食べちゃいたい


 食べちゃいたい、と、紫原はよく口に出す。
 好き、大好き、食べちゃいたい。
 いつも通りの甘い、緩い声で、いつも通りのどこか眠たげな目をして、いつも通りの無表情、それでも、瞼の端あたりにほんの僅かな感情が透ける、まあそれが分かるのは氷室くらいなのだろうが。
 校舎でも寮でもお構いなし。例えば今日のように部室の隅でも、やはりお構いなし。
「室ちん。食べちゃいたい。ほんとう、大好き」
「オレも好きだぞ、アツシ。でも、食べられるのは勘弁してほしいかな」
 その、仄かな感情の正体は、分からない。愛情であることは確かだと思うのだが、分からない。日本では、ほんとう、大好き、な相手を食べる習慣でもあるのだろうか。
 氷室はお菓子じゃない、とか、いいからさっさと着替えろ、とか、至極当たり前の突っ込みを受けても、紫原はあまり気にしていないようである。のんびり制服に腕を通しながら、食べちゃいたいよ、室ちん、と繰り返されて氷室は返答に困る。オレはそんなに旨そうだろうか、固そうだと思うのだが。
 好き、大好き、その擽ったい言葉には、慣れた。
 セックスをするようになる前から、彼は氷室に何度もそう言った。ウインターカップのあとから、とくに顕著になった。氷室も負けない程度には同じ言葉を返したつもりである、どうだろう。
 ゲームの最中に、殴ったし、泣いた。相当惨めだったとは思う。周囲が見えなくなる程度には、頭に血が上っていた、だから見ていた人間が何を感じたのかは分からない、まあ、以来互いに好意を示すセリフが増えても誰も不審に思わないようなシーンではあったのか、紫原が、立ち上がったから。
 あのとき彼がコートに戻らなければ、いまの関係はない。
 遠慮なく殴られ、鬱陶しく泣かれた彼が、何故、立ち上がったのかは知らない。
 そうしてほしくて殴ったわけではなかった、多分。こころの底から悔しかっただけだ。紫原のようになりたい、と思えるほどには素直ではない、ただ、自分が紫原と同じものを持っていれば、やめた、とは言わない、だから悔しかった。
 好きだ。
 面倒だ、面倒だ、と文句を言いながらも、誰よりきっちり練習はする。何より強い。多少の屈折はつきまとうにせよ、紫原のことは好きだ。その彼が、あっさり諦める姿を見るのはいやだった、お前、すべてをなかったことにしていいのか。悔しい、オレならば。
 理不尽な怒りだったろう、紫原にしてみれば。それでも彼は応えた、自分の何が彼を動かしたのかは、そう、知らないが。
 好き、の回数は、増えた、露骨なまでに。
 はじめて彼と寝たのは、冬の終わりか、春か? 男は知らなかったので最初は少々戸惑ったにせよ、嵌まるのはあっという間だった。
 誘ったのか、誘われたのかは、明確ではなかった。
 この好意は恋情なのか、と気づいた時点で落ちていたようなものである。紫原が自分よりも早く落ちていたのか、それとも単に自分に乗っただけなのかは、これも知らない。いずれ彼は氷室の感情にすぐに気づいた。そして大して悩む時間も置かずに手を伸ばし合った。
 禁忌なのか、と思うことはあった。貫かれ、声を上げながら。
 だが、一度嵌まってしまえば抜け出せない、感情からも、誘惑からも、快楽からも。
 抱き合うようになってから、彼のセリフがひとつ増えた、好き、大好き、これはいつも通り、だが、彼はしばしばこう言うようになった。
 食べちゃいたい。
 正直その言葉の意味が、氷室には分からなかった、好き、大好き、その通りだ、だが、食べる? 小さくて可愛いケーキみたいなものならば、食べたいと思うこともあるのかもしれない、しかし自分は紫原を食べてしまいたいとは思えない、だって食えばなくなるんだろ。
 独占したいとか、まあそんなところか。
 オーケイ、独占しろよ、オレはお前のものだよ、問題はない。
「ねえ、室ちん」
 ネクタイを締める氷室の耳元に、身を屈めた紫原が、よく知っている口調で言った。
 誰の前でも、どんな場でも、平気で、好き、と緩く甘く声にする彼が、その言葉を口にする時だけは微かに熱を潜めて囁く、悪くないと思う、ああ、まったく悪くないね。
 長い髪が頬に触れて、ぞくりとした。
「しよ」
「……次の休みにね」
 その髪を撫でて、にこりと微笑み、小声で返した。ちらりと部室を見渡すが誰もこちらを見ていない。この男はこういうときだけは周りを観察するらしい。
 氷室の言葉に、紫原は珍しく、仄かに笑った。オスの顔だなと思って、それに満足した。いつでもぬるい顔をしているこの男が、もちろんそれはわざとなのだろうが、欲望を見せつけてくる瞬間は心地がよい、相手が自分限定であるのならば。
 他人の視線がこちらに向いていないことを再度確認してから、唇の端に掠めるようなキスをしてやると、紫原は目を細めて、氷室の身体をやわらかく抱きしめた。まあ抱擁くらいならば誰に見られても、いまさら大丈夫。
「好き、室ちん、食べちゃいたい」
 繰り返される言葉に、あは、と笑って返した。オレも好きだよ、アツシ。





 シーツの上、上半身をキスで埋められて、薄っすら汗を掻いた。
 紫原はセックスに結構慣れている、それは最初からである、少々意外ではあったが構わない、過去に妬くほど惨めなことはない。
 日曜日、真っ昼間、街も外れのラブホテル、抱き合うときにはたいていこの時間、この場所だ。
 男と男が好き勝手やろうと思えばこんなところしかない、たまに寮の部屋で抱き合うこともあったが、周りに気を使わなければならないのでいただけない、それこそが刺激になることもあるにせよ、リスキーだ。
「あ……、は、アツシ、アツシ」
「なあに? 気持ちいいんでしょ? 勃ってるし。やらしいの」
 乳首に歯を立てられながら、互いの性器を擦り合わせるように腰を押し付けられて、鋭い吐息が散った、何を言うんだ、お前だって勃っているじゃないか、オレが触る前から。
 赤の他人がさんざん絡み合ったのだろうベッドで寝ることを、まさか汚らしいとも思わない、それほど純情な感性は持ち合わせていない、しかし僅かな背徳感はあった、普通は男が女を抱く場所だろう。
 この男は気にならないのだろうか、ゲイなのかバイなのか気紛れなのかは知らないし、今になって訊けもしないが、オレが女だったらいいと、お前は思ったりするのだろうか。
 食べちゃいたい、と。
 お前は何度も繰り返す。きっと可愛い女が相手だったら、もっともっと繰り返す。悪かったとは思わない、こいつだって自分を求めたのだ、でも、ときに戸惑う、何故オレだったのか。
「駄目だ、このひと。集中してないでしょ」
 胸元から顔を上げた紫原に、間近に瞳を覗き込まれて、氷室は僅かに狼狽した。そう見えたか? シーツの上、腕を掴まれ引き上げられて、軽い目眩がした、身体は充分反応している、上の空だったつもりもない、ただ。
 不安になっただけだ。
 はあはあ息を乱している氷室の前で、紫原は膝立ちになり、その口元に性器を突きつけた。グロテスクな男の器官だ。これに欲情するようになるなんて、例えば一年前の自分に言っても信じまい。
「しゃぶって、室ちん、好きでしょ。つまんないこと考えてる暇があるなら、夢中になればいいし」
「アツシ、オレは」
「はいはい。分かったから、してよ。必死になってみせて。別に憂い室ちん嫌いじゃないけど、セックスの最中くらいは忘れてよね」
 夢中になればいい。
 必死になってみせて。
 それはそうか、どうして、どうしてと考えたところで意味のないことである、いまこうしている事実がすべてだ。
 右手で性器の根本を掴み、見えるように舌を出して先端を舐めた。彼の匂いと味にぞくぞくと鳥肌が立った、そうだ、オレはこの行為が好きだ、気づいたら好きになっていた、余計なことなど考えられなくなるくらいには。
 唾液を乗せた舌で、裏側まで丁寧に舐めると、彼の性器がきっちり硬くなった。痛いくらいの視線を感じたので、瞼を半分伏せたまま、ときどき頬ずりした、多分こうすればこの男は視覚的に興奮する、自分の顔がどれほど綺麗か、どれほど欲を唆るかくらいは把握している。
「室ちん、えろい」
「ん、アツシ、は、おいしいよ」
 しばらく舌を這わせてから、口を開いて性器を咥え込んだ。唇を締めて擦ると、気の早い体液が滲むのが分かった。
 つられたように熱くなる身体を持て余し、左手で自分の性器を握りしめる、オレははしたなく見えるだろうか、いいんだ、オレははしたないんだ。
 無意味な交歓である。
 恋情はある、しかしそれしかない、いつまでも続くものだとは思っていない。お前と離れたそのときに、いい思い出だとオレはすべてを綺麗に片付けられるだろうか、分からない。
 好きな女ができたんだよね、室ちん。
 オレ今度結婚するんだよ、室ちん。
 子供が生まれたんだ、室ちん。
 無理、無理、とても無理、そんな痛みには耐えられない、死んでしまう、好きにならなければよかった、落ちなければよかった、だが、落ちなければオレはこの切ないしあわせを知ることもできなかったのか、それも耐えられない。
 それなりには遊んだ、だが恋愛などはしたことがなかった、こんなにひとを醜くするものなのか、知らなかった、まったく氷室辰也らしくないぜ。
 綺麗に笑って。もっと綺麗に。
「室ちん」
 それまで黙って氷室の好きにさせていた紫原が、不意に、少し苛ついた声で言った。視線を上げる前に、髪を掴まれ、強く引き寄せられて思わず身体を強張らせた。
 喉の奥まで性器を突き立てられて、目が回る。反射的に、右手で彼の肌を引っ掻くが、彼は少しも気にしていない。
 唇で彼を愛撫するのは好きだ、好きだが、ここまで強引に使われたことはない。知らない深さまでこじ開けられ、こみ上げる吐き気を何とか抑える。
「集中して。余計なこと考えてないで。オレひとり夢中になるの、ばかみたいじゃん。室ちんも、そろそろ諦めたら? オレ、何があっても、離してあげないよ、うんざりするようなことばっかり想像しないでほしいし」
「ウ、んん……ッ」
「ねえ、何度セックスすれば分かるの? ひどくしたほうがいいの? オレがどんだけ室ちんを好きかなんて、絶対室ちんには、分かんない」
 唇に深く性器を突き刺されたまま、その先端でぐいぐい粘膜を擦り上げられ、きつく瞑った目の端から涙が幾粒か頬に溢れ落ちた。食道を焼く胃液を飲み込むのに精一杯で、紫原の言葉は半分も耳に入らなかった、え? 何? 離してあげないよ?
 彼は、それほど長くは唇を犯してはいなかった、せいぜい数分だ、それでも、氷室にとってはぎりぎりだった、何度か、もう吐く、と思った。
 苦痛と、嘔吐感と、被虐的な快楽が、身体の中に渦巻いた。そうだ、快楽は確かにあった、その証拠に、力なく触れたままだった自分の性器は、萎えもしなかった、オレはマゾヒストなのだろうか。
 紫原の性器は口の中で、ますます硬く、大きくなった、苦しくて、嬉しかった、意味が分からない。
 開放されたときには、息も絶え絶えだった。顎に伝った唾液を拭うこともできず、ベッドの上、這いつくばるようにして呼吸を喘がせていると、腕を掴まれ、シーツに仰向けに押し倒された。乱暴だ。
 こんな行為は知らない。
 紫原はいつでも氷室を優しく甘ったるく抱いた。ときに見せつけられる強引さも計算で、結局のところ彼のセックスは非常に丁寧で慎重だった。氷室を怯えさせないように、氷室が驚かないように、そして酔えるように振る舞った。この大きな男はベッドにおいて紳士的である。
 それが何故今日はこれなんだ?
 余計なことを考えないで? ひどくしたほうがいいのかって? 馬鹿言え、オレは穏やかなセックスのほうが好きだし、だいたい余計なことなどは。
 考えた、か。
 いつまでも続くものではないとか、女、とか。でも、それは余計なことだろうか、誰しも思うのではないか、覚悟を決めておかないと、いざそのときにきついのは、自分だ。
 男だからだ。
 高校を卒業したらどうなるんだ? 大学生になったら、あるいはそれも卒業したら? まんがいちそこまで続いたとして、社会に出たら? 好き、大好き、それだけで、延々と繋げるものだとは、縛れるものだとは思わない。
 怖い、だなんて、まさか自分が感じることになるとは知らなかった、恋愛はひとを強くもするし、弱くもする。
 食べちゃいたい、と繰り返すあなたは、恐怖を覚えたことはないですか。
「脚、押さえて、自分で押さえて。抵抗してもいいけど、純粋に腕力だけで言ったらオレのほうが強いから、いくら室ちんが喧嘩強くても、この状態じゃ駄目。言うこときかないと無理にやっちゃうよ、無理したくないし、素直にして」
 紫原は身体で氷室を押さえ込んで、右手を枕元に伸ばした。コンドームを避け、隣に置いてあったローションのサンプルを掴む。ふたつか、三つか。
 それから、困惑に動けずにいる氷室に軽く溜息のようなものを聞かせたあと、氷室の脚を掴んでぐいと折り曲げ、ほら、押さえて、といつもよりも少し低く言った。ぞくりとした。その声は嫌いではない、いや、好きだ、普段の緩い甘い声もいいが、感情の覗けるそんな口調も好きだ。
 オレはどこまでこの男に惚れているんだ?
「口に突っ込まれてる室ちんが可愛かったから、オレ、興奮してんの。ぬるいことしてたら、どうせこのひとまた変なこと考えるし、強引にしちゃうけど、文句ないよね」
「は……、アツシ」
「へいきだよ。室ちん、もうオレに慣れてるし。たまには燃えるんじゃない?」
 ローションが入ったビニールのパッケージを、数枚まとめて歯でちぎり、紫原はその中身を氷室の尻に直接垂らした。手首を掴まれ促されて、両手で押さえた脚がびくりと震える。いつもならばこの男はてのひらで温めてから使う、そこまで気を配るのが紫原である。
 ぬるいことをしていたら、どうせまた変なことを考える?
 うるさいうるさい、別に変なことなどは考えていない、ただオレは不安だよ、怖いよ、それだけだよ、ああでも、そうだな、こんなときには。
 粗野に扱われるのも、悪くない。
「ゆっくりしないから。一生懸命追いついて」
 彼は言葉通り、遠慮なく指を一本、二本と突き立てながら、淡々と言った。喘ぐ声が引きつった。確かに自分は彼に慣れた、だから快感はあった、ただそれがあまりに切羽詰まっていて、追いつけと言われても巧く追いつけない。
 彼はいつでもその場所を、蕩かすようにじっくり開いたが、ゆっくりしないと言った以上はそのようにした。傷がつくような雑さではないにせよ、充分強引だった、これも言葉通りだ、三本目の指を挿し入れるまで、それほど時間を使わなかった。
 情けない声を上げたと思う。
 彼の感触を追いかけるのに精一杯で、自分の耳にはあまり聞こえていなかった、聞こえてしまえばうんざりしたろうから、聞こえなくてよかった。
 彼の長くて太い指は、二本目までは器用に内側をまさぐってあちこち刺激していくのだが、三本になるとほとんどただ突っ込む、広げる、以外の動きはしなかった。しなかったというより、狭くてそれしかできないのだろう、確かに自分でもきついと思う、女の尻を使ったことはないし、男を抱いたこともないから知らないが、こんなものか? 彼は不満に思っていないだろうか。
 言われた通りに脚を抱えたまま、いつの間にか固く瞑っていた目を薄っすら開けると、紫原と視線が重なった。この男は、開かれるオレの顔を見ていたのか、と思い、何故か胸のあたりが苦しくなった、そんな眼差しで?
 貪る目だ、それから観察する目であり、何より愛おしいものに向ける目だ、好き、大好き、食べちゃいたい、何度も何度も繰り返された言葉が蘇る、もう簡単にその抑揚を思い出せるくらいには同じセリフを言われた、記憶というよりは記録だ、自分は、ちゃんとそれに応えられているだろうか。
 彼は、しばらく三本の指で氷室を喘がせていたが、泣き出す前には手を引いた。違和感の抜けた身体から緊張を解き、深く吐息を零していると、紫原はその氷室にすぐに覆いかぶさってきた、いつもであればここで少し休む。
「だめだめ、ほっとしてる暇、ないよ、室ちん。もっと太いの、入れるんだから。さあ、ちゃんと飲み込んで」
「は、あ……ッ、アツシ……ッ、も、と、ゆっくり」
「ゆっくりしないって、言ったでしょ。油断するとこのひと、けっこうな頻度で思考迷路に嵌まっちゃうから、だめ、目の前にオレがいるのに、オレと室ちんセックスしてるのに、何が不安なの、こんなに繋がってるのに、ほら」
 ぐいと先端を押し込まれて、ぎゅっと閉じた瞼の裏にちかちか光が散った、これでは何を考える余裕もない。漏れた声は悲鳴に近かった、そうか、アツシ、お前はこういうセックスもするんだな。
 オレの身体は気持ちがいいだろうか。
 お前の欲を満たせるだろうか。いまはまだ引き止めておける程度には。
 比較したりはするのだろうか、オレと、過去に抱いた人間とを。お前の頭の中でオレは何番目? 及第点? 女と秤にかけたら、どちらがいい? そんなことは。
 訊けない。
「このままぜんぶ入れちゃうから、上手にして、いいかげん覚えたでしょ」
 彼は大抵の場合、先端を飲み込ませた位置で動きを止め、氷室の強張る肌を宥めた、それはもう丁寧に。だが今日は、強引にしちゃうけど、ゆっくりしないから、と言った方針を貫くらしい、少しも力が抜けない身体に、遠慮なくずぶずぶと太い性器を突き立てられて、見苦しく喚いた、もうこれ以上はないというくらいに深く開かれて、くらくらする。
 思考迷路に嵌っちゃうから、だめ。
 だって仕方がないだろう、オレはお前に相応しくないよ、殴って泣いて、我が侭で意固地で、それからなんだ? 醜いところならばいくらでも思いつく。
 劣っているというふうには考えない、ただ、届かないとは思っている。
 同じ場所に立っていない、それでも、彼は自分に好きだと繰り返す。
 何が? 何が好きなんだ? 顔? 声? 身体? なんでもいいか、お前が好きだというのならば、それを使おう、使って全力でその手を掴もう、でも、振り払われる未来には。
 ああそうか、結婚するのか、アツシ、おめでとう。
 子供ができた? よかったな、お前によく似た可愛い子に育つよ。
 え? もう会えない? 残念だな、じゃあさようならだ、でもひとつだけ覚えておいてくれ、オレは。
 いつでも、お前のしあわせを祈っているよ、お前のしあわせだけを。
 そう言って、綺麗に笑って。
「あ……! アツシ、裂ける……ッ、きつ、い、ゆっくり」
「だから、ゆっくりしないの。大丈夫、ちゃんと入ってる、裂けないし。ねえ、動くから、気持ちよくなって、オレを感じてよ、ここにいるんだよ、室ちんの目はときどき、オレを素通りする、やめて、いや」
「アツ、シ……ッ、はあ、壊れそ、う」
 手が震えて押さえていられなくなった脚を、紫原が両手で掴んで、さらに折り曲げた。そういうひとつひとつの動作はいつも通りか。
 馴染むだけの余裕も与えられず、最初から大きく深く穿たれて、こめかみにはらはらと涙が伝った。いっそ苦しいばかりならばよかったのに、そこにある快楽は明らかにいつもよりも強かった、なんだ、オレはほんとうにマゾヒストなのか? 優しく抱かれるよりも強引なほうがいい?
 室ちんの目はときどき、オレを素通りする。
 やめて、いや。
 馬鹿な、そんなことはない、オレはお前を見ているよ、お前しか見ていないよ、ああでもそうか、オレが見ているのは。
 近くか遠くか、知らないけれど、オレを捨て去るときの、未来のお前。
 怖い、怖いよ、これ以上、夢中になれば、失えないから、失う明日のシュミレーション、境界線を引くために。
「まただし……もう!」
 氷室を突きながら、紫原が、少し苛立ったように声を荒げた。塗り込められたローションが、ぐちゃぐちゃ卑猥な音を立てている、オレを感じてよ、ここにいるんだよ、言い募った彼の声はいつもよりも熱くて、下手をすれば意識を焼かれそう、分かっている、分かっているさ、ここにいるのはお前だ、こんな罪深き行為に、溺れるのはお前が相手だから。
 好き、大好き、食べちゃいたい。
 オレだって好きだ、大好きだ。
 ねえ、その腕は、いつまでオレを抱きしめる? オレではお前に何をも与えられないのだ。保証、安定、幸福、そういうものを、お前にあげられないんだよ。
「室ちん、目、開けて、オレを見て、ちゃんと見て! 言うけどオレのほうがよっぽど不安だし! オレ、好きだっていつも言ってるじゃない、覚悟してよね、離してなんてあげないんだから」
「ああ、アツシ……、離れ、たくない」
「離さないって言ってるでしょ。室ちんがオレを、嫌いになっても、うざくなっても、離さない。こんなことしてるときに、ひとり悲劇に浸らないでよ、オレを見なよ」
 目、開けて。オレを見て。
 揺さぶられる衝撃に、どうしてもきつく閉じてしまう瞼を何とか上げて、自分に覆いかぶさっている彼を見上げた。視線が絡まる、美しい色の瞳だ、この男はほんとうに、ほんとうに美しい。いつでもそう思う。
 あまり見ないような真摯な眼差し、長い髪が汗で肌にはりついている、そうか、お前にとって、この行為はそういうものか、ほんきになれるものか、そうだよな。
 好き、好きだよと囁き合って、手を伸ばしたんだ。
 離さないと言ってくれるのならば、それ以上何を求めるんだ?
 この美しい男が、自分を欲している、好きだ、離さないと掻き口説き、汗を滴らせ、そんな目をして。そうだよな、もう充分だ、他に必要なものなどはない、たくさんの愛の言葉、詰め込まれる快楽と、オレはどこまで卑しいんだ、変わらないものなんてこの世にはないのに。
 視線を合わせていられたのは、ほんの数秒か、十数秒か、そのくらいだった。
 奥まで突き刺され、腰を揺すり上げられて、結局はまた目を瞑り、啜り泣く声を上げた。そこが気持ちのいい場所だと氷室に教え込んだのは、紫原である。
「アツ、シ……ッ、駄目だ、も、いきたい……」
 自分で聞いても酷い声だ。
 紫原は、気配で笑った、笑ったのだと思う。顔が見たいと思ったが、突き上げられる快楽で目が開かない、必死にシーツを両手で握りしめて、ただ彼の動きを受け止める。
 強くして、激しくして、もっともっと! 壊れても構わない、刹那であるものならば、沈めばいいんだ。
 紫原は、氷室の言葉に、いいよ、いきなよ、と言って、氷室が求める通り、彼にしては珍しく乱暴に腰を使った。深い場所を硬い先端で抉り上げられ、弾ける愉悦に悲鳴を上げた、絶頂の波はとても高くて、甘いようなからいような味がした。
「ああ……ッ! アツシ、アツシ……ッ」
「……可愛いね、室ちん」
 そう言えば、後ろを貫かれるだけで達したのははじめてかもしれない、いつでも彼は性器を擦ってくれたから。
 息もできない恍惚に身体を強張らせ、彼をぎりぎりと締め付けて快楽を盗んだ。彼が内側にいるせいで、愉悦はまったく散っていかなかった。
 このまま続けられたら舌でも噛みそうだ、いや、でも今日の彼ならばやるかもしれない、肌を引きつらせながら、なんとか、脚を押さえる彼の手にてのひらを重ねると、それを可哀想に思ったのかどうなのか、紫原は意外にもあっさりと、まだ硬いままの性器を引き抜いた。
「ん、は……、はあ、アツシ、まだ、いって、ない」
 ようやく脱力した。
 呼吸を貪ってから、掠れた声で言うと、彼は氷室の身体から手を離して、うん、と緩く言った。苛つきをちらつかせる低い声も、不意に聞かされる大人びた声も、いつもの甘くて緩い声も、もうなんでもいいかと思った、この男の声は全部好きだ。
 快楽の余韻でかたかた震える身体を起こすと、紫原はシーツに座り、立てた膝に肘をついて、手の甲に顎を乗せ、にやにや笑っていた。目が眩むくらいにエロティックに見えた、そうか、こいつはこんな顔もするんだな。
 お前には、オレの知らない秘密がたくさん残されている。
「なんか室ちん、いっぱいいっぱいみたいだったから。でも、さすがに、このままはきついし、オレだって。いかせてくれる? 室ちんの好きにしていいよ、手でも、口でも」
「……好きに、していいのか?」
「いいよ。オレ、室ちんのものだし。知ってるでしょ」
 素晴らしい表情だ。
 氷室は恐る恐る紫原に手を伸ばし、恐る恐るその大きな身体をシーツに押し倒した。腹に散った自分の精液を右手で拭って、どうしたものかと少し考えてから、屹立している彼の性器に塗りつけた。
 それを跨ぐのはかなりの勇気を要したし、自分から飲み込むのは思っていたよりも苦しかった。と言って、ここまでやっておきながら、やっぱりやめたとも言えずに、唇を噛んでじりじりと腰を落とした。
 好きだ、好きだよ、アツシ。
 歓びも不安も、期待も恐怖も、何もかも、お前に与えられるものがいまのオレのすべてだよ、アツシ。
「室ちん、好き、大好き、食べちゃいたい」
 彼はその長い腕を伸ばし、必死に性器を咥え込もうとしている氷室の肌を優しく撫でて、もう慣れてしまったそのセリフを、やわらかく囁いた。ああクソ、そうだよ、大好きでなければ、オレはこんなことはしないんだよ。
 揺さぶられる最中に、荒い口調で言われた言葉が、ふと脳裏を過る。
 言うけどオレのほうがよっぽど不安だし。
 馬鹿を言え、お前はオレを失っても、その大きなてのひらになんでも持っているじゃないか、そう、なんでも。





 ホテルからの帰り、街で適当に食事を摂ってもよかったが、ぎりぎり間に合う時間だったので、寮に戻って食堂に行った。
 時間が時間なので、他にひとはいなかった。厨房に声をかけると、間に合ってよかったね、最後だから大盛りね、というセリフとともに、山盛りのシチューがふたり分トレーに置かれた。これは食えるのか?
 取り敢えず礼を言って、食堂の隅の席に、向かい合って座った。氷室がスプーンを掴むより早く、紫原はシチューから探り出した人参を氷室の皿に撒いた。子供か。
「アツシ。好き嫌いなく食べないと、大きくなれないぞ」
 一応は説教してから、特に返さずそれを口に運んだ。彼の皿に戻してやったところで、こいつは絶対に食べないのだ。
 紫原は、はあ? これ以上でかくなんなくていいし、と呟いてから、人参を退治したシチューを、それなりに旨そうに食った。ものを食べるときのこの男はとても可愛いと思う、つい、菓子を差し出してやりたくなるくらいには、可愛い。
 甘やかしているとよく言われる。氷室辰也は紫原敦を、甘やかしている。
 そんなこともないけれどな、と氷室は思う。どちらかといえば、自分のほうが甘やかされている、と感じるときが多々ある。
 例えば、ベッド。
 大盛りのシチューを苦もなく空にして、スプーンを皿に転がした紫原の、唇を見た。少し汚れていたので、そう指摘すると、彼は面倒くさそうな顔をして、指先で適当に唇を拭った。
 菓子を、食事を、食べる唇。
 好き、大好き、食べちゃいたい。では、お前はオレを、同じように、食べたいか。
「アツシ。お前は、オレを、食いたいのか? 食べたいって、よく言うだろ」
 シチューをスプーンで掬いながら、何気なく訊いてみた。これがストレート過ぎる物言いなのかどうかは判断できない、まあ少なくとも、まわりくどい日本語ではないが。
 紫原は、珍しく、驚いたようにぱちぱちと目を瞬かせてから、うんざりと溜息を吐いた。室ちん、ストレートすぎ、と苦情を言われて、そうかと思う、しかしでは他になんと言えばいいんだ、オレは美味しそうか、アツシ? 意味が違うな。
 眠たげな目で見つめられたので、にこりと笑ってみせた。
 それでも視線が外れなかったので、仕方なくシチューの皿に俯いた。やめろ、思い出す、つい先ほどまで自分と彼はセックスをしていたわけだから。
 彼はしばらくそうして無遠慮に、無言のまま、シチューを口に運ぶ氷室を眺めていたが、それからどこか気怠げに唇を開いた。聞こえた声は甘くて、緩くて、まったくいつも通りだった。
「年取って、死ぬじゃん、人間、誰だって。そしたらオレ、室ちんの死体、食べるから。それだけ」
「……え?」
 思わず、顔を上げた。
 意味が分からなかった。
 いや、意味は分かった。分かったが、何故この男がそんなことを言うのか、分からなかった。
 年をとって。
 死ぬじゃん、人間、誰だって。そしたらオレ。
 室ちんの死体、食べるから。
 ちょっと待て。お前は大して理解もせず口に出しているのかもしれないけれど、そのセリフは非常に重要な意味を持っているのだ、軽々しくそんなことを言うものではない。
 おそらく見るからに硬直した。冗談を言うなよ、気持ち悪いぜ、アツシ、何か言葉を返そうと思うのに結局何も言えず、スプーンを握ったまま固まってしまった氷室を、紫原は変わらず、不躾なまでに見た。
 目線を捕らえられる。紫色の瞳が美しい、お前はいつでも美しい、ああ、別れるときには綺麗に笑って、なんて、何故オレは思ったのだろう、できるわけがない。
「だって、ぜんぶ燃やすとか、無理だし」
 鬱陶しそうに長い髪を掻き上げる、指先が美しい、あらわになる端正な顔が美しい。
 子供のようにスプーンを握りしめて、氷室は紫原を見つめ返した、駄目だ、一言たりとも聞き逃すな、掠める感情を見逃すな、違う違う、この明晰な男が、意味も分からぬまま言うわけがない、言うからにはこころの底から、こいつはそう思っている。
 甘い声。
 無表情。
 いっそ冷たく思えるほどなのに、その言葉は情熱的だ。
「だから食べちゃう。まあ、年寄りだからぱさぱさだろうけど、食べるよ。ひとつになれるじゃない。ねえ、心配しなくていいから、室ちん、死ぬまでも、死んでからも、オレの隣にいて。好きだよ」
「……死ぬまで、……一緒にいられるはずが」
「なんで? そばにいてよ、離さないって、言ったよね。オレは室ちんからなんでも奪うよ、可愛いお嫁さん、可愛い子供、そんな可愛い夢は、ぶっ壊すから」
 ふっと遠退きたがる理性を、必死で掻き寄せた、泣くだろ、これ。
 アツシ、それはね、オレこそが怖かったものなのだ、オレは女ではないから、お前に何も与えられないから。綺麗に笑うしかできないんだ、せめて綺麗に笑おうと思って、でも、そんなことは多分無理で、だから。
 シュミレーションを。
 境界線を。
 欺瞞だよな。そんなものはぶち壊すと、お前は言うのか。
「……オレは、……お前が死んでしまったら」
「ああ、大丈夫。オレ、室ちんより先には死なないし」
 シチューは完全に冷めていた。
 スプーンを握る手が震えて、かたかたとトレーが鳴った、それを見かねたのか、テーブルの向かいから紫原が手を伸ばし、氷室の手を無造作に掴んだ。あたたかいてのひらだった。
 死ぬまでも。死んでからも。
 隣にいて。好きだよ。
 お前は。
「室ちんじゃ、オレのこと、食えないでしょ。それに、オレが先に死んじゃったら、室ちん、寂しくて泣いちゃう。だから、オレは先には死なない、もしオレが先に死ぬんだったら、室ちんのこと殺してから死ぬ、安心して」
「……お前は、狡い」
「ずるい? うん、まあ、ずるいかもね、でもほんきだから。もし室ちんがオレから逃げたくなったら、相当大変だと思うよ、ていうか無理だし諦めて」
 狡い。
 可愛い女と逃げるのは、お前だろう。すべてを手にしているお前はそうあるべきだ。なのに、わざわざ欠落を選ぶのか? オレは笑う準備をして、広い背中を押す準備をして、しあわせになれと澄んだ声で言う準備をして、何もかもに失敗していまに至る。
 そうだよ、知っているだろ、オレは貪欲だ、お前を離したくないよ。
 そうだよ、だから聞きたかったよ、そんな夢は、ぶっ壊すから、そんな言葉を。
 食べちゃう。食べるよ。ひとつになれるじゃない。
 ああもう、畜生、狡い、狡いじゃないか、アツシ、お前はオレの欲しがるものを、なんでも手渡してくる、平然と。
 視界が滲んで、短く舌打ちした。無様だ。紫原は、特に表情もないまま、もう片方の手を氷室に伸ばし、右の下瞼に指先を這わせた。
 彼は、泣かないで、とは言わなかった。
 掬い取った涙をちらりと舌を見せて舐め、からいね、と囁いた。
「室ちんて、もしかして、全身からいんじゃない。でも、好き、大好き、食べちゃいたい」
「……オレも好きだよ、アツシ。お前に、食べられたい」
 中途半端に残ったシチューの皿をあいだに、密やかに愛の言葉を交わす、愛の言葉、愛の言葉なんだよな。少なくとも我々にとっては愛の言葉だ。
 好き、大好き、食べちゃいたい。
 聞き慣れたセリフ、校舎でも寮でも部室でも、朝でも夜でもお構いなしに繰り返された、瞼の端に掠めるほんの僅かな感情は、お前が抱え込んだ熱、分かったよ、もう分かった、死ぬまで、死んでも、離れてやるものか。
 隣にいよう、そばにいよう、そしてひとつになろう、言ってお前が攫ってくれるのならば、従わないでもないぜ、オレは確かに愛情に対しては臆病な男ではあるが、最初で最後だ、お前にだけは口説かれよう、だから甘く切なく信じ込ませて、食べちゃいたい、そう言って、私の涙を舐めてくれ。

(了)2014.05.01