毎日のように夢を見る。
紫原敦に抱かれる夢だ。
触れる指先、食い込む熱、夢の中の快楽はいやにはっきりとしていて、そこで氷室は甘ったるい声を上げている。シーツに縋り、自分を穿つ男の名前を必死に呼ぶ、アツシ、アツシ。
俯瞰で見る夢ではない、明らかに、まさにいま、抱かれているのだと肌で分かるようなものである。自分が達する瞬間も、彼に注ぎ込まれて震える感覚も、何もかもがリアルで、逃れようがない。
氷室は男と寝た経験はなかった。
だから、なぜその夢が紛れもない愉悦を連れてくるのだか、分からない、まったく分からない、いずれ都合のいい妄想だ、そして溺れているあいだは自覚もない。
気持ちいい、アツシ、と。
もっとくれ、お前が欲しい、と、毎回掠れた声で叫ぶ、ぐちゃぐちゃにしてくれ、アツシ、アツシ、好きだよ。
繋がって果てたあと、彼が言うセリフも、決まっていた。
快楽の余韻で熱い氷室の身体を、無造作に突き放してベッドから下り、彼は必ずこう言った。
「ああ、これでおしまいだね、室ちんの居場所はもう、オレの隣には、ないよ」
いつものように緩い声、それでもどこか冷めた声。これでおしまい。セックスをした直後に言われる言葉にしては、ずいぶんと残酷である。
居場所はもう、オレの隣には、ない？
毎日そこで、飛び起きた。身体中にびっしりといやな汗を掻いて、はあはあ息を乱して飛び起きた。おしまいってどういうことだ、問い質したい相手の姿は当然そこにはなく、カーテンを閉めたひとりきりのベッドの中でようやく気づく。夢、か。
はじめてその夢を見たときには、悪夢だと思った。
それが毎日になったときには、願望であり、そして警告なのだと悟った。
どうやらオレは紫原を好きらしい、惚れたらしい、無論性的な意味で。
そして思いを告げれば、まんがいち遂げれば、オレはもう彼の隣にはいられなくなるのだ。馬鹿馬鹿しい、当然である、あの男はゲイではなかろうし、ならば言ったところで煙たがられるだけだ、秘すべきだ。
快楽と絶望を一緒くたに詰め込んだ夢を見るようになって、もう一週間くらいにはなるか。思い返すにあのゲームで、本気になった彼を見たあとから、身勝手な妄想に彼を引きずり込むようになった、実に単純なものである。
悔しいだとか。
妬ましいだとか。
そんな感情がどこかに飛散するほど、コートでの彼は眩しかった。
殴った、泣いた、惨めなセリフを吐いた、それに何故か彼は応えた。パスを出した、受け取った。オレは、あのとき、アツシに、惚れた。
単純すぎて、うんざりする。
自分が飢えているとは思わない。このところは部活が忙しくてそんな時間もなかったが、そのつもりで手を伸ばせば女はいくらでも手に入った。街に出れば必ず声をかけられたし、欲しいのならば頷けばいい。だから何を持て余しているわけでもない。色のついた夢ばかり見るのならば、さっさと漁りに行けばいい。
しかし、その気にならない。
紫原でないと、駄目だ、だが、それは、駄目だ。
ほんとうに、自分にうんざりする。
続く冬休み、ほとんどの生徒がそうしているように、紫原は帰省していた。氷室は面倒な手続きを済ませて、残寮した。遠く離れ離れになって、抱きついてくる腕も甘い声もここにはないのに、散々な夢を見る、いや、ここにはないからこそか？
寮に残る、と氷室が言ったとき、紫原は僅かな間を挟んでから、彼にしては珍しい目の色をして、言った。
「じゃあ、冬休み最後の三日間、室ちんの時間をオレにちょうだい」
ちょうだい、と来たか。
半分はその真摯な眼差しに気圧されて頷いたが、この男は、いったい何をしたいと言うんだ。
場所は東京、新幹線の切符を渡されて少々戸惑った。暇だから付き合えというのならば付き合う、どうせこちらも暇だ、しかし、行く場所ならばどこでもありそうなものなのに、己の見知った街に呼びつけて、彼は満足なのだろうか、楽しいのか。しかもどうせすぐに秋田だ、旅費が無駄になるだけのような気もするが。
まあいい。東京での遊び場を教えてくれるつもりならば、結構なことだ。
簡単な荷物を作って、寮を出た。別離の時間は短かったし、毎夜のように夢で触れていたが、数時間後には現実の、彼の顔が見られるのだと思えば、視界がいつもより明瞭であると感じるくらいには、気持ちが沸き立った。
新幹線で、うたた寝をした。毎日早朝に飛び起きるせいで、寝不足である。
その短い時間でも、また夢を見た。いつものように、抱かれて、冷たく突き放される、願望、警告の夢だ。
はっと目覚めると、既に東京間近だった。こんな場所だというのに、いつものごとく、いやな汗を掻いていた。まさかおかしな声を出していたり、必死に寝言を言っていたりしなかったろうなと密かに周囲を見るが、他の乗客の顔を見る限り、それはなかったようでほっとした。
しかし、電車の中でさえこれか、どの面下げて、アツシに会えというんだ？
大丈夫、落ち着け、普段通りに笑え。
停車のアナウンスを聞くと同時に、荷物を掴んだ。降車する客は多く、それに紛れてホームに立った。
新幹線乗り場の改札の外、電話で決めた待ち合わせの場所に、紫原はひとり立っていた。やたらと大きい男なのでよく目立つのは、こういうときにはありがたい。
彼は、寮では見たことのない、氷室とよく似た黒いコートを着ていた。とびきりに似合うような、なんだか不思議なような。実家のクローゼットで眠っていたのか、新調したのかまでは知らないが、思わぬ合致に少し笑ってしまった。しかしそのサイズの服を、こいつはどこで手に入れているのだろう。
「アツシ」
声をかけて歩み寄ると、その氷室に気づいた彼は、いつものようにどこか眠たげな目で氷室を見下ろし、いつものように甘くて緩い声で、室ちん、久しぶり、と言った。
ああ、紫原敦だ、と。
思ったら、こころのどこかがずきりと痛くなった。
まあ彼だけでなく氷室も背は高い、そのふたりがつるんでいれば、人混みの中ひと目も集めたが、慣れたものなのであまり気にしない。
「おうちもいいけど、室ちんいないと、いまいち物足りなかったし。これっていわゆる依存？ オレ、室ちん依存症かも」
「お前はオレに依存するようなたまじゃないよ。と言うか、せっかくの冬休みに、オレと遊んでいていいのか？ 普段なかなか会えないような、家族とか友達とか、優先したほうがいいぞ」
「いいの。好きに楽しめって言ったの、親だし、優先するなら、室ちんだよ」
会ってそうそう、すごいことを言う男だな、と思って、少し耳が熱くなるのを感じた。依存症？ それはオレだ。
オレがいないと物足りない、か、それはどういう意味だ。
彼は、右手にそれなりの荷物を持っていた、三日間自分と過ごしたら、そのまま秋田に戻るつもりなのだろう。てっきり彼の実家にでも連れ込まれるのかと、愛想笑いの仮面をきっちり吟味してきたのに拍子抜けである。では我々はどこで寝るというのか、野宿か。
彼は左手の腕時計を見下ろして、五時か、と呟き、まるでそうすることが当然であるかのように、氷室の黒髪をさらさらと撫でた。
「じゃあ、早いけどごはん、食べよ。ファミレスでいいよねえ、なんか室ちん、肩こりましたって顔してるし、気楽なほうがいいでしょ」
よく見ているな、とは思った。確かに、新幹線で例の夢を見て、起きて、狭いシートで凍りついたのは自分だ。連夜の睡眠不足も祟り、見る人間が見ればいつもより顔色は悪いかもしれない。
さっさと先に立って、在来線のホームに向かう紫原を追いかけ、隣に並んだ。室ちんの居場所はもう、オレの隣には、ないよ、夢の中で繰り返された彼のセリフを頭の中から追い払う、馬鹿言え、オレの居場所は、こいつの隣だ、そうだろう。
コートでも。コート以外でも。
そのためには、この感情を、明かさなければいいだけ、簡単な話である。彼に懐かれている自覚はある、ならばそのまま飼い慣らせ、好きだとか惚れたとか、そんな感情は邪魔だ。
うんざりするほどひとの多い電車に数駅ぶん乗って、紫原に連れられるまま氷室は駅をあとにした。彼の言った通り駅のそばにあるファミリーレストランに入り、早い夕食を食べ、さてではどうするつもりだと紫原を見れば、彼は特に迷わず、これもまた駅の近くにあるシティホテルに向かった。
ホテル？
「大丈夫、予約するとき親の同意書送りつけたし。お年玉貰ったし、オレいま金持ち」
見れば、結構高価そうだが。
ドアマンに誘導されて足を踏み入れたエントランスには、美しい紫色の花が活けてあった、造花ではない、生花だ。彼と同じ色だな、と思うが口には出さない。
内装は華美というよりは落ち着いていて、この男が選んだにしてはセンスがいい。いや、仲がいいらしい何とかいう友人に手配させたのかもしれないが。
「アツシ。お年玉って、なんだい」
「ああ。ええとねえ、お小遣い。正月の」
分かるような分からないような説明である。
紫原がチェックインをしているあいだ、氷室はロビーのソファでぼんやり待った。なぜ彼が三日間の時間をよこせと言ったのかは謎だが、あるいは犬が飼い主を独占したがる欲と同じようなものなのかもしれないな、とは思った。
見慣れた街を連れ回したい、ねえほら、笑ってよ、楽しいでしょ。ここがオレの遊び場なの、オレを見て、オレを知って、同じ空気を吸って、同じ匂いを感じて。
隣にいて。
懐かれたものである、オレはね、アツシ、毎夜お前を夢で汚しているんだよ。お前は想像もしないだろうが。
案内を断り、キーだけ受け取った紫原が、エレベータホールを指さしたので、ソファから立ち上がってそれに従った。エレベーターの中で、ひとことだけ言葉を交わした。
「室ちん、好き」
「オレも、アツシが好きだよ」
挨拶だ。
何故東京に呼び出したのか、何故こんなにご大層なホテルに滞在しなくてはならないのか、訊こうと思えば訊けたが、やめた。三日間、時間をちょうだいと言われた、ならばお前の好きにしろ、学校からも家からも離れて、これは彼なりのちょっとした逃避なのかもしれない。
表情には出ない。だが、彼にだっていやなことも、うんざりすることもあるだろう。彼は真っ直ぐであり、そして意外にも繊細な男だ、たまには羽根を伸ばしたくなるか。
付き合うよ、隣にいろと彼が言うのならば、それは単純に、嬉しい。オレはお前の特別だ。ならば面倒なことも言わず、鬱陶しい態度も取らず、さらりとした笑顔でそばにいよう。
キーでドアを開けた先の部屋は、狭くも広くもないツインだった。荷物を置き、ふたりでひと通り探索して、時計を見ると午後八時、どこかへ繰り出そうと思えばできる時間であるにせよ、中途半端だな、と思っていると、紫原が相変わらず緩い声で言った。
「室ちん、疲れてるから、今日の活動はおしまい。お風呂入って、のんびりしよ」
疲れているから、か、甘いじゃないか？
促されるままユニットバスでシャワーを浴びた。このところまともに眠れていない身体は、確かに重かったし、移動距離も長かった。それでも疲れた顔などしていないつもりだが、紫原にはそう見えたのだろう、あちこち連れ回される予定で新幹線に乗ったのだから、そんなに優しくしなくてもいいよ。
バスローブを着て部屋に戻ると、入れ違いで紫原がユニットバスに消えた。水の流れる音を聞くでもなしに聞いていると、携帯電話が鳴った。
こんなときだから、無視しようと何気なく見やった液晶画面に、火神大我、の文字が見えたものだから、ほとんど反射的に携帯電話を手にした。知っている。オレはあいつに甘い、少なくともいまは。
「タイガ？ どうした」
シャワーを浴びている紫原には聞こえないだろうが、なんとなく囁く声になった。ちくりと罪悪感が芽生えて、その自分に嫌気がさす、別に、オレが誰と電話しようと彼は気にしないだろう。
いや、違う、気にする。火神が相手ならば、紫原はきっと苛つく。
オレの特別に、彼は嫉妬する、深い意味はない、彼の飼い主は、彼だけのものではないから、それだけだ。
電話の相手は実に元気そうだった。矢継ぎ早な質問を投げかけてくる声が上機嫌だった。タツヤ？ 元気か？ いま何してるんだ？ どこにいるんだ？ え？ 東京？
「今日から三日間くらい、東京にいると思うよ。分からない、移動するのかもしれないが。会いたい？ ……そうだな、オレもお前に会いたいよ、タイガ」
シャワーの音が止まる前に、携帯電話を置くべきだ。早口にはならないように、だが、無駄なセリフは削って回線の向こうから降る問いに答える。彼の声は、淀んだこころを微かに晴らすようだった。火神のことは好きである、でなければ兄弟分になどならない、無論、紫原を好きだと思う感情とは別物である。
どこに泊まっているんだ、と訊かれて、一瞬ためらってから、ホテルの名前を告げた。
今度は火神が短い沈黙を挟んだあと、じゃあ、近くまで行くから、と言った。何時なら、会えるんだ？ そう、明日。
少し迷ってから、朝早い時間を告げた、紫原は朝に弱い、彼が寝ているあいだ、早朝ホテルを抜けるくらいならば、時間をちょうだいと言った彼を裏切ることにはなるまい。
待ち合わせの場所を決め、じゃあ明日の朝、と言って火神が電話を切るのと、紫原がユニットバスから出てきたのは、ほとんど同時だった。ひやりとした。耳から離した携帯電話をさり気なくテーブルに置いた氷室を、紫原はちらりと見やったが、特に何を言うこともなかった。
誰と電話してたの。
問う立場にないと思ったのか、問う必要はないと思ったのかは知らない。ただ、助かった、とは思った。訊かれてしまえば何かを答えなければならない、ごまかすのは面倒である、オレは面倒くさい男だが、面倒くさい作業が好きというわけではない。
（中略）
乳首を吸われたときには、思わず短い声が漏れた。
おかしい。こんなことは、女にだっていくらもされたのに、そのときは目を細めて笑っていられたのに、相手が男というだけで、こうもはしたなくなるか。
違う、これはお前だから。
跳ねる呼吸を無理やり落ち着けて、喘ぎを抑え込む、あまり物欲しげにするものではない。噛み付かれ、舌でなぶられて、じりじりするような快楽が身体に溜まる、ひんやりとした彼の長い髪が皮膚を擽り、それさえもが快楽を呼んだ。
気持ちがいい。
余裕がなくて、切羽詰まって、頭の中が彼で一色に染まる、セックスとはこういうものだったろうか。
「声出して。飲み込まないで。室ちんの、えろい声、聞きたい」
胸のあたりを唾液でべたべたにしてしまってから、腹筋を唇で辿る彼が、キスの合間に言った。この男が慣れているのはもう分かった、お前は慣れている、了解だ、しかしそれにしても想像以上に露骨な愛撫をするんだなと思って、顔が熱くなった。もちろん、毎夜の夢よりも。
いつでも、何ごとにも興味ございませんというような、ぬるい目で周囲を見下ろして歩く男である。性行為にも淡白なのだろうか、などと考えるでもなく考えていたが、そんなことはない。
大きなてのひらでいやらしく肌を擦り上げられて、目眩がした。
上半身に隙間なくキスを降らされ身悶える、これは、嵌まる。過去に彼に抱かれた人間も、嵌まったに違いない、そうだな、オレだけじゃないんだ。
「オレは……女の子じゃ、ないよ、可愛い声なんか、出ない」
「室ちんて、女抱くとき、喘がないタイプなの？ まあそうやって一生懸命我慢してる姿も唆るけど、どうせそのうち我慢できなくなるよ。ねえ、じゃあ夢では？ 夢では声出すの？ オレに抱かれる夢を見るんでしょ」
「……聞くに堪えない、ような、声を上げて、いるよ、アツシ」
何も馬鹿正直に言わなくてもいい、とは思ったが、言った。そのほうがこの男はよろこぶのだろう。
そうだ、アツシ、アツシと必死に彼の名を呼び、気持ちいい、と叫んでいる、毎夜毎夜。
もっとくれ、お前が欲しい、ぐちゃぐちゃにしてくれ、アツシ。
好きだよ。
好き、か。夢では何度もそう口に出した、しかしそういえば、オレはまだこの男に、恋愛の意味での、好き、を言っていないよな、とふと気がついた。決定的な言葉を使うのが、怖いのか。
お前に抱かれる夢を見る、と言っただけである。
まるで性欲しかないような言い分で、自分に嫌気がさした。そうではないんだよ。
彼は氷室の言葉に、肌に俯いていた顔を上げ、一瞬、ほんの一瞬だけ、いやに楽しそうな目の色をしてみせた。それから、片手を伸ばし、半ば反応していた氷室の性器を掴んだ、熱くも冷たくもない手だ、ただ、その指の動きはひどく甘い。
「あ……！ アツシ、待て」
「いい声出るじゃない、室ちん」
畜生。
（サンプル終わり）