ラナンキュラス


 I am dazzled by your charms.
 あなたの魅力に目を奪われる。



 日曜日、授業もなく、部活もオフだったので、ひとり街に出た。
 人混みに紛れて孤独を味わう、そういう時間は必要である。
 群れに身を置くことは厭わないが、馴染み切れもしない、それが氷室である、気付けばそうなっているし、そうでなければならないとも思っている。
 外面は完璧だ、人当たりも良い自覚はある、それでもなんだか重い、自分の居場所はここだろうか。
 だから、寮生活はなかなかに息苦しかった、たまに無性に、一時間でも二時間でも、誰も自分を知らない場所を意味もなく歩きたくなる、そういうときにはなるべく街なかに行く。
 適当に本屋を冷やかし、選んだ本を読みながらカフェで一息、学校の購買では見慣れないような文具を買って、さてそろそろ帰ろうかと駅に足を向けた。
 駅前の花屋で、ふと、美しい紫色の花が目に入り、足を止めた。
 紫原と同じ色だなと思ったら、視線が外せなくなって困った。クソ、せっかく開放されるために足を伸ばしたのに、どうしてオレはお前のことばかり考える。
 彼に対する感情は、嫉妬というよりは羨望に近い。
 奪いたいとも思うが、どちらかといえば祈りたい。
 その恩恵を、どうか彼が一秒でも長く、てのひらで温められますように。
 気付きますように、それはね、アツシ、誰もが欲しくて、誰も手に入れられない、おまえだけの宝物なんだよ。
 花に見蕩れていると、花屋の主人に声をかけられた、何かお探しですか? 綺麗な紫色を指さして、氷室はにこりと笑ってみせた、これはなんという花ですか。
 ラナンキュラスという花だと教えられた。言われてみればよく聞いた名前だ。ついでにと花言葉を告げられて、ああ、と思った。そうか、ロサンゼルスにいるころに、そういえば何度も貰った、紫色ではなかったが。
 色が違うだけでずいぶんと印象が異なる。
 彼の髪が美しい紫色でなければ、では彼はいまほど魅力的ではなかったか。
 少し迷ってから、花を五本買って店を出た。薄い花弁が幾重にも重なる、結構に派手な花である。電車に乗っている間、行く路よりもいくらか多くひと目を集めた気がするが、まあ、花が似合うくらいには自分が美しいと知っていたので気にしない。
 花が咲いていつか枯れるように。
 ひともいつかは枯れていく、そんなことは知っている、だからいまを咲きほこれ。
 と、あの男に教えてやるにはどうすればいいのだろう、彼は分かっているのか、永遠に続くギフトはないのだと。
 右手に本と文具の入った紙袋をぶら下げ、左手に花を抱えて電車を降りた。苦労して改札を通り過ぎて、駅を抜け、寮に向かう。
 見慣れた門が見えてきて、さあ日常生活の始まりだとひとつ息を吐いた、ときどきの逃避は必要だが、オレはこの生活に取り立てて文句はない。
 しばしば身動きが取れなくもなるし、この安寧に慣れてしまってもいいものかと思いもするが、その程度である。
 門をくぐり、荷物を抱えて寮に足を踏み入れた。大丈夫だ、羽も伸ばした、しばらくはいつものようににこにこしていられるさ。
 階段を上り、自分の部屋に向かって、氷室はそこでつい足を止めた。ドアの前に、人影というには大きすぎる人影が、だらりとした姿勢で立っていたから。
 その人影は、氷室の姿を認めると、甘くて緩やかな声で、遅いよ、室ちん、と言った。
 彼のその、柔らかな声は好きだと思う、基本的には彼はとても穏やかな話し方をする、体格だけで相手を圧倒できるのだから凄む必要もないのか、圧倒してしまうから、敢えてか。
「どこ行ってたの。たまの休みくらい、のんびりしたらいいし、変なの」
「読みたい本があってね。購買には置いていないようだったから、買いに行ったんだよ、アツシ」
「ふうん。取り寄せればよかったし」
 変なの、と繰り返して、彼はひとつ欠伸を漏らした。見下ろした腕時計は午後五時をさしている、この子供はもう眠いのか?
 歩み寄って、見上げて、微笑む。彼はそれを見つめて、くしゃりと笑う。彼のこういう、あまりにもふやけた表情を見られるのは、自分くらいだと思う、思うとぞくぞくと優越感が湧く、この大男はずいぶんとオレに懐いた、嫉妬だとか焦燥だとかの汚らしい感情を、ぶつけたこともあったはずだが、彼はやすやすと受け入れてしまった、勝てない。
 大きな身体と、何かを抜き取ってしまったような温い表情に、繊細で純粋で、かつ非常に受容性の高いこころを隠して生きている、紫原とはそうした男である。
 あれもこれも、まあ、いいんじゃない、と言って許す、興味が無いわけではないのだ、この子供は優しいのだ。
 自分に対してだけなのかもしれないが。
 彼は、しばらくそうして笑ってから、ふと氷室の左手に視線を向け、そこでようやくその左手が花を抱えていることに気付いたらしく、ええ? とおかしな声を上げて一歩後ずさった。
 いつでも実は鋭いのに、こんなところは妙に鈍い、彼が天然系と言われるゆえんだ、そしてずいぶんな反応である。
「ちょっと待って、室ちん。何? なんで花? 男子高校生の装備じゃないし。一瞬引くよ?」
「そうか? 綺麗だと思ったんだけどな」
「好きな子にあげるの? 室ちん、そういうのやめて、室ちんがやるとくさすぎて、女の子だって一瞬引くし」
 別に、自分の部屋に飾ろうと思っただけなのだが。
 構わずに、荷物をぶら下げたままの右手でドアノブを持ち、ドアを開けながら彼を見上げて、もう一度にこりと笑った、それで、何か用事があるのか、アツシ?
 彼は、少し困ったような顔をしてから、暇だから遊びに来ただけ、と答えた、そうか、暇だから遊びに来て、留守だからずっとドアの外に立っていたのか、律儀な大型犬である。
「鍵かけてないんだから、中で待っていればいいのに。ほら、入れよ、アツシ」
 先に部屋に彼を通して、あとから自分もドアをくぐる。彼は、その氷室の言葉に、僅かにむっとしたような顔をして振り返り、片手を差し出して言った。
 ああほら、やっぱり、と思う。
 同じ紫色だ、綺麗だ、繊細で純粋な色だ。
「そういう、不躾? 無礼? なことは、しないの。て言うか、鍵かけろだし。室ちん、荷物持つよ?」
「ああ……じゃあ、そこのグラスに、水を汲んできてくれないか、アツシ」
 この男は、他人に使われることに、意外にもそこそこ慣れている。そう見えないだけだ。
 笑顔で要求すると、彼は、別にいいけど、と言って、テーブルの上にあった背の高いグラスを持ち、部屋を出て行った。やはり素直だ。彼がいない間に、本と文具を机の上に置き、さてと見つめた花束は確かに、綺麗にラッピングされていて、誰かにあげるために買ってきたようでもある。
 こういう花束を。
 何度も、貰った。花言葉を耳元に囁かれながら。
 そのせいか、花が部屋にあることには違和感がないが、言われてみれば自分くらいの年頃の男は、あまりこういうものには縁がないのか。
 では、オレに花束を贈った人間たちは、オレに何を見ていたのか。
 思い返せば、ある時期から、歳相応に扱われたことがほとんどない。
 少しして、ドアを叩く音が聞こえて、水を満たしたグラスを片手に紫原が顔を出した。手招きして部屋に入れ、受け取ったグラスを狭いテーブルの上に置く、さてではラナンキュラスだ、花束にしてくれたものを解体するのも勿体無いが、まあ仕方がない。
 紫色のリボンに氷室が手を伸ばすと、紫原が、ちょっと待って、と言って、驚いたようにその手を掴んだ。
「なんで? なんでリボン取るの? このままあげなよ、せっかく綺麗にしてあるんだし」
「え? いや、これでは枯れてしまうよ、アツシ、水にささないと」
 この男はほんとうに、自分が誰かにこの花束を贈るのだと思っているのか。
 狭いテーブルの向かいに座った紫原に、手を取られたまま見上げると、彼は、もどかしげに目を細めて、意地悪言ってごめん、と何故か柄にもなく弱い声で謝った。
 テーブルの上には綺麗な紫色の花の束、お前と同じ色だよ、本人は意外と気付かないらしい、だからオレはこの花を買ったんだ。
「……似合うから大丈夫。室ちんなら、そんなにくさくない、気障ったらしいけど、貰った女の子は喜ぶし。だから早く、あげてきて」
 そうか。
 可愛い子だ、アツシ、お前は可愛い。
 違うんだけどな、と言おうとして、やめた。自分を見つめる彼の瞳は、どこか必死で、どこか苦しそうだった、オレが誰かに花を渡すのは厭か、でも止められないか、堪らないね、オレもずいぶんとこの大男に好かれたものである。
 それは多分、犬が飼い主を独占したい欲に似ているのだろう。
 欲しいものはなんでも手に入れてきたのだろう男だ、でも、手に入らないものもあるらしい。
 勿論、絆される気にはならないし、弄ぶつもりでもないが、氷室は、それならばと花束を机から取り上げ、紫原に差し出した。
 きょとんと自分を見やる彼に、取って置きの笑みを浮かべてみせる。
「じゃあ、この花は、アツシに贈ろう。受け取ってくれるかな?」
「……はあ? いや、そうじゃなくて」
「好きな子にあげるものなんだろう? だからアツシにあげるよ。オレの好きな花だ」
 ちくり、胸が痛む。
 そんなことを言われて、花を貰ったことがある、彼らはオレが好きだったのか、あるいはオレの身体が好きだったのか。
 これはオレの好きな花、なのだろうか。
 ただこの紫色が、とてもとても美しかったから、手に入れたくなったのだ。
 彼はまさに、混乱しています、という表情をして、氷室が差し出した花を、思わずというように受け取った。腰を浮かせ、テーブル越しに、その彼の耳元に囁いた、そうだよ、そう、あのときもあのときも、こんなふうに囁かれたのだっけ、厭になるぜ。
「I am dazzled by your charms.」





 あなたの魅力に目を奪われています。
 愛を告白するときに渡す花である。
 紫原は、一瞬目を見開いてから、ものの見事に真っ赤になった。ラナンキュラスの花束をその長い指に掴んだまま、泣き出しそうな目で氷室を睨み付ける、こんなに馬鹿みたいにでかい男でも、こんな表情を見せるのだ、そしてそれは多分自分にだけだ、そう思うとやはり気分が良かった。
 あのときもあのときも。
 オレはあっさり受け取った、にこりとひとつ笑って、短く返事をした、Thank You.
 いまの彼のような顔をしてみせれば、何かが変わっていたろうか、相手を選ばなかったわけではないが、打算計算、投げやりではあったかもしれない。
 そうだ、言葉通りだ、オレは彼の魅力に目を奪われている、いまならば理解できるその言葉。
「な、何言ってるの、室ちん! 相手見て、オレを練習台にしないで」
 見開いた目をきゅっと閉じて、紫原は息苦しそうに言った、そんなに握りしめたら花が駄目になりそうだ、そうは思ったが、注意はしなかった。
 オレが彼ほどに背が高くて。
 力もあって、スピードもあって。
 運動神経にも恵まれていて、ポテンシャルが高くて。
 もしそうだったら、ここまで彼に執着したか、分からない。執着? 違うか、もっと単純な、憧憬、あるいは所有欲。
 目をきつく瞑っている彼に、優しい声で言った、多分言葉の意味の半分も、いまの彼には伝わらないだろうなと思いながら。
「練習台とは違うよ、アツシ、これは本番だ。お前の言うように、好きな子にあげたんだよ。ラナンキュラスの花言葉を知らないのか?」
「……花言葉? どっちにしろ、駄目、好きな子に言って」
「好きな子に言ったよ」
 花束を握っている彼の大きな手に、片手を重ねてみた。彼はびくりとその身体を強張らせてから、恐る恐る目を開けて、室ちん、オレのこと好きなの、と小声で言った。
 まだ顔が赤い、というか、ますます赤い。氷室は甘く笑って、そうだよ、アツシ、と答えた。この男は他人にそんなセリフを言われることに、あまり慣れていないのかなと思った、まあこの年齢の男ならばそんなものか?
 好きだと、愛していると、欲しいと、簡単に言われすぎてきた、オレは。いや、簡単ではない相手もいたのかもしれないが、自分は簡単に受け入れてきた、あるいは簡単に拒絶してきた、うんざりだ、ああ、お前が羨ましいよ。
「お前の髪の色と、同じなんだよ、その花。見かけたときに、お前のことを考えたよ、アツシ、オレはお前のことばかり考えているよ」
 言うと、彼は視線を思わずというように花に落とし、まじまじと見つめてから、また氷室を見た。なんだってそんなに、泣き出しそうな目をするんだろうか、この男は。嬉しくないのか?
 握りしめていた花を、今度は両腕に抱きかかえて、彼はぼそぼそと答えた、いつもの甘くて緩い声が、いまは少し掠れていて、何故かそれが耳に心地よかった。
 可愛いな、アツシ、弄ぶつもりはないけれど、手に入れてしまいたい、懐かれるだけでは物足りない、夢中になってみせろよ、アツシ。
 知っている、これは愛情ではないのかもしれない、ならばそれでも構うまい、生クリームみたいにどろどろに蕩かして、甘やかしてやる、そして食らってやる、得意な分野だ。
「……室ちん、この花、オレの色だから、欲しかったの? オレを買ったの? オレに渡すの?」
 欲しかったの、買ったの、か。
 苦笑が苦笑に見えないように笑って、手を伸ばし、彼の綺麗な色の髪を撫でた。
「そうだ。欲しかったんだ、アツシ。咲いている姿が、とても美しかったから、目を奪われた」
「……分かった。オレも室ちん、好きだし。これ、貰うから、好きにしていいよ」
「アツシは素直で、大胆だね、好きにしていいのかい?」
 多分この子供にしては、精一杯のセリフを吐いたに違いない。もっと洒落た言葉ならいくらも知っているが、教えてやるのもおかしいだろう。
 氷室は彼の髪を優しく掻き上げながら、彼の目を見つめてうっとり微笑んでみせた。じゃあセックスしよう、抱いてくれ、どれもこれもこの場には相応しくない。ラナンキュラスを渡されれば、オレはそのように振る舞ってきた、でもいまは少し違うな、ここはロサンゼルスではないのである。
 もっともっと、優しい空間だ、ふと気付く、いつもの淡い息苦しさを感じない。
 彼とふたりでいれば、そうか、オレは落ち着けるのか、特筆すべき事実だ。
 苦しい、苦しかった、悔しくて、辛かった、この男はそんなものまで受け入れるのだ、受け入れて、溶かすのだ、ラナンキュラスを差し出しておきながら、これがよくある恋愛感情ではないことくらい、彼だって知っている、それさえも許す。
「アツシ。キスしていいか」
 この気持ちを、まだ巧く表現できない。認めたくない、苦手な分野だ、感情もなく抱き合うのは楽なのに。
 でも、綺麗な紫色の花に見惚れたのは事実である、彼のことばかり考えてしまうのも事実である。
 髪を撫で付けて、なるべく穏やかに言うと、彼は一瞬ひきつってから、ぎこちなく頷いた。一拍待って、テーブルに手をつき、氷室は身を乗り出して、紫原の薄い唇にくちづけた。
 甘い味がした。ドアの外で自分を待つあいだに、また菓子でも食っていたのか。
 唇が触れた瞬間に、彼が子供みたいにきゅっと目を瞑るのが見えた。こんなものは挨拶のようなものだが、この男にしてみればそうではない、分かっているからしているのである、オレに落ちるか? 神に選ばれし男。
 どうせならオレにも選ばれてしまえよ、オレのものになってしまえよ。
 絆されたのではない。
 お前に欲があるように、オレにもどっさり欲がある。
 少し難易度が高いかとは思ったが、舌を出して彼の唇を舐めた。彼は、驚いたようにその大きな身体を震わせて、僅かに離してやった唇の隙間に囁いた。
「……舌、入れるの」
「ああ、そうだよ」
「ちょっと待って……、こころの、準備が」
 きつく閉じていた目を見開いて、氷室を凝視する、その瞳の色まで、綺麗だ。この男はくちづけをしたことがないのか、と思ったら、なんだか胸が痛くなって困った、そうか、オレが最初か、気分がいい、気分がいいのに、少しどこかが痛い。
 じゃあ、舌を出して、アツシ、と催促すると、彼は入れられるよりはましだと思ったのか、おずおずと舌を差し出した。彼が騙されているうちに、食ってしまえとその舌に舌を絡め、逃げ出そうとするのを噛み付いて捕まえた、やはり甘い。
 砂糖の甘さと、彼の味がする。わざとらしく音を立てて唾液を啜ると、見つめた彼の目が薄っすら潤んだ、もう目を閉じることもできないのか、この子供は。
 なんだか可哀想になってきて、最後に彼の舌を強く吸い上げてから、氷室はそっと唇を離した。短いキスだ。紫原は、花を両手に抱えたまま、はあはあと息を乱して、涙目で氷室を見た、その唇が濡れている、さてこれでオレは彼の一欠片でも手に入れたことになるのだろうか。
 アツシ、と呼ぶと、彼はぱたぱたと瞬いてから、やはり掠れた声で言った。
「知ってるけど、室ちん、慣れてて、厭だし」
「ふたりとも不慣れだったら、困るだろう?」
 まあいまは、くちづけだけで許してやろう。
 いまは、だ。
 持って帰るかい、と花を指さして問うと、彼は自分が花を抱いていることをようやく思い出したのか、はたと視線を下ろし、少し迷った。それから、そろそろと花束を氷室に差し出して、室ちんの部屋に飾って、と言った。
「オレだと、枯らしちゃう。ここに飾って、毎日見に来るし」
「そうか? じゃあ、そうしよう。せめてリボンはアツシが解けばいい、アツシに贈ったものだから」
「……うん。そうする」
 オレだと、枯らしちゃう。
 なかなかに鋭い発言である。
 彼は花束をテーブルに置くと、長い指で、不器用にリボンを解いた。そのまま丁寧にラッピングを剥がし、剥き出しになった五本のラナンキュラスを右手で取り上げて、再度じっとその花を見た。
 左手で自分の髪を掴み、色を見比べている。何度も交互に眺めて、それから、うん、同じ色だね、と言ってくしゃりと笑った。
 そういう笑顔を。
 見せるのは自分にだけだと知っている。それでいい、残念でした、お前は確かにオレのものだ。
 花弁の重なる美しい花を、美しいとも思わずに受け取っていた、あのころに、彼と出会えていれば少しはオレも変わったのだろうか。
 渡された花を受け取って、少し長い茎をはさみで切り、紫原が水を汲んできたグラスにさした。花を飾ることに違和感がないとはいえ、さすがに寮に花瓶までは常備していない。
 グラスに飾られたラナンキュラスを見つめて、紫原が嬉しそうに笑った、室ちん、もう、他のひとに花をあげたら駄目だし。
 その少し長い髪をくしゃくしゃと掻き回して答えた、じゃあ、毎日オレを見張っていればいいよ、アツシ。
 そうだ、毎日、毎日、オレを見ていろ、ひとときも目を離さず、オレを見ていろ、オレは綺麗だろう、オレは美しいだろう、欲しくなるだろう? まあ、こころは醜いが。
 ふと時計を見ると、夕食の時間になっていたので、ふたりで食堂へ向かうことにした。ドアを開ける前に、紫原は長身を屈めて、隣に立った氷室の唇に、触れるだけのキスをした。覚えが早くて結構だ。
 廊下に出て、ドアを閉めるその隙間に、紫色のラナンキュラスが鮮やかに咲いているのが見えた。あなたの魅力に目を奪われる。まったくその通りである。オレは彼に目を奪われている、羨望を抱くほどに、祈りを捧げるほどに。
 それは誰のものでもない、彼が咲かせていずれ散らせるものである、ああ、だが、その柔らかな笑みは、オレを呼ぶ甘い声は。
 自分だけのものである、どこにいても居場所を探す自分が見つけた居場所である、いまは愛でも恋でもないが、花が開くようにある日咲くのかもしれない、それにはまだ少し早いけれど。

(了)2014.02.11