しあわせの決定権(サンプル)


 紫原敦が、自分に対して、仄かな恋情を抱いていることは把握している。
 だからこそ思う、彼の前に敷かれた栄光のレールに、影をなしてはならないと。
 そうだ、邪魔をするな。彼は天才なのだから。
 そうだ、彼のしあわせを願うのならば、隣にいてはならない、絶対に。



 紫原敦と、寝たことがある。
 いや、寝たことがあるという表現では足りないか。何度も、何度も、飽きもせず抱き合った。場所も選ばず、時間も気にせず食らいついた、まさに貪った、欲しかったから。
 いまだけだ、二年に満たない期間限定、だから溺れた、欲しかったんだよ。そして紫原も氷室を欲していた、残る時間を数えるように、それに追い立てられるように彼は手を伸ばした。
 でもね、アツシ、これは、この関係は、セックスだけのものだ、オレがそう定義したんだ、はじめて肌を合わせた夜に。
 好き、好きだよ、彼の唇から溢れるいじらしいまでの愛の言葉に、残酷にも笑って返した。オレもお前の身体が好きだよ。
 同じように恋情を抱えているのにね。
 でも、そうすることしかできないだろう、受け取ってしまえば彼は落ちる、はるか高みにある天から、固い地の上へと落ちてしまう。天才には似つかわしくない。
 邪魔をしてはならないのだ。
 自分では彼を、しあわせにできない、ならば引け。そのくらいの芸当はできるだろう? 氷室辰也なのだから。
 卒業式の日、呼びつけられた体育館裏で、彼が口にした言葉をよく覚えている。
「オレから逃げるの、室ちん」
 いつもの甘くて緩い声ではなかった、焦燥と緊張が僅かに滲む声だった。泣きたくなった。逃げるのかって? お前がそれを訊くのか。
 可愛いよ、この男はいつだって聡明で真っ直ぐで、それであるがゆえに甘くて冷たくて、そういうところが何より好きだ。オレの秘密を許し、オレの秘密を暴き、そのうえでオレのそばにいた、可愛いよ。
 落としたくないんだよ。
 あなたのしあわせを祈ろう、だから、終わろう。そうするしか方法がない、この男を光満ちる場所へ押し戻す方法が。ふたり過ごした短い蜜月は、あまりにも、切実だったね、オレの影がお前の光に纏い付いてしまう前に、早く、早く。
 遠くまで。
「逃げる? 馬鹿だな、どうして? オレにはお前から、逃げなくてはならない理由があるのかい?」
 腕を掴ませたまま、氷室はにこりと笑って答えた。誤魔化せたとは思わない、紫原はそこまでぬるい男ではない。
 だが、知っていることがひとつ、彼はどんな場合であれ大抵は氷室を優位に立たせた、欲しい、重なりたいと求めるときでさえ。
 見るなと拒めば、追求を退ければ、それ以上は見ない口を出さない。触れる指先を払い除ければ、素直に手を下ろす。こいつがだ、こいつが、オレに対しては、傅く。
 何故かは分からない、あるいは彼は、恋愛の経験があまりないのか。どうしたらいいのか知らないのか。彼は己の感情を手探りで掻き分けているように見えた、好きなもの、必要なもの、気持ちがいいもの、そして、邪魔なもの。いままでひと纏めに扱ってきた、これからはちゃんと選別して、大事にして、そして。
 恋情に戸惑っているのかい、だからといって、いくらオレに優しくしても駄目だ。
 だってオレは、邪魔なもの。オレの望みはただひとつ、紫原敦が、しあわせになること。
「……室ちん、オレに、何も教えてくれないし」
 しばらくの沈黙のあと、紫原はそう、ぽつりと言葉を零した。腕を掴んでいた手がそっと離れる、目の前の男を抱きしめたいと思う、愛おしい、愛おしいよ、可愛い。
 天に祝福されしもの、こんなふうにただその幸福を祈れる相手と出会えるとは思っていなかった。
 嫉妬も羨望も、切ない恋の一部、お前とともにあれた時間がオレにとっては何よりものしあわせでした、だからいまからは、お前がしあわせになるんだ。
 ごめんね、最初から拒絶していればお前は真っ白なままでいられたのかもしれない、でも、自分にだって欲はある。卒業するまで、そう決めてオレが食ったのさ、身体だけだと嘯きながらお前を汚した、ごめんね、せめて決めた以上は綺麗に去ろう、大丈夫、感傷なんて一瞬で、すぐに忘れる。
 お前ならば。
「東京の、進学先は知っているだろう? 電話番号もメールアドレスも、変えないよ。それで充分じゃないか?」
「……そうじゃない。分かってるんでしょ。ねえ室ちん、どうして、次はいつ会おうって約束をしないの。離れちゃうんだよ。どうして……好きって言わないの。待つとか、待てとか、言わないの」
「アツシ。オレとお前は、恋人同士じゃないんだよ。重荷になるのはいやだろう? お互いに」
 彼を抱きしめたい両腕で自分の身体を抱き、氷室は囁いた、ほらみろ、お前はオレに弱い、こんなときでも。
 まるで、よく懐いた獣だ。
 ああそうだよ、お前の言う通り、逃げるんだよ、オレは逃げる。自分の恋情に囚われて、理性を見失う前に、そしてお前が泥沼に沈む前に。
 オレは天才に愛される夢を見た、肌を合わせて体温に酔った、醒めて冷めてしまえば何も残らないが構うまい、欲しいものなら食い尽くしたさ。
 だからお前もさっさと目覚めればいい、そんな恋情は捨てちまえ、お前が不幸になるものならば捨てちまえ、オレはそう言っているのだ、分かるだろ?
 高校時代の甘くて苦い記憶、それで片づけてしまおうぜ。
 思い出という名のフォルダの、奥深くに押し込んで、二度と開かないならそれでいい、オレはお前の邪魔だけはしたくないんだ。お前の歩む先に広がる輝かしい未来に、オレは不要である。





 はじめは新鮮だった大学生活にも、一人暮らしにも大分慣れた、夏にさしかかる頃か。
 アルバイトを片づけてアパートに戻り、階段を上がった先、自室の前に、やたらと背の高い男の影を見つけたのは。
 春、桜の季節、紫原の不在で開いた胸の穴は、しくしくと容赦なく痛んだ。たくさんの新しい出会いも、その穴を埋めることはなかった、気紛れに摘んでは口に入れてみても同じこと、彼の代わりはいないのだ。
 離れて分かった、自分は自分で思うより、あの男に惚れている。
 分かったところでどうしようもない、切れるべきだという判断は、間違えていない、だから覆さない。終わりにしたんじゃないか、酷い言葉をいくつも吐いて。
 梅雨になっても、こころの痛みは消えなかった。ボールを持てば必ず思い出した、やすやすと有象無象の希望を潰す、大きなてのひらを。
 そうだな、オレはそのてのひらが好きだ。いや、好きだった。
 そうだな、オレはもうこの欠落を抱えて生きて、死ぬよ、最後までお前のしあわせを祈りながら。
 紫原敦。
 オレが愛した天才は、いま何をしているのだろう。
 などという感傷を裏切って。
「……アツシ?」
 お前は、何をしている、いや、夢の続きか。
 思わず零れた声は、惨めに掠れていた。ドアに寄りかかっていた紫原がゆらりとこちらを振り向いた、その美貌を目にして一瞬で時間が巻き戻った。
 名前を呼び合った。
 菓子を差し出した。
 ふたりでコートを走った。
 そして、密やかに抱き合った。
 待てよ、もうそれらのメモリは、取り出せない場所に放り込んだはず、ああでも、違う、いつでもどの瞬間でも、脳裏には彼がいた、この数か月。
 終わりにしたはずだ。
 中身が弾け飛びそうなケースにしまって懸命に蓋をしているのに、どうして平気で目の前に現れるんだよ、お前は。
 紫原は、ドアに凭れていた身を起こし、氷室に歩み寄った。片腕にスポーツバックを抱えている、服はラフな私服、何をしているんだ、何故なんだ、訊くべきことが巧く纏まらずに頭の中をぐるぐる回って、淡い吐き気を呼ぶ。
 高校の校舎で、体育館で、しばしばそうされたように、さり気なく髪を撫でられて、氷室はびくりと派手に身体を強張らせた。クソ、オレがどれだけ、どれだけ我慢を。
「……アツシ。どうして。学校は?」
 見上げるこの角度、久しぶりだ。夢の続きではない、こいつは本物の、紫原敦。
 綺麗な色の髪、綺麗な色の瞳、美しい男、久しぶりだ、こうして現実の彼を目にするのは。
 会いたかったよ、会いたかったんだよ、オレがどれだけ、どれだけ我慢を。
 掠れた声のまま、問うた言葉には大して意味がなかった。何をしに来たんだ、何故来たんだ、訊ねてしまえば深みに嵌まる、だから簡単には口に出せない。
 好き、好きだよ、あのころのように繰り返されてしまえば、次はどこへ逃げればいいと言うんだ?
 紫原は、例のごとくどこか眠たげな目で氷室を見下ろして、淡々と答えた。たった数か月だけの別離だったというのに、長かった、苦しくて、胸が痛かった。
 駄目だ駄目、オレはこいつのそばにいては駄目だ、こころを寄り添わせては駄目だ、そんな感情は捨てて、これみよがしな愛想笑いでも浮かべろよ。
「学校? 学校はねえ、親戚が危篤ってことになってるみたいよ。三日間お休み」
「……酷いな。大体お前、どうしてここを知っているんだ? 呼んだ覚えはないぞ」
「黒ちん経由で、火神に訊いた。だって室ちん、メールの返事はいつも曖昧だし、いくら電話かけても一度だって出たことないし。結局逃げてるじゃない、だからわざわざ捕まえに来たの。呼ばれてないのは知ってるよ」
 逃げている、か。
 捕まえに来た、その彼の言葉に嘘はないのだろう、こいつが火神を頼ったというのであればそれは相当である。核心を避けたメールしか送らなかったことも、彼からの電話に一切出なかったことも事実だ、焦れたか、察してくれよ、アツシ、いや、察しているからこそか。
 この男はまだ自分のことが好きだ。
 その認識は甘くて切なくて、それから泣きたくなるくらいに絶望的だ。
 そうだよ、逃げているんだよ、逃げると決めたんだよ、冷たいセリフで切り捨てて、足跡を消して背を向けたんだよ、お前はもう忘れていいんだ、その分オレが抱えるから。
 邪魔をしたくない。
 彼の未来に傷を付けたくない。いまならばまだ笑って廃棄できるだろ。そういえばオレ、一時期、年上の男と飽きず寝ていたんだよ、笑っちゃうよね。
「ねえ、室ちん。部屋に入れてくれないの。オレは東京へ野宿しに来たわけじゃないし」
 身を屈めた彼に、真っ直ぐに顔を覗き込まれて、氷室はつい目をそらせた。やわらかい香りを感じる、紫原の匂いだと思う、好きだ、好きだよ、囁きたいのは自分のほうだ、だが、できない。
 恋情をむき出しにして向かい合ってしまえば落ちるだけだ、お前が、落ちるだけだ。
 視線を返せないまま鞄を漁って、鍵を取り出した。こんなところでああだこうだ言っていたところで近所迷惑というものである。大丈夫、あのころだって巧くやれていたではないか、こころは明かさず、綺麗に笑って、そして今度こそ彼を諦めさせなくては。
 氷室辰也が欲していたのは、紫原敦の身体だけだったのだと、オレはそう言いたいのだと、理解しろ。
 鍵を開けてドアを引き、紫原を部屋に通した。紫原は特に遠慮もなく玄関に踏み込んで靴を脱ぎ、申し訳程度の廊下を踏んだ。キッチン、ユニットバスがあるだけの狭いワンルーム、ベッドとテーブルと本棚、家具といえばそれくらいしかない。
 彼は、断りもせずテーブルの前のクッションに座り、部屋の隅に転がしてあったバスケットボールを眺めながら、実にフラットな声で言った。
「室ちん、バスケしてるんだよね。たまに雑誌で見るよ。大学のバスケはどうなの、面白いの。続けてて楽しい?」
「……オレからバスケを取ったら、何も残らないよ、アツシ。楽しいさ」
 まあ、バスケがあったところで、オレの手には何もないけれどね。
 分かっているくせに、知っているくせに、もしこの手にお前と同じだけの宝石が握られているのならば、オレはお前から逃げやしない。
 午後七時。食事は摂ったかと訊ねると、食べていないと返事をされたので、ふたり分の夕食を簡単に作った。冷蔵庫から食材を引っぱり出して、適当に刻んでフライパンに放り込む。男の家に押しかけて、豪勢な手料理を食えるとは思っていないだろう、それこそ火神相手でもあるまいし。
 ふたつの皿を並べて等分にチャーハンを盛り、テーブルまで運んで彼の向かいに座った。スプーンを渡してやると、彼は、いただきますともありがとうとも言わずに、動物みたいに食いついた。腹が減っていたのか?
 可愛いな、と。
 ふと思い、打ち消す。そんなことを考えれば、傷口がますます深くなる、さようならと背を向けるときに開く傷口が。
 もう充分だよ、アツシ、影は引き受けよう、だからこれ以上の痛みはいらない。
 会話は多くはなかった。
 それでもぽつぽつと言葉を交わした。紫原はあっという間に皿を空にしてしまうと、スプーンを皿に転がして、チャーハンを口に運ぶ氷室をじっと見た。おい、食べにくいだろ。
「バスケの調子はどうだい、アツシ」
「変わんないよ。いや、違うかな、変わっちゃったかも。オレ、室ちんとダブルエースだったときが、よかった」
「……お前はこれからだよ。ひとりで場を制圧できる。オレなんて邪魔さ、お前は天才なんだから」
 ダブルエースだったときが、よかった。
 途端にチャーハンの味が分からなくなる、どうしてこいつはこうも簡単に、自分のこころのやわらかい部分に、ナイフを刺してくるんだ。
 彼は氷室の言葉に、少しの間、黙った。盗み見た顔には、珍しく僅かに表情があった。知る限りこの男は常から無表情なのだが。
 哀しそうな顔だった。
 やりきれない、もどかしい、そういう顔でもあった。
 返ってきた声は少し低くて、ぞくりとした。感情を見せない彼が、不意にそれをほのめかす瞬間が、好きだった、そして思い知らされる、いまでも、好きだ。
「……天才とか、知らない。オレ、好きでそんなのになってないし。ねえ、言っとくけど、オレと室ちん、ダブルエースだったんだよ、意味分かってんの」
 贅沢だ。傲慢だ。
 無慈悲だ、天才が凡人にかける情けのつもりか。
 ああでも、こいつは天才であるがゆえに、孤独、なのだろう。オレに幻想を抱くくらいに。
 意味を分かっているかって? 分かっているさ、強いのだろう。オレは強い。だからお前の隣に立てた、その程度には強いのだ。
 だが、見てみろよ、必死になって磨いたところで、この手にあるものはただの石ころ、投げればそれなりの力にはなるかもしれないが、お前の持つ原石とは違うのだ、いずれ道端に埋もれていく。
 違う、とお前が言ったのだろう?
 ああでも、そうだね、お前にオレが理解できないように、オレにはお前の孤独が理解できない。その高みにひとり佇むのは寂しいかい、オレが彼から逃げたように、誰もが彼から逃げるのか。
 砂でも噛むようにチャーハンを食べて、皿を二枚重ねてキッチンに立った。背中に、痛いくらいの視線を感じた、この感覚はよく知っている。
 あのころ、寮でも校舎でも体育館でも、引き寄せ合う磁石みたいに一緒にいた。数少ない彼の表情を、眼差しに浮かぶ色を幾つか覚えた、そのうちのひとつだ。
 縋るような、欲しい欲しいと喚くような、そんな気配を滲ませて自分を見る目。
 馬鹿だな、アツシ、オレがお前と同じ場所に存在しているものでないことなど、お前、とうに気づいているはずではないか。



(中略)



 仰向けに組み敷かれ、余すところなくキスを降らされた。
 それだけで肌がじわりと汗ばんだ、快楽の予感に目覚めはじめる身体を、この男相手にいまさら隠すつもりもないが、まあ、浅ましい、見苦しい、とは思った。
 逃げて逃げて、ここまで来たのに、こうもあっさり欲情するか、惨めだな。
 こいつは何を考えるのだろう、簡単に落ちるじゃないか、そう笑うか? 甘いよ、オレを誰だと思っているのだ、氷室辰也だ、肉体的快楽など精神にはなんら影響しない。
 はずなのに。
 指先からつま先まで、全身をひと通り、指と唇と舌で確認してから、紫原は加減はしていない強さで乳首に噛みついた。
 そうされるのが好きだ、と、いつか氷室が言ったのだ、律儀な男め。甘い痛みに喘ぎが溢れる、待て、このアパートは防音など効いていない。
「アツシ……ッ」
 自分で聞いて寒気がするような、濡れた声だった。
 なんら影響しない、はずなのに、こんなもの、全身で白状しているのと変わりないだろう。好きだ、好きだよ、愛しているよ、欲しい、お前に抱かれたいよ、お前のくれる快感以外は、いらないんだよ。
 駄目だ。
 隠せ、見抜かれてもいい、隠せ、隠したいという意志を突きつけろ。身体だけなんだよ、オレとお前の関係はその程度のものだよ、好きであるのも欲しいと思うのも身体だけ、決して愛してなど。
 歯を立てられたあとに、あやすようにじっくり舐め上げられて、必死に唇を噛んだ。
 毎夜のように飽きず抱き合った、あのころをいやでも思い出す、何も見えないふりをして、互いに夢中で貪った。ほんとうは、見えていたのに。
 だから全部の時間を相手で埋めた。
 オレが逃げ出すことくらい、聡明なお前にとっては想定の範囲内だったろう? 忘れようぜ、この強欲なオレがわざわざ捨ててやったんだ、厄介ごとがひとつ減って助かったねと言って背を向けろよ。
 そんなふうに念入りに。
 オレの肌を、オレのこころを暴かないで、暗い沼に沈めて殺したはずの熱が、皮膚の奥で蘇る、まるで魔物だ。
「痛い……、アツシ、も、そこは、いい」
 長い髪を引っぱって訴えると、紫原はあっさり身を起こした。しつこくされればそれこそあっという間に溺れるのに、こいつは甘いのだ、ずっとそうだった、こちらを優位に立たせようとする、あなたのことが大事ですと小さな仕草できっちり示す、なあ、お前、オレに何を期待しているんだ。
 ふたり一緒にいられれば、それだけでしあわせだなんて、ぬるいことはまさか思っていないだろう?
 オレは汚れだよ、苦い過去だよ、お前が、用意された真っ直ぐな道を歩く途中でふと振り向いたときに、薄っすら思い出しては舌打ちのひとつもしたくなるような醜い男だよ。
 だから忘れて、全部忘れて、前だけを見据えて道の先端まで進め。
 この欲張りで、矛盾に満ちていて、闇の中で無様に彷徨う両の手が、お前に縋りついてしまう前に、遠ざかれ。せっかく離れてやったのに、その距離を縮めてどうするんだ、馬鹿が。
「室ちん。なんかある? 濡らすもの」
 淡々とした声に、僅かな熱が潜んでいる、それに歓びを覚えた。
 彼が自分を欲している、実に甘美な認識だ、逃げなければならないのに、快楽が欲しいだけだと嘯かなければならないのに、これではその決心さえ食い破られる、頼むよ、アツシ、もっと冷たく残酷に抱いてくれよ。
 嘘、嘘、綺麗な嘘から汚い嘘まで、呼吸するよりも簡単に嘘をついてきた。
 だが、この嘘はこころを抉る、唇から溢れ出しそうな恋情を飲み込み意地の悪い言葉を吐いて、もう砦は崩壊寸前だ、まったく自分らしくない。
 ここまで来て抗っても仕方がないので、震える指で本棚を指さした。
 ハンドクリームが転がしてあったはずだ、残念ながらこの部屋に他人を連れ込んだことなどないので、その用途のローションもジェルもない。なんとかしろよ。
 紫原はいったんベッドから離れると、左手にクリームのチューブを掴んで戻ってきた。脚を自分で押さえて、と指示されたので従った、こうなってしまえば精々欲汚い姿を見せて、幻滅させるしかないだろ。
 夏のはじめ、生温かい空気に、クリームの華やかな匂いがふわりと広がった。
 いまさら遠慮もない指先に尻を探られて、知らず吐息が溢れる、そうだな、満足なんてできなかったよ、この数か月。お前でなければ満たされない、だが、お前は、駄目なんだ。
「は……ッ、指、入ってくる」
 迷わず長い指を押し入れられて、思わずきつく目を瞑った。知っている感覚、身体にしみついている記憶、軽い混乱で身体が強張る、ここはどこだ、いまはいつだ、寮の部屋で声を殺して抱き合った、あの幾つもの夜のひとつか。
 紫原は、慣れた動きで氷室を開きながら、微かに感情を滲ませる低い声で、言葉を連ねた。
 二本、三本、増やされる指の違和感に細く喘ぎながら、それでも彼のセリフははっきりと理解できた。鮮やかなほどに。
「好き。室ちんは逃げたいのかもしれないけど、諦めて、背負って。オレは背負うよ。覚悟はしてるよ。だってこの気持ちがなくなっちゃえば、それはオレじゃない」
「……お前の邪魔を、したく、ないんだ」
「邪魔? 何が邪魔なの」
 背負う? 覚悟はしている? 冗談を言うなよ、お前には似合わないよ、面倒なことも鬱陶しいことも、暑苦しいことも嫌いなくせに。
 逃げたいのかもしれないけれど、か。
 違うんだ、逃げたくなんかない、ただオレは、逃げなくてはならないんだ、お前を愛しているからだ、お前をしあわせにするために。
 逃げるべきだ、だから。
 差し込まれた指を、ぐちゃぐちゃと出し入れされて、誤魔化しようのない声が零れた。自分で脚を押さえる手を、腕を引きつらせ、必死に快楽を受け止める、知っているだろう、オレはそうされるのが好きだよ、気持ちがいいよ、こんなふうに身体もこころも掻き回さないで。
 だってこの気持ちがなくなっちゃえば。
 それはオレじゃない。



(サンプル終わり)