恋愛というものをよく知らない。
だから、自分に向けられる愛情がとても怖い。
何故ならそれは、この大雑把な手をすり抜けていってしまうと思うから。指の隙間からさらさらと零れ落ちてしまうと思うから。
紫原敦は、ひとに恋をしたことがない。
第一そのようなものを、どう扱えばいいのかが分からない、同じものを巧く返せるはずがない。
ならばそれは呪縛に近いだろう。
注ぎ込まれる愛に蝕まれ囚われて身動きもできず、そのまま死んでしまうのではないか。
愛はオレを殺すのだ、ゆっくり首を絞めるように。愛? そんなに甘ったるいものを、信じることができない、抱いたこともないし掴んだこともない、言えばむしろ遠ざけてきた、自分の異形に取り立てて不満はないが、多分オレは、怖い。
異分子を排除する行動は本能だろう、誰も責めはしない、ただ、ひとが自分に怯える分だけ、自分もひとに怯えてきたのは事実だ。
愛は、怖い。
だから、氷室の眼差しは、怖い。
賞賛、憧憬、仄かな嫉妬? それらを抱えていてなおその綺麗な瞳にたたえられているものは、酷く純粋な愛情でしかない。疎いとはいえそれくらいは分かる。
この男は自分を愛しているのだ、それは深く、深く、甘く、甘く。
苦しい。もしそれが性欲だけであるのならば、容易く理解もできた、この身体が好きだと言った人間は幾らもいる。なのに、愛? どういうことだ? このでかいだけの、であるがゆえの欠落品に、あなたは何を注ぐのか。
氷室辰也の愛情に、紫原敦は値しない。
そう思う。
この、非の打ち所もない美しい男には、隠し切れない熱に藻掻く姿さえ綺麗な男には、オレは相応しくないだろう。彼に似合うとすれば、例えば髪の長い女、細くて折れそうな可愛い女、守ってやりたくなるような可憐な女、しなやかな肌とやわらかい肉で、彼を癒せる女。
少なくとも、オレではない、オレだけは、ない。
昼休みの食堂に、紫原がふらりと足を踏み入れると、すぐに目が合った氷室が歩み寄ってきた。学年も違うのに、いつの間にかふたりで昼食を摂るルールができあがっていた。
はじめから、気は合った。
氷室は他人を詮索しない。ポーカーフェイスも悪くない。面倒ごとは嫌いである、踏み込まず踏み込ませず、その距離感は居心地がよかった。
氷室は紫原を特別視しない。少なくとも特別視をしているという態度は一切見せなかった。感嘆であれなんであれ、大概は初対面から、別の次元にいる男、を見る目で眺められるので、ただにこりと笑った彼に少々驚き、そして懐いた、時間もかけずに。
そうだ、懐いた。
抱き合いもした、くちづけも交わした、だがこれが恋愛か? 知らない、慣れていない。彼の目に宿る愛情に、ますます混乱する。ねえ、だってオレは。
あなたに何もしてあげられないんだよ。
トレーに食器を乗せて、ふたりで窓際の、隅の席に向かい合って座った。どうでもいいような会話をぽつぽつと交わしながら、スプーンを口に運んだ。落ち着く。氷室と一緒にいれば落ち着く、いつでもそこにある疎外感が薄まる、と同時に、落ち着かない。
あらかた皿を空にしてしまってから、氷室はふと、紫原がテーブルに投げ出していた左手に、己の右手を重ねた。
どきりとした。散々素肌を晒してもつれ合った、いまさらこんな接触はどうということもないにせよ、それがあまりにも滑らかな、穏やかな動きだったから。
咄嗟に視線を左右に向ける。特に注目はされていない。まあ、されていたとしてもこの意外にも図太い男は、まったく気にもしないのだろう。
「アツシ。大きな手だな。見蕩れてしまうよ」
手首を掴まれ、てのひらとてのひらを合わせるように促された。優しい男、と周囲には認識されているのだろうが、そしてそれは殆ど事実ではあるが、彼は時々このように仕草で、声で、微笑みで、命令をする。
抗えばこのひとは意地になるのかなと思ったので、素直にてのひらを差し出した。
重なる体温、乾いた感触、ボールを持つ手だ、そう思う。
彼が放つシュートが好きだ、美麗だ、優雅だ、言ったところでこのひとは信じないのだろうから、言ったことはないけれど。
氷室の視線に透ける、愛、息苦しい。
(中略)
「あ……、アツシ、ここ、噛んで」
鎖骨から肩に舌を這わせていると、自分の指先で乳首に触れながら、氷室が細く言った。震える声に満足した。自分ばかりが燃えているのではつまらない。
要求通りにそこに歯を立てると、氷室は掠れた喘ぎを漏らした。抑えようとしても溢れてしまう、そういう音色だった。確かにこんな場所では、それが限度か。
噛みしだき、吸い上げ、舌を這わせた。この男は少し痛いくらいのほうが好きだ、そのくらいは知っている。
散々その場所をなぶってから、綺麗な腹筋を唇で辿っていると、何を指図するまでもなく、彼は自ら両足を抱えてみせた。卑猥だ。色っぽいというよりは。
見下ろした身体はきっちりと反応していた。互いに慣れたのだ、軽い愛撫であっという間に火がついてしまう、彼も、それから、彼に触れる自分も。
枕の横に転がしてあったローションのボトルを手に取った。彼と繋がる快楽を身体で思い起こしながらキャップを開ける。急いて見えるか? まあいい、いまさらこの男相手に紳士を気取っても仕方がない。
指先でその場所を少し緩めて、ボトルのネックを挿し入れた。
氷室が身体を強張らせるのが分かったが、特に配慮もせず中にローションを注ぎ込んだ、こういう雑な行為も彼は好きである、だから、そのくらいは知っているよ。
「アツシ……ッ、溢れる、そんなに、入れるな」
「ぐちゃぐちゃにしたい。はしたなくなって。シーツ洗ってあげるから」
「は、あッ、指、広げて……ッ」
たっぷりローションを絞り出してからネックを引き抜き、遠慮はしないで最初から二本、指を押し込んだ。この男は尻を使うことに慣れている、はじめて寝たときからそうだった、ならば遠慮なんて要るものか。
彼の中からローションが、手の甲に伝い落ちる。
たまらないな、と思った。確かに彼はいま、ぐちゃぐちゃだ。
快楽を与えるというよりも、単純に、広げる動きで指を使った。抜き差しして、指先で入り口を解し、しばらくしてから三本目の指を入れると、彼は綺麗に背をのけぞらせて紫原の名を呼んだ。
「アツシ、アツシ……ッ、欲しい、お前が、欲しい。アツシ」
お前が欲しい。
薄っすらと瞼を開けた目は潤んでいて、ぞくぞくと欲が高まる。そこにあるのは肉欲と、それから愛情なのだろう、ではオレにあるのは何? 欲情、だけ?
あなたを愛してみたいと思っています。
あなたを愛せないとも思います。
愛? そんな不確かな感情は駄目だ、きっちり理屈が通って、きっちり割り切れて、きっちり計算式にできるものでないと駄目だ。
信じ込めるほど、ぬるい空気を吸っていない、それはあなただって同じなんじゃないの、なのにどうしてオレを愛せるの。
怖い、殺されるのだ、注ぎ込まれてそれが芽生えてしまえば、内側から崩壊がはじまる。このこころは金属の塊だ、何を生み出すこともない、めりめりと音を立ててひびが入る、ねえ、オレがなぜ強いか知っている? ひとではないからだよ。
氷室の眼差しは怖いと思う。
いつか彼に殺されるのだと思う、それでも彼が欲しいと思う、隣にいたいと思う。
意味が分からない、自分で自分を整理できない、こんなことはいままでになかった、あなたのせいだよ、いや、オレのせいか。
彼が涙を零すまで、三本の指で内側を開いてから、手を引いた。べたべたに濡れたてのひらで、自分の性器にローションを塗りつける。彼の唇から溢れる微かな声、乱れる吐息、それだけでこうも興奮する自分が理解できない。
氷室は濡れた目で紫原を見上げ、そこでまた、ふわりと笑った。
「いいかい、アツシ。オレは誰とでも寝るかもしれないが、愛していると言う相手は、いまはお前だけだよ」
ずきりと胸が痛くなる。金属が欠けてしまう。期待しない夢見ない、事実しか要らない、そうして生きているのにこのひとはほんとうにたちが悪い。
(サンプル終わり)