「室ちんて、さみしいに一生懸命だよね」
不意の言葉に、ぞくりとした。
夜だ。食事のあと、寮の一室にふたり閉じこもり、漫然と過ごしていた生ぬるい時間。
ベッドに寝そべって、雑誌をめくっていた手が止まった。その足元に背を凭れさせ、飽きもせず菓子を食っている紫原に、視線を向けることも一瞬忘れた。
息を吸って吐いて、動揺を押し込めてから、なんとか彼を振り向いた。
紫原はのろのろと菓子を口に運びながら、横目で氷室を眺めていた。眠たげな眼差しはいつも通りで、ときにこちらを突き刺してくるような鋭さは、いまはない。
室ちんて、さみしいに一生懸命だよね。
その通りだ。こいつは、第一印象を裏切って充分に聡い。少し一緒にいれば、それくらいのことは分かるというものだ。
紫原は菓子を噛む合間に、相変わらずの緩い声で続けた。そんなセリフを吐くときくらいは、菓子を手放せよ、とは思うが、そうされてしまえばオレは追い詰められてしまうのかもしれない、とも思った。
甘い。
この男は甘いのだと思う。辛辣な言葉を選んで、わざと貫くとき以外には、彼は自分に甘い。緩衝する。そしてそれは誰にでもというわけではない。
「さみしくなっちゃうんじゃなくて、さみしくなくちゃならないと思ってるんでしょ。オレと一緒にいるときでさえ、ときどきこころがどこか行っちゃってるもんねえ、それが室ちんだって知ってるけど、まあ、失礼だよね」
「……そんなことはないよ。アツシがいるからさみしくないよ」
「何が怖いの? 満ち足りるのが怖いの? オレだって分からないでもないし。でも、ひねくれすぎじゃない? そんなに懸命にさみしいを抱え込もうとしなくてもいいよ、もうちょっと素直になればいいし」
さみしくなくちゃならないと思ってるんでしょ、か。
溜息が漏れた。ああ、そうだな、お前は実に明晰だ。そんな素振りを見せたことはないはずだが、紫原敦は目がいいのだ。
視線を雑誌に戻して、無言を返した。
怖くないよ、オレは素直だよ、何を言っても嘘になる。この男に嘘は通用しない、ならば黙るしかないだろう、なんとでも言え、オレは確かにひねくれすぎだよ。
だっていまに慣れてしまえば、この穏やかで優しい空気に頭から浸ってしまえば、失うときにどうすればいい? 絶対に、確実にこのてのひらから逃げていくものだ、そのときに絶望するのはオレだ、オレだけだ。
だから酔ってはならない、嵌まってはならない溺れてはならない、ともすれば忘れそうになる孤独を掻き寄せて、いつでもひとりだと言い聞かせていなければならない。
さみしいに一生懸命。
仰る通りです。オレはさみしくなければならないのだ、いずれ壊れるものなら最初から組み立てなければいい。かたちを持ちはじめた瞬間に容赦なく崩せ、一度手に入れてしまえば喪失に耐えられないのだ、はなから持っていなければ痛みは最小限に抑えられる。
紫原は、押し黙った氷室にしばらく付き合った。
それから、いくら待っても返答がないと見切りをつけたのか、菓子の袋を投げ出して立ち上がり、ベッドに向き直って身を屈めた。
シーツの上でうつ伏せに、寝転がっているその首筋へ、軽くキスをされてぴくりと身体が強張った。
二度、三度、繰り返されて、吐息が零れた。だからオレは、そうされるのには弱いんだ、知っているだろう?
「そのくせ身体だけは素直で従順だし。たち悪いよね、室ちん。どうしてこころも素直になれないの、ちゃんと理解してよ、オレはここにいるんだよ。怖い怖いと喚くのは勝手だけど、頭悪いのはどうかと思うし」
甘いって? いや、違うか。今日のこいつはなかなかに辛辣だ。
身を捩って逃げようとしたが、強く肩を掴まれ結局はかなわなかった。頭が悪い? ああそうかよ、確かにオレはお前よりは馬鹿だろう、それでも、こうもはっきり口に出すやつはお前くらいだぞ。
紫原の頭の中は、綺麗に整頓されているのだと思う。
現実、感情、理性と欲望、きちんと棚にしまって自由に取り出せる。自分にはそんなに器用な真似はできやしない、現実も感情も理性も欲望もべったりくっついていて個々には使えない、だから。
ぐちゃぐちゃに乱れてしまう前に、いつか必ず訪れる別れを想定して、そのときの失望にいまから馴染んでおかないと。
さみしい、その感覚を手繰り寄せて、慣れておかないと。
キスでは物足りなくなったのか、紫原は遠慮もせず、氷室の首筋に歯を立てた。思わず淡い声が漏れた。意思を裏切って目覚めはじめる肌にうんざりする、ほら見ろ、オレの欲望は勝手に暴走する、お前のように巧く手懐けられない。
「は……」
「ねえ、さみしいのなんか分からなくさせてあげようか。精々理解に努めてよ。オレはずっとずっとさみしかったけど、いまは室ちんがいるからさみしくない。そのくらい分かるし、頭いいから」
「……低能で、悪かったな」
ずっとずっとさみしかったけど。
いまは室ちんがいるからさみしくない。
この男はほんとうにそう思っているのだろう、紫原はそれがどうしても必要である場合を除いては嘘をつかない。狡いと思う、自分の汚らしさをはっきりと自覚させられる、精々理解に努めてよ? 畜生、オレはオレなりには理解しているつもりだ。
そのまま組み敷かれそうになって、抗った。
彼とセックスをしたのは数度だけだ。そして、彼からこうも露骨に誘われるのははじめてだ。いくつかの接触では紫原が口を開く前に氷室のほうから手を伸ばした、そうでなければならないと思った。欲されてしまえばそのよろこびに食われてしまうから。
駄目だ、怖いんだよ、知っているくせに。
ああでも、だからこそ、そのセリフか。オーケイ、お前はお前の言う通り頭がいい。
「待て。洗ってくるから、待て」
掠れた声で主張すると、紫原はあっさり手を離した。シーツの上に身を起こし、見やった綺麗な色の瞳には欲がなかった。わざと消しているのか、事実熱もないのかは知らない。
大きな身体を押しのけて、フローリングを踏み、部屋を出た。音を立てないように閉めたドアへ背中を押し付けて、溜息をひとつ吐いた。
手に入れたい、手に入れたくない、手に入れてはならない。
そばにいたい、そばにいるのだろう、そしてその事実に、気づかないふりをすべきだ。
お前は常に正確だよ、オレはさみしいに一生懸命だ。忘れるな、オレはひとりだ、ほんの僅かな時間、天才の気紛れに付き合っているだけ。そうでなくては破綻する、満ちてしまえばある日唐突に、絶望に突き落とされて死んでしまうから。
快楽を持て余す余裕はなかった。
性急な行為に目が回る。幾度か寝たことがあるだけだが、思い返しても紫原がここまで強引だったことはない。
彼はいつでも非常に冷静だった。氷室が声を殺せるように、穏やかで優しいセックスをした。そういう男だと思っていた、こいつでもこんなふうに振る舞うのか。
いや、違うか。冷静というのならばいまも彼は多分、完全に冷静だ。荒い手つきはわざとなのだろう、何を刻みつけたい? 何を思い知らせたい?
さみしいのなんか分からなくさせてあげようか。
馬鹿め、百回千回、身体を繋げたって無駄だ、オレは夢見ない期待もしない、だからいつ失っても、さみしくなど。
「アツシ……ッ、ゆっくり」
「いやだ。平気だよ、室ちん貪欲だから、このくらいしたって気持ちいいだけでしょ。いきなり突っ込まないだけ紳士だと思って。ああでも、もうちょっと声我慢してね、壁薄いんだから」
「ん……、は、この、ケダモノ」
ローションを注ぎ込まれ、三本の指を突き立てられた場所から、ぐちゃぐちゃといやらしい音がする。シーツに俯せて、腰を掲げる姿勢は嫌いではないが、そういえばこの男の前ではこうしてみせたことはなかったな、と乱れる頭の中で思った。今夜の趣向はお前の好みには合致するのか?
愛撫という動きではなかった。
広げる、開く、それだけだ。彼らしくもない、雑な指先が、入り口を解していく。
その扱いは、何故か過去の数度のセックスよりも、より強い快感を連れてきた。悪くない。まあ、相手が紫原でないのなら、蹴りでも入れたか、当然だ。
オレはこいつに何を見ている?
紫原は、きっちり氷室を溶かしてから、やはりこれも配慮はしていない素っ気なさで指を抜いた。ずるりと内側を擦られる感覚に、唇を噛んで喘ぎを飲み込んだ。確かにこんな場所で妙な声を上げていたら、何をしているかなどは簡単に露見する。
紫原が身動きをするたびに、ぎしりとベッドが軋んだ。
それほど頑丈でもないベッドだ、こんなことを繰り返していたら、そのうち壊れるのではないか?
脚が触れて、すぐに性器を押し当てられた。それから、氷室が緊張を逃す前に、彼は構わずぐいと先端を埋め込んできた。
「あ……ッ!」
殺し切れない声が、勝手に散った。お前はサディストか、壁が薄いから我慢しろというのなら、我慢できるように気を使えよ。
必死にシーツを握りしめ、衝撃を受け止めようと息を喘がせる氷室を、彼は待つ気もないようだった。そのままずるずると根本まで挿入されて、強すぎる快感に吐き気さえ覚える。この男のサイズには、慣れない、お前だって把握しているだろうに。
粗野なセックスだ、好きではない。それなのに、腰を掴むてのひらのあたたかさに、なんだか泣きたくなった。
切ないと言ってもいいような感情が押し寄せてきて、意識を持っていかれそうだ。
さみしいのなんか分からなくさせてあげようか、彼の言葉を思い出して、目が眩む。ああ、そうだな。こんなふうにされたらもう何も考えられなくなる、熱い器官を飲み込んで、それだけで目一杯だ。
でも、駄目だ、駄目なんだ。
寄り添う甘い空気にも、切実なセックスにも、浸ってはならない、これが当たり前だと思ってはならない。いつ捨てられてもいいように、いつ離れても傷つかないように、いまからさみしいの、練習を。
お願い、追い詰めないで。
無防備な天才をいっとき摘んでオレは満足できるはずなんだ、期間限定、別れなんて簡単だ。例えばオレがお前と同じユニフォームを脱ぐ日には、ふたりを繋ぐものなどは消え去る、簡単だろ?
彼は氷室が馴染むのを、やはり待たずに腰を使いはじめた。最初から深く、強く穿たれて、鋭い吐息が漏れる。だから、場所が場所なのだから、少しは遠慮しろよ、いくら思考を奪うための手段だとしても。
氷室を貫きながら、紫原は背後に、淡々と言った。
腹が立つほど冷静な声だったが、その言葉は情熱的ではあった。クソ、夢中にさせるなよ、オレはさみしいに一生懸命なんだ、少しずつ少しずつ痛みを摂取して、いつか麻痺してしまえるように。
「忘れなよ。さみしいとか思わないで、把握して、オレは室ちんが欲しいよ、好きだよ。いったい何が怖いの? こんなことしてるのに、室ちんはすぐどこかに行っちゃう」
「ああ、アツシ……ッ、たまらない」
「室ちん、オレのこと好きでしょ、いつまでも誤魔化せないし。ねえ、把握してよ。室ちんが大事にしてるその壁壊して、オレを中に入れて」
壁? 馬鹿め、壁だというのなら、この壁は壊れないよ。だってオレとお前はそもそも生きている世界が違う、あいだにある壁はひどく残酷で絶対的だ、ひとつに溶け合う夢も見られない。
お前こそ、把握しろよ、天才なのだから。
離れていく未来は必然だろう? お前の見ている景色は、オレの目に映らない、共有できない。お前それを許せるのか?
紫原は、氷室が達するまで、動きを緩めずに中を抉った。はじめて彼と寝たときに、奥が好きだと言った氷室のその言葉を覚えていたのか、不安になるほど深くまで繰り返し突かれて、耐えられもしなかった。こうも強引に愉悦を引きずり出されたことは、過去にない。
吐き出す精液を受け止めてくれた左手だけには、知っている甘さが透けて見えた。
しばらく氷室の中を味わってから、彼は無造作に、硬い性器を抜いた。姿勢を保っていられずに、氷室はくたりと力なくシーツに崩れた。いいか、アツシ、オレは普通、こんなセックスは許さないんだぜ、お前だけだ、お前だけ。
ぜいぜいと荒い呼吸を貪っていると、腕を掴まれ、優しくはない手つきで身体を引っぱり上げられた。髪を掴まれ振り向いた目の前で、シーツに膝を付いている彼に、まだきつく勃ち上がったままの性器を指さされた。
「口でして」
まあ、それはそうだな。
引き寄せる手に抗わず、顔を近づけ、唇を開いた。舌を這わせようとしたら、さっさと咥えろ、というように乱暴に押し込まれたので、これにも抗わなかった。
ローションの薄甘い味と、彼の生々しい味に、犯されるようだった。
先端で上顎を擦られて、喉の奥で呻いた。駄目だ、駄目なんだよ、欲されて与えられて当然になってしまえば、ひとり取り残されたときにオレは狂う。
オレはいつでもひとりだったじゃないか。慣れたものだ。
だからいまもこれからもひとりなんだ、勘違いをするな、愛のような関係に嵌まるな、さみしいを当然にするんだよ。
「ああ。このひと、またどこかに行ってるし」
頭上で紫原が、呆れたような軽い溜息を漏らすのが聞こえた。お前は聡いが、ある意味愚かだ、どこかに行くというのならば、紫原敦、お前のほうだろ。
オレの手の届かない、遠くへ。
彼はそれほど長くは氷室を苛まなかった。最後に、許しは請わずに喉の奥まで性器を突き刺して、呼吸もまともにできない氷室の口に射精した。
どろりとした生ぬるい精液を、飲み込むときには肌が震えた。
嫌いではないが好きでもない、だが、こいつが相手ならばオレは興奮するのか、こんなにも。
「室ちん。オレを見て。ちゃんとオレを見てて」
緩い声で言われてつい顔を上げると、美しい色の瞳と目が合った。相変わらずその眼差しには大して感情がない、欲も熱もない。それでも。
ちくりと胸に針が刺さるような痛みを感じた。ああ、切ないよ。
やわらかい視線だ、この男は確かに自分が好きなのだろう。さみしいに一生懸命なオレの姿を見て、お前は憐れむか、蔑むか、失望するか。
消灯時間までは間があったので、風呂に入ってからまた部屋に引きこもり、なんとなく密着して過ごした。
ふたり座り込んで、背中から抱き竦められるポジションには慣れた、よろしくない。こんなふうに体温を伝え合うことに馴染んでしまっては、いざというときに抜け出せなくなる。
甘くて穏やかな空気だ。しかし僅かに、ぴんと糸をはったような、緊張が潜む空気だ。
紫原は、腕の中に氷室をしまい込んだまま、相変わらず菓子を噛みながら、言った。食事をしたあとだろうがセックスをしたあとだろうが風呂を浴びたあとだろうが、こいつはいつでも菓子を食っている。気持ちが悪くはならないのか。謎だ。
「ねえ、室ちん。いま、さみしい?」
いつも通りの緩い抑揚、何もかもがいつも通り。
氷室は、抱きしめられるに任せ、膝に置いた雑誌をめくりながら答えた。彼の言葉で文字が頭に入らなくなったが、そんなことは悟られたくはない。
彼の鼓動を数える。一、二、三、四。この男は生きている、オレと同じように生きて呼吸をしている、そして異なる世界にいる。
壁、と、彼は言った。まさしく壁だ、我々は隔てられている、隙間などないほどそばにいるのに。
だからいまのうちに。
「いや? さみしくないよ」
「嘘つき。全然分かってないでしょ、ほんとうに頭悪いんだから」
「ひどいな」
あは、と笑っておいた。分かっているよ、オレなりには分かっている、だが、駄目なものは駄目だ。
彼は、菓子の袋を手放し、氷室を囲い込む腕に軽く力を込めた。手にしていた雑誌が落ちた。こころが締めつけられるような、切実な抱擁に目眩がする、どうしてこいつはこんなふうに、愛のようにオレを抱き寄せるのだろう、オレはお前には相応しくないよ。
いまだけ、一瞬だけ抱き合ってさようなら、それが定められたシナリオだ。
そんなことは知っている、ひとときでも共にあれてよかった、そう言って手を振るために、そのときに壊れずにいるために、さみしさを掻き集めている。
捨てられる練習をしておかなければ。
きっとオレは耐えられない、苦痛で息ができない。
紫原は、普段よりも強く抱きしめた氷室に背後から覆いかぶさるようにして、普段と同じ甘やかな声でフラットに言った。
「ねえ、そんなに一生懸命になっても無駄だから。離してあげないから。室ちんが諦めるまで何度でも言うけど、オレ、室ちんのことひとりにしてあげない。鬱陶しくてもうざくても、そばにいるから、早く素直になって」
離してあげない、ひとりにしてあげない。
鬱陶しくてもうざくても。
馬鹿なことを言うなよ、アツシ。鬱陶しいことが何より嫌いなのは、お前だろうに。
絡みつく腕を解くのも違う気がして、結局は身を任せたまま言葉を返した。女々しく聞こえないように言ったつもりだが、巧くいったのかどうかまでは知らない。
あたたかい。
ねえ、そばにいたいよ、いつでもいつまでも。
そんなセリフは、決して口に出さない。そんな望みは、抱かない。
「無理だよ。お前はオレから離れていくよ。だってオレは天才じゃない、ずっと一緒にはいられない。どうせ切れると分かっている関係に、のめり込むなんてできないよ」
「室ちん。頭悪いにもほどがあるし。なんで別離に先手打つの、臆病すぎるのも大概にしたら。オレは天才とか知らない、関係ない。離さないって言ってるでしょ。それとも室ちんは、オレじゃなくて、天才が好きなの」
「……そうじゃないよ。お前が好きだよ。ただ、お前が天才であることは事実だ、オレとは違うよ、だからいつか捨てられる」
声にして自分で傷ついた。オレは確かに頭が悪い。
身体に回された紫原の腕が、ほんの僅かに、強張ったのが分かった。え、と思っているうちにふわりと抱擁から開放されて、目を瞬かせる暇もなく腕を掴まれ、身体の向きを変えさせられた。
紫原の腰のあたりに跨る姿勢だ、つい、ぞくりとする。
しかし、その仄かな欲を打ち消すように、前置きもなくいきなり、軽く頬を叩かれて、驚いた。知る限りこの男は自分に、いや誰に対しても、手を上げたことはない。こんな、撫でるような行為でさえ、しない。
己の力が、怖いから。
怖がられるのが、怖いから。
この程度、もちろん痛くも痒くもないが、驚いたあまりにおそらく相当変な顔をしただろう。紫原はそれに構わず、滅多に聞かないような低い声で言った。淡い怒りの表情、知らなかった、お前そんな顔もするのか。
「駄目。そんな言いかたしないで。オレは天才でも天才やめても室ちんから離れない、冗談じゃない。理解してよね。言うけどいまオレのほうが、よっぽどさみしくなったし。ねえ、いつか離れたら、じゃなくて、いつになっても離れないって、ふたりで思ってればそれでいいの、どうしてそんな簡単なことも分からないの」
美しいな、と思った。見蕩れた。
無表情で無感情で、そんな顔ばかり見てきた。彼には、言動から受けるイメージとは反対に、ひどく大人びた一面がある。隠す。巧妙に隠す。その男が、こころを覗かせる瞬間は、こうも美しいか。
怒るんだな。
オレの言葉に、お前は怒るんだな、お前はどうせオレを捨てるよ、そう言ってやれば、怒るんだな。
「……離れないって、思っていれば?」
「そう。さみしいに一生懸命になる前に、さみしくない方法を考えなよ。そばにいればいいでしょ、一緒にいればいいでしょ、認識して。悲劇ぶるんじゃなくて、力技で掴めよ、そういうの得意じゃないの? 氷室辰也が最初から逃げてどうすんの、柄じゃないし」
力技で掴めよ。
氷室辰也が最初から逃げてどうすんの、柄じゃないし。
思わず、ふふ、と勝手に笑みが零れた。柄じゃない、柄じゃない、か。そうだな、お前は聡明だよ、その瞳にはオレのすべてが映る。
お前にはお前にしか分からない孤独があるよね。
きっとさみしいばかりの道を歩いてきたのだろう、高みにいるものは誰もがひとりだろう、そのお前がオレに手を伸ばしたのだから、怖いとそれを掴まずに逃げ惑っているなんて、確かに柄じゃない。
紫原は、微かな怒りの表情は消さぬまま、小さく笑った氷室の頬を両手で雑に引き寄せて、唇を合わせた。舌も差し出さないような簡単なキスだったが、伝わるものはあった。
熱い。熱いな、アツシ。お前は案外、お前の嫌う、暑苦しい男なのではないか、オレなどよりよほど。
平気で口説き文句を吐いて、平気で無表情を捨ててみせる、そんなにオレが好き? そんなにオレに夢中か?
さみしいに一生懸命なオレとは逆に、お前はさみしくないに一生懸命だ、真っ直ぐだ。仮定の未来に怯えて、お前を見なかったオレが悪いか、さみしいに引きずり込んでごめんなさい。
分かった。
認識した把握した。理解したとまでは言わないが、取り敢えずいまその手を掴もうか。そうだよ、オレは目的のためならば手段を選ばない、それくらいには強引なはずだ、天才ひとり捕まえて、得意気に笑ってみせよう。
いつになっても離れないって、ふたりで思ってればそれでいいの。
分かったよ、ならばオレは離れない。そう思えばいいのだろう? お前逃げたくなったなら、死ぬ気で走れよ、オレは鋭利な鎌を握って地獄の淵まで追いかけるぜ。
(了)2014.08.26