」
「さあ……」
ちらりとだけ振り向いた彼の顔に、満足気な笑みがふわりと浮かんだ。
とても美しくて、とても凶悪だ、オレはいまいい顔を、しているか?
氷室は、セックスの名残りも見つけられない綺麗な足取りで、あっさりドアを開けて部屋を出て行った。ひとり取り残され、ベッドに座り込んだまま、紫原は溜息を吐いた。
さあ、ってなんだよ。
まさか、寝てないよね。オレを煽りたいだけ、だから噂を流しただけ。
いや、でもあのひとの場合、そうは言い切れない、なにせ氷室辰也なんだから、オレを泥沼に引っぱり込むために誰かと寝ることだって、充分ありうる。
やめてよ。
ちょっと、やめてよね。
立ち上がろうと思うのに、やたらと足が重くて言うことを聞かず、諦めてそのままぱたりとベッドに倒れた。氷室の香りがした。いい匂いだ、そういえばどこかで聞いたことがある、相手の香りを心地良いと思うようになったら、それはもう愛情であると。
愛情。
我々のあいだにある愛情は、どのようなかたちをしているのか。
枕にうつぶせて、再度の溜息を零す。オレはオレで苦悩するあのひとの顔が好きである、素晴らしいと思う、でもいまは。
苦しんでいるのは、オレだ、その姿を楽しんでいるのは、あのひとだ。ああ、なんて救いのない関係だろう、ただ笑って隣にいるだけでは気が済まないだなんて、強欲にすぎる。
ねえ、苦痛以上に強固な絆を知らないとはね、いかれているよ、ふたり揃って。
(了)2014.05.24