くちづけも交わせないほど


 一度だけ、彼とセックスをしたことがある。
 だが、唇を触れ合わせたことはなかった。行為の最中も、行為のあとも。
 意味が分からない。
 いや、分かる、分かっている。
 あの男はオレに、恋をしていない、愛していない、オレのことなど、きっと好きではない。



 セックスに没頭している時間には、まったく思い至らなかった。紫原は、それを知らないわけではなかったが、慣れるほどに知っているとも言えなかった。なので身体に潜む熱を容赦なく暴かれて、なお冷静であった自信はない。
 自信はないというよりもむしろ、はっきりと、夢中だったか。
 氷室が一度もキスを仕掛けてこなかったことに気づいたのは、彼の部屋を出て、ひとりで廊下を歩いて、少しは頭が冷えたころである。
 そんなことにさえ気づかないほど、オレは必死だった?
 それもある、もちろんだ、そして、気づかせないほど、彼が巧妙に避けたのでもある。
 氷室はくちづけを、避けた、そう、言葉通り。
 彼が自分に向ける性的な眼差しを、そうだと認識したのは、さていつだったか、もう忘れてしまった。
 他人と、感情をむき出しにして向かい合うのは、嫌いだ、鬱陶しい。紫原はそうした男である、それはいまもむかしも変わらない。
 ひとりでいるのが気楽だ。怯えられても疎ましがられても参ってしまう、そうじゃないんだと言い募るのは面倒であるし見苦しい、だからひとりがいい。
 誰かと一緒にいるのなら、表情に幅も変化もなくて、こころのどこかを切り捨ててしまったかのように、何ごとも迷いなく無慈悲に切り分けるようなやつがいい。それなら安心して足元に丸まれる、怒ったり怖がったりしないでくれ、なるべくオレに構わないで、そして嫌いになれば捨ててくれ。
 はじめて懐いた人間は、そうした男だった、いまは遠く離れた地にいるが。
 氷室は彼とは、まったく違う人種だった、正反対だ。それでいて何故か、見るともなしに氷室を見ていると、彼のことをはっと思い出すときがあった。
 仮面かな、とは思った。
 氷室は決して無表情な男ではない、どちらかと言えばそれには種類があるほうである。ただし、そのほとんどが仮面である。仮面の種類が多いというだけだ。
 たいていは穏やかに微笑んでいるが、場面によっては普通に、歳相応に、困った顔も厳しい顔もする。ときに声を上げて笑っていたり、誰かを怒鳴りつけていたりする、表情豊かとまでは言わないにせよ、まあ無表情ではない。
 しかし紫原が観察する限り、それらは感情を発露するものではなかった。粘土で塗り固めたような、仮面だ。素が透けるとすれば、コートに立つときの真摯な顔くらいか。
 手を伸ばしても、届かない、見えない、とても深い。似ているとは言わない、ただ、ふと彼を思い出すこともある。
 感情に触れられないひとが、触れなくてもいいひとが、ここにもいるんだ、そんな感覚、じゃあオレはその足元にうずくまってもいいの? 彼にそうしてみせたように。
 おそらく氷室は相当に鬱陶しい男だろう。そんなことには気づいている。
 溢れ出してしまわないように、仮面で蓋をしているのだ、蓋をしなければならないほどに、氷室の感情は醜いということだ、そう己で思っているということだ。面倒なのでつつくまいが。
 はじめて氷室を見たときに、綺麗な男だな、と思った。
 造作はもちろんなのだが、その微笑みが、非常に綺麗だった。
 氷室は紫原を見上げて、にこりと笑い、よろしく、アツシ、と言った。アメリカ帰りの距離感が掴めずに一瞬柄にもなくこころの中で驚いて、そしてすぐに分かった。このひと、笑ってない。
 敦。彼はいつからか自分をそう呼ぶようになったのだっけ。それもまた、不意に彼を思い出す理由のひとつであるのかもしれない。
 アツシ、アツシ、優しく繰り返され、見下ろせば仮面のような微笑みを美貌にはりつけた氷室と、視線が重なる。ちっとも楽しくなさそうに、いや、もういっそ何か苦しそうに、氷室は笑っている。
 隠したいのだろ? 押し殺したいのだろ? 分かったよ、その特性はオレに対しては有効だ。感情なんて見たくない、だからどうか見せないで、押し付けないで、そのまま、笑っていて。
 そこでならオレは丸くなって眠れる。
 違う人種だ、正反対だ、なのに氷室と目が合う瞬間に、脳裏に綺麗な赤い髪をした男が過る。氷室と出会ったころは、そう、最初は、その自分を不思議に思い、氷室をじっと眺めたりもした。全然別なのに、なんで。
 表情に感情が乗らないところ。
 敦、と呼ぶ声。
 重ねているのか、オレは誰かにまた懐きたいのか、まさかね、と思っているうちに、気づけば籠絡されていた。氷室はそうした手腕に長けていた。怖がらなくていいんだよ、こっちへおいで、餌をあげるよ、捨て猫でも呼ぶように手招かれて、紫原はあっさり落ちた、氷室に言わせれば多分、いちころだ。
 どうすれば自分を手懐けられるか、どうしてそんなに簡単に、氷室は把握できたのだろう、よく分からない。そもそもどうして手懐けようと思ったんだ?
 単純に、紫原と氷室は相性が良かったからかもしれない。
 見たくない男、見せたくない男、そばにいるぶんには、なんら問題ない。紫原にとっては氷室の甘い声も仮面の笑みも居心地がよかったし、氷室も紫原に何かを見つけたのだろう。別にそれが、珍しい巨人を飼い慣らしてみたいなという好奇心だけだったとしても構わない、自分にとって気持ちがよければ不都合はない。
 氷室は冷めた目をしていることが多かった。冷めた、いや、醒めた?
 おそらく気づいている人間は少ない。綺麗な笑顔に誰もが騙される。しかし、氷室は微笑みながら、冷めた目を投げている、コートで見せる熱い眼差しは、コートの外ではめったに見ない。
 仮面に冷めた目、武装は完璧、ポーカーフェイスってこういうこと? 氷室は、いまは遠い地にいる男とは別種だが、隣にいるのはまったく不快ではなかった。差し出される菓子を唇で受け取って、室ちん、お菓子くれる、好き、とでも言ってやれば満足そうに笑う、そうだな、そういうときに少しだけ覗ける氷室の素顔は、悪くない。
 彼を思い出す回数も、次第に減った、決してゼロにはならないにせよ。甘えていいひと、彼、から、甘えていいひと、氷室、になったということだ。まさか彼を忘れはしまいが、いまでももちろん、指示にも命令にも従うし呼ばれれば駆けつけるが、甘えていいひと、の面積は、いつの間にか氷室がほぼ占有していた。
 ウエイトではない。面積だ。
 ウエイトというのなら、その足元にうずくまって、ただ愛した、彼より重い人間には、まだ出会っていないと思う。氷室は重いというよりは、どこかふわりとしている、だから、そう、だからこそ、そばにいられる。
 ひと嫌いのつもりであったが、オレって実はひと懐こいの? うわ、鬱陶しい。
 紫原と氷室のあいだには、計算づくでありながら、どこかしらやわらかい空気が流れることが多かった。計算づくだからこそか。暴かないよ、暴かないで、触れる指先で囁き合う、だから一緒にいよう。
 友人というには距離が近すぎる。チームメイトと言われるのならばその通り、しかしただのチームメイトではない、当然だ。ダブルエース? まあコートではね。
 恋人でもない、先輩後輩か、全然違う。オレとあのひとの関係を、表現する日本語をオレは知らない。
 その氷室が。
 自分に性的な眼差しを向けるようになったのは、さていつごろからだったのか。



 正確に言おう。
 氷室は、非常に、非常に、エロティックな男である。
 これで正確なのだ、間違いではない。なんなら他のやつにも訊いてくれ、言葉の差はあれ、だいたいそんなものだ。
 歩く成人指定のようなやつだ、本人は未成年のはずだが。清廉なふりの仮面で封じても、滲む気配がいやにセクシュアルなのだから、あえて本人がセクシュアルな仮面を選べば、もう誰もが参りましたと言う。
 多分室ちん、フェロモン出てる。
 意図的なときもあれ、そうでないときもあれ。
 その氷室からの、性的な眼差しを、向けられる身にもなってほしい。
 わざとだ。
 いつからだったかは、忘れた、だが、その色めいた瞳で見つめられてすぐに、これはえろい目だと把握したことは覚えている。困ったような持て余すような顔をしてくれればまだ良かったが、氷室ははっきりと、きっちりと、少しも怯まず、その美貌に誘惑の笑みを浮かべてみせた。
 このひと、オレを誘ってる。
 このひと、オレをセックスに誘ってる。
 思ってその場に固まった。きっと叱られたって殴られたって、蹴られたってこんなふうにはならない。繰り返すが紫原とて、その行為を知らないわけではない、しかし、これもまた繰り返すが、氷室は非常に、存在自体が、危うい、触れれば蕩ける果実みたいに婀娜めいた男である。
 こんな男にかかったら、食虫植物に飲まれるみたいに溶けてなくなってしまう。
 氷室は長くは紫原を硬直させてはおかなかった。時間にすればせいぜい十秒くらいだ、その目を見せつけられたのは。ベッドに行こう、アツシ。いまにもそう言うに違いないと思った唇は、短い、いやらしい笑みをいったんは取り消して、普段通りのにこりと優しい微笑みを浮かべた。
「どうした、アツシ? アイスが溶けてしまうよ」
 いや、溶けるのは、オレ、オレだから。
 慌てて、だがぎこちなく、アイスに噛み付いた紫原の髪を、つま先だって撫でながら、氷室は少しおかしそうにそこでくすくすと笑った。恐る恐る見やった瞳は、既にいつものように冷めていた。なに、いまの。
 わざとであることは確かだ。
 気まぐれ? からかったの? よく知らない。何かを確認した? 何を? よく知らない。いずれにせよ二度とそんな目で見ないでくれと紫原は思ったが、その日をさかいに氷室はたびたび色気のある視線を投げてくるようになった。
 校舎。
 体育館。部室。
 寮の部屋。食堂。お構いなし。
 さすがに露見することはよしとしなかったのだろう、ふたりきりのとき、ないしは他人との距離が充分あるときに限られたが、こちらとしてはますます困惑するというものだ。
 男でも女でも老いも若きも余さず魅了する、それが氷室辰也である。そう仕向けているのか、そうなってしまうのかは紫原の関知するところでないにしろ、見ている限り事実である。自分などに色目を使う暇があるのなら、老若男女の中からお好みのひとりでも摘めばいいのに、意味が分からない。
 室ちん、もう嫌い、と。
 言って逃げればよかったか。
 もし暑苦しい感情が、彼の瞳に透けていたら、ほんとうに逃げたかもしれない。それをむき出しにされるのは嫌いである。鬱陶しいし、正直怖い。だが、氷室の目にあったのは、純粋な欲と、純粋な誘惑のみだった。
 純粋? 違うか、なんと言えばいいんだ、ただもう、セックスしよう、それだけを伝える目。
 このひと、オレのことよく知ってんだね、とは思った。
 怖いものなんかないよ、アツシ、これは恋情なんかじゃないよ、アツシ、ただの性欲だよ、アツシ、だから、しよう、アツシ、アツシ。
 そういう視線。
 あるいは単純に氷室は、ただただ素直に欲情していたのか。室ちん、オレみたいな身体、好きなの?
 ならば、ああそう、逃げればよかったね。
 いちど懐いてしまったものを、いまさら無下にもできずに、その眼差しを黙って、固まりながら受け取り、見つめ返した。室ちん、ごめんね、オレ遊び慣れてないから、他あたってよ、そんなことを言うつもりで。
 無言のやりとりは、幾度も繰り返された。アツシ、したいよ、飽きず誘いに来る視線に、ごめん、駄目、と無表情のまま目で答える。普通、一度、二度、断られれば引かないか? 他にいくらだっているだろう? オレじゃないといけないの?
 正確に言おう。
 氷室は、非常に、非常に、エロティックな男である。
 多分フェロモン出ているのである、そんな男から、何度も何度も性的な視線を投げつけられたら、健全な青少年だっておかしくもなるだろう、そして紫原は、そう健全でもない。
 そんな毎日が積み重なったある夜、トイレで自己処理をした際に、無意識に氷室を思い浮かべていたことにあとから気づいた紫原は、うんざり白い天井を仰ぐはめになった。うわ、オレ最低。
 室ちんに、欲情するんだ、しかもおかずにするとか、オレ死んだほうがいいし。
 紫原が氷室に押し倒されたのは、それから数日後のことである。おそらく、誘惑の視線をはねのける目が変化したのだろう、自分では分からないが、まあこのエロスの塊、いけないお兄さんには察せられたということだ。
 氷室で手を汚したその欲を。
 頼むから、現代国語と古文を教えてくれ、アツシ、と言われて氷室の部屋に出向いた。わりといつものことではある。代わりに幾つか英語の文法について質問し、文法なんて知らないよ、と返されて、ああそうと部屋から去ろうとした腕を掴まれた。
 そのまま氷室は、紫原をベットに突き飛ばした。え、と思っているうちに、シャツ一枚になった氷室にのしかかられていた。いけないお兄さんは予想以上に手際がよかったし、力も強かった、そして紫原を把握していた、いまならば、本気では抗わない、抗えない。
「アツシ。最近オレに、欲情してるだろう? 別に隠さなくていいよ、いや、隠せてないよ」
 仰向けに組み敷かれ、思わず硬直している紫原に、ひたりと擦り寄って氷室は耳元に囁いた。艶やかな黒髪が頬を擽る、服越しの体温にぞくりとする、言い訳できない、トイレの個室で白い天井を見上げたあの日、確かに自分は彼を使った。
 いたずらに耳朶を舐めてから顔を上げた、氷室のその美貌に浮かんだ笑みに見蕩れ、興奮した。えろい。えっろいよ、室ちん、反則だし。
 そして思った、ああ、これは、恋でも愛でもないんだな、ただの欲だ。綺麗な顔に掠めるのは、好きとか嫌いとかそういうぬるいものではなかった、もっとずっと乱暴で切実で野生じみたもの。
 少なくとも、観察しうる限りでは。
 あるいは、これも仮面か。
「オレを見るアツシの美しい目に、熱が宿るさまは素晴らしいよ。大丈夫、お前はじっとしていればいい、全部オレがしよう、だからたくさん感じて、アツシ」
 このひとは、オレをよく知っている。
 感情は嫌い、感情は怖い、だから一切排除、気持ちいいことだけするんだ、アツシ。
 何故、オレなんだ?
 眼差しも表情も唇も指先も何もかも、いまこのときだけは、まるで、性的なものに特化したいきものみたいだな、この男は、と思った。食われている。こちらだって力はある、氷室が暴力に長けていることは知っているし、そんな現場も何度か見たが、その気で押し退ければ多分勝つ。
 でも、できない。
 あの夜トイレで見上げた白い天井、ひとりきりてのひらを汚した、へえ、この部屋の天井も白いんだ、目が回る、身体も頭も熱いのに、こころが。こころが取り残されて。
 男を抱いたことはあるかい、アツシ、と問われた。
 何回かはあるよ、と答えたら、その返事が意外だったのか、氷室は一瞬驚いた目になって、それから怒ったように眉をひそめ、最後にひときわいやらしく、笑った。そうか、アツシ、ならば遠慮はいらないかな。
 いつもは見下ろす瞳に見下され、服の上から強く肌を擦られて、それだけで勃起した。そう健全ではないにせよ青少年である。紫原に跨って、己の手で準備を施す氷室の、器用な指の動きを見せつけられながら、もういっそ押し倒してしまいたくなる両手の力を、意識して抜いた。
 きっともうオレは冷静ではない。
 しかし、だからといってがつがつするのはよろしくない。
 彼が仕掛けたことならば、彼の好きなようにすればいい。
 氷室は、全部オレがしよう、と囁いた言葉通りに動いた。紫原は、シーツから身を起こすことさえなかった。飲み込まれ擦り上げられる快楽に息を詰め、さすがに喉の奥で呻いたときに、声を殺して腰を上下させていた彼が、寒気がするほど綺麗に微笑んだ、その顔を覚えている。
 少なくとも、いつもの泥で塗り固めた仮面ではない。
 だが、素顔でもない。きっとこれは違う種類の仮面だ。このひと、こんなときにまで、何を抱えているの?
 二度か、三度か、彼の中で達した。生でしていいんだ、出していいんだ、好きなのかな、と快感に歯を食いしばりながら思った。あとで大変だろうから、ゴムつけましょうかと提案するのも、野暮だ。
 行為には、それほど時間はかからなかったような気がする、あるいは時間の感覚が飛んだ。
 丁寧に性器を拭われ、きちんと服を直されて、気づいたらひとり廊下を歩いていた。少し冷えた頭で思い返して、そしてようやく把握した、あのひと、オレにキスをしていないんだ。
 必死ではあった、何回か経験はあると言ってもそれだけだ、あんな男を目の前にすれば、童貞と同じである。
 それ以上に、彼が巧妙に避けたのだ、キスをしていないなと、紫原が思う隙も潰した。意識する余裕を奪って、結局乞うことも問うこともなく、ふと我に返ればもう彼の姿は視界にない。
 なにそれ。
 ねえ、室ちん、どうなの、楽しかった?
 それが、そう、一週間ほど前のことになるか。
 以来、彼の誘惑の眼差しは、なりを潜めた。気が済んだのだろうか、一度食ってしまえばもう興味もないか、と思ったが、彼は変わらず自分の隣にいた。飽きた様子もなく、その綺麗な手は紫原に菓子を差し出したし、いつも通りにボールを掴んだ。まったく普通、氷室は今日も普通だ。
 普通に仮面の微笑みを浮かべ、普通に相手構わず誰をも虜にする、普通、普通すぎて意味が分からない。
 いや、分かる、分かっている。
 あの男はオレに、恋をしていない、愛していない、オレのことなど、きっと好きではない。だから。
 欲に任せてセックスしたって、何も変わらないし、もちろん、くちづけなんて交わす義理もないのだ。
 いいじゃないか、それなら、それで。感情なんて鬱陶しいだけである。
 感情なんて鬱陶しいだけなのに。
 何が気になる、何故苛つく、どうして、こんなにこころが痛い。





 それにしたって、ひどくない?
 氷室が、あの氷室辰也が、キスひとつしないなんて、というか避けるなんて、ひどくない? オレと室ちん、セックスしたよね、キスってたいてい、その前段階じゃないの?
 しかたがないので、自分からと、試しに身を屈めたこともある。
 視線に感情を含めるのは得意ではないが、強いて欲しがるような目つきをして、特に飾り気もなく唇を寄せようとしたら、しかし氷室は、あの日自分の上で腰を振ってみせた男は、さらりと紫原から逃げた。
「どうした、アツシ? アイスが溶けてしまうよ」
 どうした、じゃねえよ。
 知る限り氷室は、キスなどは挨拶程度に、誰とでもするアメリカ仕込みの男である。何度かしているのを見たこともあった。それが自分とだけはしない、誘っても断られる。なんで?
 彼が自分に抱くものが恋愛感情でないにせよ、いや、だからこそ、挨拶のキスくらいできるだろ、己からはしなくても、こちらがわざわざ仕掛けているのだからするだろ、なんで? なんで? そこまでいや? 気が変になるぜ、いい加減。
 考えた。
 紫原は、紫原なりに、考えた。
 そして、結局は訊くことにした。非常に不本意ではあるが、仮面の男が仮面の下で、何を思っているのか知っていそうな男に、心当たりはあった。
 自分と同じ程度には、というか認めたくはないがあるいはそれ以上に、氷室を把握していそうなやつ。火神大我である。
 荒木に半分叱られながら、頭が痛いとか腹が痛いとかこころが痛いとか言い訳をして、部活の途中に体育館を出た。心配してついてこようとする氷室を追い払い、自分以外には誰もいない部室で黒子テツヤに電話をかけた。一緒にストリートバスケなんかしていたのだから、火神の連絡先くらいは知っているだろう。
 部活中で、繋がらないかもしれないな、と思った黒子は、三度の呼び出し音のあとで電話に出た。コールセンターのようだ。
 どうやら休憩中らしい、口にしたくもないが、東京からの帰り路に氷室から、さんざん聞かされた名前を声にした。何故口にしたくもないのか、それは嫉妬ゆえ、という自覚もないままに。
 鬱陶しい感情は嫌い、なのに自分の中にも鬱陶しい感情があると、認めないのが紫原敦のクオリティである。だって鬱陶しいから。
「黒ちん、あの熱血の電話番号知らない? ええと、室ちんの弟分、タイガ。なんとかタイガ。火神? 眉の変なひと。話したいんだけど」
 あんなやつはよく知らない、という素振りで言う。彼の名前を呼ぶときの氷室が、いつもよりも素に近いことを知っている、だからその名前はほんとうは、記憶にしっかり焼き付いている。
 黒子は、火神くんならここにいますよ、かわりますね、とあっさり言った。そして、数秒の沈黙を挟み、ストリートバスケをした際に知った暑苦しい声が、回線の向こうに聞こえた。
『紫原? 紫原なのか? なんだよ、キセキがオレになんの用事だ。バスケか? バスケするか?』
 兄弟揃ってバスケ馬鹿。
 はあ、とひとつ溜息を吐いてから、紫原は単刀直入に言った。こんなことは誰かに訊くものではない、それは理解しているが、分からないのだから訊くしかない。そして訊くならこいつしかいない、考えた末の結論である、しかたがない。
「ねえ。室ちんが、オレとキスしないんだよね。オレとだけキスしないんだよね。なんでか分かる? そんなこと、過去にあった?」
 火神は一瞬黙った。たぶん、きょとん、としたのだろう。顔は見えなくとも気配で分かる、大して親しくもない大男が、いきなり電話を寄越したと思ったら、兄貴分がキスをしないのは何故かと問うてくる、まあ、わけも分からないか。
 噛み砕いて説明をしようとしたら、その前に火神が言った。こいつはデリカシーというものを、アメリカに置いてきたに違いない。
『はあ? タツヤがキスしない? ないだろそれは。ああ、日本だから遠慮してんじゃないか? それともお前、そんなにタツヤに嫌われてんのか。つかタツヤとキスしたいのか?』
 弱っていた部分をがつがつと掘り返されるみたいで、紫原はひとり露骨に眉を歪めた。嫌われてる? オレ、室ちんに嫌われてる? そうなの? その前にその呼称をやめろ、タツヤ、タツヤと馴れ馴れしい。
 キスをしたいのか?
 したいのか。そうか、そういうことになるか。気付かなかったがそうなのだろう、したくなければ何故かどうしてかなんて思わない。オレはあのひととキスをしたい。すごくしたい。
 ロッカーをつい、がんと右足で蹴った。電話の向こうに聞こえたか、聞こえなかったかは知らない。
「遠慮じゃない。他のひとにはするし。だからオレとだけはしないって言ってるでしょ。嫌われてると思ったことないけど、ほんとうはどうだか分かんない。ねえ、室ちんにとっては、キスって挨拶みたいなもんじゃないの。何がなんでも避けることに意味があるの。アメリカ人何考えてんの。オレ、こんなことわざわざ訊きたくないけど、アメリカ人のことはアメリカ人に訊かないと駄目だし」
『オレもタツヤも日本人だぞ。キスを避けることに意味? 意味、ねえ。意味があるならそれは、挨拶にはならないからってことじゃねえの。それより、紫原、バスケしようぜ』
「バスケはいま関係ないし! ここ秋田だし!」
 紫原は珍しく声を荒らげた。兄貴分とは相性がいい、と思っているのに、その弟分とは気が合いそうにない。
 回線の向こうで火神は、分かった、分かった、と宥めるような声で言った。屈辱である。こんなやつにお子様扱いされるとは。
 いや、待て、こいついま重要なことを言わなかったか。
 意味があるならそれは、挨拶にはならないからって?
 いらいらする頭で、懸命に考える紫原に、休憩終わるからそろそろ切るけど、と火神はえらくさらりと言った。
『多分、タツヤはお前のこと、キスできないくらいに大嫌いか、キスできないくらいに大好きなんだろ、察しろよ。日本人はそういうの得意なんじゃねえの? オレはアメリカ人だから苦手だ、だからこれ以上は分からねえ』
 オレもタツヤも日本人だぞ、と言ったのはお前だが。
 キスできないくらいに大嫌いか。
 キスできないくらいに大好き。
 どくりと心臓が無駄に鳴る。大嫌いか、大好きか。そんなの、どっちかなんて。
 ばかばか、オレのばか。それ以上に、あのひと、ばか。
「……分かった。ありがと」
 これもまた珍しく紫原は神妙に言った、そうか、そういうことか、やはり弟分は氷室をそこそこ知っていた。そして、じゃあ今度バスケ付き合え、と元気に答えた火神に、別にいいけどこの電話のこと室ちんにばらしたら、捻り潰すからね、と付け加えて、通話を切った。
 それから紫原は、適当に着替えて部室を抜け出し、足早に寮へ向かった。体育館に戻るのは、後回しだ。今日、いまの時間ならぎりぎり手続きが間に合うか。
 氷室の隣は、居心地がいい、感情が降ってこないから。
 しかし、だからこそ、焦れったい、その綺麗な微笑みの仮面を、そして、欲情以外は殺してしまう仮面を、引き剥がすのではなく己から外させるには、どうすればいい?
 むき出しにして向かい合うのは、嫌いだ、鬱陶しい。でも、氷室の感情は見てみたい、こんなふうに思うのははじめてである。気でも狂ったのだろうか。
 懐いて、愛した、あの赤い髪の男に対してだって、こんなふうに思ったことはない。
 ああ、オレっていま、恋してるのか、とこころの中で呟いてから、死にたいくらいに恥ずかしくなった。ねえだけど、きっと、あのひとだって同じだ、性欲しかありません、そんな仮面をわざわざ選んで、美しい顔にはりつけて、そこまでしてでもオレをセックスに誘ってしまう程度には。





 いまから、お出かけだから、早く一緒に来て、室ちん。
 土曜日、部活をこなしたあと、じゃあいつものように自主練しようという顔をしていた氷室に言うと、彼はぱちぱちと瞬いて、それから紫原を見上げ、少し困ったように笑った。ちょっと練習していくよ、お菓子を買いに行くのか、ならあとで付き合ってやるからオレにも付き合わないか?
 通常通りのセリフ、通常通りの表情、今日は許さない、さあ、素顔を見せろ、氷室辰也。
 腕を掴んで、既に他の部員は去ったあとの部室に引きずった。着替えて、と言うと、強引な紫原の態度に戸惑ったように、氷室は首を傾げた。まあ確かに、いつだって、このひとがオレに甘いように、オレもこのひとに甘いよね、でも今日は駄目だし。
「室ちんはいまから、オレと、何駅か電車に乗ってホテルに行って、シャワーを浴びてセックスします。オレの小遣い消えるくらいのホテル取ったんだから、断らないでよね。外泊届け、とっくに出した、二人前。同意書も、とっくに出した、二人前」
「……何を言っているんだ、アツシ? 外泊届けを、出した? 理由に何も書けないだろ? 冗談は」
「東京に、バスケの試合観に行きます、って書いた。なんかあっさり通ったよ、オレと室ちんだし。まさ子ちんにも、同じこと言っといた」
 言いかけた氷室のセリフを遮って、淡々と言葉を重ねた。氷室はまた、ぱちぱちと瞬いてから、あまり見ないような複雑な目をして、無茶だな、アツシ、と言った。
 その眼差しは、いつものように、冷めてはいない。
 コートに立つときほどには、熱くない。
 幾度も見せつけられた誘惑の目でもない。
 なんと言えばいいか、対処に迷っている目だ、断れるけど断りたくないけど、断ったほうがいいけどどうしよう、ホテルでセックス? 魅力的だね、でもそんなことをしてしまったら、お前、オレに飽きるんだろう、アツシ?
 ほら見ろ、つつくまいと思ってきた、つついたら面倒くさそうだから、案の定面倒くさい。でもいいよ、室ちん限定、面倒くさくても許してあげる、だから今夜こそキスをしよう。
 まだ悩んでいます、という顔をしたまま着替えた氷室を引きずりいったん寮に戻り、私服に着替えさせて駅に引きずった。引きずって電車に乗らせて、さらにホテルに引きずり、彼が逃げ出す前にチェックインしてエレベーターに、ツインの部屋に引きずった。
「アツシ、東京で、バスケの試合を見るんじゃないのか? ここは秋田たぞ」
 ユニットバスに押しこむ段階で、ようやくそう訊いてきた氷室に、いまさらかよ、と思いながら答えた。このひとは敏いのか鈍いのか謎だ。
 抗うのは諦めたらしい、落ち着いた目の色をしている、あのときみたいなあからさまにエロティックな、いやらしい顔を早く見たい。
「移動で疲れちゃうでしょ、口実だよ口実。バスケ見てる時間あるなら、室ちんとくっついてるし」
「戻ったら、絶対に、試合どうだったかと訊かれるよ。なんて答えるんだ?」
「そんなのは室ちんが、華麗な微笑みで受け流しちゃうから、大丈夫」
 室ちんとくっついてるし。
 自分としては結構決定的なセリフを吐いたつもりであるが、氷室は大して気にしていない。そうだな、このひとは、鈍いんだ、オレも大概かもしれないが、輪をかけて。
 オレに乗っかっておきながら。
 オレの感情には気づかない。
 大好きすぎてキスもできない、ばれてオレに嫌われるのが怖いの? 怖いんだろうな、感情なんて見せないで、と、態度で示してきたのはこのオレだ。
 それでも欲しいから、せめて身体だけでも欲しいから、彼は色めいた目で自分を誘った。欲以外のすべてを隠し、気持ちいいことだけしよう、アツシ、そうやって自分を押し倒したのだ、こころが透けてしまうキスを巧みに避けて、どっさり快楽を積み上げて。
 もう、どうしよう、こんなに色気だだ漏れのひとが。
 平気でオレをベッドに押し倒したひとが。
 キスもできないなんて、可愛すぎない?
 氷室は紫原の言葉に、少しだけ呆れた顔をしてみせた。それから、手を伸ばして、己よりもかなり背の高い男の髪を撫で、ふふ、と笑った。あ、いやらしい顔をした、と思った。
「セックスしたいのか、アツシ? 分かったよ、お前のために綺麗に洗おう」
 懐柔できた、そう思ったか、少なくとも身体だけの関係は続けられそうだ、それでオーケイ、そう思ったか。
 甘いよ、室ちん。ばかにしないで、ばかだけど。
 順番にユニットバスを使って、ふたりでひとつのベッドに縺れ込んだときには、氷室はあの夜寮の部屋で、紫原に跨ったときと同じくらいにはエロティックな笑みを浮かべていた。相変わらず、性欲にダイレクトに来るね、室ちんの顔は。
 でも、今夜はそれだけじゃ物足りないし。
 前回と同じように、紫原の上に乗ろうとする氷室を、シーツの上に組み敷いた。何? というような顔をした彼に構わず、バスローブの紐を解いてはだけさせ、あらわになった滑らかな肌に隙間なくキスを降らせる、大丈夫、あとはつけないからびっくりしないで。
 彼はどうやら舐められるよりも、噛まれるほうだ好きなようだ。
 いたずらに、歯を立てるたびに溢れる甘やかな声に、ぞくぞくした。このあいだは寮だったから、声なんか上げられなかったしね。
「アツシ、ここ、噛んで……」
 彼が自ら指先で触れる乳首に、言われるままに食いつくと、たまらない、というように髪を掻き抱かれた、いや、たまらないのはこっちだし。
 しかしほんとうに、このひと、慣れてるな。
 彼がきっちり勃起するまで身体中に唇で触れてから、紫原は身を起こした。頬を紅潮させ、呼吸を喘がせる、氷室のとてつもなく性的な表情を目にして、逸る自分をなんとか落ち着かせる。えろい。えっろい。やっぱり。フェロモン出てるとか、そんなもんじゃない。
 セックスを、知らないわけではない。
 しかし、知っていると言えるほどでもない。
 いっぱいいっぱいだよ、室ちん、分かるでしょ、でもちゃんとリードしたいし、ええと、どういう体位が好み?
 顔に出したつもりはないし、もちろん口にも出さなかったはずだが、まあどちらかで出たのだろう。氷室は息を乱したまま甘ったるく笑い、左手のてのひらに隠していた小さなチューブをシーツに落とした。
 ユニットバスで盗んだらしい、試供品サイズのフェイスクリーム、これ? これでよし?
 紫原が目で問うと、彼はやはりにこりと笑ってから、両脚を折り曲げて己の手で押さえた。尻がむき出しになってくらくらする、分かる、分かってる、でもちょっとこのひと、刺激強すぎるんだよ。
 あのとき彼が自らの身体に差し込んだ、指の動きを思い出そうとする。駄目、無理、なんかすごくいやらしかったことしか分からない、もう数少ない経験の引き出しを全部開けるしかない。
 クリームを塗りつけて、指を一本押し込んだ、このくらいでは痛くもきつくもないはず、ていうかこのひと慣れてるから、多分相当しなければ、きついとかはないのかも。
「あ……ッ、は、アツシの、指、長いね……、気持ちいい」
 狙って言っているのだろうか。
 そういえば彼の内側に、指で触れるのははじめてである。あたたかくて、きゅうきゅう締め付けてきて、目が眩んだ、ここで性器を咥え込まれる快感なら知っている、あれをもう一度味わえるのかと思ったら、もう何もかもを投げ出せる気がした。
 でも待って、キスはするからね。
「室ちんの中、すごいね、感じてるの? だからこうなの?」
 浅い場所をぐるりと広げて、前立腺を押し撫でる、そのまま届く奥まで指先で擦ると、氷室は、それはそれは色っぽい声を上げた。
 早く入りたい、ここに入れたい、入れて揺さぶりたい、そのときのこのひとの顔が見たい。
 繋がったままキスしたら、どんな感じだろう、しあわせって感じかな。
「んッ、アツシ、そんなにしないで……、指だけで、いきたくない」
「いってもいいよ。室ちんがいっぱい感じるのは、嬉しいし」
「アツシと、一緒に、いきたいな……。ああッ、駄目、奥はそんなに、しなくていいよ、入り口、開いて」
 これは、リードしているとは言えないか。まあいいや。
 喘ぎの合間に溢れる指示に従って、指を三本使い、彼を広げた。そのころには自分の性器も完全に勃った、触っても触られてもいないのに、氷室のセクシュアルにすぎる美貌を見て声を聞いて、指を動かしているだけなのに、勃った。ああもう、全部このひとのせいなんだから。
 もういいよ、おいで、と、艶めいた笑みを浮かべた彼に呼ばれて、指で開いた場所に性器を押し当てた。自分で支えるのはしんどいだろうと、彼の片脚を抱えて、あまり遠慮もせずにぐいと突き刺した。
 氷室は少し唇を引きつらせて、苦しそうな、悲鳴みたいな声を漏らした。ああ、きついのはきついのか、あの夜はそんな顔をしなかったが、興が削がれるからと隠したのか、己で動くことで殺したのか、では今夜は自分に、少しは気を許している?
 美しい顔がわずかに歪むさまを見下ろして、嗜虐的な快感を覚えなかったと言えば、それは嘘である。
 気持ちよくなって欲しいけど。
 オレがそうであるように、オレで文字通りいっぱいいっぱいになっている彼を、見たい。
 苦痛ぎりぎりの快楽ってどんなだろう、このひとにそんなものはあるのかな、ねえ、オレの身体はどう? おおきいでしょ、知ってる。
「あ……! 無理、するな……ッ、お前、太いんだよ、ゆっくり、アツシ……ッ」
「うん、ごめんねえ。ゆっくりするだけの余裕、ない」
「は、あッ、もう……ッ、深すぎ、る。ああ、アツシ、動くな」
 脚から離した手で、シーツを握りしめて、氷室は掠れた声を上げた。首を左右に緩くふり、待て、と言いたいらしいが、潤んだ目で縋るように見つめられても逆効果である。
 余裕がないと申告はした。
 サイズ的な問題なのか、感情的な問題なのか、彼はいまなかなかに際どいというのは分かる。目一杯、でも気持ちいい、動かれたらいっちゃう、そんな顔をしていた。だったら動くでしょ。
 前回、彼はとても丁寧に腰を上下させた。
 あの体勢ではそれしかできなかったのか、この性器ではつらかったのかは分からないが、あの夜よりは少しだけ、少しだけ無理をしてみる? 室ちん。何か見えるかも。
 動くな、という彼の言葉は無視して、腰を使った。馴染むまではじっくりと、それから大きな幅で、強く深く。
「アツ、シ……! たまら、ない」
 艶やかな黒髪を乱し、まだ少し苦しげに、それでもたっぷり悦楽に浸った表情で、彼は喘いだ。やっぱり声が聞こえるのはいいな、と思った、寮は不便だ。しかし、やばい、えっろいよ。
 懸命に自分を飲み込んでいる繋ぎ目を見て身体をますます熱くして、これは駄目だとそこから目をそらせば、今度は頬を染めている美貌が視界に入る。絡みつくように締め付けてくる彼の感触と、もはや色っぽいとかいう次元ではない官能的な声に意識を奪われ、室ちん、オレいきそう、と何度か言いたくなった。いや、耐えろ、我慢我慢。
 氷室はどうやら奥を刺激されるのが好きらしい、というのは分かったので、彼の限界を誘い出すように、根本まで突き刺して揺さぶった。
 彼はひときわ甘い声を上げてシーツを掻きむしり、アツシ、といつもより高い声で、紫原を呼んだ。
「も……、いく、お前、は、いけるか? アツシ……ッ」
 先に言ってくれて助かった。
 紫原は、深い場所を抉りながら、氷室に答えた。こういうときは淡白な声を使えばいいのか、熱い声を使えばいいのか、よく知らない、まあ知ったところで使い分けられるほどに器用ではない。
 だから普段通りの緩い声で。
「うん。いけるよ。室ちん、すごくいい。ねえ、中に出していい? このまま出していい?」
「出せよ……ッ、あ、無理だ、いく……、はあッ、アツシ、いけ……!」
 目眩がするくらいに、ぎゅうっと絞り上げられて、氷室が達するのが分かった。その瞬間の彼と言ったら、もう、表情も、声も、言葉に出来ない艶かしさだった、あの夜よりやばい、とんでもない、このひと。
 びくびく痙攣している内壁を、二度か三度か擦って、紫原は深い場所で射精した。こんな快感、他にはない。氷室だから。氷室の他には。
 ねえ、分かる、室ちんだからなんだけど、これは。
 緩く腰を使って、精液を最後まで吐き出してから、繋がったまま紫原は身を屈めた。その気配に、きつく瞑っていた目を開けた氷室と、視線を絡ませて、可能な限り優しく笑いかけた。多分見た目、そんなに優しくないだろう、でも笑うこと自体が奇跡なんだから、分かって。
「室ちん、好き、大好き」
 まだ恍惚が抜けていない、という顔をしている氷室は、何を言われているかさっぱり理解していない濡れた目で、不思議そうに紫原を見つめた。駄目だこれは。
 もう、実行しちゃおう。
 彼が、抗うという選択肢を思いつく前に、くちづけた。さんざん喘いだせいか、少し唇が乾いている。
 びくりと、彼の身体が派手に震えた。驚いた、というか、動揺したのか。なので、舌を入れてみようかな、と思っていたが、やめた。とりあえずキスをすればいいんだ、キスを。
 唇の端から端まで、音を立てて啄んでから、身を起こした。見下ろした氷室は、目を丸くして、顔を真っ赤にして、紫原を凝視していた。いや、だからね、そんな可愛い顔をされても。
 差し入れたままだった、まだ余裕で硬い性器を、さすがに可哀想かと思って、引き抜いた。その感覚に氷室はわずかに目を細めたが、声は上げなかった、あるいは出なかった?
 彼がまじまじとこちらを見上げてくるので、視線の交差に付き合った。なるべく甘い目をしよう、いや、燃えているほうがいい? 短い時間迷ってから、どれも無理だと諦めて、ただまっすぐに彼を見た。
 好きだよ、オレは室ちんが好きだよ、分かって、オレいま恋してるの。
 室ちんも、オレにキスできなかったくらいに、オレが大好きでしょ?
 感情をむき出しにして、他人と向き合うのは、嫌いだ、鬱陶しい。でも、あなただけです、あなただけには、見せるし見せて、壁なんて壊して扉なんて潰して仮面も取って!
「……アツシは、……オレが好きなのか?」
 氷室の声は、なんだかぐしゃぐしゃと髪を撫でてやりたくなるくらいに、小さく、掠れていた。怯えと期待を半々に滲ませて、必死で見つめてくる瞳の色がとても綺麗だ、ごめんね、オレがこんなだから、室ちん言えなかったね。
 ぴったりと肌を寄せて覆いかぶさり、もう一度キスをした。少し顔を上げて瞳を覗き込んで、同じ言葉を繰り返した。
「うん。室ちん、好き、大好き」
「……畜生。オレのほうが、お前を好きだ、アツシ」
 泣き出しそうな表情で言われたセリフに、紫原はつい笑った、オレが笑うなんて、しかも二回も笑うなんて、すごくない?
 アメリカ帰りのいけないお兄さんは、どんなときでも負けず嫌いである。



 はじめての夜よりも、きつく抱き合って、何度も果てた。
 中に出してしまったものを、掻き出してやると言ったが、氷室は断固それを拒否して、ユニットバスにふらふらと消えた。
 ひとり取り残されたベッドで思う、オレはいま満ち足りている。
 懐いた、愛した、あのひとの足元で、丸まっていたときよりも?
 脳裏で綺麗な赤い髪の男が笑った。敦。氷室を見ていると、ふと彼を思い出すことがあった、いや、過去形にはできない、現在でもか、その回数は減ったにせよ。
 彼の飼い犬でありたいと願った。
 氷室でも同じなのだと思った、でもいまは、恋をしているのだから、少し違うか。
 ふたりきりで、こっそり感情を見せ合って、肌を、くちづけを交わす。それがこんなに快いだなんて、知らなかった、氷室と抱き合うまでは。
 ねえ、遠い地に住むひとよ、オレは変わったか?
 あなたが可愛がってくれた敦も、氷室が好きになってくれたアツシも、オレだ、どちらもオレでしかない。彼らが自分に与えたものは、紛れもない愛情である、似ていないようで似ているもの、似ているようで似ていないもの、ぽつりとひとり立つ男に、差し出された甘いもの。
 巧くはできないかもしれないけれど、ちゃんと最後まで、ゴールまで届けるよ、見てて、千年の都からでも、あなたの瞳にオレの姿は容易に映るだろう。


(了)2014.04.01