高価なキス


 誰かを怖がらせないように歩く。
 誰かを怖がらせないような表情で。
 両手は菓子の類で塞ぐ、誰にも危害は加えません、甘いチョコレートでもあれば、それだけで笑う単純な動物だから、どうか怯えないで。
 第一印象としては、緩い、そうあろうとしているのが紫原である。
 異形めいた体躯を持て余していた時期がないとは言わないが、いまでは指先の神経まで自分のものだ、これが己であって他にはない、だからこれでいい、ねえ、そんな顔をして見ないでよ、向き合うたびにぎょっとしないでよ、そうか、もう少し身を屈めて、もっとぬるい目付きをした方がいいか。
 愚鈍な男に見えるのだろう。
 まあいい、オレには感情がないくらいがちょうどいい。
 こころのままに振る舞えば、きっと誰かを傷付ける、人間はとても繊細な作り物で、少し力を込めればすぐに壊れてしまうのだ。
 アツシ、と。
 甘く呼ぶ彼の声が、だから好きである。
 彼は自分を怖がらない、彼は自分に怯えない、というか、まったく遠慮無く殴られたこともある、多分本気を出せばあの男は自分よりも強い。
 少し力を加えた程度で壊れるほど弱々しくもない。たまに感情を見せても逃げ出さない。
 平然と、優しく繰り返す、アツシ、アツシ、お前は可愛いな、アツシ。
 氷室とはそういう男だ。
 穏やかで、透き通った声が好きである。彼の前では少し肩から力が抜ける、その腕に触れても、笑ったり泣いたりしても、彼ならば引かないのだろう、受け入れられていると感じる、いままでにも自分を巧く飼い慣らした人間がいないわけではないが、全然別種だと思う、まさかこんなに鬱陶しい男にこころを許すはめになるとは思わなかった。
 綺麗で優しい猛獣使いと。
 それに懐いたでかい猛獣。
 はたから見ればきっとそう見える。そうだと指摘されたことすらある。彼の指が差し出すチョコレートに、噛み付くたびに少し惑う、あるいはその通りなのか、と。
 いや、まさか、だろう。
 瞳に渦巻く嫉妬、羨望、諦念と畏怖、憎悪もだ、それからなんだ? とにかく言われる通りただ、綺麗で優しい猛獣使いなら、決して見せないような目をして、彼は自分を見る。
 彼には自覚はない。殺せていると思っている。
 与えられなかったものを、欲しがっても仕方がない、ならばできることをする、決意を背負ってボールを掴む。吹っ切ったつもりなのだろう、それでも未だに瞳が揺れる、悔しいよ、アツシ、無言で喚いている、そういうときの彼はぎらぎらと煌めいている、ひとが変わるみたいに。
 実に面倒くさい男だ。
 ああそうだ、実に面倒くさい男だ。
 言うべきではない言葉を、口に出したことがある。
 そうしたら彼は泣いた。泣く? 信じ難い。
 誰かの泣き顔を観るのは、やっぱり嫌いである。氷室の涙はとても綺麗で、とても醜かった、だからこそ嫌いである。二度は見たくない、こころをぐちゃぐちゃに掻き毟られるみたいで、怖い、ならば勝とう、彼が笑って自分の名を呼べるように。
 アツシ、と。
 甘く呼ぶ彼の声は、好きだ、そのために。
 何故、鬱陶しいから、面倒だからと、切り捨てられないのかは、自分でも謎だ。多分彼が自分の名前を優しく繰り返す限り、背を向けられないのだろうと思う、瞳にぎっしり汚い感情を詰め込んで、それでも微笑む彼は綺麗だ、氷室は強い、熱くて焦げそう、全部を仮面で隠している、そんなところは自分に似ている。
 そうか、似ているからか。
 仮面を外せば誰かが怯えてしまう。
 内緒だよ、内緒だね、さあ、こころに棲んでいるバケモノを飼い馴らせ。
 そうして生きていけ。
 考えるともなく考えながら、木曜日、授業も終わった教室で、紫原はしばらく呆けていた。気付くと最近はよく、そんなくだらないことを頭の中でぐるぐる回転させている。何故オレは彼と一緒にいるのか。何故オレは彼から逃げないのか。
 三十分も待ってから、氷室が現れないので席を立った。あの世話焼きな兄貴分は、時間が合えば紫原を部活へ誘いに、学年の違う教室までふらりとやってくるのである、例えば木曜日。
 彼に面倒を見られるのは、気分のいいものである。
 それを他人に見せつけてやるのも、まあ悪くはない。
 だから、いつも大人しく、待っているという顔もせずに待つのだが、さすがに三十分も放置されると苛々してくる。紫原は比較的気の長いほうだが、氷室が絡むとそうでもない。鞄を取り上げて廊下に出て、階段を一段抜かして上がる、さて彼は何組だったっけ。確か、ここだ、何回か来た。
 ドアから顔を突っ込んで、教室に残っている生徒に声をかけた。
「ねえ、室ちん、どこにいるか分かる? 氷室、氷室辰也」
 声をかけられた生徒は、一瞬びっくりしたように身体を強張らせたが、いかにも眠そうな紫原の表情を見ていくらかは警戒を解き、体育館裏に呼び出されたって言ってたけど、と答えた。何度か顔を見せたことがあるので、紫原の存在は多分、この教室にいる人間には認知されている、氷室の子飼いだとも知れているだろう、それでも彼のフルネームを呼ぶ機会はそうないので口に出してみる。
 体育館裏? 阿呆らしい。
 告白タイムか、リンチか、どちらかしかないだろ、ほいほいと出向くなよ。
 相手は女か男か、訊いてみる。男だ、と教えられ、じゃあ後者かとうんざりする。心配である。氷室がではない、氷室の相手がだ。まさか殺すような下手は打たないのだろうが、相手から手を出されればそれなりにやる、氷室とはそうした男である。
 ありがと、と言い残し、大股で階段を降りて、体育館裏に足を運んだ。
 紫原が顔を出したときには、生い茂る雑草をベッドに、案の定ぼろ雑巾だった、見知らぬ男がだ。
 氷室の普段優しげな風貌に騙される人間も多いが、この男はおそろしく暴力に長けている。腕力だけでもないのだろう、勿論腕力もあるが、もっとテクニカルなものだ、だからきっと自分でも歯が立たない。
「室ちん、何してんの、もう」
 歩み寄りながら、呆れた声で言うと、呼吸ひとつ乱していない氷室が顔をこちらに向けた。あれ、と思った。散々殴る蹴るしてすっきりした表情でもしているのかと思ったが、彼は予想を裏切り、いやに複雑な目付きをしていた。
「ああ、アツシ、ちょうどいい。このひと、保健室に運んでもらえないか」
「ええ? 自分で運んでよ、室ちんがめっためたにしたんじゃないの、可哀想に」
「……オレじゃ持ち上がらないかも」
 嘘つき。
 触りたくもないのか。
 氷室の瞳が揺らめいていたので、仕方なく言うなりにすることにした。盛大な溜息を吐き、そのぼろ雑巾を肩に担いで、あとでお菓子たくさんちょうだいね、と言い残して紫原は来たルートを戻った。
 男はぐったりしていて、意識もなかった。死んでないよね、と思って途中で何回か吐息を確認した。
 行き交う生徒がぎょっとしたように振り返るが無視をする。猛獣使いと猛獣、いや、もうまさにその通りかもしれない、彼の視線がふらふらと彷徨えば、オレは彼の言うことをなんでも聞いてしまう、嫌だと思っても面倒だと思っても聞いてしまう、ああ、ほんとうにうんざり。
 泣き出しそうなその眼差しは。
 怖い。怖いと思う。
 優しく甘く呼んで欲しい、アツシ、アツシ。例えば叱られたり殴られたりするのは別に構わないが、いや、構うがそれほどでもないが、泣かれるのは非常に困る、胸がしくしく痛むし頭もくらくらする、お願いだから泣かないで、笑って、苦しむ顔は見たくない、そんなのボールを持っているときだけで充分じゃない。





 氷室は何も言わなかったが、取り敢えず、正当防衛だと思うよ、と言って保健室に男を届け、紫原は体育館裏に戻った。
 彼は、壁に背を凭れさせて、ぼんやりと虚空を眺めていた、誰かを叩きのめしたあとだという緊張感は窺えなかった、その姿はとても絵になっていた、午後、青空、緑、綺麗な男。
 どうしてオレが困惑するんだ。
 紫原は一瞬立ち止まってから、それを蹴散らすように氷室に近付いた。彼がこちらを向くまでに、少し間があった、らしくない。
「室ちん、殴られたの? どうせ一発は殴られたんでしょ? どこか痛いの?」
 最初に一発殴らせれば、あとは何をしてもいいんだよ、と笑顔で教えられたのはいつだったか忘れた。まあそのわりには、あのときはいきなりぶん殴られたよな、と思いはしたが。
 彼は、この昼日向で、暗い夜のような瞳をして、隣で壁に凭れた紫原を見上げ、殴られていないよ、と答えた。いつもと同じ穏やかな声だった、そんな目なのに?
 泣くのだろうか、と。
 思ったらきりきりこめかみが痛くなった。
「痛いとしたら、こころかな」
「こころ? 何か厭なことされたの? 室ちんが悪者なら、職員室に自首しに行ってよね」
「……キスされただけ。性的な」
 キスされただけ、性的な。
 どくり、と心臓が変な音を立てた。
 自分はこの男のことを、好きというわけでもないと思う。なぜなら彼は面倒くさくて、鬱陶しい人間だからである。嫉妬、羨望、諦念、畏怖、憎悪、全部を積み重ねて甘く自分を呼ぶ。アツシ。
 オレはお前を怖がらないよ、アツシ、可愛いね、アツシ、受け入れるよ、いい子だね、アツシ。
 そういうものに自分が弱いことを、彼はよく知っている。そうだ、弱いよ、怖がられるのは怖い、傷付けるのは怖い、だから態度も仕草も表情も選んで選んで、それでも誰かを怯えさせる、そしてオレが傷付く、でも彼は違う。
 触れても壊れない、逃げない、表情を見せてもオーケイ、ふたりで僅かに仮面をずらして、汚い素顔と怖がりな素顔を盗み見る、似ているのだと思う、少なくとも自分はそう思っている、だから安心して寄りかかれる、手懐けられている自覚はある、こんなにも嫌いなタイプの人間に。
 そうだ、嫌いなタイプだ。だから氷室が誰とくちづけを交わそうが、誰と寝ようが何だろうが、知ったことではない。
 知ったことではないはずだが。
「いまさらじゃない? 室ちん、博愛主義者だし。そこらじゅうでキスしてるじゃない」
「挨拶のキスとか、友達のキスは、それはどこでもするよ。でも、恋愛のキスは」
 安売りしないことに決めたから、と彼は、呟くように言って、紫原から目を逸らせた。なんだそれは、キスに種類があるのか。
 いつでも真っ直ぐ自分を見つめてくる彼に、珍しく視線を外されたものだから、少し驚いた。まじまじと見下ろすと、彼は微かに震えているようだった、怖かったのか? この男が? 相手をぶちのめしておきながら?
 キスをされた、か。
 そう言われて改めて眺めれば、氷室は、実に美しい男である。誰も彼もから懸想をされている印象だが、まあ半分は自己責任だと思う、美貌も素晴らしいが、愛想笑いも素晴らしい。体育館裏で男に迫られることもあるだろう。厭ならば最初から、虫も寄りつけないような怖い顔をしていればいいのだ。
 眉目秀麗というのはこの男のことか、艶やかな黒髪に手を伸ばしたくなるのは自然だ、スポーツをしているだけあって身体も綺麗だし、ああ、非の打ち所がないね。
 その汚いこころ以外は。
 皆が皆、揃って騙されているのだと思う。優しい微笑みは仮面である、オレはそのくらいは知っている。
 同類だから。
「恋愛のキス? よく分かんないけど、室ちんなら適当にあしらえるでしょ」
 震えているのがなんだか可哀想になって、腕を伸ばし、彼の手を掴んだ。彼は一瞬、余計にびくりと震えてから、大きく吐息を漏らして脱力した。
 動揺しない男なのだと思っていた、いや、そうではない、動揺しても見せない男なのだと。それは相手が自分であれ同じだ、だが、今日の彼はどこか剥き出しで脆い、そんな姿を。
 自分に見せるのは、卑怯である。
 驚いて、怖くなって、気付いたら殴っていたんだ、と氷室は憂鬱に言って、自分の黒髪を片手で掻き乱した。彼は、誰かにキスをされたくらいでここまで動揺する男ではない、ほんとうは何をされたんだろう、何か言われたのか、考えると何故か顔が熱くなって紫原は眉をひそめた、なんでオレが怒るんだ、馬鹿か。
「なあ、アツシ。オレのこと、誰とでもセックスする、だらしない男だと思っているだろう」
 ぽつりと、唐突に慣れない言葉を使われたので、紫原は思わず縋るように、氷室の手を掴む指に力を込めた。
 例えば、そうか、そういうことを言われでもしたのか?
「……思ってないけど、事実だし」
「アツシ。それはね、思っているって言うんだよ」
「別にどうでもいいし。室ちんの自由だし。オレ、口出さない」
 こういうことはきっぱりと、境界線を引くべきである。
 紫原が言い切ると、氷室はふと顔を上げて紫原を見つめ、すぐに視線を戻した、何を考えている? いつもならば大体は把握できるのに、今日の彼は少しおかしい、この男をここまで揺らがせるとは、あのぼろ雑巾もなかなかの仕事をしたようだ。
 彼はしばらく黙ってから、そういうのはもうやめたんだよ、と、特に誰に言うでもなく言った、いつもの甘い声はどこだ。
「冬にね、もうやめようと思って、やめた。別に好きでもなかったし、まあ、ちょっと生きづらくなったけど。でもあれだね、やめたと自分で思っても、周りはそうは見ないよね」
 冬? 人肌恋しい季節だろうに。
 口を出さないと言った以上は、言葉を挟まず紫原は聞いた。聞いていますよ、の意思表示に、掴んだ彼のてのひらを指先で撫でた。
 素に近いな、と思った。
 いつもよりは彼は素に近い、仮面を一枚か二枚か剥がしている、余裕を置き忘れた彼の姿を見るのは珍しいことである、泣く? ああ、それでも。
 オレはその隣にいることを許されている。
 彼の泣き顔は好きではない、笑ってほしいと思う、ただ、彼が泣くのならば、そのときには自分を呼んでくれ、どこにいても駆けつけるから。
「そうだな……さっきの男に、脅迫のようなことを言われて、少し、驚いた。怖くなった。強引にキスをされて、もう仕方がないかと思ったけど、なんて言うんだろう……愚弄? 貶める言葉を使われて、かっとなったのかな、頭に血が上った」
「……室ちんて意外と、面倒くさい日本語使うよね」
「そうかい? 至極簡単に言うならば、Fuck off.」
 オレにその話を聞かせるということは、と紫原は氷室の黒髪を見下ろして思った。無自覚なのだとしてもオレに喋るということは。
 あのぼろ雑巾が彼に吐いた言葉は、オレに関係しているのだろう。
 畜生、言えばいいのに。彼が言いたくないのなら無理には問わないが、言えばいい、猛獣使いと猛獣、なのだとしても、飼い主が全部を背負う必要はない、なにせ自分は猛獣なのだから、暴れてもいい。
 駄目か、ひとが死ぬ。オレは彼のように暴力に慣れていないし、加減を知らない。だから彼は言えない。
 ごめんね。
 ふたりの間に、数分沈黙が落ちた。居心地が悪いということはなかったが、紫原には歯痒かった。繋いだ手だけに彼の体温を感じる、いつものようにしがみついてしまえば楽かとも思ったが、まあ誰が見てもそういう空気ではない。
 風の音がする。
 さすがに黙っていることが辛くなってきて、紫原がセリフを探しはじめたときに、ふと、氷室が言った、どうでもいいことのように、いつものように柔らかな声で。
「アツシ、キスしないか」
 紫原は、はあ? とつい呆れた声を漏らして、彼の手を掴んでいた指を離し、思い直して今度は腕を掴んだ。もう、意味が判らない、今日のこの男は。
 面倒くさい、鬱陶しい、それはいつもの通りだが、何を考えているのかさっぱり分からないというのも珍しいことだ。
「室ちん、大丈夫? 自分が言ってること、矛盾だらけなの、理解してる? 安売りしないことに決めたんでしょ? それとも挨拶とか友達のキスなの?」
「ああ……。挨拶でも友達でもないよ、恋愛のキスだ。安売りしない、だから」
 これは高価なキスだ。
 風に乗せて囁かれた言葉に目眩がする。
 分かっているとは思えない、この男、自分が何を言っているのか。
 説教のひとつでも聞かせてやろうと開いた唇が声を出す前に、氷室が、少し面白そうな声色で言った、なんだアツシ、キスをしたことがないのか?
 怒りのような苛立ちのような、もどかしさに目の前が赤くなる、唆されているのは分かるが、何故自分を唆すんだ。
「キスくらいはしたことあるけど、なんでいまここで、室ちんとキスするの? 意味分かんないし」
「いまでないと、オレの唇は手に入らないかもしれないぞ? したくないのか、アツシ?」
「したいとかしたくないとか、おかしいでしょ、相手はオレだよ、室ちん、混乱しすぎ」
 壁から背を引き剥がし、腕を掴んだまま彼の顔を覗き込んで、そこで紫原は、はっと言葉を飲んだ。
 氷室は泣いてはいなかった、泣いてはいなかったが、その黒い瞳は濡れていた、少し油断をすれば涙が頬に伝い落ちそう。
 ほんとうに、何を言われたの?
 訊かないよ、訊かないけれど。
 氷室は、咄嗟に口を噤んだ紫原を見上げ、潤んだ目をしたまま、にこりと笑った。いつものように甘い笑みだが、それが怖いと紫原ははじめて思った。
 あなたの仮面はこんなにも、儚いものなのですね。
 視線を絡ませて微笑んだあと、彼は壁に背を凭れさせたまま、少し仰向いて目を閉じた。面倒くさいよ、ああ実に面倒くさい、オレのことなど好きではないくせに、嫉妬に羨望、あとはなんだっけ、そういうものしかないくせに、知っているさ、甘く名前を呼ばれれば、オレは抗えない、そんなこと、彼は誰よりもよく理解している、知っているさ。
 ようやく見つけた、仮面を外せる相手だ。
 離れられない、離したくない。
 氷室は自分から何を攫っていく気なのだろう。
「アツシ」
 目を閉じたままの彼に囁かれて、ひとつ溜息を吐いた。片手で頬に触れてみる、まだ少し震えている、これは高価なキスだと言った彼の声を思い出して息が苦しくなる。
 憎たらしいよ、悔しいよ、オレのほうがそう思っている。
「……舌使ったことない。ちゅってするだけで、いい? それしかやりかた知らないの」
「いいよ、アツシ。それでいい」
「室ちんの、馬鹿」
 悪態を吐息に混ぜて、壁に手をつき、彼を両腕で囲い込んだ。身を屈めて、できるだけ丁寧に唇を合わせた、壊さないように、怖がらせないように。
 何度か音を立てて啄み、それだけでくちづけを解いた、触れた彼の唇は少しだけひんやりとしていた、まるで呼吸を止めたばかりの死体みたいだなと思った。
 さあ、お目覚めの時間だ、いつものように愛想笑いを味方につけて、オレを甘くて優しい声で呼んでくれ。
 そのためにオレはもっともっと強くなるから、決して敗けないから、最後まで飛べるから。
 誰かの言葉で彼が惑う隙もないように。
 彼は、紫原が唇を離すと、そっと瞼を上げた。目の端から涙が一粒溢れて、頬に伝い、顎から落ちた、胸が痛くて痛くてたまらなかったが、それでも綺麗だと思った。
 てのひらで涙のあとを拭いてやると、そこではじめて自分がそれを零したことに気付いたらしい氷室が、参ったな、と呟いた。こういうときには、抱きしめる? もう一度キスをする? よく分からない、分からないから紫原は彼から身体を離し、精一杯の努力で片手を差し出した。
「部活、いこ。まさ子ちんに怒られるし」
「……そうだね、アツシ」
 その片手に、迷いなく重なった氷室の手は、やはり微かに震えていた。あのぼろ雑巾に、とどめを刺すべきだったと苛々目を細めた紫原に、氷室はふわりと優しく笑ってみせた、その顔が、好きだ、嫌いだ、苦しい。
 こころに飼っているバケモノは、凶暴なのにとても弱い、だから仮面で守るのだろう、そう、無理やり引き剥がしては駄目だ。
 自分が彼にそうであるように、彼が自分にこころ許せるようになるまで、すぐそばに突っ立っていよう。
「オレの唇は、高価な味がしたかい、アツシ?」
 手を繋ぎ、並んで雑草を踏みながら、氷室が少し楽しそうに言った。放り出していた鞄を片手で掴んで、紫原は答えた、そうだ、その調子だ、腹に溜め込んだ鬱屈を、余裕で弄べばいい、ひとりで傷付くな、氷室辰也といういきものは、それくらいには強い。
 違う場所でふたり藻掻いている。
 辿り着くべき場所も異なる。
 でも、似ているだろう、同類だ、だから、軽やかな声で呼んでくれよ。
「室ちんは、甘くて苦い、大人の味だよ」
「アツシは可愛いな。今度は、舌を使うキスを教えよう」
「……安売りしないんでしょ、室ちん」
 感傷なんて、がらでもない。
 繋いでいた手をさり気なく離し、体育館の出入口へ足を向ける。触れ合いそうで決して触れないこころを抱えて隣に並ぶ。それがどこであろうと、彼の隣にいるのは自分だ。
 アツシ、と。
 呼ばれるだけで胸が満ちる、この感情に名前はいらない、名付けてしまえばすべてが終わる気がする、だからお願い、ただ呼んで、オレを呼んで、決して背を向けられないように、優しく甘く。
 オレは同じだけ、あなたの名を呼ぼう、約束する。

(了)2014.02.09