「室ちんは、なんでオレとキスするの」
と、何度も訊かれた。
そのたびににこりと笑って答えた、それはね、アツシ、お前が好きだからだよ。
はじめてくちづけをしたのがいつのことだったか、忘れてしまった。じゃれつくように抱きしめられた、そのついでのようにキスをした、紫原は特に表情を変えず、いつものようにどこか眠たげな目で氷室を見やっただけだった。
少なくとも、外見上は。
驚かれもしなかったし、怯えられもしなかった、嫌がった様子もない、ならばこのまま慣れさせてしまえ。
はじめて、なんで、と訊かれたのは、確か舌を入れてやったときだ。
彼はさすがにその大きな身体をぴくりと揺らせた、ようやく少しはこの行為の持つ意味が分かったのか、噛まれるかな、と思ったが、これといって抵抗はされなかった。
拒絶がないのをいいことに、結構露骨に舌を絡めた。紫原は、不慣れということはないようだったが、一瞬はためらった、だが一瞬だ。
性的なくちづけは、彼から解かれはしなかった、それどころか舌先を軽く唇に差し込まれて、こちらのほうが逆に少々驚いた。なんだ、あっさりしたものだな。
演技半分、淡く喘いだ。唾液を啜り合ってから唇を離すと、彼はしばらくじっと氷室を見つめてから、いまさらのような問いを口にした、室ちんは、なんでオレとキスするの。
引っかかった、そんなふうに思った。
なんで? 訊くならお前の敗けだ、それを口に出したら敗けだ、いままでのように平然としていればよかったのに馬鹿な男、オレの垂らした餌に食いついて、お前には針が刺さったよ。
軽く乱れた吐息を隠さずに、氷室は、ふふ、と笑った。それはね、アツシ、お前が好きだからだよ。
まあ、どうとでも取れる返答である。
はじめて紫原が氷室に問うたのがいつのことだったのかも、もう忘れてしまった。ふたりきりになれば、必ずのようにくちづけをした、舌に食いつくようなキスに馴染んでも、紫原はその質問を繰り返した、挨拶でもないし友愛のそれでもないことは彼とて把握していたろう、毎回というわけでもなかったが、密着する彼の身体が反応を示すさまを感じるのは心地よかった、そうだ、そうだな、夢中になってみせろよ、アツシ。
でもね、ここまでだ。
お前に与えるのは、ここまでだ。
なるほどオレは身体を使うことに躊躇しない、淫乱だとかなんだとか、勝手に言え。相手は選ぶが、基準は恋愛感情ではない、というか、恋愛感情などという温いものを持ったことがない。この女と、男と、寝れば有利だ、抱き合えば気持ちが良さそうだ、あるいは単純に飢えだ、その程度のものである、セックスにそれ以上の価値などない。
だからだよ。
自分はこの男のことが気に入っているのだと思う。そう、とりわけ気に入っている。大きな身体が好きだ、長い脚、長い腕、誰よりも高く飛び、誰よりも俊敏である、好きだ。
憎たらしいと。
思わない、といえば嘘になるが、やはり好きだ、強い男は好きだ。
綺麗な紫色の髪も瞳も、美しい、絵の具みたいに蕩かしてしまいたい。滅多なことでは顔色を変えない無表情も、緩い眼差しも甘い声も全部全部好きだ、何より自分によく懐いている、素晴らしい。
寝られないだろう、こんな男と、寝たら破綻する。でも、少しくらいは摘みたいからキスをする。夢中にさせてみたいから、釣り糸を垂らす。その滑らかな声に、訊かれるとぞくりとする。なんでオレとキスするの?
同じ制服、同じユニフォームを着られるあいだだけの儚い関係だ。
セックスをするようなものじゃない。それは禁忌である。
だから、だからだよ、焦らしてやるのも、それなりには面白いか。オレばかりが足掻くのは不平等に過ぎるというものである。嵌ってくれよ、アツシ、オレに落ちろ、アツシ。
オレがお前に惹かれているのと同じように。
次のようなセリフを言われたときに、ああ、完全に勝ったな、とは思った。
「ねえ、室ちん、キス以上のことはしないの」
何か月前だったのかは、これも忘れた。場所もよく覚えていない。いつものように甘ったるいキスをしたあとに、耳元でふと言われた、どうでもいいことのように、どうでもいいような声で、のんびりと。
そうか、言葉にしてしまうのか、アツシ、可愛いね、お前はオレの毒を食らった敗者だよ。
オレが欲しいだろう、藻掻け、藻掻け、その姿が見たい、なんでも持っている男が、何も持っていないオレの前に、跪くのは愉快だろうか。
笑ってみせた。
普段の笑みと同じもののつもりだったが、どうだろう、自信はない、その美しい瞳に自分はずいぶんと機嫌がよさそうに映ったかもしれない。
「しないよ。オレは男だよ、アツシ、タブーというものだ」
「……よくない噂、結構聞くし」
「それが事実であれ嘘であれ、オレはお前とだけは、しないよ」
お前とだけは。言葉通りだ。
紫原は、僅かに目を細めて氷室を見たが、それ以上は言わなかった。そしてそのセリフは、以降やはり何度か繰り返された、深い口付けを解いたあとに、淡々と。ねえ、室ちん、キス以上のことはしないの。
セックスをしたい。
と、つまりはこの男はそう言っているわけである。
禁忌だ、分からないのかい、アツシ、ああでも気分がいいな、どうせ欲されるのならば、お前がいい、お前のように強い男がいい。
神様の贈り物みたいな男がいい。
火照りを冷ますために、背の高い男教師をひとり誘って、繰り返し寝た。女が嫌いなわけでもなかったが、この場合はやはり男だろう、学校の中に相手を探したのは単純に利便性その他を考慮しただけである。互いに秘密を共有するならば、それが露見した場合の危険が等しい、あるいは相手のほうが大きいほうがいいし、同じ校舎にいる人間ならばいつでも求められるし、たとえば教師であれば、深夜の保健室の鍵を、簡単に持ち出せたりする。
男に跨って腰を振る行為は、まあ好きだ。
喘ぐ合間に、アツシ、と何度か彼の名を呼んだことがある、他の男の名を切なく口に出しても相手は何も言わなかったが、たいていすぐに唇を塞がれたので、面白くはなかったのだろう。
欲を解消するための、無意味な行為である、金を渡されそうになったこともあるが、受け取らなかった、利用をしているというのならばお互い様だ。
紫原のことは好きだ。
好きでなければセックスもできたのかもしれない、だが、もう駄目だ、彼の神性を汚せない。
だから、さあ、アツシ、苦しめよ、オレばかりが溺れるのは厭だ、一緒に溺れよう、そのための毒だ、水槽の中でふたり窒息してしまおう、もう吐き出せやしないだろう?
オレの垂らした針に、食いついて逃げられない、オレが欲しいと喚け、叫べ、オレはお前の名を囁きながら他の男と繋がって果てよう、なんて救いのない関係、いいんだ、我々のあいだを結ぶものはそういう切羽詰まった、今にも切れそうな細い糸である。
ドアを開けた向こうに、紫原が立っていたときには、一瞬幻を見たのかと思った。
彼が欲しくて欲しくて、でも手には入らない、焦れったくて堪らない、だから脳が錯乱したのかと。
深夜の保健室である、密会の相手はいつも氷室より早くその場所にいる、校舎の鍵を開け、部屋の鍵を開け、ひとりで待っている。
誘うときもあるし、誘われるときもある、今日は氷室が誘った、そういうメールを打った。
証拠は残さない。ただ本文に短く、夜二十二時、それだけ入力して、送信して、その場で消した。相手の都合がつかないときには、そのあとに空のメールが戻ってくるが、そういうことはいままでに数えるほどしかなかった。
中も外も、全身を洗って、夜、ふらりと寮を抜け出した。当たり前のように鍵の開いている裏手の扉から校舎に入り、当たり前のように鍵の開いている保健室のドアを開けた。
そこには、いつもの男ではなく、紫原が立っていた。ベッドの横から、まっすぐ氷室に目をくれる。
最初にまず自分の目を疑って、それから、どうやらこいつはほんものの紫原らしいと判断すると、今度は不意に足元から悪寒が這い上がった、おい、冗談だろ。
噂は噂、構わない。
だが、ばれては駄目だ。破滅する。
言い訳を探してもちろん思いつかず、混乱したまま廊下に突っ立っている氷室に、紫原はいつも通りの緩い声で、入って、ドア閉めてよ、室ちん、と言った。
無駄無駄、言い訳なんて効かない、この状況では。
言われるままに保健室に足を踏み入れて、後ろ手でドアを閉めるその指が細かく震えていた、しかもこの男にか、こんな薄汚い行為から、誰よりも遠くにいなければならない、この男に、ばれるかよ。
なんで、と問うた声は掠れていた、情けない。
紫原は少し首を傾けてから、こっちへおいで、というようにベッドの横で氷室を手招いて、答えた。
「室ちん、メール打つとき、もう少し背後気にしたほうがいいし」
「だからって……。鍵は」
「ああ。室ちんの大事なオジサマから、借りた、中庭のあたりで寝てるんじゃない」
ぶちのめしたのか。
動揺が抜けない。走って逃げられるならばそのほうがいいのだろうが、氷室は紫原の手に従って、ほとんど操られるようにふらふらと彼に歩み寄った。大きな手が自分に伸びる、怖い、と、思ったのははじめてである、そのてのひらにさらさら髪を撫でられて、ますます混乱する。
オレはこの場所で。この時間に。
いつも男に抱かれているのだぜ。
「訊きたかったんだよねえ」
頭を撫でていた指できゅっと髪を掴まれて、思わずびくりと震えてしまう。
待て。待て、アツシ。だからこの場所で、この時間に、ふたりきりになってはいけない。そんなふうに触れてはいけない、だいたいお前は何をしにここに来たんだ?
言葉が次から次へと湧き上がっては消える、オレは相当狼狽している、いや、そうじゃない、懐柔できる相手だと、ここは喜ぶべきだ、だから、だから。
「なんで、どうでもいい男とは寝るのに、オレとだけはセックスしないって言うの、室ちん」
フラットな声、なんと答えれば正解なんだ?
よく分からない、放っておけ? 誰にも言わないでくれ? 多分この男はそんな言葉を欲しているのではないのだろう、何故彼とだけは寝ないのか、そうか、どう言えばこいつにうまく伝わるんだ、そもそも伝える必要はあるのか。
唇を舐めて、探した言葉を口に出した。
「それは……お前が、どうでもよくない男だからだろう、アツシ」
「オレのことが好きなんでしょ、室ちん、いつもそう言うし。だったらオレとすればいいんじゃないの」
「……禁忌だよ。セックスしたら終わるんだよ、分からないのか」
伝わるか?
彼は、ふうん、と気のない声で言ってから、身を屈め、氷室の顔を覗き込んだ。綺麗な紫色の瞳に、僅かに苛立ちが見えてついぱちぱちと瞬いた、オスの眼差しだ、この男でもそんな目付きをするのか、普段は無表情に、眠たげにあたりを睥睨するような男である。
だから、無造作にベッドに押し倒されたときには、焦りはしたが、驚きはしなかった。抗おうとする手を掴まれ、シーツに縫い付けられて身悶える、ああ、知っていたさ、お前はオレに欲情する、少々つつきすぎたか、きっと彼は力があるがゆえに、こんなふうに誰かを乱暴に扱うことなど通常は、ない。
こいつは、本気だ。
ぞくりと欲が湧く。
駄目だ、駄目だ、そう思うが、まともなセリフなんて思いつかない、確かにこんなふうに強引にされるのも嫌いじゃない、そう、相手が彼でないのならば。
「分かってないのは、室ちんじゃないの」
のしかかられて、おおきいな、と、混乱したままの頭の片隅で、いまさらのように思う。
これは犯される、そうすればきっとオレは嵌まる、終わってしまう、この苦い綿飴みたいな、儚い関係が。コートで、校舎で、彼はもう自分の隣にいてくれなくなるだろう、オレはそれに耐えられない、ときどき密かにキスを交わして、密かに針を食らい合う、それだけでいいんだ、そうでなければいけないんだ。
失えないんだよ、馬鹿め、お前だけは。
厭だ。
「何が終わるっていうの。何も終わらないでしょ。ああ、それとも、セックスしたらオレが室ちんに興味をなくすと思ってるの。馬鹿言わないでほしいし」
「……お前は、汚れては駄目だ、神聖なんだ。オレは汚い、お前が汚れる、そしてお前はオレに失望する。手を……離せ、アツシ」
「何その乙女思考。汚いとか意味分かんない、別に室ちんがいままでどんなに冗談みたいな下半身事情を晒してきたんだっていいよ、ただ」
いまはオレのもの、と、耳元に囁かれて、身体が強張った。知っている、この何もかもに投げやりな顔をしている男にだって、欲はある、服越しに触れた彼の身体がときに興奮を示すのを楽しんでいたのは自分である、知っている、知っていたけれど。
そんな直接的な言葉を吹き込まれるとは、意外だ、ここまであからさまにされるとは。
硬直している隙に、さっさと服を脱がされた、巧く動かない手で、足で、抗ったつもりではあるが、抵抗は淡かったろう。オレはこの男に弱いんだ、惹かれているのだと自覚している、そもそも、力で敵う相手かよ。
鎖骨の上あたりに吸い付かれて、喉の奥で呻いた、それだけで火がつく程度には慣れているし、そう、オレにだって欲はある。
「は……、アツシ、やめろ。オレは、お前との関係を、変質させたくない」
両手をシーツに押さえ込まれたまま、遠慮なく乳首に吸い付かれて、ぴくりと身体が跳ねた。流されてしまえ? いや、そういうわけにはいかない、震える声で言い募るが、紫原は聞く気もないらしい。せめて脚を力なくばたつかせてみても、もちろんそんなものはまったく効果がない。
彼は慣れていた。
吸い上げられた乳首を荒く噛みしだかれて、思考が霞む。気持ちがいい。そもそもオレは飢えたから、教師を誘っていまここに来たのである、簡単に陥落するさ、しかも相手は焦がれた男だ、畜生、だからこそ駄目だと言っているのに、こいつはどうして聞かないんだ。
「お前に見捨てられたら……オレは、息ができない。隣にいたい、アツシ、終わりにしたくない」
「はあ? セックスしたからって見捨てないし、隣にいればいいじゃない、終わらないよ。そもそも最初にキスしてきたの、室ちんでしょ、責任取れだし」
「ああ……ッ、そんな、ふうに、するなって……ッ、分かれよ……ッ」
噛み付いた乳首を舌先であやされながら、腰をぐいぐいと押し付けられて喘ぎが漏れる、互いに反応していることはいやでも分かる、それが余計に欲を呼ぶことも分かっている。
最初にキスをしてきたのは? そうだ、言い訳なんてできないか、ああでも、決して繋がれないのだとしても、少しでもいいから触れたかったのだ。
そして、ともに落ちて欲しかった、毒を垂らした水槽に。
紫原は、氷室の身体から強張りが抜けるまで、執拗に乳首を啜った。胸元がべたべたになって、目眩がする、オレはいまこの男に食われている、終わりだ、もうおしまいだ。
この一夜が終わったら、彼はオレから去るのだろう。
いま、一瞬の性欲を満たせば、オレなどただの残骸だ。
氷室が完全に抵抗を手放したころに、紫原は氷室の腕を掴み、ベッドの上で身を起こさせた。何、と思う目の前に、己で服をくつろげ掴み出した彼の性器を突きつけられ、興奮と絶望で頭の中を塗り潰される。そうだな、オレがそれを噛みちぎれないことくらい、お前はよく知っているだろう。
「しゃぶって、室ちん」
きっちり勃起している性器に似つかわしくないくらいに淡々とした声が、頭上に言った。逃げられない、そう思った、夜、保健室、不自然に照明がついていることなど誰も気づくまい、現にいままでこの部屋で、この時間に何度も密会を重ねたが、露呈していない以上は。
彼の性器は、不安と期待で肌がぞくぞくするくらいに、大きかった。
きっとこの男は、やるとなったら徹底的にやる、最終的には自分にこれを突っ込む気だろう、入るのか?
震える唇を開いて、差し出した舌で先端を舐めた。彼は自分に触れるだけでこうなるのか、という認識は、切なくて、痛くて、それから、ひどく欲情を唆った。
「咥えて。口開いて、奥まで入れさせて、できるんでしょ。ほら、そう、巧いね、室ちん」
「ん、う……、は」
「ああ、必死になっちゃって、いつもすましてる綺麗な顔が、そんなにえろくなるんだ」
指で大きく口を開かされ、ためらいもなく性器を押し込まれた。息が詰まりそうになり、思わず抗いたがる両手で、シーツを掴んで耐えた、ならば、だ。
いまさら引き返せない、ここで中断したって同じこと、最初で最後の行為だ、夢中になればいいだろう?
いや、それでいいのか?
口に性器を差し込まれればいつでもそうするように、強く吸い上げ、舌を這わせた、もうこうなれば飢えた犬みたいなものだ。男の匂いと味に犯される、どうしようもない、それだけで勝手に熱を持つように作り替えた身体だ。
喉の奥まで先端を突き刺されても、不快には思わなかった、むしろ快感だ、込み上げる吐き気に耐え、自ら更に深くまで飲み込む、オレの口を使っているのは、神様の贈り物みたいな男だ、違う、ただのオスだな、終わりだ、ダブルエースだなんて言われて少々戸惑いもあったが嬉しかったよ、お前の隣にいられたことは。
妬まないかと問われれば答えに窮する。イエスともノーとも、素直には言えない。ああでも、一緒に走れる時間は、それから、抱きあいキスを交わす時間は、ただ単純に大事だった、欲しい欲しいと溺れた水槽の底で、声もなく喚きながら互いに手を伸ばす、大事な時間を守れるのならば、それでよかった、一生届かないままでよかった、終わりにしたくなかったのに。
思わせぶりに笑いながら、残酷なセリフを何度も吐いた、オレが悪いか。
「喉の奥、ひくひくしてる、気持ち悪いの、それとも気持ちいい?」
遠慮なく粘膜に先端を擦りつけて、紫原は僅かに楽しそうに言った、この男でも、そうだな、そんな声も出すか。逃げられないように氷室の黒髪を掴み、しばらく口腔を犯して、さすがにもう吐きそうだと氷室が思うころに、彼は腰を引いた。
唇から溢れた唾液が顎に伝い落ちている、鬱陶しくて右手の甲で拭う、男を咥えて息を喘がせて、オレはさぞかしいやらしいいきものに見えるのだろう。
クソ、厭になる、こいつにだけは正体を暴かれたくなかった。
紫原は、少しのあいだ氷室の濡れた目を見つめていたが、それからさっさとシーツの上に、うつ伏せに氷室の身体を組み敷いた。往生際悪く藻掻いてみても、当然のように無視された、服を剥がされ乳首を吸われ、口に突っ込まれただけで性器を勃ち上がらせているのだから、抵抗なんてしたところで確かに無意味だ。
腰を上げさせられて、目が眩む、こんな格好はいくらだってしてみせたことがある、誰かを誘うために、あるいは誰かにレイプじみたセックスを強いられたこともあったか、では、いまのこの行為はなんだ。
オレが誘った? お前が強いた?
分からない、ただ許されないことは知っている、駄目だと思うのに身体が疼く、畜生、相手が誰だかオレは理解しているのか?
「そう、そうやって、大人しくして、それから気持ちよくなっちゃって。室ちん、いつも無駄にうじうじ考えるから、苦しくなるんだし。欲しければ欲しいって、騒げばいいんだよ、オレが欲しいんでしょ、それでいいじゃない、キスするたびに物欲しげに見上げられる、オレの気持ちも少しは考えてよね」
「オレは……物欲しげに、なんて」
「自覚ないなら重症だし。ほら、開くから力抜いてよ、ああ、結構柔らかい、濡らしてあげる」
紫原は、左手で尻を掴み開き、乾いた場所に試すように右手の指先を軽く食い込ませた。それから、やめろ、と声を上げる氷室に構わずに、顔を寄せ、唾液を乗せた舌でそこを蕩かしはじめた。
洗ってあるとは言え、さすがにそれはない。腰を逃がそうとしても、この体勢ではどうにもできない。いっそ起き上がって蹴りでも入れればいいのかもしれないが、快楽に重い身体では少々無理があるだろう、暴力には慣れてはいる、しかし相手はこいつだ、馬鹿力だ。
「アツシ……ッ、ああ、舌、を、入れるな……ッ、声、が」
「んん。別にオレしか聞いてないし、好きなだけあんあん言っていいよ、室ちん、いい声出しそうだねえ。じゃあ指入れる、三本まで入れる、そうしないとオレの、入んない。まあ、このくらいならすぐ飲み込んじゃう?」
「は、あ……ッ、アツシの、指、太い」
節張っていて長い指を、ぐいと突き刺されて、高い声が零れた。いつでも言うようなセリフを、譫言のように漏らして、それを自分の耳で聞いてから、ぞくりとした。そんな強請る言葉を吐くものじゃない。
紫原は特に急かなかった。
むしろ丁寧だった。ベッドに押し倒されたときには、身勝手にされるのかと思ったが、とんでもない、まるで恋人でも扱うように、彼は慎重に氷室を広げた。
見苦しい喘ぎを聞かせたくなくて、奥歯を噛みしめても、慣れた指先で前立腺を押し撫でられたときには我慢のできない声が溢れた、ああそうだ、堪らないよ、オレがどれだけ、どれだけお前を欲しかったか、決して手には入らないお前を手に入れたかったか、お前、分かっていないだろう。
他の男に抱かれながら、お前の名を呼んだよ、アツシ、アツシ、ひとり寝の夜にも、夢の中でもお前を呼んだよ、アツシ、アツシ、全部終わりだ、これでおしまいだ、だからお前とだけはしないと言ったのに。
一度きりならば皿まで食らってしまえ? それでいいのか?
「ああッ、もう……、入る、入るから……ッ」
途中で何度も唾液を注ぎ足して、彼は彼の言葉通り指を三本差し入れた。ぐちゃぐちゃと出し入れされ、思わず縋るように喘いだ、こんな姿は見せたくないものである。
紫原は、ゆっくりと指を動かしながら、少し面白そうに背後に言った。甘い、緩い声に、抑揚が乗る、素晴らしいと思う、オレはもうこの声を二度と聞けなくなるのか。
「うん。入れて欲しいんだね、いいよ、入れてあげる。ねえ、室ちん、セックスするときって、いつもこんなになるの、身体も声もすごくいやらしい、顔が見たかったけどそれはまた次ね」
「ん、はあ……ッ、アツシ……ッ、早く、お前が、欲しい」
「ふうん? 素直なことも言えるんだ」
声に出してしまえば、それがどれだけ切実か自分で分かる。
お前が欲しい、欲しいよ、そう、最後に。
もう少し隣にいたかったけれど。
無造作に指が引き抜かれ、その感覚に震えていると、さんざん開かれた場所に性器の先端をぐいと押し当てられた。唇に押し込まれたあの太さを思い出して、僅かに身体が強張った、それが伝わらなかったはずはないのに、紫原は意に介さず挿入しはじめた。
硬い。ずるりと差し入れられて目の前が赤くなる。
「ああ! アツシ、駄目だ、おおきいんだ……!」
「欲しいとか駄目とか、忙しいひとだなあ。大丈夫、入るし、そのままにしてて、力抜けっつっても無理なんでしょ」
彼は氷室の声に、怯みもしなかった。あるいは相手のこういう反応には慣れているのか、というか、こいつはいままでにどこの誰と寝てきたんだ?
それでも、先端の太い部分を突き入れたところで、彼は氷室が追いつくのを少し待った。はあはあと呼吸を喘がせて、なんとか余分な力を逃すと、それを把握したらしい彼に、ああ上手だね、室ちん、と甘く言われてぞくぞくした。
較べるな、較べないでくれ、でもそうだな、オレが言えた筋合いじゃない。
じりじりと根本まで押し込むのに、彼は結構な時間を使った。自分の持ち物がどれだけのものか、よく知っているのだなと思った。
気持ちがよかった、気持ちいい、恐ろしく太くて、長い、ぎっちり開かれて破けそう、しかもいま、自分の尻を使っているのは、アツシだ、紫原敦だ、オレが焦がれる男だ。
この瞬間に、息を止めてしまえればいいのにね。
あとは逃げてゆくだけの夢ならば、ああ、捻り潰したいよ、この手で。
「は……ッ! アツシ、いいよ……ッ、突いて、突いてくれ」
深くまで差し入れた位置で腰を揺すられ、もういまさら取り繕う余裕もなく、両手でシーツを掻き乱しながら氷室は喘いだ。お前とだけはしない? すべてが終わってしまうから? ここまで来てしまえば、クソ食らえだ、一度きりのことならば、ぐちゃぐちゃに犯してほしい、すべての記憶を塗り替えて、今後の一切を消し去るくらいに、だってもうそれしか方法がない。
オレとお前を繋ぐ細い糸を、オレは切りたくなかったよ、お前が切りたいというのならば仕方がないけれど、せめて一夜の快楽と引き換えだ、食わせろ、アツシ。
紫原は、うん、オレもいいよ、と緩い声で背後に言って、腰を使い始めた、不安になるくらいにいつも通りの口調だったが、自分の腰を掴む両手の力は強く、てのひらが少し汗ばんでいて、それに少し安堵した。お前もいま、少しくらいは夢中か?
お前はオレが欲しかったよね、知っている。
キス以上はしないの、と、言葉にするほど欲しかったよね、知っている。
そしてオレはそれ以上にお前が欲しかった、分かれよ、それでもタブーなんだ、甘くて切ない関係のまま、隣にいられればそれでよかったじゃないか。
アツシ。
オレたちはいま、禁忌を犯している。
ぎしぎし軋む、狭いベッドの上で、禁忌を犯している。
「室ちんの中、吸い付く、なんだこれ、堪んないねえ、感じてるんだね。ああ、気持ちいいのは分かるけど、あんまりきゅうきゅう締めないで、動くに動けないし。オレのはきつい?」
「きつ、い、よ……! ああでも、きつく、て、すごくいい……ッ、お前の、ペニス、好きだ……裂けても、構わない、から、掻き回して、もっと欲しい、アツシ」
「オレ、やってる最中に、そういうこと自分から平気で言うひとは、結構好き」
そういうこと? 何か変なことを言ったか?
確かに彼の言葉通り、自分の内壁が彼を無駄に締め付けているのは分かる、分かるが力が抜けない、それくらいに紫原の性器は大きかったし、入れられるだけでいまにもいきそうになった。緩めろと言われたって無理だ。
彼は強引なことはしなかった。
滅茶苦茶に犯してくれて結構だとは思ったが、彼は必要以上に激しい動きは使わなかった、じっくりと抜き差しし、焦らすように途中で止める。知る限りではスマートだ、己のサイズを把握しているわけだ、まあセックスなどに洗練されているだとか野蛮だとかの種別があるのかは知らない。
それでも、繋がる部分を指先で撫でられたときには、泣いた。彼と結合して開き切っている自分の身体に、ひりひりするくらいの視線を感じた、見るなよ、オレはあさましい、そんなふうに触らないでくれ、まるで可愛がるみたいに。
「んッ、アツシ……ッ、深いの、が、いい……、知らない、場所に、届く……ッ」
シーツにぱらぱら涙を零して、掠れた声で求めた、ただの性行為にこんなに必死になったことがあったか? ないよ、これは、相手がお前だからだよ。
オレがどれだけお前が欲しかったかなんて、お前に分かるものか、アツシ、手を伸ばすこともできなくて、せめてと生温い舌を絡めて自分を慰めた、お前にも一緒に溺れて欲しくて好きだと繰り返し、無表情の隙間に欲を探した、終わりというのならばもう終わっていたのか、壊れていたか、はじめてキスをしたときに、既に。
ああでも違う、違うんだ、ただオレは。
触れずにいることで何とか正気を保とうとした、こんなふうに抱き合ってしまえば言い訳も効かない、最後の壁を、ぶち壊したのは、お前だ。
もう、笑って隣にいられない。
紫原は、氷室の言葉に応えて奥を穿ちながら、やはり淡々と言った。それでも、背中に彼の汗がときどき滴って、こいつもこの行為に少しはのめり込んでいるのだなと思えば、震えるくらいに気持ちがよかった、そうだ、感じろよ、もっともっと、どうせこれでおしまいだ。
「なあに? 深いのがいいの? そんなところまで気持ちいいなんて、室ちん、淫乱。オレいままで、誰かにこんなふうに、全部突っ込んだことないよ、壊れそうでおっかなくて。室ちんは、平気そうだね」
「ああ! そう……ッ、そこ、を、突け……、はあ、アツシ、いいよ、いきそう……」
「うん。まあ、我慢したほうなんじゃないの、この身体で。オレもいきたいし、中、ぎゅって締めて、こっちだけでいけるんでしょ、いってよ」
紫原はそこではじめて、僅かに動きを荒くした。抜けるほど腰を引き、根本まで一気に突き刺す、注ぎ込まれた唾液がぐちゃぐちゃと音を立てて堪らなくいやらしかった、畜生、これ以上我慢できるか。
シーツを握りしめていた右手を、腹につくほど勃起している自分の性器に伸ばした、まさか保健室のベッドを汚すわけにもいかない。快楽に痺れる指で、少しでもと扱こうとしたら、それを見ていた紫原にぐいぐい奥を抉られて、擦るまでもなく達してしまった。
なんとかてのひらで受け止めて、彼の性器をぎりぎり絞り上げる、鳥肌が立つほどの快楽だった、こんなセックス、オレは知らない。
「あ……ッ! アツシ、も……、いけ……!」
「中でいっちゃうよ。ああ、よく締まるねえ」
紫原は、愉悦に震える氷室の中で何度か性器を往復させてから、それ以上は氷室を苛まず、深い位置で射精した。異物を差し込まれているせいで抜けない恍惚が、さらに弾けるような気がした、この男がオレの尻でいっている、どくどく注ぎ込んでいる、そういえば中出しなんて滅多にさせないが、彼ならばいいか、汚せよ、オレがお前を汚したように。
はあ、と、背後に彼が、色めいた吐息を漏らすのが聞こえた。
ぞくりとした。聞いたことがなかった、こいつでもそんなふうに甘く切なく溜息を吐くか。普段は性的なことなど知らないような顔をしているが、まあよく考えればまさかそんなことはない、これだけ美しい男だ、オレのキスに少しも動揺しなかったし、ならばセックスにこうも慣れていることだって不思議ではないだろう。
彼は、腰を使って最後まで精液を出し切り、しばらく氷室の内部の蠢きを味わってから、ずるりと性器を引き抜いた。まだ硬い。力が抜けて、精液で濡れた右手をシーツに放り出したまま、くたりと横たわった氷室に、呼吸を整える暇も与えずのしかかる。
待て、オレは結構ぎりぎりだ、と、日本語で巧く表現するにはどう言えばいいんだ?
「冗談。まだまだいけるでしょ、室ちん」
押し返そうと伸ばした左手を、ぐいと掴まれて身体を引き起こされた。頭がくらくらして、まともに抵抗もできない、酸欠だ、せめて少しは休ませろ、お前は盛りのついたガキか?
触れるだけのキスをされて、目眩は余計にひどくなった、こんなときにそんな行為をするのは反則である。
ああ、アツシ、お前は何も分かっちゃいないんだ。
「室ちん、今度は上になってね、好きなだけ腰振っていいよ、たくさん喚いて、もっと気持ちよくなって」
「……訊くけどな。なんでお前は、オレとセックスするんだ、アツシ」
室ちんは、なんでオレとキスするの。
繰り返された問いをそのまま戻すように言う、声が掠れていてみっともないと思う、アツシ、アツシ、終わりたくない、おしまいなんて厭だ、アツシ、アツシ。
オレが悪いな、くちづけで唆したオレが悪い、でも、唇だけでも欲しかった、夢中にさせてみたかった。お前とともに沈む水槽なら、甘いかと思ったんだよ、ふたり溺れて息もできなくて、それでいいと思ったんだよ、オレが悪い。
紫原は氷室の言葉に、珍しくにこりと笑って答えた。見ているこちらがうっとりしてしまうような、美しい笑みだった。
「それはね、室ちんが好きだからだよ」
ああ、泣きそうだ。
ならばオレたちは決して、決して抱き合ってはいけなかったのだ。
結局、シーツは汚れた。
保健室のロッカーを探し回って見つけ出した、新しいシーツをベッドに敷き、精液やら唾液やらで濡れたシーツは紫原が適当にたたんだ、この場に捨てるには大きすぎるし、仕方がないから寮まで持って帰ると言う、さて誰かシーツが一枚減ったことに気付くのか。
まともに腰の立たない氷室を椅子に座らせ、自分もその向かいに椅子を引きずってきて腰かけた紫原は、氷室の指先を掴んで、大丈夫、と訊ねた。確かに手は震えている、あまり大丈夫ではないが、駄目と答えてもどうにもしようがないので、大丈夫、と言った。
こうして、手を繋ぐ、瞳を見つめる、いつものことである。
でも、今夜はいつもとは違う、ふたりとも分かっている、きっちり引いたはずのラインを、はみ出してしまった、なかったことにはできないだろう。
何度も達した。
他には誰も聞いていないからと、はしたない声も上げた、だって最初で最後だ、醜態ならばいくらでも晒すさ、お前を感じればオレは狂うんだ、分かったろ。
そう、それはね、アツシが好きだからだよ。
だからね、抱き合ってしまえば、終わるんだよ、壁一枚を隔てて、欲しい欲しいと互いに焦れたままでいればよかったじゃないか。
いつでもオレからキスをした。
オレが悪いか、否定しない。
「お前は……慣れているね、アツシ。過去に男の恋人でもいたのか?」
指先を掴んでいた手が伸びてきて、今度は髪を撫でられた。愛おしいものにする仕草だ、耐えられない。
てのひらから逃げようと身を反らしかけ、やめた。最後だというのならば一秒でも長くその体温を感じたほうがいい、切なくて切なくて胸がきりきり痛んでも。
紫原は、氷室の言葉にひとつ呆れた溜息を吐いた。片手で髪を掻き乱されて、やっぱりこころが軋む。
「そんな追求、室ちんからだけは、受けたくないし。別にどうでもいいでしょ、いままでどうとか関係ないでしょ、大事なのはいまからだよ、室ちんも、その方針にして」
「……慣れている男に抱かれるのは嫌いじゃないよ、一度だけだとしても」
「だからさ! なんで、一度だけなの、嫌いじゃないんでしょ、ていうか室ちん、オレのこと、大好きじゃない」
ぐしゃぐしゃ掻き回した髪を掴まれ、身を屈めた紫原に間近に視線を捩じ込まれて、どくりと心臓が鳴る。綺麗な紫色の瞳、普段は何を考えているか分からないのに、いまは感情が掠めて余計に美しい、そんな目もするんだな、今夜は知らなかったお前の表情をいくつも見つけた、苦しいよ、離れなくてはならないなんて。
整った顔立ちをしていると思う、せめてもう少し彼が醜い姿をしていれば、こうも惹かれなかったか? どうかな、分からない、惚れたというのならまずコートに立つ彼に惚れたのだから。
駄目だ、オレは夢中だ、ますます夢中だ、目を逸らせない、一度セックスすれば忘れられるような感情だったらよかった、神様の贈り物はあまりに眩い、誘蛾灯に飛び込む虫より簡単にオレは吸い寄せられる、お前の神性に。
オレのこと、大好きじゃない、か。
分かっているのならば、何故。
「室ちんがオレのこと、好きじゃないなら、はじめから押し倒さないし。でも、好きでしょ、何をめそめそ考えてるのか知らないけど、鬱陶しいのはやめて、好きなら好き、それが全部でしょ」
「禁忌だよ……。好きだから、セックスしたら、そこで終わるんだよ、アツシ、分かるだろ。お前は綺麗だ、オレのような汚い男に、触れては」
「ああもう! そういう拗れた思春期思考、やめてほしいし。なんなの? 室ちんは好きな男とセックスしたら死ぬの? 死なないよ、だから何も終わらないよ、それから綺麗なのはオレじゃなくて、室ちんだから。分かった? 分かったよね?」
この男が苛立っているのは分かる。声を荒げるなんてこともあるのか、あまり聞かない。
でも結局、あなたの喋った言葉が全然分かりません、という顔をしたのだろう、紫原はまったく遠慮なく、じろりと氷室を睨みつけた、結構な迫力だ。それから、髪を掴んだ手はそのまま、氷室の唇に噛み付いた。
いつも交わすような、甘くて苦いくちづけとは違う、荒々しいキスだった、そういえば、表情に、声に、眼差しに感情を見せないように、この男はくちづけにさえあまり感情を見せなかったな、と氷室は思った。
舌を絡めても、唾液を交換しても、彼は淡々としていた。フラットな声で繰り返された、なんでオレとキスするの、キス以上のことはしないの。
お前はいつだってそうだった、だからこんなふうに、まるで恋でも告げるように、乱暴で切実なキスをされたら、どうしたらいいのかわからなくなる。
違うだろ、お前が逃げるんだ、薄汚いオレを見限って、お前が逃げるんだ、この手に捕まえておきたければ、美味しそうな餌のふりをしてみせるだけにとどめなければならなかったんだ、正体がばれたら終わりだ、オレはただの肉塊だよ、お前の隣にいる資格などない。
咄嗟に反応できない舌を絡められ、誘い出されて目が回る、噛み付いてくる力は強くて、そのまま食いちぎられそうだった。
「ん……ッ、は」
長いキスだ。
強引に貪られ、気づいたら、紫原のシャツに縋っていた。
溢れる唾液を必死に飲み込んで、息苦しさにシャツを引っ掻くと、彼はそこでようやく唇を離し、再度じっと氷室の目を見つめた。
底なしに澄んだ、紫色の瞳、見蕩れてしまう、もうその瞳にオレは映らないのか?
「いい? ちゃんと聞いて、室ちん、オレの言うこと理解して。セックスしたって、何も終わらないよ、終わるんじゃなくて、はじまるの、いい? 恋愛を、はじめよう、オレと、恋愛をはじめるの。恋愛、分かる? オレの日本語難しい?」
「……オレには、恋愛なんてする権利はないよ、アツシ。誰とでも寝るんだよ、お前の名前を呼びながら、違う男に抱かれていたよ。お前を誘うようなことをして、曖昧な関係に酔って、それで」
「もういいよ、じゃあ、今後はオレに抱かれながらオレを呼んでよ、それでいいし。分からないって言うなら、分かるまで何度でも押し倒すよ、厭じゃないんでしょ、いいよね、覚悟してよね、オレ今日から室ちんの恋人だから、文句言わせないし」
恋愛? 恋人? 何を言っているんだ、こいつは?
そんなセリフは、可愛い女の子にでも言え、別に野郎でもいいが、オレだけは違う、オレのような、汚らしい男には。
シャツに縋る手を、外すタイミングを逃した。見つめる彼の輪郭がぼやけて、こころのどこかがずきずき痛くなった。切ないな、切ないよ、ああ、クソ、いい男だ。
そういえば、オレはなぜ彼と寝たら、終わると思っていたのだっけ、禁忌だと。
セックスするまでの駆け引きがすべて、抱き合えばそれでさようなら、そんな遊びばかりしてきたんだ、オレは普通の恋愛を知らないんだよ、誰のせいでもない、オレが選んだ遊びだ、なあ、最低の男だろう?
針に餌を刺して。
糸を垂らして。
そういう遊びだ、ねえ、お前は清廉だね、水から出ても、呼吸ができるのかい、オレにはとてもじゃないが、真似できない。オレにはとてもじゃないが、飼い慣らせない。
オレの薄汚れた正体を見ても、何故こいつは、こんなふうにオレに言葉を使うのか、らしくないぜ、まるで愛するものを掻き口説くみたいな。
紫原は、氷室をしばらく見つめていたが、不意に淡く優しく笑ってみせた、この男でもこんなふうに笑うんだ。
「泣かないでよ、室ちん」
泣いているのか? よく分からない。
立ち上がった彼に、腕を掴まれ椅子から引きずり上げられた。よろめいた腰を抱かれ、いまさらのように彼の匂いを、体温を、強く濃く感じて、なおさら目眩がした。
知らないんだ、アツシ。
教えてくれよ、アツシ。
オレにはお前と恋愛をはじめる価値があるのかい。
「ああ。オレ、殴り倒したおっさんに鍵返しに行かないと。まだ寝てるのかな、ちょっと見てくる、室ちん、校舎の外で待ってて、シーツ持ってて」
「オレが、返してくるから」
「そんなにふらふらしてるのに、どうやって中庭まで辿り着くの? いいから、待ってて、大人しくしてて。寮には一緒に帰ろ、歩けないなら担ぐし」
氷室の腰を抱いたまま、紫原は机に置いてあった鍵を取り上げて、指先に鳴らしながら保健室を出た。照明を消してしまうと、この時間では、廊下の非常口くらいしか明かりがない、その僅かな光の下で見ても、紫原は苦しいくらいに美しい男だった。
何も終わらないって?
終わるんじゃなくて、はじまるの?
この男は、オレの弱点をよく知っているよな、と思った。恋愛をはじめるの、か、恋愛、分かるかって? 分かるよ、そして、分からない。
保健室のドアに、鍵をかける紫原の横顔を見る。
いつものごとく無表情だ、でも、違う、この男は昨日までとは違う。
かちりと鍵の閉まる音がする、ふとこちらを向いた彼が、目の色だけで笑って右の瞼にキスをした、そうだな、無表情だが、分かるよ、お前に流れる血が、息づくこころが見えるよ。
隣にいてもいいか?
そばにいてもいいか?
恋愛なんて知らない、オレは誰にもそれを教わっていない、それでもお前が針から逃げないのなら、一度すべてを終わりにして、また最初からはじめるか、お前が一緒にいてくれれば、水の感触も違うだろう、真っ暗な海の底で密かに語り合おう、ふたりだけの、内緒の言葉で、恋愛を。
(了)2014.03.05