恋愛実験


 実験してみない?
 紫原敦は、確かにそう言った。三か月前だ。
「実験?」
「そう、実験。セックスしたら恋愛になるかどうかの実験。三か月間でいいよ」
 実験、か。
 夜、ふたりでノートを持ち寄って、課題を片付け終わった寮の部屋だ。とはいえ、学年が上であるはずの氷室が、ほとんど紫原を質問ぜめにするだけの時間ではあったが。紫原は印象を裏切って聡明な男ではある、少なくとも、勉学の面においては。
 実験、ね。
 ベッドから数歩の距離で言われる、好き、に意味などない。そんなことは知っている。だから彼のその言い分は、いっそ気分のいいものではあった。
 露骨だな。
 見やった彼の表情は、いつも通りに緩くて感情が透けなかった。真意を見つけ出そうとしても、そんなものは把握できない。というか真意なんてあるのか?
 やりたいだけか。
 性的なことには関心ありません、という顔をしているが、こいつだってそういう年齢である。それなりには欲もあるか、当然。
 女を摘めばあとあと面倒だ。発散させたいだけなら手近なところで済ませよう。
 だから、オレか。
 自分が拒否をするなんて思っていないんだろうな、と思いながら、なるべく軽薄に答えた。いいよ、アツシ。鬱陶しい感情などを覗かせれば、きっとこの男は手を引くのだろう。せっかくのご指名なのだから、乗ればいい。自分にだって、そう、それなりには欲もある。
「実験の相手は、オレでいいのかい?」
「室ちんがいいの。じゃなくちゃ、最初から提案しないし。オーケイ? 理解した?」
「問題ないよ、アツシ、それなら実験しよう」
 オレはそんなに旨そうかな、と思った、違うか、巧そうか、だ。
 ならば、期待にお応えしましょう。慣れていないわけではない。
 紫原敦のことは、好きである。
 美しい男だ、気怠げな表情も、甘い声も抱きついてくる腕も、餌付けのように差し出す菓子を素直に盗んでいく唇も、好きだ。
 強い。そして、強いばかりでもない。うざい、疲れた、もううんざり、散々文句を言いながらも、彼は充分、過程に対して熱心である。走る、飛ぶ、手は抜かない、そういうところは、とてもいい。
 能力に甘えて動かないやつなどは、嫌いである。嫌いというよりは、はっきりと、憎たらしい。だから彼は非常に好ましい。敗けるのはいやだし、と冷めた声で繰り返す彼はまったく悪くない、オレだって敗けるのは、いやだ。
 紫原敦のことは、好きである。
 恋情だと思ったことはないし、性欲の対象でもなかったはずだが、言われてそういう目で見れば、まあ、言葉通り、問題はないか。
 三か月間でいいよ。
 期限を切るのも、そうだな、センスがいいよ。
 その日のうちに抱き合った。寮の一室、狭いベッド、声を殺したセックスは、刺激的ではあった。そして彼の身体は、よかった、ひとつとして不満はない。
 誘ってくるくらいなのだから、男を抱いたことはあるのだろうと思っていたが、そうでもなかった。
 セックスを知らないということはないようだった、しかし男は知らない様子だった。伸びてくる手の、触れる指先の不自然さに、少し戸惑っていると、彼はそのようなことをはっきりと言葉にした。
「ごめんねえ、室ちん、オレ、女としかやったことないの」
「……問題ないよ、アツシ。オレが教えよう」
 呼吸を乱しながら、紫色の、綺麗な長い髪を撫でると、彼は仄かに、ふわりと笑った。それが非常にエロティックな表情だったものだから、思わず見蕩れてしまったことを、いまでも鮮明に覚えている。
 どこが気持ちのいい場所なのかを、教えた。
 指の使いかたを、教えた。ああ、アツシ、三本入れて、きちんと開いてからペニスを挿入してくれ、お前のは、でかいんだよ。
 彼はすぐに覚えた。
 最初こそ、女にそうするように腰を動かしたが、それではどうやらきついらしいと把握したらしく、以降無理をすることはなかった。唐突な要求に、準備がなかったものだから、マッサージ用のジェルで済ませた次の夜には、どこで入手したのかローションを氷室の部屋に持ち込んだ。
 オーケイだ、この男は頭がいいのだ、セックスにおいても同じだ。不慣れな男も可愛らしくて嫌いではないが、どうせ割り切った関係であるのならば、互いに浸れたほうがいい。
 好きだ、と何度も言われた。室ちん、好き、室ちん、気持ちいい。
 実験の相手としては申し分ないということだろう、了解だ、だから同じような言葉を返した、オレも好きだよ、アツシ、アツシのセックスは、気持ちいい。
 それに痛みを感じるようになったのは、さて、いつごろからだったか。
 はじめてこころにちくりと棘が刺さったときには、その正体が分からなかった。いや、分かりたくなかった、か。好き、室ちん、いつもと同じように耳元で囁かれたときである。
 いつもと同じように、好きだよ、そう言おうとして、声が喉の奥に引っかかった。甘く優しく、呼吸をするように平然と、口に出せばいいはずのその言葉は、何故か胸の内でぐるぐる渦巻いて、唇から巧く溢れてくれなかった。
 惚れたのか。
 まさか、惚れたのか?
 馬鹿を言うな、これは、期限付きの実験である。浸るのは構わないが、嵌まるのはいただけない。好きだよと、軽々しく声にできないほど好きになった? 冗談じゃない、だってこいつにとっては、ただの性欲処理なんだから。
 自分ばかりが夢中になっても、痛い目を見るだけだ。
 駄目だ、無理だ、無視をしろ、氷室辰也。誰かに恋をするなんてオレらしくない。セックスをするだけの関係にならば、慣れているが。
 秘密の行為は、飽きもせず、何度も繰り返された。寮の部屋、部室、ホテル、紫原はあまり場所を選ばなかった。回数を重ねるごとに、泥沼に足を取られていくようで、氷室は薄い恐怖を覚えた、このままでは。
 溺れる。
 溺れてしまう。
 危険だ、認められない、認めない。
 快楽が強かったせいであり、そしてそれだけが理由でもなかったろう、きっと。そのときばかり熱を帯びる眼差しだとか、掠れた声、漏れる吐息、見せつけられる彼の色めいた表情に、魅せられて、惹かれた。
 校舎の廊下で、寮の食堂で、体育館で、気づけば視線で彼を追っている。そのたび溜息を吐く。やめろ、やめろ、これは実験、実験という名の、ただの即物的な行為。
 三か月という時間が、長かったのか短かったのかは、知らない。
 ただ、終わりが近づくにつれ、怯えと諦めに意識を持ち去られることは多くなった。普通に会話をしていても。もちろんセックスの最中にはなお色濃く。
 実験終了、お疲れさまでした、ただの先輩後輩に、チームメイトに、戻れるように準備だ。
 季節がひとつ過ぎるころ、特にカレンダーを見なくても、ああ、今日で三か月経つな、というのは分かった。紫原と、はじめて寝た夜の記憶は鮮やかだったから。
 今日は、誘われる、誘われない、どちら? どちらにせよ、終わりである。
 朝練はともかく、授業中は気怠かった。一限、二限とぼんやりしたまま時間を過ごし、休み時間に廊下へ出たところを、突然現れた紫原に、腕を掴まれ階段踊り場隅に連れ去られた。
 驚いた。昼休み、放課後、習慣のように校舎でも彼と顔を合わせたが、こんな中途半端な時間に、学年の違う教室前まで彼がわざわざ足を運んだことなどはない。
「アツシ?」
 この男は目立つのだ、なにせ背が高い。高い、というレベルではないか。
 視線がいくつか自分たちに向いていることは分かった。だから自然と密やかな声になった。
 彼は、意に介しているのかいないのか、いつもの調子で長身を屈めて氷室の顔を覗き込むと、ねえ室ちん、さぼろうよ、と言った。
「風邪でも引いてくれる? 先生に言ってきて。で、寮に戻ろ。いまなら誰もいないし、ね」
「……アツシ。そんなことは」
「いいから。言うこときいて。知ってる? 三か月の実験、今日でおしまいなんだよ」
 今日でおしまいなんだよ。
 そんなこと、お前、オレは。
 思わず身体が強張った。氷室を囲い込むように壁に手をつき、こちらを見下ろしている男に伝わらないはずもなかったが、彼はそれに関しては特にコメントをしなかった。なので意識して肩から力を抜いた。
 三か月間でいいよ。忘れていてくれればよかったのに、なんて、都合のよすぎる願いだよな。
 後悔のようなものを覚えた。
 三か月前のあのとき、頷かなければよかったか? 軽く乗ったら結果はこれだ、オレは惨めだ。紫原のことは好きだった、それを、こんなふうに拗れさせる必要なんてどこにもなかったのに。
 お前が悪い、お前が、いいや、オレが悪い。
「分かったよ……。先に寮に戻っていてくれ」
 小声で答えると、紫原は、相変わらず何を考えているのだか読めないような目で氷室を見つめたまま、腕を退かした。視線から逃げるように背を向け、教室に向かった。そうだ、そうだな、今日でおしまい、こんな日に、誘われないよりはこうして誘われるだけ、ましだと思おう。
 今日がオレの、人生初、失恋記念日だ。
 思って、知らず溜息が漏れた。認められない、認めない、だが、認めざるをえない、これは恋情である。自分は紫原に惚れている、どうしようもなく。





 ベッドの上、うつ伏せになって、腰だけを高く掲げ、彼の指を受け入れた。
 一本、二本、三本、いつも通りの手順である。それに少し安堵して、それから胸が痛くなった。最後だというのに、いやになるほど冷静じゃないか、アツシ。
 いいかい、その手順をお前に教えたのは、オレなんだぜ。
 ローションでぐちゃぐちゃに蕩かした場所に、しつこく指を出し入れされて、強請る声が漏れた。はしたないとは思ったが、こんな時間の寮だ、誰も聞いていやしない、構うものか。
 好きだ、好きなんだ、掻き口説いても意味はない、そんな言葉は使い飽きた、お前のセックスはいいよ、という意味で。
「アツシ……ッ、も、いいから……、入れて、くれ、早く」
「ふうん。何を?」
 僅かに面白がっている声、嫌味だ、こいつはこの最後の交歓を、楽しんでいるのだろうか。
 ペニスを、と答えると、さらに焦らすつもりなのかと思った彼は、しかしそうはせずに素直に指を抜いた。ぎしりとベッドが軋んで、性器を尻に押し付けられる、充分開いていることは見なくても分かる、ああクソ、気持ちがいい、欲しい、明日になればもう手を伸ばせないなんて考えたくない。
 挿入は丁寧ではあった。
 とはいえ、途中で止めて待つだとかいう配慮はなかった。ゆっくりと根本まで、一定の速度で押し入れられて、それだけで肌が震えた。いけと言われれば、触れなくてもそうできるような快感だ。
「は、あ……、んッ、アツシ、気持ちいい……ッ」
 自分の上擦った声が、うるさい。だが、多分、この男はこういう声が聞きたいのである、だからいまこの場所なのだ。
 ならば聞けよ、オレは大概セックスには奔放なたちだが、こんなに余裕のない声は普段あまり他人に聞かせないよ。優位な立場を奪われるのは嫌いだ。
 お前だけだ、お前だけなんだ、分からないだろうが。
 彼は深くまで突き立てた位置で、氷室がそれに馴染むのを少し待った。その間に何度か緩く揺すられて、聞くに耐えない喘ぎが零れたが、殺すのはやめた、これでいい。
「あ……! すごく、いい……ッ、好きだ、お前の、かたい……、好きだ」
「オレも室ちん、好き。かたい? かたいだけ? あとは?」
「おおきい。長くて、太い、熱い……ッ、はあ、アツシ、動け……ッ」
 駄目だ、これはもたない。
 切れ切れの、自分の言葉に煽られて、余計に身体が火照った、馬鹿みたいだ。右手を自分の性器に伸ばし、根本を掴んで射精を封じる、別に何度でも出せばいいのかもしれないが、猥りがましくてあまり好きではない。
 実験。
 実験だと彼は言ったのだ、三か月前だ。もしあのときに、彼がセックスだけの関係を持ちましょうなんて提案ではなく、恋情を告げてきたら自分はどうしたか。
 逃げたな。
 駄目だよ、アツシ、チームメイトなんだから、そういうのは禁忌だ、言って逃げただろう。紫原敦のことは、好きだ、しかし、少なくともあのときにはそれは恋ではなかった、好意だ、だから。
 こいつはオレをよく見ている、とは思う。オレをよく知っている。どうすれば身体を開くかなんて、物理の教科書を開くより簡単に分かったのだろう。
 彼の目論見通り、自分は簡単に乗った。いいよ、アツシ、問題ない。それが、三か月経って、こんなに泥沼に嵌まるだなんて想像できたか?
 終わるなんていやだよ、たとえ片恋でもいい、お前にとっては身体だけのものでもいいから、繋がっていたい。
「ああ。中、気持ちいい。やわらかいのに、吸い付くみたい、たまんないねえ」
 動け、と言った氷室の言葉通り、最初から、彼にしては大胆に腰を使いながら、紫原が背後で言った。いつもよりも僅かに低い声、この三か月のうちに分かったが、彼はセックスの最中にはよくその声を使う。普段の甘い声よりは、男くさい声だ、ぞくりとする。
 知っている人間は、何人いるのだろう、女はさておき男はオレだけだ、いまのところ、そう、いまのところ。
 先端が抜け出るほど引いて、根本までじりじりと突き刺す。何度も何度も、機械のように繰り返されて、啜り泣く声が溢れる、押さえていなければとうに射精している。
 規則的に動いてくれたほうが分かりやすいから好きだ、と、紫原に言ったのは氷室である、あれはいつのことだったか? 彼はその言葉に忠実だ。
「出せばいいのに。シーツ洗ってあげるよ、どろどろにしちゃえば?」
「は……、いや、だ。つらい、から……ッ」
「何度も出ちゃう? そうだねえ、室ちん、さっきからずっと、いきっぱなしだもんね。きゅうきゅう締め付けちゃって、可愛いの。別にいいよ、オレはどうでも気持ちいいし」
 いきっぱなし。まさに仰る通りだ。
 頭の中が膨張するような快感に、左手でシーツを掻きむしって喘いだ。確実な動きで尻を犯す性器、もうこれ以上は無理、そう身体が訴えても、無理だと言うのはいやだった。だって最後だぜ。
 全部全部、食らってやるよ、オレは三か月の記憶を引きずって、この先生活するのだ。
 ちゃんと笑うさ、大丈夫、お前の隣にいられるさ。実験は楽しかったかい、アツシ? 忘れてやるから、安心しろよ、だから隣にいさせてください。
 いまだけだ。いまだけだ。
 せめて鮮烈な愉悦に沈もう、いまだけは。
 時間にすれば何分何十分? 皮膚の下から弾け出しそうな快感に目が回って、よく分からなかった。ずいぶんと長いこと、掻き回されていたような気がするが、そうでもないのかもしれない。知らない。
 氷室の背に汗を滴らせ、単調に腰を使っていた紫原が、ねえ、もういけそう、といやにやわらかく言った。その声で、その口調は、もはや卑怯というものである。セクシュアルだ。
「室ちん、出して。最後にぎゅって締めて。ああ、あっつい、室ちんもあつそうだねえ、汗だく」
「あ、いく、も……、アツシ、奥、擦って、中に、出せ……ッ」
「いいよ、出しなよ、さあ」
 出して、という彼の言葉に、右手での拘束を解いて、軽く自分の性器を撫でた。堰き止めていた欲を、吐き出す恍惚は言葉にしがたかった。
 気持ちがいい。気持ちがいい。すべての思考が吹き飛んで、もうその言葉に頭を完全に占められる。
 気持ちがいいよ、アツシ、確かにオレは誰とも寝るような最低な男だが、この愉悦は、なかなか味わえない。
 紫原は、氷室の望む通りに、深い場所でしばらく腰を使ってから、遠慮なく中で射精した。まあ出せと言ったのは自分なので文句はない。どくどくと注ぎ込まれる感覚に鳥肌が立つ、畜生、この瞬間に、オレとお前はひとつかい。
 腰を押し付けるようにして、精液を出し切ってから、彼はまだ硬いままの性器を引き抜いた。そして、脱力して腰を崩す氷室の背中にてのひらを置き、再度、あっつい、と囁いた。
「なんか生きてる感じ。室ちんも、生きてるねえ、すごいどきどきいってる、健気だ、可愛いよ」
 何か言葉を返そうと思ったが、呼吸が跳ねていてできなかった。生きてる感じ? 健気? 馬鹿言え、オレはそういういきものではない、薄汚くて、視界は真っ暗、だからお前という一閃の光がこんなにも眩しいのだ。
 この行為が終われば。
 この実験が終われば。
 ねえ、お前は遠い扉の向こうに姿を隠してしまうのだろ。





 で、結果は?
 と紫原は言った。気怠い空気に紛れるような、甘い声で。
 セックスのあとに、きちんとクールダウンの時間を取る男は好きである。さっさと服を着て、去ってくれても不服はないが、紫原のように身体が冷えるまで髪だの肌だの撫でてくれるやつのほうが、まあ、格が上だ。
 処理は彼がすべてしてくれた。
 普段であれば自分でする。しかし、今日くらいはいいか、と思った。どうせ最後だ、醜態というのならばいまさらであるし、一秒でも長く体温を感じ取れるほうがいい。
 長い指で、氷室の尻から自分の精液を掻き出してしまうと、紫原はなんの飾り気もなくごろりとシーツの上に横たわった。狭いベッドの上で抱き寄せられて、彼の汗の匂いにくらくらする、三か月、三か月だけとはいえ、知らないよりは知れたほうがよかったのかもしれない。
 どうだろう。
 こんなに切ない思いをするのならば、あるいは、何も手にしないほうがよかったか、失うくらいならば。
 彼はしばらく、黙ったまま氷室の背を指先で擽っていたが、それから実に素っ気なく、件のセリフを吐いた。で、結果は?
 意味が分からずに、シーツに肘をついて顔を上げ、彼の表情を見やった。意識を奪うアスター・ヒュー、綺麗な色だ、髪、瞳、お前は美しいよ。
「結果?」
「そう、結果。実験結果。成功でも失敗でも、結果を出さないと実験って言えないし。三か月って前もって期限切ったんだから、それなりのお返事してよね」
「実験結果……」
 天井を眺めていた紫原の視線が、ふいと自分に向けられた。呼吸さえ忘れるような鋭い眼差しだ、お前はこんな目もするんだな。
 実験結果。
 結果を出さないと実験って言えないし。
 いや、待て。何が言いたいんだ、紫原敦。成功でも失敗でも? 何が成功で、何が失敗なんだ?
 セックスしたら恋愛になるかどうかの実験。
 そういえば三か月前に、彼はそう言ったのだった、そして自分と、男と、はじめて寝たのだ。最初は女にそうするように指を突っ込まれて、長い髪を掻きむしった、オレが教えたんだよ、全部、全部、我々が繋がる方法を。
 期限付きの実験。
 三か月間、好きにやらせて、そういうことだと理解したが。
 お前は。
「……アツシの、結果は、出たのかい」
 言った声が掠れていて、うんざりした。
 しかし彼は、それ以上にうんざりしたような溜息を漏らしてから、氷室の黒髪をぐしゃぐしゃと掻き乱した。多分これは、撫でているつもりなのだろう。
 見つめた目はいつものように眠たげだが、瞳の色は真摯である。冗談を言っているわけでもないのか。
「室ちん、ばかじゃないの? オレの結果なんか、最初から出てるでしょ、分からないの? あのねえ、オレ、好きでもないひとと、しかも男と、セックスしないの。誰かさんと違って」
「……アツシは、オレが、好きなのか?」
「ほんとう、ばか。何度言えばいいの? で、室ちんの結果はどうなの、三か月も猶予あげたんだから、ちゃんと結果を言えないようなら怒るし」
 好きでもないひとと。
 しかも男と、セックスしないの。
 よく分からない戦慄が、ぞくぞくと足元から身体中に広がった。つまり何? この男はオレに恋情を告げているのか。え? つまり何?
 セックスしたら恋愛になるかどうかの実験。
 あなたは恋愛になりましたかと、そう訊いている? オレに?
 紫原は、氷室の黒髪を掻き回していた手を外し、はあ、ともう一度溜息を吐いてから、その腕をシーツの上に投げた。呆れた、という表情をしている、それでも、視線が逃げていかない、鋭利な光線でこころをスキャンされるみたい。
「まあ、答え聞くまでもないけど。室ちんて、澄ました顔して、結構あからさまだよね。でも、言って。言葉にして」
 心臓が喉元まで肥大する感じだ、自分の鼓動が耳にうるさい。
 あからさまだよね、と言われてしまえば、否定もできないが、いやいや、違うだろ、お前が切れるだけだ。
 答え聞くまでもないけど。
 そうなのか?
 状況が巧く把握できずに、しばらく硬直してしまってから、氷室は恐る恐る唇を開いた。酸素が薄いような気がして、無意識に喘いだ。待て、オレはいま酷い顔をしている、言えばこの顔だけが取り柄なのに惨めだ。
「……なんで、実験だったんだ?」
 紫原はその言葉に、珍しく淡く笑って、目を細めた。苦笑だ。
 触れ合った肌が熱い、セックスの最中よりもよほど熱い、やめてくれ、慣れていないんだよ、巧妙にベッドに誘われることには、もういやというほど慣れているけれど。
 真っ昼間、寮の部屋、暑くもなく寒くもない、湿度も快適、なのにオレは、どうしてこんなに息苦しいんだ。
「だって、最初から恋愛って言ったら、室ちん逃げるでしょ。怖がりなんだから。いいの、実験で。室ちんのこころが恋愛になるかどうかっていう、実験。三か月もあれば、オレなら結果出せるし」
「……オレは」
「ぎりぎりで、本気の実験、失敗は許されないの。このひと相手に、オレ、結構頑張ったでしょ? ほら、結果、ちゃんと言って」
 畜生。
 彼の言葉をひとつずつ意識に落として、いちいち肌が戦慄いた。それでも多分、彼の言いたいことの半分も理解できていないのだろうが、半分ほどは把握した。
 こいつはオレが好きなのだ。
 だから、三か月間で、オレを落としたのだ。
 そういうことだろう?
 迫り上がってきて押さえ込めない感情の種類は分からない。うれしい? くやしい? にくらしい? あいしてる? なんだよ、三か月間だけの関係なのに、惚れた嵌まったと怯えて胸が痛くて、ひとりもがいていた自分が馬鹿みたいじゃないか。
 そうか。オレはお前の言う通り、馬鹿だ。
 彼はきちんと概要を説明したではないか。三か月前に。セックスしたら恋愛になるかどうかの実験だと。
 視線を合わせていられなくて、彼に覆いかぶさり、肩口に顔を埋めた。答えた声が震えていなかった自信はない、散々言った言葉だが、いま、このとき、はじめて違う意味を持つものだから。
「……好きだよ、アツシ」
「よく言えました。いい子だね、室ちん」
 氷室の身体に腕を巻き付けながら、紫原は、甘ったるく言った。身体中汗ばんでいて、気恥ずかしさを覚えないでもなかったが、知るか、お前のせいだ。
 好きだよ、アツシ。
 淡く抱きしめられて目が眩む。
 セックスしたら恋愛になるかどうかの実験。さて結果はあなたの望み通りになったかな? 聡明な男だ、不器用なようでいて意外と器用、ことオレに関する事項では。
 準備の段階から、先のことなど見えていたのかもしれない、オレの好意を恋にすることは簡単だったかい。
 ぎりぎりで、本気の実験、失敗は許されない。そうだな、アツシ、お前の手にかかれば、オレは敵ではないだろう、いいさ、駆け引きならばこれからだ、実験は終了しました、いまから無期限の恋愛をふたりではじめよう。

(了)2014.05.10