純然たる事実


 見蕩れてしまう。
 コートでの彼には、それはまあ誰でも見蕩れると思う、対戦相手からすれば脅威だろうが、見蕩れはするだろう。
 極端な長身、長い腕、長い脚、火がつけば無敵、火がつかずとも無敵。
 神に選ばれし男だ。
 彼のようになりたかったかと問われれば、素直には頷けない、さすがにそれほど単純ではない、嫉妬も、憧憬さえも歪んでいる、それが氷室である。
 彼の隣に当たり前のように並べられると、だから少々困惑する、ダブルエースと言われたところで、オレには何も与えられていないよ、お前の持っているものを持っていないよ、お前だって知っているのだろ。
 それでも彼は、紫原は、自分の隣に突っ立っている。
 不満も言わず、疑問も口にせずに、黙って受け入れている。ならばいいのか。
 お前の目にはオレはどう映っているのだろう。
 暑苦しくて、鬱陶しくて、必死になって駆けずり回る、煩い虫みたいなものか、さすがにプライドもあるので、そんな姿はそうそう見せないが、彼が気付いていないはずはない、自分は彼の最も嫌うタイプの人間である。
 それでも彼は自分の隣に突っ立っている。
 不満も言わず、疑問も口にせずに、黙って受け入れている。ならばいいのか。
 体育館の外でもやはり、彼には見蕩れてしまう。
 例えばこんな人混みの中、異形と言ってもいいくらいに背の高い彼はよく目立つ、その少し長い、綺麗な髪の色に見蕩れてしまう、少し眠たげな眼差しと、瞳の色に見蕩れてしまう、紫原は、その体格ばかりがひとの目につくせいか、あまり意識されないようだが、美しい男である。
 オレほどではないがね。
 ぱりぱりと菓子を噛んでいる彼の隣を歩きながら、これは、目印にちょうどいい大きさだなと、どうでもいいことを思った。
「せっかくのオフなのに、映画なんて観たいの? 室ちん、物好きだし。オレ、寝てるほうがいい」
 甘くてフラットな彼の声は、悪くない、とても落ち着くし、可愛い。
 その声からも怠そうな表情からも、どこかねじの緩んでいるような印象を受ける男ではあるが、彼はこう見えて、切れるし鋭い。嘘は嘘と見抜く、欺瞞は欺瞞と知っている、分かっていても敢えて言わないだけだ。
 追求されれば多分自分はばらばらに砕けてしまう、だから彼のその特性はありがたい、いや、あるいは言わずにいるのは、相手が自分のときだけか。
 無言の文句を詰め込んで、お前はオレのすぐ横に並んで歩いている、いいね、この関係は。
 彼は自分に惹かれているのだろう、容姿にか、肉体にか、菓子を差し出す手にか、どれでも構わないが執着されるのは嫌いではない、相手は選ぶ、だから紫原ならばいい。
 オレはお前の嫌いな、鬱屈とした男だよ、それでも誘えばついてくるほどには、お前はオレが好きだ。
「たまにはいいだろう、アツシ? 寮に閉じこもっていたって、楽しくないだろう。電車に乗って、街を歩いて、外の空気を吸わないと」
「室ちん、どうしてそう人生に積極的なの? もっと、だらだら生きたいし、オレは」
「映画を観るだけだぞ? 大げさだな。帰りに美味しいケーキでも食べような、アツシ」
 なるべくたくさん、何度も名前を呼ぶ。
 彼はそうされるのが好きである。
 ああ、とか、うん、とか、よく分からない声を発して、彼はまたぱりぱりと菓子を噛んだ。周囲の目が自分たちに注がれているのは知っている、彼の隣にいれば霞むが、自分もそこそこ背は高い、そんな男がふたり並んで歩いていれば何事かとは思うか。
 この馬鹿でかい男と、歩調が合っているのが面白い。
 彼が自分に合わせているのか、単に揃うのかは知らない。
 ボールを持たない時間ならば、いくらかは冷静に彼を観察できた。紫原は分かりやすいようでいて、意外と分かりにくい男だった。何も考えていないような目付きをするが、実はそのこころは複雑な形をしている。優しいのだろうとは思う、と同時に、冷たいのだとも思う、両方なのか。
 天にまします我らが父は。
 何故この男に与えたのか。
 妬ましいなんて言葉では足りない、羨ましいというよりは憎い、だが、見蕩れてしまう、この男が授かったものはとても眩くて、神聖だ。
 強い男は、好きである。
「ねえ、どこまで歩くの。映画館、いくつか通り過ぎたよ、室ちん」
 彼も負けじと自分の名をよく呼ぶと思う。なるほどオレはそうされるのが嫌いではない。
 隣を歩く彼を見上げて、にこりと笑ってみせる。彼はこの顔に弱い、勿論承知している、鬱陶しいと思いながらも抗えない、そうだろう。
「マニアックな映画だから、大きいところだとやっていないんだ、街の外れの小さな映画館まで、歩くんだよ、アツシ」
「ええ? もう、室ちんの、そういうところ、うざい。マニアックな映画なんて、それこそどうでもいいし。面白くなかったら、捻り潰すよ」
「戦争ものだからどうかな……。アツシには難しいかな?」
 わざとらしく首を傾げると、彼は僅かにむっとした目の色をして、難しくないし、と反論した。それでいい。
 ちらちらと投げられる他人の視線を集めながら、人混みを歩く、紫原がぱりぱり菓子を噛む音が、何かの楽器のようだと思った。
 昼下がり、電車を降りて、映画館まで徒歩二十分。
 平和だ、まったく平和だ、この胸の痛みを飼い慣らして、オレは彼の隣にいられる、その権利を、資格を誇れ。





 選択肢はない。
 単純に、無駄に大きいからである、映画館においては。
 客は自分たちの他にはあまり見なかった、それでも、最後列の席に座った。背後を気にしたくなければこうするしかない。
 映画は悪くなかった、少なくとも氷室は気に入った、圧倒的な力の前では、矮小な存在がどんなに死力を振り絞ろうとも無駄、そういう描写が淡々と延々と映し出される、陰鬱な戦争映画である。
 強いものは勝つ、弱いものは敗ける、当たり前だ、それをじっと見つめている。
 だが、途中から内容が分からなくなった。
 紫原の左手が、隣から身体に伸びてきたからである。
 菓子を噛む音が止まったな、と、ふと気付いたら、これだ。まあ予想しなかったわけでもないが、形ばかりは抗った、彼はその氷室の仕草に、余計燃えましたというように、左手の動きを大胆にした、こういうところだけは分かりやすい、何を持っていようとどんなものを得ていようと、いまこの瞬間には彼はただの牡である。
 シャツをはだけられ、胸を探られた。乳首に爪を立てられて、吐息が零れた、悪いが慣れているんだ、この身体はなんでも快楽に変えてしまうんだ、たとえお前が稚拙でも、だ。
 指先で捏ね回されて、ぞくぞく肌が震える。
「は……、アツシ、駄目だ」
「誰も見てないし。なんかこの映画、うざいし」
 小声で非難すると、耳元に囁きが返ってきた。身体を弄る左手は、散々乳首で遊んだあと、腹を辿って股間に下りた。
 服を緩められ、握り込まれて息が詰まる。だから慣れているんだよ、こういう遊びが嫌いというわけでもない。
 されてばかりいるのも癪だったので、右手を紫原の身体に伸ばした。ぴくりと彼が、その大きな身体を強張らせるのが楽しかった。
「……室ちん。オレが止まんなくなったら、困るんじゃないの」
「先に仕掛けてきたの、アツシ、だろ、コントロール、してみせろよ」
「オレみたいな青少年と、室ちんみたいなのが、勝負になるわけないでしょ」
 どういう意味だ。
 銃を乱射する音が、耳に痛い、その隙間に聞こえる彼の、緩い、甘い声は心地よかった。
 丁寧に撫でようかとも思ったが、余計なところに触るのはやめた、自分がもたない。彼がそうしているように、下半身に手を這わせて、ただ自分に触れているだけなのに、それなりに反応している彼の性器を掴み出した。
 おおきいよな、と思った。
 自分以外に活用している様子は見受けられないが、こういう馬鹿みたいにでかいものを好む人間もいるだろう、使えばいいのに、いや、実際そうされたら腹が立つのだろうけれど。
 氷室としては、あまりに大きくても負担になるので困るが、まあそれが紫原のものであるならばいいか、くらいのものである。
 互いの性器を擦り合って、微かな吐息を漏らした。
 手の中で、強く硬くなっていく彼の性器を感じているのは、気分が良かった、この大きな子供の性欲は、オレが握っている、ざまを見ろ。
 最強のセンター? 知るか、そんなものはいま関係ない、ああ、そうじゃない、関係がある、彼が最強であるからオレは気分がいいのだ、その彼を意のままに、操ることが。
 あんたが愛したものを、奪ったよ。
 オレには何も与えられなかったけれど、この男はオレのものだよ。
 さすがにこんなところで射精する気にもならないので、追い詰められる前に、左手で自分を扱く彼の手を掴んだ。身体から引き剥がすと、咎めるように、室ちん、と囁かれたが、知ったことか、オレは確かに慣れているし、タブーなんてものも設けていない、しかし、お前が思っているほどには変態ではない。
「いきそう、だから……ストップ、アツシ」
「いけばいいじゃない。室ちん、こういうの、好きじゃないの」
「お前はオレを、なんだと思っているんだ? 好きじゃないよ」
 慎重に右手を動かしながら、身を屈めて声を聞き取ろうとする彼の耳に言った。彼は、ふうん、と呟いてから、性器を擦る氷室の手を掴んで退かし、適当に服を直して席を立った。
 最後列だから、誰に見られるわけでもないが、急に立ち上がられて少しびっくりする。その氷室の腕を掴み、強引に、それでもどこか優しく引きずり上げて、紫原は僅かに眉を寄せ、悩ましげな目をしてみせた。
 ああ、いい表情だな、と思った。
 紫原は基本的に感情を表に出さない、無表情というよりは、何か緩い、という印象である。わざとそうしているというよりは、そうせざるをえないというか。彼の体躯は普通に見れば怖いのである。
 その彼が、自分の前では歳相応の顔をするのは、心地いい、彼は自分を信じているのだと思う、面倒くさい、暑苦しい、彼の言葉を借りるのならばそれこそうざいのだろうが、この男は自分といると仮面を一枚剥がす、それがいい。
 鬱陶しいのに。
 一緒にいると安心する。
 好き。
 そんなところだ、簡単な男だな、紫原敦。
 彼はさっさと氷室の服も直すと、その腰を抱いて階段に向かい、有無を言わせずドアをくぐった。爆音が遠のき、急に視界が明るくなる。
 アツシ、と声をかけるが彼は聞く耳も持たず、氷室の腕を掴んでトイレに引きずり込んだ。そのまま個室に押し込まれて、目が回る、自分だってそれなりの体格をしているし、力もあるはずだが、この大きな子供の前では意味がない。
 あとからのそりと同じ個室に入ってきた彼が、ドアに鍵をかけるのを見て、氷室は小さく溜息を吐いた、まあ、あの場で犯されるよりはましだ。
 長い腕に、きゅうと抱きしめられて、愛されているような気になり、困った。うざいんだろ、オレが。
「室ちん。どうせ逃げられないから、諦めて。中、洗うなら、洗って、トイレだしちょうどいいでしょ、オレ見てるし」
「見られながら洗うって、どんな趣味だ? 寮を出るときに洗ってきたよ、どうせ使う羽目になると思って、アツシといれば」
「室ちんこそオレを、なんだと思ってんの? まあ、当たってるけど」
 ならばと遠慮なく、下着ごと服を引きずり下ろされて、思わず頬が微かに引きつった、性急だ。中途半端に反応している性器があらわになって、なんというか、いたたまれない。
 そういえばしばらくしていなかっただろうか、彼は他で発散するほど器用でもないだろうし、焦るなと言っても無理か、いいさ、好きにしろ。
 何か濡らすもの、と言われて、シャツのポケットからハンドクリームを出した。彼はそれを取り上げると、長い指に塗りつけて、改めて氷室を抱きしめ、背中から回した右手で尻を探った。
 彼の背を抱いた両手の指を、服に食い込ませて違和感に耐える。声を上げそうになる唇を唇で塞がれて、この男もずいぶんオレに慣れたものだと、頭の隅で思う、実に好ましい。
「ん、は……、アツシ」
「ここ、緩めて、舌出して、いやらしくてみっともなくなって、室ちん」
 なるほど可愛い男だ。
 自分が彼の感情を見つけるのが好きであるように、彼もまた、自分の素顔を見るのは好きなのかもしれない。愛想笑いが愛想笑いに見えないようにはしているが、紫原ほど近くにいる人間にはもうそれが嘘だとばれているだろう、当然だ。
 壁を壊せば、オレはお前の嫌いな、うんざりするほど鬱陶しい男だよ。
 それでも壁を壊したい? お前はオレのすべてを見ているつもりなのかもしれないけれど、まだまだ、甘いね、オレはお前が思っているよりも、もっともっと陰惨で陰鬱で、汚い人間だ。
 例えば、お前を捻り潰したいと、思うくらいには。
 彼は身を屈め、深いくちづけを交わしながら、氷室を開いた。指を三本差し込まれたときには、脚が震えて立っているのがやっとだった、唇が重なっていなければ、こんな場所で、変な声を上げたかもしれない。
 それから紫原は、腕の中で氷室の身体を引っくり返し、ドアに両手をつくように言った。彼に背を向けて、ほとんどドアに縋り付くようにして立っていると、じゃあ、できるだけ腰上げてね、と背後でベルトを鳴らしながら彼が言った。
「脚の長さが違うから、ちょっときついかな」
「嫌味か、アツシ……」
「いや、純然たる事実だし」
 ジュンゼンタルジジツ。多分普通の日本語だが、なんとなくその硬い響きは気に入った、紫原の甘ったるい声で言われると妙な感じだ。
 ジュンゼンタルジジツ。
 ジュンゼンタルジジツ。
 オレが何をも持たず、彼がすべてを持っていることも、純然たる事実。
 焦っている様子なのに、挿入は意外と丁寧だった。
 といっても彼の言う通り、腰の位置がずれるので、いくら彼が膝を屈めていても、結構な衝撃だった。つま先立って彼を受け入れながら、歯を食いしばる、ここが映画館のトイレでなければ悲鳴を上げたところだ。
 彼とはこんな、声を殺すようなセックスばかりしている、そのうちホテルでも取って、奔放に抱き合おう、この恵まれた子供に、後ろめたさのつきまとう行為しか教えられないのも厭だ、いや、オレが男である時点で既に背徳だが。
 だとしても、欲しかったんだ、仕方ないだろ。
「く……、ああ、アツシ、きつ……」
「うん。これはきつい。なるべく、すぐいくから、頑張って、室ちん」
 揺すり上げながら、背後に言う紫原の声は、少し掠れていて欲を擽った。
 背徳? 知らないね、そんな言葉は、相手など構わず慣れるほど身体を使って、なんとかいままで生きてきたオレに、そんな言葉の意味を理解させようとするほうが無理だ。
 こんな身体、いらないよ、なんの役にも立ちやしない。
 薄汚い性欲の前に、笑って差し出すくらいの価値しかない、畜生、アツシ、お前は美しいな、オレの身体に密着して、泥に塗れてしまえ、それでもお前は決して地に落ちないのだろうが。
 すぐいくから、という割には、時間がかかった。
 まあ、いつもよりは早い。努力したのだろう。
 室ちん、いきそう、と囁かれて、何度か頷いた。尻に性器を埋め込まれていなかったら、とうに座り込んでいたと思う。
「一緒にいける? 駄目?」
「擦って、くれないか、アツシ」
「いいよ、擦るから、出して。室ちんがいくとき、中がびくびくして、気持ちいいの」
 後ろから伸ばされた手に性器を掴まれ、軽く扱かれて目眩がした。ずるずると尻を出入りする、馬鹿みたいなサイズの性器を締め上げて、絶頂の波を呼ぶ、ここまで待たされてしまえば、少しの集中で簡単に到達できる。
 彼のてのひらに達する瞬間は、いつでもきりきり胸が痛かった。
 ボールを掴む大きな手だ、汚してしまっていいものか。
「ああッ、アツシ……ッ」
「うわ、室ちん、すげえいい」
 異物を突っ込まれているせいで、絶頂がなかなか引かない。
 その締め付けが気持ちよかったのか、紫原は珍しく、僅かに荒い口調で言って、淡く喘いだ。ぎちぎちと根本まで押し込み、奥深くに射精する、誰も中で出していいとは言っていない、と頭の隅で思ったがいまさらである。
 注ぎ込まれる感覚は、決して嫌いではない。
 満たしてくれよ、縁から溢れ出すまで。
 彼は、腰を使って最後まで精液を中に出してから、ほんとうに達したのかと思うような硬さの性器を、ずるりと抜き取った。おそらく全然満足していないのだろうが、これ以上は氷室を苛むつもりもないらしい。
 右手のてのひらに散った精液をトイレットペーパーで拭いて、その場に崩れ込んだ氷室の腕を引っ張った。
「室ちん、大丈夫? 服、直すし、こっち向いて」
「……アツシ、お前、それで服着られるのか?」
「ああ、うん、無理。もういっかい自分でするし、室ちん、ちょっと外出てて」
 紫原の手に縋って立ち上がった氷室は、彼の性器を見てつい眉をひそめた、この子供は普段性欲など知りませんという涼しい顔をしているが、意外に強いし、意外にしつこい、時間さえ許せば際限なくやる。
 一度では駄目か、そうだろう。口でしようか、アツシ、という提案を、彼はさらりと断って、長い腕を伸ばし、ドアの鍵を開けた。無理をさせたという自覚があるのか、なかなかに健気な子供である、別に唇くらいいくら使われても構わないが、不要だというのならそれでいい。
 簡単に氷室を個室から押し出して、彼はばたんとドアを閉めた。この中で、と思いながら、氷室はふらつく足で隣の個室に入った、この中で、紫原が、自分の手を使っているのか、何を思うんだ? オレか?
 せっかく彼が整えてくれた服を引きずり下ろし、便器に座り込んで溜息を吐く。いや、オレだって、お前が中に出してしまったものを、掻き出さなければいけないのだ。
「……アツシ、いけるか?」
 壁越しに声をかけると、微かに息を飲む気配がしたあと、彼の緩い声が聞こえてきた。
 心地よい、やはり心地よい、もう声だけでいい、声だけで彼は自分を魅了する、ああ、オレはお前に弱いよ、認めよう、お前がオレに弱いように、オレも弱い、何もかもを手にしている彼はとても眩しい、暗所に慣れたこの目には。
「いけるよ。室ちんが隣で、お尻に指突っ込んでると思えば」
「……オレももう一回、いこうかな、アツシ」
「じゃあ、一緒にいこう、室ちん。切ないね、こんなにそばにいるのに、壁あるし」
 壁、か。
 彼は実にシャープだ、そうだね、とても切ない。
 互いに吐息を聞かせながら、顔も見えぬまま、脳裏に相手の姿を描いて果てた。込み上げる感情を、処理しきれずに肌を震わせる、お前はオレが嫌い、鬱陶しい、でも、お前はオレが好き、ならばオレは?
 妬ましいだとか憎いだとか。
 思わないなんて言えば嘘だ。
 それでも、オレはいつでもお前に見蕩れている、アツシ、これは純然たる事実だ、美しくて綺麗で眩くて、オレの手が届かぬ場所にいる、神に選ばれし者よ。





 帰り道は夕暮れだった。
 ケーキを食べたばかりだというのに、紫原は相変わらず、菓子をぱりぱり噛んでいる。
 真っ赤な空に、人混みから簡単に頭が飛び出る長身な彼の、髪の色が映えた。少し眠たげな目が時折、自分に向けられる、綺麗だと思う、嘘を見透かす目だ。
 オレはどんな顔をしている?
 その瞳に映るオレは、どんな顔をしている?
 オレはただ走っている、何も持たずに必死に走っている、見えているのだろ、それでもお前はオレの隣にいるんだな。お前にはつりあわないよ、どうして受け入れるんだ、お前の隣に立つに相応しい人間なら他にいる。
 知っている。
 多分互いに知っている。
 だが、それでもそばにいよう、オレはお前にパスを出そう、見蕩れてばかりでは駄目だ、暑苦しいとお前は言うのだろうが、暑苦しいまでに走らないと影さえ追えないんだ。
 苦しい。
 嫌いだ。
 呪詛の言葉ががんがん鳴り響く頭で、祈りを捧ぐ、崇拝している、お前は素晴らしいよ、アツシ。
 彼が自分に懐く理由が、容姿や肉体にあるというのなら、いくらでもくれてやる、だから好きでいてくれないか、お前に捨てられたらオレは、一体何に縋ればいいのか。
 彼のような人間を、何人か知っている。
 見蕩れるほどに美しいのは、やはり彼だと思う。自分に執着してくれるのも、やはり彼だと思う。
 せめて上手に微笑もう、アツシ、アツシ、と優しく囁こう、天にまします我らが父は、彼を選んだ、彼に与えた。
 強い男は、好きである。
「ケーキ、足りなかったか? アツシ」
 行く路よりも人が多くて、参った。
 人混みが流れる速度に逆らわず、駅への路を歩きながら、氷室は隣の紫原を見上げてにこりと笑った。
 彼が菓子を噛む音に、そういえばいつの間に慣れたのか、出会ったばかりのころは、なんでこの大男は菓子ばかり食っているのかと疑問に思ったものだが。
 紫原は、別に、と気怠げに答えて、飽きず菓子を口に運んだ。
「ただ、甘いもの食べたら、しょっぱいもの食べたくなるよね、それだけ。室ちんも欲しいなら、あげるし。でもちょっとだけね」
「いや、遠慮しておくよ。そもそもオレはケーキを食っていない」
「室ちん、ほんとうにあのうざい映画、観たかっただけなんだね」
 ぱりぱり、ぱりぱり、なんだか動物みたいだ。
 軽く苦笑して、氷室は黒髪を片手で掻き上げた。ぱちりと瞬いた紫原が、珍しい目付きで自分を見ているのは分かった、だが、視線は合わせない。
 気付いていないような顔をして、さらりと髪を流し、一呼吸置いてから顔を上げた。はっとしたように、目を逸らせる紫原へ、甘い声で言った、そうだな、綺麗で優しいお兄さん、この際、それでもいいか。
「うざかったか? オレはそれなりに、面白いと思ったよ、まあ途中までしか観ていないが」
「だってあんなの一方的じゃない? 強ければ何してもいいの? 殺してもいいの? よくないでしょ?」
「……いいんじゃないか、強ければ。弱いほうが罪だ」
 お前は優しいね、アツシ、と囁いて、氷室はもう一度にこりと微笑んだ。彼はちらりとだけ眼差しをよこし、すぐに前を向いてしまった。
 そうだろう、彼の力は圧倒的だ、誰かを殺そうと思えばできるのだろう、だからきっと彼はそれがあまり好きではない。
 与えられたものを持て余している。
 その力の強大さに怯えている。
 贅沢だとは思う。可哀想だとも思う。そして強く惹かれる。憎たらしいし、悔しい、それでも、見蕩れる。
 お前は無敵だ、矮小な存在など捻り潰せ、オレが隣で見ていてやる、強いものは何をしてもいいんだよ。いずれオレ自身が潰されるのだとしても。
 力がなければ、何にもなれない。
 純然たる事実である。
 ぱりぱりと菓子を噛む単調な音が、途切れず耳に届く。この男は唇が寂しいのだろうな、と氷室は思った。
「なあ、アツシ。ジュンゼンタルジジツ、って、言ってみてくれ」
 駅が見えてきた夕焼けの下、氷室はどうでもいいことのように、紫原に乞うた。ほんとうにどうでもいいことである、ただもう一度、その甘い声が形作る硬質な言葉を聞きたかっただけだ。
 彼は、はあ? と呆れたような声を出してから、室ちん、なあにそれ、と視線をこちらに向けた。
 美しい瞳の色、この男は実に美しい、まあ、オレほどではないがね。
「別に。映画館で、お前が言ったことだよ、アツシ。なかなかいい日本語じゃないか、なあ、言えよ、ジュンゼンタルジジツ」
「面倒くさいひとだなあ、もう。純然たる事実? これでいいの? 純然たる事実、純然たる事実」
「まったくだ、あれもこれも、純然たる事実だな」
 厭になるぜ。
 彼の大きな手に、気紛れのように軽く指先で触れて、すぐに離した。映画館であんなことをしておきながら、手を繋いだこともありません、というような態度でびくりと身体を強張らせる紫原に、氷室は小さな笑い声を聞かせて、駅の改札まで先に立って歩いた。
 ここにあるものも、ここにはないものも。
 それはもう事実だ、逃げられない事実だ、だから。
 愛すべき男よ、お前と並び立つ存在であれるうちに、掴み取りたいものがある、それはお前そのものだ、この短い時間にオレはこの関係を、純然たる事実にしてしまいたい。
 神はオレを選ばなかった、だが、神が選んだ男は、迷わずオレを選ぶのである、そうだろう、アツシ。

(了)2014.02.08