いい顔見せてよ_3(完結)


 完全に優位に立たれた。
 そもそもが、敵う相手ではなかったのだ。


 氷室辰也が、好きである。
 氷室辰也が、自分のために、苦悩する姿が好きである。
 実に素晴らしい。彼にはそうした表情こそがよく似合う。切羽詰まった瞳を見つめている時間だけは、彼が自分のものであると認識できる、浸れる、所有欲が、独占欲が満たされる。
 恋情もある、愛情もあるさ、だが、物足りない、オレはいかれているのだろう。
 告白をしたのも、セックスに誘ったのも、何よりまず彼の困惑する顔を見たかったからだ。そして彼は最後には頷く、知っていた、あの男は自分のことが充分に好きである。
 だからオレのためにいっぱい苦しんで、オレのためにいっぱい悩んで、いい顔見せてよ、氷室辰也。
 オレに振り回されてよ、オレに夢中になってよ、オレ以外の誰も見ないでよ、オレの声だけ聞いていなよ。
 まあ、甘かった、と言うしかない。
 相手は氷室辰也である。
 あのひとも相当病んでいるよね、と、紫原は思う。氷室が、美術部の背の高い男と付き合っている、という妙に具体的な噂を聞くようになったのは、彼と抱き合ってから数週間後の事だった。いま思えば噂は彼が流したのだろう、もしくは、例の仮面みたいな微笑みで、小さな憶測をわざと大きくしたか。
 否定しない氷室に焦れる紫原の髪を撫でながら、氷室はやわらかく笑って言った。
 お前は、オレが苦しむ顔が好きなんだ、アツシ。知っているよ。
 ならばオレだって、欲しいよ。お前がオレで必死になる顔が見たい。いい顔見せてくれよ、紫原敦。
 これは駄目だ、と思った。このひとのスイッチを完全にオンにしてしまったのは自分だ、分かっている。はじめて寝た夜に、己の慣れた身体を悔いる彼に舌打ちをした、綺麗に絶望させるつもりの仕草だったが、あれですべて手の内を晒したか。
「……噂になってる男と、寝たの」
「さあ……」
 ふわりと笑う顔は満足そうだった、無理だろ、こんなの。
 ただの噂なのだとは思う。いや、思いたい。だが、氷室辰也が氷室辰也である以上は、そうぬるいものではないとも思う。あの男は目的のためならば手段を選ばないところがある。だから紫原を泥沼に嵌めるためならば、誰かと抱き合うくらいは平気でするに違いない。
 と、そんなことを思う時点で。
 完全に優位に立たれている。
 おかしい、苦悩する彼の顔を見て独占欲を満たしていたはずが、いつの間にか水槽には穴が開いていて、気づけば水が溢れ出している。オレはいま、いい顔をしているのだろう。ほんとう、どこか狂っているよね、オレもあなたも。
 相手の苦しむ顔でしか、愛情を確認できないだなんて、まったくもって救えない。





 氷室が美術部の男と付き合っているらしい、という噂は、あっさり消えた。
 いや、違う、上書きされた。それくらいひっきりなしに、次々と噂が立った。陸上部の男、吹奏楽部の女、果ては教師、これもまた氷室が流しているのか増長させているのかだ。
 試しているのだろう。どのような噂が紫原に対して一番効果的であるか、紫原に聞かせては観察している。分かっているのでいちいち反応するのも馬鹿馬鹿しいが、分かっていてもどうにもならない。
 噂の相手が、女、であったときにはあからさまに狼狽が顔に出たと思う。
 もうやだあのひと、と呆れるのと同時に、もし彼が自分の手から女の手に移ってしまったら、と考えてはぞっとした。男であるならまだしも女では勝ち目がない、噂が立つほど緊密な相手がいるのならば、ありえない話でもない。
 蝶のようにひらひらと、ひとのあいだを舞っているような印象を受ける男である。自由で、身軽で、きっと手に負えない、だからこそ苦悩で縛りたいと思ったのだ。
 男女、年齢、関係なしに途切れず流れる恋の噂、これが彼でなければ顰蹙ものなのだろうが、なにせ氷室辰也に関することであるので、周囲も右往左往はすれど特に悪評というものはなかった。得な性質してるよね、室ちん。
 噂はほんとうなのか、と、何人もに訊かれた。美術部のなにがしのときと同じである、誰が見てもオレとあのひとは仲がいい、それは、噂が飛び交っているいまも同じことだ。
 本人に訊けば? オレ知らないし。
 適当に答えながら、それが事実であることにうんざりした、確かにオレは何も知らないよ、恋人であるのはオレであるはずなのに、何ひとつ。
 根も葉もないとは言うけれど、火のないところに煙は立たない。
 知っている、あのひとはオレを必死にさせるためならば、多分なんでもしてしまう、その歪んだ形のボタンを押したのは、彼の苦悩の表情を見たがった、オレだ。
 自業自得というやつか。
 噂が絶えず囁かれる中、紫原の知る限り、彼はいたって普通に過ごしていた。朝体育館に向かう道、食堂、休み時間、夕方寮に帰る道、何も知りません聞こえませんというようにいつも通りである。かえって苛立つ。といって問い詰める空気ではないし、ひと目もあるのでできやしない。
 仕方がない。走ろう。
 毎日、部活のあとにひとり残って自主練習をしている彼に、珍しく付き合った。彼は目の端にほんの僅かに楽しむような色を見せて、いいね、じゃあブロックしてくれよ、アツシ、と言ってはシュートを放った。何本も。
 もう帰ろうよ、と何度か言った。
 それでも彼は一時間以上はねばった、オレをここまで引き止めるとは大したもんだよ。
 いいかげん息も切れるころに、じゃあ帰ろうか、とボールを片付けはじめた氷室の腕をようやく掴んで、ようやく訊いた。ふたりきりの体育館、遠慮をする相手でもないし、いまさら下手なプライドなんてあるか。
「ねえ、うんざりするほど噂話を聞いたけど、ほんとうなの?」
 彼は振り向いた。急に強く腕を掴まれたことに一瞬驚いた顔をして、それから、笑った。毒のある華みたいな笑みだ。
 オレはきっといま、いい顔をしているんだろうな、と思った。
 お前がオレで必死になる顔が見たい、氷室はそう言った、それは自分こそが抱えたいびつな欲だったはずだが、彼も大概いびつではあるわけだ。
 そうだね、我々の関係は非常に不格好である、愛情はある、もちろんだ、しかしそのかたちはとても醜い。目も当てられないよ。
 腕を掴まれたまま、ボールを両手に掴み、こちらを見上げてくる彼の瞳は、見蕩れるほどに綺麗だった。室ちん、これで満足?
「さあ……。オレは普通にしているよ、アツシ」
「ごまかさないで。ねえ、オレと室ちん、恋人じゃないの? どうして変な噂ばっかり流れてんの? で、オレの名前だけは出てこないしね、ばかみたい」
「お前はオレの恋人だよ、アツシ。それは間違いないさ」
 澄んだ声だ。春、恋を告げたとき、梅雨のさなかにはじめてベッドに誘ったとき、彼はとても悩ましげな顔をして自分を見つめ、掠れた声を聞かせてくれた。ぞくぞくするような快感だった、彼が自分で飽和している、そう思うと。
 あなたはいま、オレがあのとき覚えた快楽と同じものを、感じている?
 オレを支配するのは、気分がいいか、氷室辰也。
「あ、そう。でも、室ちんはオレの恋人じゃないって? じゃあ、オレじゃない誰かとも寝たの? 室ちんが何したいのか何が見たいのかは大体分かるけど、それにしてもやり過ぎでしょ、いい加減にして欲しいし!」
 口調が無意識に荒くなった。自分の耳で聞いてから気づいても、いまのはなし、とは言えないので、睨みつける視線に敢えて感情を乗せた。
 ああ、妬いているよ、悔しいよ、怒っているし、苛々するよ、オレ結構、あなたの思うように振り回されているよね、これじゃ足りないの? このひと絶対いつか誰かに刺されて死ぬな。
 氷室は紫原の声に、うっとりするような笑みを浮かべた。支配者の顔だなと思った。確実に優位にある表情、怖いくらいの美貌によく映える。
「いいね、アツシ。必死になれよ。泣いて縋って見せてくれよ。お前はオレの泣き顔が好きだろう? オレもお前の泣き顔が好きだ、とても可愛い」
「……ふざけないでよ。オレもうこんなに必死じゃないの、これ以上どうしろって? 室ちんが他の誰かとセックスしてるのかもって想像すると、きつい、こころに穴があきそう。勘弁してよ」
「それなら、身体に訊いてみたらどうだ? いつかみたいに」
 誘惑の視線を投げられる。この男、余裕をかましやがって、少しの痛みも感じません? オレばかりがほんとう、ばかみたい。
 舌打ちして、彼の腕から手を離した。いつかみたいに。そう、彼との二度目のセックスはレイプじみていて、そして以来肌を合わせていなかった。発情期の動物みたいに年がら年中番うのは趣味ではないし、何より、途絶えぬ噂が。
 彼の目が、笑みの形に細められている。
 もうこんなもの、完全に優位に立たれたということだろ。そもそもが、敵う相手ではなかったのだ。
「……分かんないよ、したって分かんない。室ちん、慣れてるし、いまさら。言ったでしょ」
 せめて嫌味のつもりで言い返すが、彼には通じていないようだ、もしくは通じないふりをしている。あは、と軽く笑ってから、氷室はボールを改めて片付けはじめた。
 綺麗な顔、綺麗な身体、綺麗な声、この男は実に綺麗だ、誘われればそれは靡きもするさ。
 何より自分は彼の恋人なのである、手を伸ばしてもいいはずだ、しかし。
 ほら、こうして苦しむオレの顔が、見たいのでしょ、氷室辰也。
「分かるさ。今度のオフに、街に出よう、アツシ。オレだってたまには奔放なセックスがしたいよ、声を殺すようなやつじゃなく」
 唄うような声で言われて、溜息が漏れた。開き直ったこの男は確かに奔放だ。
 そんなふうに、誰でも惑わすの、オレ以外の男も、それから女も? 悪魔のようなやつである、それがオレを必死にさせるためだけの行動だというのなら、キチガイだ。
 氷室辰也は、捻れて拗れて、縺れている、もちろん知っていたが、まさかここまでだとは思わなかったよ。





 氷室は慣れていた。
 さてこの土地で、男同士で入れるラブホテルなどあるのだろうかと首をひねる紫原の手を掴み、指先を絡ませたまま駅からホテルまで先に立って歩いた。迷いのない足取りだった、まあ、誰かと来たことがあるのか。
 特に会話はなかった。
 昼日中、がら空きのラブホテルで彼はあっさり部屋を選んで、さっさとキーを受け取りエレベーターに乗った。追いかけて、狭いエレベーターの中で美貌を覗き込む、何かを言わなければと思うのに、巧いセリフなど思いつかない、紫原は元来口が下手だ。
 洒落気のない部屋だった。
 交互にシャワーを浴びて、白いシーツの上で抱き合った。奔放なセックスがしたい、という言葉通り、彼はいままで聞いたことのないような、色めいた、高い声を上げて紫原にしがみついた。
 喘ぎを殺す彼も可愛らしいと思ったが、こういう姿もまた唆る、そうだな、慣れているのならばそこまでやれよ、食虫植物みたいにオレを溶かしてくれ、どうせ敗けは確定している。
 一度果てても、二度果てても、彼は満足しないようだったし、それは紫原も同じだ。
 最後に彼と寝てからもう何週間? このひとはともかく、オレは他で摘んでもいないのだ、不足も感じるだろ。
 二度目の絶頂の衝撃で乱れる呼吸を隠さず、彼はしばらくシーツに埋まって余韻を味わってから、多少は息が整ったころに身を起こした。覆いかぶさっていた紫原を、逆に押し倒す手の動きはやわらかかったが、有無を言わせぬものでもあった、恋愛において、セックスにおいて、きっと過去のこのひとは常に優位にあったのだろうなと思った。
 春、口説いたときには、神妙な顔をしてみせた。
 思い悩む顔は嘘ではなかったと思う、では何故いまこれだ? 泣かせてやりたいなどという欲を、見抜かれたオレが悪いか。
 素直に従った紫原の腰に跨って、彼は笑った。
 吐き気がするほどエロティックな笑みだった、ねえあなたそんな顔を、誰にでも見せるの?
「アツシの精液で、オレの中、いっぱいだ……、でも、もっと欲しい。ああ、お前が好きだよ、アツシ」
「……オレの身体が、好きなだけでしょ。でかくないと、室ちん、もう物足りないんじゃないの」
「可愛いアツシ。全部好きだよ。もちろん、身体も」
 片手で紫原の、反り返った性器を掴み、氷室はその上にじりじりと腰を下ろした。手伝おうかとは思ったが、思っただけだった、体勢のせいかそれまでよりもきつく飲み込まれる快楽に圧倒され、そのうえ目の前で懸命に自分を咥えようと頬を色づかせている美貌を見せつけられてしまえば、手も出ない。
 彼に注ぎ込んだ体液が、繋がる部分から伝い落ちてきて、肌を、シーツを汚した。
 氷室の漏らす艶めかしい喘ぎは、はじめて彼と寝たときと同じく、合間に混じる言葉をはっきりと紫原に伝えた。ここでこんな男に、舌足らずに甘えられても冷めるだけなので、それでいい。
「ああ……ッ、アツシ、は、気持ちいい。おおきくて、かたくて、杭で貫かれている、みたいだ」
 なんとか根本まで食らい込み、結局はまたはあはあと息を荒げながら、氷室は酷くいやらしく目を細めた。彼の内側が不規則に蠢いている、感じているのだろうし、わざとでもあるのだろう。
 抱いているのか抱かれているのか、これでは分かったものではないな、と快楽に眩く滲む視界に彼を見つめながら思った。いや、互いに貪り合っているのか。
 そういえば部屋の照明を落としていない、好きなのか? まあ己の美貌を見せつけるためか、なるほど効果的だ。
 動いて、と言う前に、彼はじっくりと腰を上下しはじめた。絞り込まれるような快感に、思わず喉の奥で呻いた、いやいや、違うか、これはオレが犯されているのだ、オレは完全にこの男に掌握されている。
 こころも、身体も、何もかも。
 上半身を中途半端に起こして積み重ねた枕に凭れ、彼に手を伸ばした。艶めく黒髪を撫でると、彼は腰を使いながら、満足気に笑った。
「ん、は……、アツシ、気持ち、いいか?」
「……いいよ、室ちん。じょうずなんだね」
 この期に及んで上手もクソもないか、この男は慣れているのだ、うんざりするほど。
 自分の性器が、彼に飲み込まれ、押し出されるさまが見える。つい凝視してしまう。オレと彼とは確かにいま繋がっている。一度目も、二度目も、遠慮もなく中に出した精液が、ぐちゃぐちゃといやらしい音を立てていた、ああ畜生、たまらないね。
 髪を撫でていた手を下ろして、もう既に赤く腫れてしまっている乳首に、悪戯に爪を食い込ませた。濡れた彼の唇から、溢れる嬌声に鳥肌が立った、痛いだろうに痛いとは言わない、そうではないか、この男の場合は、容易に痛みを快感に変えてしまうのだ。
「ああ……! 痺れる、アツシ、アツシ、もっと」
「血が出るよ。室ちん、ほんとう、セックス好きだよねえ。はじめてのときも、二回目のときも、抵抗ひとつしなかったし、いまは乗っかってるし、いやらしいの」
「ふ……、う、破けそう、ぜんぶ、気持ちいい。たくさん、触って、アツシ」
 彼は丁寧でゆっくりとした、殆ど焦れったいような動きを選んだ。それは思うよりも確実に互いの愉悦を炙り立てた、肌がじりじりと焦げ付きそうだ。いまさらこの男がこうした行為をよく知っていることに腹立ちもしない、しかし結局はセックスでさえ優位に立てないのかと思うと、なんだか可笑しくもなった。
 アツシ、アツシ、熱に浮かされた声で、いまは懸命にオレを呼んでいるけれど、別の男に跨るときは、そいつの名前を呼ぶのだろ。女だったら紳士的に抱くのか? 知るかよ、馬鹿馬鹿しい。
 そうだ、馬鹿馬鹿しい。分かっているのに。
 嫉妬とはこうも醜い感情なのか、必死だよ、オレはいい顔をしているでしょ、あなたの好きな表情か、どこまで追い縋ってみせれば気が済むんだ。
 さすがに傷つけそうだったので、乳首を弄るのはやめて、てのひらで雑に脇腹を擦ってやった。もう言葉通り全身、どこを触られても気持ちがいいのだろう、彼は感じ入ったように目を伏せて、ぎゅうぎゅうと紫原を締め上げた。
「アツシ……ッ、ああ、アツシ、分かるかい……、オレが、他の誰かと、寝ているか」
 彼の両手が伸びてきて、紫原の肩を掴んだ。あまり遠慮はしていない強さで爪を立てられて、理性を奪い取られそうになる。あとになるよ、室ちん、いいの? オレに痕跡を残していいの?
 鱗粉を振りまくだけで舞い去る、それがこの男のやりかただ。好意を告げたとき、ベッドに誘ったとき、彼が見せた苦悩の表情も、こうなると意味が分からない、あるいは計算? 最初からすべて。
 そうじゃないか。彼は、気づいた、と言ったのだ。はじめて寝たときに、気づいたと。ならば。
 やっぱり意味が分からない、悩むかな、と思った、そしてその通り彼は悩んだ、蓋を開けてみればとんでもない、オレなど遊んで捨てればよかったではないか、それなのに。
「……だから、分かんないって」
「いいかい、アツシ……、他の誰かと、寝ているようなら、こんなふうに、飢えて、いないよ」
「室ちんの場合は、あやしいし」
 知らず拗ねた声になった。オレはガキか。
 彼は、ふふ、と色づいた笑い声を零してから、恋人がいる以上は、恋人以外のやつに触れられるなんて、いやだな、と途切れ途切れに言った。嘘をつけ、と思いながらも、ぞくりとよろこびが込み上げた。
 こんなセリフで夢中になってしまうほど、オレはこのひとに嵌まっている。自覚はある。
 ねえ、あなたの言う恋人は、オレのこと? オレのことだよね?
 自分の上で、緩く動いていた彼の腰を掴んで固定し、下から荒く突き上げた。波打ち際をぎりぎり揺蕩うような快楽には充分付き合ったはずだ、もういいだろ。
「あ……ッ! アツシ、はあ……ッ、駄目だ、いってしまうから……」
「いけばいいでしょ。オレもいくし。そのままにしてて」
「は、あ、も……ッ、いく、アツシ、いく」
 身を捩らせる氷室の、掠れた声は無視して、身勝手に彼の中を穿った。既に絶頂は近かったのだろう、少しのあいだ抉ってやっただけで、彼は紫原の肩にさらにきつく爪を立て、あっけなく達してしまった。
 搾り取られるようにして、殆ど同時に彼の中で射精した。これで三度目だというのに、意識が霞むような恍惚はなお強かった。まるで猿だな。
 彼はしばらく身体を硬直させて愉悦の波に溺れていたが、それから紫原の肩に、くたりと凭れてきた。耳元に乱れた吐息が触れる、抱き寄せた肌が震えている、身体中、汗と体液でべたべたしていたが、それでも彼の体温を直接感じていられる束の間の安寧は心地よかった。
 ねえ、あなた、分かっているでしょう。
 オレはもうあなたに必死なんだけど。
 でなければこんなふうには抱き合えないよ、ねえ、あなた、分かっているでしょう、まあ氷室辰也の場合は違うのかもしれないけれどね。





 ホテルでシャワーを浴びたので、風呂は省略した。なんでも、洗いすぎると髪が痛むし、肌は乾くらしい。美形は言うことが違う。
 夜の寮、氷室の部屋に、ノートを持ち込んでふたりで課題を片付けた。
 古文は教えた。物理もまあ教えた。学年が違うとはいえ、テキストを斜めに読めばそれなりには理解できる。日本語があまり得意でないらしい氷室に較べればましだ。
 英語を教えてやろう、と嬉しそうに言う氷室に、別に分からないところないから、と答えると、彼は心底残念そうな顔をした。なんだ、可愛い顔もできるじゃない。
 こういう時間は、悪くない。まるでぬるま湯につかっているような、穏やかな時間だ。
 どうしてオレとこのひとは、優しいこの時間を求められなかったのだろう。自分だけのために思い悩む姿が見たいだなんて、強欲で、我が侭だよね。
「お前は、恋愛慣れしていないね、アツシ」
 ノートを片付けながら、氷室が、何気ない口調でそう言った。
 少し驚いて、氷室のテキストを眺めていた視線を上げた。見やった美貌は、特におかしなことを言ったつもりもないらしく、普段通りに微笑んでいた。
 綺麗だ。この男はほんとうに綺麗だと思う、卑怯だ。一歩踏み込めば内面はどろどろに汚いくせに、例えば、オレを必死にさせるためならばなんでもするくせに。
 ああ、でもそれって、あなたもオレに必死だということじゃないの?
「……なんでよ」
「相手の苦しむ顔が見たいなんて、いかれてるってことだよ、アツシ」
「……室ちんだって、同じじゃない」
 テキストを返して、言った。むっとした声になったが知るものか、いまさらこの男に無感情を気取る必要もあるまい。
 彼は紫原の手からテキストを受け取りながら、ああ、オレは慣れていないよ、とまったく平然と口に出した。あまりにも当たり前のことのように言われたので、はあ? と返す声が遅れた。
 くすくすと笑う氷室は、機嫌がよい様子だった。紫原を傅かせる優越感だとか、追いかけられる快感だとかとは別の、ただ単純に楽しそうな笑みを浮かべている、そういえばこういう彼の顔を、しばらく見ていなかった。
 いや、しばらく、どころではないか。オレが知っている彼の顔は、こころを押し込めた完璧な愛想笑い、それから苦悩、泣き顔、オレを追い詰める策士の表情。こんな顔は。こんな顔を。
 オレに見せて、いいの。
「オレは、恋人なんてね、いままで作ったことはない。お前がはじめてだ。だから、オレも恋愛慣れはしていないよ」
 恋人なんてね、いままで作ったことはない。
 お前がはじめてだ。
 どくりのこめかみのあたりで音がして、淡い頭痛に変わった。え? なに? オレはこのひとの、最初の恋人なの? というか、このひとはオレを、きっちり、恋人として見ているのか。
 愛おしいものでも見るような目で見つめられて、頭痛が酷くなる、違う違う、食うか食われるか、オレとこのひととの関係はそういうものであり、それ以外ではない。
 いい顔見せてよ、氷室辰也。
 いい顔見せてくれよ、紫原敦。
 そういうもので。
「……あんだけ、セックスには慣れてんのに?」
 責めるつもりはないが、そう聞こえたろうか。
 氷室はその紫原の言葉に、あは、と笑って両手をひらひらと肩のあたりで振った。アメリカ仕込みの仕草は、この男がやれば様になる。
 王子様、と。
 あちらこちらで呼ばれる所以か、くだらない。こんなに捻れて拗れて縺れた王子様なんていてたまるか。
「遊ぶくらいはするだろう。でも、恋はしたことがない。一生恋人なんて作れないものだと思っていたよ」
「どうして」
「オレは、いかれているからさ」
 あっさり言われて、脱力した。ああそう、自覚はあるんだね、室ちん。
 氷室は、机に両肘をつき、手の甲に顎を乗せて紫原を見た。隷属を強いる目でも、痛みに耐える眼差しでもない、ただまっすぐに冴えた視線だった。
 ぞくりとした。
 苦しめたいと思ったよ、悩ませたいと思ったよ、その顔が見たかったよ、何かを得ている気分に浸れたよ、でもオレは、あなたのそんな澄んだ表情にも見蕩れます。
「だから、お前に告白をされたときには、悩んだよ、アツシ。ほんとうに好きだったから、頷けばお前を傷つけてしまうのではないかと、悩んだよ。セックスに誘われたときには、後悔した、散々遊んだ自分に後悔した、見捨てられると思った。苦しかったし、こころが痛かった。でも、おまえもいかれていたね」
 美しい男だ。
 この男は多分、そのひずみさえも、美しい、汚らしくて、美しい。悔しい。
 どうしたらこの手に捕まえられる? 指先を掠める綺麗な蝶みたいな男を、どうしたら捕まえられる? 羽をちぎってしまえばいい、ピンで刺してしまえばいい、そして一日中眺めればいい、だが、そんなことをすれば。
 このひと、死んでしまうのに。
 いい顔見せてよ、氷室辰也、苦悩して見せてよ、もがいて見せてよ、でも、それで何を手に入れたつもりになるんだ? オレは満足できるのか。
「追い詰め合うのが恋愛なのかと思ったよ、オレは恋を知らなかったから」
 狼狽は透けて見えたろう、揶揄の表情を浮かべてもいいはずの氷室は、しかしそうはせずに、ただにこりと微笑んだ。いつもの愛想笑い? いや、そんな目はしていない。
 恋人がいる以上は、恋人以外のやつに触れられるなんて、いやだな。
 計算でもなく言い訳でもなく、この男はただ単純に、そう思ったのかもしれない、だから行為の最中に言ったのかもしれない、オレが必死になる姿を見て、あなた何を思ったの。
 オレのいい顔を、散々楽しんだろう? ねえ、何を思ったの。
「でも、こういう優しい時間も悪くないね。知らなかったよ。なあ、アツシ、これが恋人というやつかい、お前はこういう時間は嫌いか?」
「……悪くないんじゃないの。オレだってよく知らないし」
「可愛いな、アツシ。好きだよ」
 好きだよ。
 そんな表情で言われてしまえば。
 キスしてくれよ、アツシ、言われて机越しに淡いくちづけをした。肌を合わせて、体液を垂れ流して互いを貪ったばかりなのに、その儚いキスはいやに神聖なものであるような気がして、胸が痛くなった。そういえば我々は、セックスはしてもあまりキスを交わさないのだ。
 こころを映す行為だから、怖い。多分、自分も彼も、怖かった。
 短いくちづけが解かれるまで、彼は瞼を伏せなかった。絡まる視線は切なくて、頭の中をぐちゃぐちゃに掻き回されるような感じがした。
 彼が思い悩む姿が好きだった、そんな顔を見たかった、だが、そうだな、こういう優しい時間も確かに悪くないよ、この甘い息苦しさが恋愛というやつか?
 唇が離れると、氷室はそこで、まるで華開くように笑った。実に素晴らしい笑顔だった。常から綺麗に笑う男であるにせよ、ここまで美しい笑みは殆ど見たことがない。
 これがこの男の、素、なのだろうか。
「愛しているよ。だから、笑って。いい顔見せてくれよ、紫原敦。オレはお前の泣き顔が好きだが、同じくらいに笑顔も好きだ」
 愛しているよ、か。泣きたくなった。
 このひとの愛の形は、自分と同じく、酷く不格好だ、なんでもパーフェクトにこなす氷室辰也のくせに。
 ああでもオレは間違いなく、その不格好な愛しか知らない男を、愛したのだ、あたたかい涙が滴る感触を覚えている。そう、泣くのならば、オレのために、そうだ、そして、その通りだよ、笑うのならばそれも、オレのために。
 いい顔見せてよ、氷室辰也。
 オレのためにオレのためだけに、いい顔見せてよ、氷室辰也。
 氷室は、紫原の表情を、しばらく黙って見つめたあと、ふふ、と色気のある笑みを零して首を傾げた。
「笑ってくれと言っているのに、なぜ泣きそうな顔をするんだ、アツシ? 変なやつだな」
「……室ちんが悪いし」
「お前からは、同じような言葉を聞けないのか? 先にオレを口説いたのは、アツシだったと思うぞ」
 クソ。
 言葉を探して、探して探して、結局洒落たセリフも見つからなかったので、つまらない言葉を淡々と言った。いつもと同じような声を使おうと思うのに、どうしても巧くいかず、低い声になった、彼が好きな声だ。
 苦手なんだよ。感情を見せるのは。
「……あいしてるよ。泣き顔も笑顔も好き。オレのために泣いて笑って」
「いい子だ、アツシ。とても可愛い。オレはお前のすべてが見たいよ」
 彼の手がふわりとこちらに伸びて、髪を撫でた、習慣のような愛情表現、愛情表現、なのだろうな。
 もう一度、触れるだけのキスをして、ふと時計を見たら消灯時間も間際だった。慌ててノートを片手に掴み、立ち上がってドアに向かった、氷室の感触が残る唇が少し熱い、オレはこんなに単純ないきものだったのか。
 ドアノブを掴んでから、ああそうだ、と何気なく言って氷室を振り向いた。
 彼は机の上を片付けながら、紫原に視線をくれた、綺麗な瞳の色だ、吸い込まれてしまいそう。
「ねえ室ちん、なんでラブホ慣れしてんの? アメリカって、ああいうところないんでしょ」
 氷室はその紫原の言葉に、ぱちりとひとつ瞬いた。驚いたというよりは、不意を突かれた、という顔だ。
 それから彼が浮かべた笑みは、それはそれは魅惑的だった、悪戯で、艶かしくて、あからさまにこちらを挑発するような。
 ついいまキスをした唇を、ちらりと舌先で舐めて、彼は非常に性的な声で答えた。そうでした、こいつはこういう男でした、純情なのではないかなどと、一瞬でも思った自分が馬鹿だ。
「さあ……? どうしてだろうね、アツシ。自分で考えてみたらどうだ?」
 紫原は言葉を返さずに、深々と溜息を吐いてから、ノートを片手に氷室の部屋を出た。分かっている、分かっているさ。
 愛の言葉を囁いても、やっぱり一筋縄ではいかない、いくわけがない、なにせ敵は氷室辰也だ、簡単に攻略できるものではない。
 きっとこれからも自分は彼のてのひらの上で、必死に走ったり喚いたりするのだろう、でも、オレだってそれなりには反撃するよ、お仕置きもするからね、だからそのときにはいい顔見せてよ、苦しんで、悩んで、泣いてくれよ。
 そうして不格好な愛を確かめ合ったら、甘く笑って、氷室辰也。
 オレもあなたのすべてが見たい。さあ、もういちど、今度はもっと緻密に念入りに、気侭な蝶を籠に閉じ込めてしまうための計画でも練ろうか、紫原敦。

(了)2014.05.30