氷室辰也は、遅効性の毒のようだ、と思う。
興味本位で摂取して、気づいたら毒が全身に回っている。身動きができない。
そう、効いてくるまで、分からないのだ。
「おいで、アツシ、隣においで」
「可愛いね、オレはお前が好きだよ、アツシ」
甘く優しく繰り返される、見下ろせば必ずにこりと笑う、それは決して素の表情ではないが、だからこそか、とても美しくて、見蕩れる。
その微笑みで、いったいどれだけの人間を騙してきたの?
しなやかな身体を組み敷き、食らったことが何度かある。相性が良いというよりも、単純に、彼が手慣れていて、ふたりぶんの快楽を生み出し高めることに長けているのだろう、溺れるように貪った、彼とのセックスはとてもいい。
身勝手な行為だとは思っていない。
欲しいと口に出したのは確かに紫原ではあったが、その言葉を引き出すような態度を取ったのは、彼のほうだ。視線で、表情で、ふとした瞬間に誘惑する。常から色気はあるにせよ、そういうときの彼は桁違い、飛びきりに凶悪だと思う。
そんな顔をされたら、誰だって靡くよ、ねえ、いったいどれだけの人間を誑かしてきたの?
気づけば嵌っている、まさに毒だ。
氷室辰也は、非常に綺麗な男である。
造作が綺麗であることは言うまでもない、認めないやつなどいないだろう。そして綺麗なのは造作だけではない。仕草のひとつひとつが綺麗だ、穏やかな声、やわらかな微笑みも綺麗、紳士的であるし気配り上手、氷室はこころまで綺麗だ、非の打ちどころがない。
なんてね。
そんなのは嘘ばかり。
紫原はそう思っている。
そりゃあ、あのひとは綺麗だよ、あのルックスだもの、でもどう? 壁を張り巡らせて、仮面を重ねて、声を選んで言葉も選んで、装備は完璧、それでいくら麗しかろうが、そんなもの、クソだ。
彼の本質は、ずっともっと鬱陶しくて、多分相当面倒くさい、暑苦しいものだと思う。
ぴしゃりと鉛の扉を閉めて封じる、これ以上は立入禁止、そうしなければならないほどに、氷室は、何かを抱えてもがいている。
綺麗に笑っていないと、潰れてしまうのだ。
ああいやだ、と思う、思っていた。甘く名前を呼ばれ、優しく微笑まれて、菓子のひとつでも差し出されれば従う程度には懐いたが、ああいやだ、このひと全然、全然綺麗じゃない。
顔は綺麗だよ、髪も目も唇も、そのうえセックスすれば、理性を忘れたくなるくらいには気持ちがいい、最高だ、快楽に喘ぐ彼の姿は艶めいて綺麗である、でも、綺麗じゃない。
そう、思っていたのに。
すべてを殺して笑う、その顔さえ美しいと、見蕩れるようになったのは、いつからだったか。
壁で扉で仮面で、必死に闇を隠す姿がこの目に透ける、そんな姿が、そう、綺麗だ。必死になっちゃって。それをひととき開放するように、彼はボールを持って走る、シュートを放つ姿が綺麗だ、執念の塊みたいな、あまりに美しいフォームだ、綺麗だよ。
遅効性の毒が、じわじわと効いてくる。
アツシ、と。
やわらかく呼ばれれば、もう動けない、荊棘の蔓を身体中に巻きつけられているみたい、囚われるつもりなどなかったのにどういうことだ、綺麗なひとの、汚い影まで、何故か綺麗に見える。
このオレが、誰かに固執するなんてね。
美しい、あの赤い髪の男がいまのオレを見たら、なんと言うのだろう。惨めだな、敦。そんなところか。
全力を尽くす人間が、嫌いというわけではない、何ごとにせよ。それを形にできるのならば、尽くせ。むしろ尽くさず文句ばかり垂れるようなやつのほうが嫌いである。
努力だとか根性だとか信念だとか暑苦しいし、不愉快極まりないのは確かだ、この世は結果がすべてである。それが伴わないのに、それでもオレは必死だったんだよと言われても鼻で笑ってしまう、そういうのをね、無駄っていうんだ、知らないの?
氷室は。
きちんと結果を出す。たとえばコートで。
才能はある、知っている。だが足りない、知っている。氷室自身はもちろん、紫原も知っている。だから彼は何十本も何百本も、ひとりで黙々とシュートを打つ、不足は修練で埋める、そして結果を出す、ならばその努力は別に悪くはないだろう。そう、結果がすべてだ。
赤い髪の男に、教えられたのだったか?
もがいていようとあがいていようと、それを押しつけてこないのならば構わない。好きに、勝手に、もがき、あがけよ。彼はそれを、鬱陶しく見せつけてくることもない、淡々とボールに手を伸ばす、ひとりで走る、そのとき外野は彼の視界にも入っていないだろう。彼はおそらく努力を努力だとは思っていない、雑念は邪魔だ。
孤独だよね。
そして、ボールを置けば、彼は笑う、それは綺麗に笑ってみせる。何もかもを押し隠した、仮面の笑みだ、足りない? 何が? 苦しいだろうって? 何が? 馬鹿言うなよ、オレは何も知らない、ただ好きだ、それだけ、それ以外に感情なんて。
彼のような男であれば、そばに、隣にいられる。
そう思った。だから懐いた、懐かされた? 気づけば彼は、そばに、隣にいた、名前を囁かれ、笑顔を見せられ髪を撫でられ、身体まで繋げる、アメリカ仕込みは間合いを詰めるのが巧い。
あれもこれも嘘ばかり、彼は綺麗なんかではない、ほんとうは面倒くさい、ひどく面倒くさい男だろう。ああでも、綺麗だ。
毒されている証拠である。
そう、氷室辰也は、遅効性の毒のようだ。知らぬ間に落ちている、逃げようとしたって、もう逃げられない。
麗しい仮面を剥ぎ取ったら。
その美貌は、醜く歪んでいるのだろうか、見てみたい、オレにだけ見せろ、そう思うようになったのは、いつからか。
オレの頭は相当蝕まれている。彼が隠すから、だからそばにいられたのに、今度は素が見てみたいって? 狡いね、氷室辰也、乞食のように貪欲だね、紫原敦、自分の中にこんな感情があるなんて知らなかった、知りたくもなかったのに。
彼がいつでも頸から下げているリングが、気になっていなかったと言えば、嘘である。
それは、目立った。
はじめて見たときに、ぱちりと意識の隅で何かが鳴った、察知した、これ、何かある。安っぽくて、少し古い銀色のリング、洒落気でつけるにしては無愛想にすぎる。
少しして、彼がそれをとても大事に扱っていることが分かった。可能な限り身につけているし、外さなければならないときには、バッグの上にそっと置く。
何度か訊ねたこともあった。室ちん、それ、なあに?
氷室はそのたびにごまかした、少し困ったような笑みを浮かべて、なんでもないよ、アツシ、とか、秘密だよ、アツシ、とか言った。
ごまかされたので、把握した、そのリングには、深い意味があるのだ、口に出せないような鬱屈が、まとわりついているのだ。
オレの知らない、氷室辰也。
だいたい、だ、オレは彼のことなど、何も知ってはいないではないか。
夏だ。まだ氷室と出会って間もない、暑い夏。
同じリングを、氷室と同じように、頸から下げている男に出会った。
紫原とは対極の、熱い目をした男だった。氷室はいつも通りのポーカーフェイスだったが、男を見つめるその眼差しが、普通ではなかった、まだ短い付き合いだったとはいえ、そのくらいのことは分かる。
ああ、もしかして、むかしの恋人とか、そういうやつなのだろうか。
未練のリング? ふたりして? なにそれ、鬱陶しい。
ストリートバスケットボールなんて、まったく興味はなかったが、煽られて乗ったのは、多分、そういうことだ。捻り潰してしまいたいと思った、鬱陶しくていらいらする、むかしに拘泥するくらいなら、いまここにいるオレを見ればいい。
オレを見れば。
結局ゲームは雨で中止になった。コートに立ったのは僅かな時間だ。それでも、直感的に分かった、氷室のプレイのほうがその男よりも、はるかに巧みで、はるかに洗練されていて、技術的には上である。それでもきっと。
氷室はこいつに、勝てない。
もがいても、あがいても、どんなにスキルを磨いても、どれだけシュートを放っても、氷室はこいつに、勝てない。
そして理解した。違う、と。上でも下でもない、優劣でもない、ただ、違う。氷室の才能は、この男とは、あるいは自分とは、違う種類のものである。
否定するつもりはない。
氷室は強い。それがすべてだ。だが、違う。
切ないよね。
傘を持っていなかったので、駅までの路を濡れて歩いた。途中、雨脚が強くなり、さすがにこれは駄目だと、広い公園で雨宿りをした。
この天気では他にひともいなかった。芝生を突っ切り、屋根のある休憩スペースまで辿り着いて、自動販売機でペットボトルのスポーツドリンクを買った。
ベンチに座った紫原の、すぐ隣に氷室は腰かけた。夏、湿度百パーセント、周囲には背の低い植え込み、緑と雨と、彼の匂いがした。
何故か胸がしくしく痛くて、困惑したのをいまでも覚えている。オレには関係ない、関係ないが。
ペットボトルを開ける彼に、気のない声で訊ねた。
「ねえ、室ちん。あの暑苦しいの、室ちんと、同じリング下げてたね。誰?」
氷室は、ああ、とそこでようやく紫原を真っ直ぐに見た。我に返ったとでも言わんばかりに。彼はいつでも、どんなときでも、紫原ときちんと視線を合わせる、無遠慮なくらいに。これがアメリカ帰りというやつかと思っていたが、その日はどこか熱にでも浮かされたように、視線があちこちに飛んでいた。ちょっと、オレのこと、忘れないでよ。
ポーカーフェイスは崩れていない、通常通り。
だが、目が。目だけが。
嬉しいの? 苦しいの? どっち? どっちも?
紫原の問いに、答える声もまた、通常通り。
「タイガ? アツシは知らないかな、彼は火神大我というんだよ。アメリカでつるんでいたんだ。強いよ、冬には会うことになるんじゃないかな。楽しみだ」
「そうじゃないし。なんで同じリングつけてんのって、訊いてんだけど。恋人とかなの? 室ちん、ゲイなの」
「恋人とは違うよ。タイガはオレの、ひとつ年下の弟分だ。リングは兄弟の証、まあでも、そろそろ意味もなくなるけれどね」
ゲイなの、という言葉には、肯定も否定もなしか。
わざわざ答える必要もないと思ったのか、敢えて避けたのかは知らない。紫原は、ふうん、と緩く返してから、少しの沈黙を挟んで、特に選びもせず言葉を声にした。
兄弟の証、か。
それってそんなふうに、毎日毎日頸から下げて、ときどき癖の仕草で愛おしげに指先で撫でるものなの? ねえ、弟分に会えて、嬉しいの、それとも苦しいの、コートで火神とやらと向き合ったときの氷室は、分厚い氷の壁を叩き割ったみたいな瞳をしていた。
「兄弟の証とかはよく分かんないけど、室ちんが、それ、大事にしてるのは、見てれば分かる。なんで、そろそろ意味なくなるの? 喧嘩でもしたの」
口に出してしまえば、薄いセリフだ。
氷室は、紫原を見つめたまま、喧嘩か、と言って、軽い、短い笑い声を上げた。だが、その目はまったく笑っていなかった、複雑な色を映していた、そう、大事だよ、愛おしくて憎いよ、それから、戦意?
面倒くさいひとなんだな、と思った。思っていたよりも、面倒くさい。
「そうじゃない。ただ、次に戦うことがあれば、それにオレが敗けたら、オレはもうタイガの兄とは名乗らない、それだけだ。弟に勝てないなんて、兄ではないからね。そしてタイガが敗ければ、リングをもらう、兄弟の証はなかったことにする、それだけ」
「……ふうん」
つまり、勝とうが敗けようが、どちらにせよ、兄弟をやめるということか。
何故?
いずれ暑苦しい話である。関係ない。素っ気なく言って、目をそらそうとした紫原に、氷室は実に自然に手を伸ばした。
隣に立つ距離が近い。繰り返し名前を呼ぶ。完璧な微笑みを浮かべて、瞳を覗き込む、髪を撫でる。はじめて会ったその日から、氷室は紫原にそのような態度を取った。
だから懐柔された。このひとはオレに怯えない、怖がらない、脅かさない、オレに触れる、ためらいなく。
捨て犬でも拾うように、オレを懐かせたいのだろうか、優しい指に戸惑っているうちに、いつの間にか懐いていた、そんな感じ。アメリカ仕込みのスキンシップは大したものだ。
髪を梳かれて、そらしかけていた視線を戻すと、彼はひどく熱っぽい目をして紫原を見ていた。弟やらと同じコートに立って、興奮しているのだろうか、熱い、それでいながら、ゆらりと揺れて掴めない、まるで陽炎のようだと思った。
「アツシ。キスしないか?」
唐突である。
紫原は一瞬返答に詰まった。珍しいことだ。微かに眉をひそめてみせても、氷室は引かなかった。
突き放すこともできたし、普通ならば突き放したろう。しかし、そのときの氷室があまりに危うく見えたので、しばらく見つめ合ってから、諦めた。いま突き放したら駄目だ、そういう眼差しだ。
というか、このひと、オレが男だって、分かってんの? どこから見ても男だろ。
「……別にいいけど。室ちん、ゲイなの」
「そうかもしれないね」
二度目の問いに、ふふ、と笑って彼は、半ば肯定するような、答えを保留するような言葉を吐いた。それから、座っていたベンチから少し腰を浮かせて、紫原の頸に両手を回し、くちづけた。
緑の匂い。雨の匂い。氷室の匂い。
別に知らない行為でもないし、これでこの男の気が済むのならば、くれてやってもいい。
思い返せばそれが、氷室と交わしたはじめてのキスになる。
舌を入れられたときには、少し驚いた。そこまでするとは思わなかったのだ。咄嗟に身を引こうとして、いや、と思い直した。毒を食らわば皿までって、言うんじゃなかったか?
彼はいま、柄にもなく、浮ついているのだろう。陽炎のように消えてしまう前に、握りしめろ、隣にいるのはオレだ、弟? 知らないね。
「は、アツシ」
滑り込んできた彼の舌を噛み、同じように彼の唇へ舌を差し入れた。雨に濡れた黒髪を掴んで、主導権を奪い取ると、氷室はいやに艶めいた吐息を零して、ますます強く紫原にしがみついた。
いやになるくらいに慣れているな、と思った。アメリカではこんなもの、挨拶みたいなものか?
さんざんくちづけを貪って、唇を離したころには雨も落ち着いていた。氷室の呼吸が整うのを待ってから、手を繋いでベンチを立った。
やばいな、そんなふうに思った。
オレはこのひとに深入りしすぎている、嵌ったら洒落にならない。きっと、扱いきれる物件じゃない。
鬱陶しくて、暑苦しくて、面倒くさい男だ、そのすべてを隠して綺麗に笑う、安っぽいリングを鈍く光らせて。
彼は何故、キスを乞うたのか。その行為で何かを塗り潰せると思ったか。愛しているのだろう、そして憎んでいるのだろう、こころのどこかでは、薄々気づいているだろう、勝てない、と。
一瞬でも忘れられますか?
哀しいよね。
「アツシ。お前と同じチームで、ボールを持てるのは、嬉しいよ」
並んで芝生を踏みながら、静かに囁かれた彼の言葉が、何故かこころに残った。どういう意味? オレが強いから? 弟よりも、強いから?
公園をあとにして、人通りのある路に出ても、繋いだ手を離さなかった。強いたわけでも強いられたわけでもない、ただなんとなく、いま離せばこのひとはどこかに行ってしまう、そんな気はした。
駅までの短いような、長いような時間は、ふたり無言だった。
駄目だよ、そう言って、頸から下げられたリングを掴み、引きちぎってやりたくなった。夏だ。あれからさほどの月日が経ったわけではないが、もうずいぶんと過去のことのような気がする。
(中略)
熱いんだ、アツシ、助けて、アツシ、小さく喘ぐ彼の声を頭の中で再生しながら、ドアを開ける。
その向こうに、悪戯な目をして、氷室が立っていた。風呂あがりなのか黒髪がまだ湿っていて、キーネックから覗く鎖骨が色っぽい。勘弁してよね、無駄にエロいし。
銀色のリングが鈍く光る、ああそう、自分から誘うときでさえ、外さないわけ。いや、こんなときだからこそ、か。
室ちん、と文句を吐きかけた唇を、氷室の人差し指で塞がれた。
手首を捕まれ部屋から連れ出される。先に立って歩く彼に抗わず、無言で、手を引かれるままに廊下を踏んだ。個室の並ぶ棟を抜け、いったいどこへ行くんだと眉をひそめる紫原を振り返らずに、彼は階段を登りながら、そこでようやく囁いた。食堂でしよう、アツシ。
「食堂? マニアックすぎない? だいたい、鍵かかってるんじゃないの」
「鍵は開けたよ。だって他にする場所もないだろう」
鍵は開けたよ? ピッキングの趣味でもあるのか、この男。
辿り着いた食堂は当然暗く、この時間では厨房も閉まっていて、周囲の廊下には人影もない。ためらいもなくドアを開けた氷室は、紫原を食堂に押し込んで、後ろ手に、器用に鍵を閉めた。
廊下から差し込む弱い明かり以外には光もない。さすがに電気はつけられないな、と当たり前のことを呟いてから、氷室は紫原の手を掴み、奥の席まで引っ張った。一応死角ではあるが、ますます暗い。
「オレは、オレで快感を覚えるお前の顔を見るのが、好きなんだ、アツシ。とても色っぽいから。でもまあ、今夜はしかたがないか。これでは殆ど手探りだな」
「……色っぽいって言うなら、室ちんだと思うけど。ねえ、日曜日まで我慢できないの? ここじゃ身体痛くなるよ」
「我慢できないから、誘ったんだろう、アツシ」
薄闇の中で、彼はいやに性的な笑みを浮かべた。ホテルの照明の下で見ても、くらくらするほどエロティックだが、その表情が見えるか見えないかの暗がりでも、彼は相当だ。
我慢ができないから。そんなに、そうか、あの男と同じコートに立つのが、楽しみ? 怖い?
どこでも誰にでも色気を垂れ流しているような男ではあるが、氷室は、これで結構淡白な男ではある。他で摘んでいる様子も見受けられない以上は、少なくともいまはセックスの相手は紫原だけなのだろう、ならばさほど欲は強くはない、たまにホテルで絡まって、それで充分ということだ。
それが急に、食堂などで無茶なセックスをしたいと強請ってくる、切羽詰まっているのは分かる、ひとりでするのでは駄目なのか、オレが相手をしないと。
オレが、強いから。
オレが、火神より、強いから。
重ねるな、重ねないでくれ、違うか、重ねているのではない、彼は強い男に抱かれたいだけだ、欲しいのだろう、見たいのだろう、己で強い男が陥落するさまを。
強い男。ならば、それこそ、火神でもいいの。
彼の右手が伸び、遠慮なく身体をまさぐり始めた。メールを見た時点で兆していた熱は、あっという間に火になった。氷室は手馴れている。知っている。彼にとっては男をその気にさせることなど、朝のコーヒーを飲むよりも簡単なことである。
しばらく彼の手に、したいようにさせてから、椅子を二個、三個退かし、テーブルの上へ仰向けに氷室を組み敷いた。下だけ服を引き剥がすと、彼は押し倒されたままくすくすと笑った、笑われるほど焦ったつもりはない、しかしまあ急いてはいたかもしれない。
それにしたって、どうしろと。
誘うくらいだから洗っては来たのだろう、舐めると彼はいつでも少しいやがるが、そうするしかないよなと思いその場に膝をつこうとしたら、てのひらへ、小さな、ジェルのチューブを押し付けられた。準備がよくて何よりだ。
「室ちん。暗くてよく見えない。勃ってる? 指入れていい?」
「オレは興奮しているよ、アツシ。こんな場所でするなんて、背徳的で、盛りのついた動物みたいに即物的だ。たまにはいいだろう。開いてくれよ、お前が入れるように」
「……なるべくさっさとすませるし。室ちんも努力してよね」
背徳的で、即物的だ、その通りだ、いつもより身体が熱いのはそのせいか。
ジェルを絞り出して、彼の尻に塗り込めてから、指を差し入れた。紫原を誘いに来る前に、自分でも開いたのか、その場所は過去に何度か彼と寝たときよりもやわらかく緩んでいた、なので遠慮なく、すぐに指を二本に増やした。
指先で前立腺を押し撫でると、彼が息を飲むのが伝わった。明確に相手の顔も見えないような薄闇の中、それでも彼がつらそうに唇を噛み、声を殺しているのが分かったので、なんだか可哀想になって、あまり苛まずにそこから指先を外した。
氷室は、セックスの最中に、派手に声を上げるタイプではなかったが、無理に抑えることもなかった、少なくともホテルでは。
濡れた唇から溢れる、甘い喘ぎを聞くのは好きである。でも、いくら誰も聞いていないからって、こんな場所では我慢してよね。
指を三本に増やしたときには、彼は唇を噛むだけでは足りなくなったのか、咄嗟に左手で自分の口を覆った。あまり余裕がないのか。入り口の筋肉を、いつもよりは荒く解しながら、身を屈め、彼の耳元に言った。
内側がきゅうきゅう吸いついてくる、感じているのだろう、この、背徳的、かつ、即物的な行為で。
「室ちん。声、出さないのはえらいけど、呼吸はしてよ。死んじゃうよ? ほら、吸って、吐いて、頑張って」
「は……、アツ、シ……ッ、入れて、くれよ、たまらない」
左手を外してやると、彼は、はあ、と熱い吐息を漏らしてから、掠れた声で紫原を求めた。暗い食堂、テーブルに押し倒されて、小声でうわ言のように自分の名を呼ぶ氷室、たまらないというのならばこちらのほうだし、我慢するのもそろそろきつい。
指を抜き、再度ジェルを彼の尻に塗りつけてから、自分の服を中途半端に引きずり下ろした。テーブルの上、反射的に逃げたがる彼の腰を引き寄せて、硬く勃起している性器を押し当てた。
体格が規定外なだけに、性器も規定外である自覚はある、女相手だって苦労したのに、そういえばこのひとは最初から平気でこれを飲み込んだよなと思い、ちくりとこころの何処かに棘が刺さった。
毒を持った棘である。
他人の過去など気にしない、興味もない、それが紫原敦であるのに、毒のせいで気が触れたのか、あるいはこれが惚れたということか?
「力抜いて、室ちん。あんまり丁寧に広げてないから、痛かったら言って。やめてあげられないと思うけど、ゆっくりするし」
「あ……! 入って、くる、大丈夫、そのまま、全部」
「きつくないの? ああ、駄目、そんなに締め付けないで、食いちぎるつもり?」
こちらでさえきついのだから、きつくないということはないだろう、だが、彼が大丈夫だと言うので、やや強引に根本まで突き刺した。今夜の氷室は、きっとこういうふうに扱われたいのだ。
殆ど声になっていない、鋭い吐息に嗜虐心を煽られた。
癖になりそうだ、こういう彼を見下ろすのもたまには悪くない。
(サンプル終わり)