欲しいものならば、いくらでも思いつく。
例えば、無限の時間。
例えば、無限の体力。
例えば、無限の才能。
例えば、紫原敦。
どれほど願ったとしても、永遠に手に入らないものである。どのような供物を捧げても、永遠に手に入らないものである、知っている。それでも欲しいものは欲しい、そう、こころの中で喚いていないと、芯のようなものを失ってしまいそう。
いや、違うか。ひとつだけならば。
朝、寮から体育館へ向かう路、たまに通る気紛れな横道でふたりきり、隣で欠伸を漏らす背の高い男を見上げながら、氷室は思う。
ひとつだけならば、きっと、手に入る、オレのてのひらに落ちてくる。
そう、紫原敦ならば。
差し出す手から少しの不安もなく、菓子を受け取っていく彼に、にこりと笑ってみせた。旨いか? アツシ。さあ、この天才を手に入れたら、いったいどんな感じだろう。まっすぐに敷かれたレールのひとつを外してやったら、どんな感じ?
お前の軌道を、狂わせたら。
何かに勝ったような、何かに背くような感じか。その想像はぞくりと愉悦の予感を連れてきた、いいね、素晴らしい。オレは道標を失って彷徨うお前の姿が、見たいよ、例えば無限の才能を、有しているお前が彷徨う姿。
そのときオレとお前は、はじめて同じ景色を見るだろう。
あるいは自分のほうが高い位置に立っているか。
オレは強欲だ、知っている。指さし罵りたくば罵れ、欲しいものは欲しいのだ。いくらだって喚いてやる、そうでなければ氷室辰也の輪郭が保てない。
例えば、無限の時間。
例えば、無限の体力。
例えば、無限の才能。
例えば、紫原敦。
欲しい、欲しい、欲しい。掴み取れる可能性があるものならば、必ず掴み取る。そのためならばどんな手段でも使おう、オレは強欲なんだよ。
「室ちんは、いつもオレにお菓子くれるよねえ」
隣から伸びてきた大きな手に、氷室がチョコレートを渡してやると、ありがとう、の言葉は省略してそれを唇に運びながら、紫原が緩い声で言った。
視線をやると、眠たげな目に見下ろされる。感情のようなものは見つけられない。この男は大抵の場合、無表情だ、多分、心情を露わにすれば誰かを怯えさせるから、そう、彼自身が思っているから。
見せればいいのに、少なくとも自分には見せればいいのに。
彼は聡明であるし、よく切れもする、かつ真っ直ぐで嘘がない。それゆえ敢えて辛辣な言葉を使うシーンもあるにはあるが、基本的には子供のように繊細だと思う、少なくとも、氷室はそう思う。
無表情でいることしかできないくらいに。
「ねえ、なんでお菓子くれるの。前から疑問だったんだけど。だってたまたま持ってたわけじゃないでしょ、このチョコレート、オレのために買って用意したんでしょ。室ちんのお小遣い、普通に減るでしょ。意味分かんないし」
「なんで、か。ううん、そうだな、オレには欲しいものがあるからじゃないかな」
「欲しいもの? 何よ」
ぱりぱりと、板状のチョコレートを噛む音がする。この男が菓子を食う姿を見るのは、音を聞くのは、好きだ、好きになった。
そうだな、オレは紫原敦のことが、好きだ、気に入っている。次々菓子を差し出して、可愛らしく食べてほしいと思うほどには、そして、そのままこの手で掻っ攫って、道を踏み外させたいと思うほどには。
わざと視線を外し、前を向いた。
自分の持っている中で、一番綺麗な声を使って言った。
「アツシだよ」
「……はあ?」
すぐに眼差しを彼に戻して、怪訝そうな顔をしている紫原に、もう一度、にこりと笑ってみせた。華咲くよう、と評される笑顔だ、敵うまい?
紫原はその氷室を、しばらくはじろじろと眺めた。大概のやつは頬を染める笑みのはずなのだが、こいつは自分に免疫ができているのかもしれない。駄目だな、もう少し効かせていかないと。
彼は、咀嚼していたチョコレートを飲み込んでから、普段よりはやや低い声で言った。よし、いいね、無表情でいることしかできないお前が、微かな表情を見せる一瞬。
「室ちんは、オレの何が欲しいの?」
室ちんは、オレの何が欲しいの。
ここだ、いまだ。
才能。理性。歪みのない未来。言わずに今度は眼差しを真っ直ぐ彼に向けたまま、種類を変えた笑みを浮かべた。誘惑の表情だ。性的だエロティックだ言われる顔ならば、こういうときに使うのである。抗えないよ、お前には。
舌先で舐めて濡らした唇で、短く、鋭く、甘く言った。
オレのセリフなら違和感もないだろ、疑問も持たずに理解しろよ。
「カラダ」
才能。理性。歪みのない未来。少しずつ少しずつ崩してやるために、まずはそう、身体。
紫原は、氷室の言葉に、二度、三度瞬いた。だが、動揺があったとして精々それだけだ。彼はすぐにいつもの無表情に戻り、菓子を要求する手を差し出しながら、気怠げに言った。
朝日に輝く綺麗な色の髪、瞳、美しさに胸が痛くなる、この男はあまりにも恩恵を手に持ちすぎている、何もないオレはどうすればいいんだい?
「そんなもの? 身体でいいなら、あげてもいいよ。でも、身体だけなんだよね、室ちん、自分で言ったんだからね。それ以上は要求しないでよ」
「しないよ。それ以上に欲しいものなんて、ない」
「あ、そう。冷めてんね。でも、正直でいいんじゃない?」
淡々とした言葉に、あは、と笑って返した。正直? 馬鹿言え、オレは正直などではない。
お前の得ている、才能が欲しいよ。
いつでも理性的である、お前の理性を奪いたいよ。
真っ直ぐに続く歪みのない未来を踏み荒らして、オレの足跡を刻んでしまいたいよ。
オレで、狂ってみせてくれよ、お前の美しい光をオレの汚らしい闇で塗り潰してしまいたいよ。そうすれば。
きっとオレは、ひととき息ができるのだろう、跪くその頭を右足で踏みつけて、笑える。
飽きず伸びてくるてのひらに、菓子を渡しながら、ふたりきりの道をのんびり体育館まで歩いた。会話は途切れたが、居心地はよかった。この男と一緒にいると、何故か落ち着く。
当然こころはきりきり痛む、息苦しくなることさえある、それでも、紫原の隣はいま最も好きな居場所だ。緩い声、緩い眼差し、自分の歩調に合わせて歩く、緩い男。
こいつが天才でなかったら。
楽になるのだろうか、もっと落ち着くのか?
ああでも、こいつが天才であるからこそ、オレはそばにいるのだ、欲しいものというのならばそれは天才の紫原敦である、精々罵ってくれよ、強欲で結構だ。
オレ、女としかしたことがないよ、と紫原は乾いた声で言った。
とうに部活も終わったふたりきりの部室で、氷室が彼に手を伸ばしたそのときに。
女ならば経験があるのか、と少々意外にも思ったが、そのような顔は見せずににこりと笑って、甘い声で答えた。いいね、男はオレがはじめてか。紫原は特に面白くもなさそうな顔をして、そうだね、とこれもまた無感情に言った。
ドアに鍵はかけた。
明るいほうが好ましいので、照明は消さなかった。
さてまずは、この男に興奮してもらわないことには話がはじまらない。まるで、特別なことなど何ひとつしていません、という手つきで彼の服を中途半端に引きずり下ろし、やはり、こんなことは当たり前の行為です、という顔をしてその前に跪いた。
勃つのか? 勃つだろ。男に興味がないようなやつだって、オレに傅かれれば、勃つ。氷室辰也を甘く見ないでもらおうか。
瞼は半分、あるいはすべて、伏せたほうが効果的である。
余裕があって、夢中になって、そのあいだを行き来するような表情がいい。どうすれば男の性欲に火がつくか、どんな顔が相手の目を満足させるか、そのくらいのことは把握していなければ、最初から誘わない。
片手で緩く擦りながら、先端に舌を絡めてやっただけで、紫原は簡単に反応した。
眉を寄せて、熱い吐息を零す、オプションとしてはそのくらいしかしていない。
「なんか室ちん、無駄にエロいし」
紫原の手が伸びてきて、軽く髪を撫でた。意図的に乱した呼吸の合間に、氷室は、ふふ、と笑ってみせた。馬鹿なやつ、そんな仕草は、もう降参と言っているようなものである。
部活後、シャワーを浴びたわけでもないので、仄かな汗の匂いと、男の匂いがした。
身体に熱が湧いた、そのくらいにはオレはこの男のことを気に入っているし、何より、慣れている、条件反射だ。
しかし、ちょっと引くくらいにでかいな、入るか? いや、入れるんだよ。
隅々まで丁寧に舐めてから、見せつける角度で口に入れた。わざとらしく音を立てて吸い上げると、頭に触れていた手に軽く髪を掴まれた。どうだい、効くだろう?
唇を締めて、ゆっくりと擦る。口の中の性器が、さらに硬く、熱くなる。いいね。
「ふ……、う」
「室ちん相手なら、まあ勃つのかなと思ってたけど、ほんとうに勃つとか、オレ、やばいね」
勃つのかなと思っていたけれど? どういう意味だ。顔が美しいから?
しばらく唇で扱いてから、じりじりと喉の奥まで飲み込んだ。顎が痛くなって、吐き気で胸が痛い、そのくらいの行為が好きである。そうだ、オレはセックスは好きだよ、口を使うのも好きだ、相手を確実に捕食できるものだから。
とはいえこれは結構きつい。
深く咥えた性器の、持て余す大きさに、こみ上げる胃液をなんとか飲み込んだ。震える粘膜が気に入ったのか、紫原は氷室の髪を強く掴み直して、特に遠慮もなく喉の奥を性器の先端で擦り上げた。
まあ、遠慮などするわけがないか。オレの欲で、オレが勝手に、彼を味わっているわけだから。
いま、我々のあいだには感情は介在しない。
欲しいものは、カラダ、それだけである。
普通の男なら射精しているよな、と思うくらいの時間をかけて、彼の性器を愛撫した。いや、愛撫した、というのか、使われた、というのか。どちらでもあるか。
強いられたとは思わない、おそらく、待てと示せば紫原は氷室の髪から手を離したろう。だから意地でも待てとは言わなかった。
顎に伝う唾液を、ときどき左手のてのひらで拭って、懸命に性器を吸った。ここまできたらもう、必死になっている姿を見せてしまったほうがいい。唆るはずだ、征服欲を刺激されるだろう、もっと満たしたくなるだろう。そんなもの。
幻なのにね。
オレは誰にも征服されない、オレが、お前を征服するのだ、アツシ。
「もういい。室ちん、もういい。出ちゃう」
いい加減、唇の感覚も鈍ってきたころに、紫原はようやく氷室の口から性器を抜いた。はあはあ肩で呼吸をしながら瞼を上げると、綺麗に勃起した性器が目に映った。素晴らしいね、素晴らしい、この天才はオレでこうも興奮するのだ。サイズに少々不安を覚えるが、なんとかなるだろ。
差し出された紫原の手に縋って立ち上がり、ベンチに転がしておいたマッサージ用のジェルを掴んで彼に背を向け、壁の前に立った。
服を引き下ろして、右手の指にジェルを絞り出す。では、次はどのようなショーをご覧に入れようか?
例えば、無限の時間。
例えば、無限の体力。
例えば、無限の才能。
例えば、紫原敦。
欲しいものならばいくらでも思いつく。
ひとつくらいは手に入れてもいいだろう、手に入れられないと話が合わないだろう。だから。
才能。理性。歪みのない未来。奪うために、壊すために、オレの手で操るために、惑わせるために狂わせるために。
まずは、カラダ。
「お前は、見ていればいいよ、アツシ。知らないんだろう? もしその機会があるのなら、二度目のために、見ていればいい。帰るなら帰れ、いまのうちだ」
「自分で、広げるの?」
「そうだよ……。さすがにそれは、いきなりは入らない」
左手を壁につき、右手を尻に回して、ジェルを塗りつけた。洗ったときにいくらか開いたので、立った姿勢ではきついとはいえ、一本、二本、指はすんなり入った。
彼を咥えただけで、触れずとも反応している性器は、隠さなかった。
野郎の身体を見て萎えるというのなら、残念ですねとセックスは中止するしかない。だがまあ大丈夫、オレの知る限り、オレの顔を見て身体を見て、冷めたやつなどはひとりもいない。
紫原はしばらく、氷室の背後に、ただ立っていた。
それから、その気配さえ感じさせず、いきなり氷室の尻を両手で掴み開いた。あまりにも唐突だったので、思わず身体が露骨に強張った。
「アツシ……ッ」
「え? 見ていいんじゃないの。もっと見せてよ。ああ、ちゃんと広がるんだ、なんか健気だね」
「は……、待て、指、を」
見られている。
痛いくらいの視線を感じて、壁に縋る左手に力がこもった。知らず熱い吐息が唇から溢れる。いいよ、オーケイだ。
見てくれ、自分の身体を自分でこじ開けているオレは、あさましいだろう、いやらしいだろう、猥りがましいだろう、そして、そう、健気だろう。欲しくなるだろう?
だが、ジェルで濡らしたその場所に、不意に彼の指先が触れたときには、動揺した。
おい、予定にない。
紫原は、これといって許可は取らず、既に二本氷室の指が挿入されている尻に、長い指を一本押し入れてきた。まったくためらいのない動きだった。
壁際に追い詰められて逃げようもない、というよりは、そもそも逃げるという選択肢を思いつかなかった。予想外の刺激にまず息を飲み、それから氷室は淡い声を散らせた。
入らないわけではない、入る。そういう身体だ。
しかし、楽ではない、それなりには負担である。この男には分からないのだ、そりゃあ女ならば別に苦でもないだろうよ。
「あッ、アツ、シ……ッ、無理を」
「大丈夫そうだよ。だいたい、これくらい広げないと、オレの、入らないんじゃない」
手順を知れ、手順を。
当然ながら、紫原の指は、自分の指よりも深い位置まで届いた。咄嗟に、挿し入れていた指を抜き、両手を壁につくと、彼はそうすることが普通だと言わんばかりの動きで、氷室に突き刺す指の本数を増やした。
ぐちゃぐちゃと、内側までジェルを塗り込めるように、指を出し入れされた。
場所が場所なので、喘ぎは殺した、それでも僅かに声が漏れた。畜生、気持ちいいんだよ、オレは、そこが、気持ちいいんだ。
「は、あ……ッ、あ、アツシ、もう、入るから……ッ、入れて、くれ」
背後で指を使っている紫原を、振り返ろうとはしたが、それだけの余裕はなかった。
要求する言葉は、切れ切れに掠れた、ああもう、いいさ、切羽詰まって乱れるオレもさぞかし扇情的だろう。
紫原は、言われるままに素直に指を抜くと、床に転がしていたジェルを拾い上げながら、緩く言った。チューブのキャップを開ける軽い音が聞こえる、その馬鹿みたいな大きさの性器も濡らさなければ無理だということくらいは分かったわけか、飲み込みの早い男は好きだよ。
「ねえ、室ちん。室ちんは、ほんとうは、オレの何が欲しいの?」
がつ、と何かが机に当たる音がした。ジェルを投げたらしい。
オレの何が欲しいの? それは、朝にも言われたセリフである。決まっているだろ、オレはお前の得ている、才能が欲しいよ。
いつでも理性的である、お前の理性を奪いたいよ。
真っ直ぐに続く歪みのない未来を踏み荒らして、オレの足跡を刻んでしまいたいよ。
言わない、言うものか、そんなことを。敗者の世迷い言である。オレは言わずに手に入れる、だからそのために。
もう引き返せない、場所まで行こう。
「カラダ……。お前の、ペニスが、欲しい」
「ふうん。徹底してんのね。いいよ、いくらでもあげる、他に欲しいもの、ないんでしょ」
「アツ、シ、きつい、これは」
壁際に挟まれた体勢のまま、片手で腰を掴み上げられ、これもまたためらいなく性器の先端をその場所に押し当てられた。ぐっと力をこめられて、薄っすら汗を掻いた、お前、身長差というものを考えろよ。
さすがに身体を引きつらせて、氷室が両手をついた壁を引っ掻くと、背後で紫原が淡々と言った。
セックスの最中であるとは思えないような声である。多分、相手が誰であれこういう行為をする男なのだ。こいつの理性を引き剥がすにはどうしたらいいのだろう。
他に欲しいもの、ないんでしょ。
馬鹿を言うな、アツシ、オレは強欲なんだぜ。
「え? いや、いけるでしょ、このくらい。女とやるより全然らくだよ、室ちん、脚長いし。んん、でも、もっと腰上げて、ぎりぎりまで」
「は……ッ、あ、あ、入る」
机でもベンチでも床でも、やりようがあるだろ、この男は立ってするのが好きなのか?
言われた通り、目一杯腰を上げて、受け入れる姿勢を取った。女とやるより全然らく、か、較べられたところでセックスに関してだけは敗ける気はしないので構わないが、まあ、欲情も去って冷静になったときに、彼は、うっかり男と寝てしまったとはとんだ悪夢だと思うのかもしれない、とは考えた。
悪夢で結構、溺れましょう。
そうしなければ手に入らない、オレの欲しいものはひとつも手に入らない。
例えば、紫原敦。
挿入は、想像していたよりも丁寧だった。ずるりと先端を押し入れたところで彼は少し様子を見て、それから根本までじりじりと時間をかけて突き立てた。
知らない太さに、知らない深さまで暴かれて、鳥肌が立った。紛うことなき快感だ。
こういう男の身体が好きだという女も、確かにいるのだろうな、と、霞む思考の片隅で思った、こいつをいままで食らったことがあるのは誰なのだろう、誰と、誰と、誰なんだ。
「室ちん、腰上げて、もうちょっと高くできるでしょ。たくさん突いてほしかったら、頑張って」
緩く動きながら、紫原が背後で囁いた言葉に、いまさら抗えもせず足がつるほどつま先立った。両手で腰を掴まれて、下手をしたら片足が浮きそうだ、でかい男は得なのだか損なのだか分からない。
彼のセックスは、それほど荒いものではなかった。
無理をされたと思うことはなかった、少しばかり強引である瞬間もあったが、それは文字通り少しばかりであり、基本的には彼は慎重だった。
この男はいつもこうなのだろうか、それとも、オレの許容限界を計算した結果の甘さなのだろうか、分からない。
ずるずると性器を抜き差ししながら、やはり普段と変わらぬフラットな声で紫原は、何度か氷室に問うた。ねえ、室ちんは、ほんとうは、オレの何が欲しいの?
カラダが欲しい、もっと深く入れて、中を擦って、うわ言の声で答えながら、悦楽にちかちかと瞬く頭の中で、そのたびに喚いた。
才能だよ。理性だよ。歪みのない未来だよ。
オレの手にはなく、お前が平然と持っているものを、全部全部壊してやりたいよ。
ああ、アツシ、お前には、一生理解できないのだろう、弱者の感情など。
「分かったよ。身体、身体ね。じゃあ、ずっとそう言ってればいいじゃない。オレ、身体以外のものは、絶対にあげないから、室ちんにだけはあげないから。それでいいんでしょ」
幾度問いを繰り返しても変わらぬ氷室の言葉に、紫原は呆れたように言って、溜息を吐いた。感情を見せない男にしては珍しく、その吐息にはなんらかの色があった。
そうだ、そうだよ、そのままこっちへおいで。
興味本位で伸びる手を受け入れて、そのままオレに嵌まっちまえ、オレは美しいだろう? 知っている。爛れた関係に持ち込んでしまえれば、お前などがオレに敵うものか。
身体だけ、身体だけと言いながら、いつの間にかお前はオレに溺れるんだよ。
だから。
まだだ、まだ、弱みを見せるな。オレはただ盛りのついた犬のように、身体を欲しがっているだけでいい。焦れろ、紫原敦、何をしてもいくら肌を重ねても、身体しか要求されず、こころを捨て置かれる己を憎めよ。
オレで狂ってみせてくれ。
「アツ、シ……、もう、いきたい」
じっくりと中を掻き回されて、たまらずにそう漏らすまでには、さほど時間はかからなかったと思う。正確なところは知らない。
いくら慣れているとはいえ、ここまでのサイズには慣れていない、いつもであれば愉悦を呼び起こすことも抑えることも思い通りにできたが、これは無理だ。
紫原は、がっちり氷室の腰を掴んだまま、緩い声で言った。やわらかな彼の口調は、ときどき、だからこそ、酷く冷たく感じるときがある。例えば、いま。
「いいよ。自分の手に出して。深いのがいい? 浅いのがいい?」
「深いの……ッ」
「室ちんて、相当はしたないよね」
相当はしたない? 仰る通りだよ。
彼は氷室の要求通り、性器を根本まで突き刺した位置で、はじめて僅かに雑に腰を揺すり上げた。ああクソ、気持ちがいい。
身体を内側から押し上げられるような、どうしようもない快楽に、声も出ずに達した、まるで単純な構造の玩具みたいに。
なんとか左手を添えた自分を誰か褒めろ、さすがに部室に精液をまき散らすわけにもいかない。
紫原は、氷室が射精したあとも、少しのあいだ緩やかに腰を使っていた。こちらが充分波を味わえるようにという意味ならば、憎たらしいことである。
そして、氷室が首を左右に振ってみせたところで、素直に性器を抜いた。こういうセックスをされると、いつでも胸だか胃だかがしくしく痛くなる。大事に扱わないでくれ、そんな価値はオレにはない。
「はあ……ッ、アツシ、飲みたい」
腰から手を離された途端に、足が崩れてその場に座り込んだ。派手に呼吸が跳ねている。それでも、這いずるようにして紫原を振り向き、まだ一度も達していない性器に手を伸ばした。
きっちり、彼に聞こえるように、言葉にした。
こうしてしまえば自分は逃げられない、そして彼も逃げられない。
紫原は、例の眠たげな目で、氷室を見下ろしていた。こんなときでさえ大して熱を帯びない視線、その瞳を、独り占めしてしまいたいよ、そして汚してしまいたいよ。
「室ちん、ほんとうは、オレの何が欲しいの?」
何度か繰り返された言葉を、また、彼は口に出した。
しつこいぜ、アツシ、オレは言わない、言わないんだよ、分かるだろ?
息を乱したまま、氷室は微かに笑ってみせた。お前、なあ、それはもう敗けが確定しているということではないか? そんなにぬるいセリフを飽きず声にして、お前がどんな返答を望んでいるか、完全にオレに筒抜けだ。いいのか? 自分より弱い男に、足元を掬われてもいいのかよ。
「セイエキ」
「……室ちんて、ちょっといっちゃってるよねえ」
紫原は、片手で長い髪を掻き上げながら、欠伸を零すような声で言った。拒否はされなかったので、きつく勃起している彼の性器に唇を押し付けた。
いいよ、それでいい、少々飛んでいるくらいがちょうどいい。
いいよ、それでいい、少々ちぎれているくらいがちょうどいい。
欲しいものならば、いくらでも思いつく。
例えば、無限の時間。
例えば、無限の体力。
例えば、無限の才能。
例えば、紫原敦。
ひとつくらい手に入れたいだろう、狙いは定めた、唯一可能であるかもしれない望みである。そのためならばなんでも飛ばそう、ちぎろう、オレは強欲だ。目的のためには手段を選んでなどいられないよ。
寮へ帰る道は、既に薄暗かった。
行く路と同じ気紛れな横道、心許ない街灯に、明かりがつきはじめる時間である。
その仄かな光の下でも、紫原の髪はちらちらと小さく煌めいた。目を奪われる。彼に自覚があるのかどうだか知らないが、紫原は、非常に美しい男だ。髪の色、瞳の色、それを際立たせる整った顔立ち、筋肉のラインが綺麗に浮かぶ身体、何もかもが。
恵まれすぎていると思う。
無限の才能を持つ男だ、それだけで充分だろう、どうしてこんなふうに、見蕩れるほどに美しい? 神が不平等であることなどはとうに承知しているが、それにしても偏りすぎてはいないか。
オレの武器など容姿しかないよ。
磨いて磨いて、磨くほどに粗がむき出しになる路端の石、お前が掴んでいるその尊い原石は、決してこの手に落ちてくることはない。
知っている。
知っているからこそ、砕きたい。
紫原は、ついいままで肉欲を食い荒らされていたことなど忘れたように、歩く足取りは緩めぬまま、左手を差し出してきた。食べ過ぎじゃないのか、とは言わずに、そのてのひらに飴を乗せた。これでしばらく満足しろよ、毎日毎日、無尽蔵に与えられるほどのストックはないぞ。
「ねえ、室ちんは、ほんとうは、オレの何が欲しいの? 素直に言えば?」
渡された飴を口に放り込みながら、紫原は普段通りの緩い口調で言った。またそれか。
氷室は彼を見上げていた視線を前に向けて、あは、と笑った。お前、馬鹿だな、言葉を欲しがるなんてらしくないぜ、そんなものを手に入れたいと思う時点で、そしてそれを口に出す時点で、片足落ちているようなものだ。
恋しているよ?
愛しているよ?
ならば、お前の欲しい言葉は何?
残念ながらオレの抱えている感情は、そう純粋ではない。オレが欲しいものは、お前の得ている、才能だ。
それから、いつでも理性的である、お前の理性を奪いたいよ。
真っ直ぐに続く歪みのない未来を踏み荒らして、オレの足跡を刻んでしまいたいよ。
オレで、狂ってみせてくれよ、お前の美しい光をオレの汚らしい闇で塗り潰してしまいたいよ。そうすれば。
きっとオレは、ひととき息ができるのだろう、跪くその頭を右足で踏みつけて、笑える。
「カラダだよ、アツシ、オレが欲しいものはそれだけだ。お前はとても気持ちがいい。また、しような」
「ばかなの。そんな顔して、嘘つき」
そんな顔? オレはどんな顔をしているんだ?
視線を紫原に向けると、かちりと目が合った。腹が立つくらいに澄んだ瞳だった。短い時間見つめ合って、それから氷室はにこりと笑ってみせた。どうだい、完璧な笑顔だろう。
才能。理性。歪みのない未来。
自分のこの濁った欲望に、あるいは彼は気づいているのかもしれない、そうは思った。聡明な男である。だが、気づいたところでどうにもできまい、お前には手も足も出ない、何故ならお前は何かを希求したことがないから。
それを突き刺されても、どうすれば巧く躱せるかなど分からない。
だから、溺れちまえ。食い込む刃に血を流せ。オレを知ってしまえば誰も抜け出せないのだ、例外はない、なあアツシ、快楽とは麻薬のようなものだよ。
がり、と飴を噛む音がした。
苛立ったのか?
視線を前に戻した氷室に、しかし紫原は、そんなものはまったく感じさせない淡々とした声で言った。いいさ、感情を見せたくないのであれば、隠せばいい。ふとした瞬間に滲むそれは心地がいいし、いずれお前はオレの前では何も隠せなくなるのだから。
「まあ、いいけどね。室ちんがその方針で行くなら、オレは身体しかあげない。ほんとうに身体しかあげないし。覚悟したらいいんじゃない? 室ちん、自分で思うほど、巧く物事を進められるタイプじゃないよ。把握してるか知らないけど。いいんでしょ、身体だけでいいんでしょ」
「ああ」
わざとらしく機嫌のよい声を使って、短く答えた。紫原は、軽い溜息を零したあと、また左手を差し出してきた。おい、そろそろ本日のねたも尽きるぜ。
菓子を探してバッグを漁ろうとしたら、その右手を、無造作に掴まれた。
いきなりの紫原の行動に、どくりとひとつ心臓が無駄に鳴った。手を、繋ぐか?
咄嗟に前後を見た。この狭い横道、この時間では、他に人影もなかった。ひとが見ているから、そんな言い訳ができれば手を引っ込められたのかもしれないが、これでは拒む理由もない。
理由もないのに繋いだ手を自分から解けば、まるで可愛らしく恥じらっているように見えるだろうと思い、動揺を殺して右手を明け渡したまま、歩いた。
不意に、ずきずきとこころが痛くなる。何故だ。違うだろ、こころ痛めるべきはお前だ、何もかもを持っているお前だ、なんでも思う通りに動かせるお前だ、それでも、オレに身体しか要求されない、惨めなお前だ。
そう、オレに軌道を狂わされる、お前だよ。
紫原は、氷室の右手を強く握りしめ、揺るがず前を向き、いつもよりも少しだけ早い歩調で寮へと向かった。やはり、苛立っている? ちらりと盗み見た紫原の横顔には、しかし、表情はない。
しっかりと繋がれたこの手のように。
ねえ、もしもこころを通わせ合えば、何かが変わるのだろうか。
恋しているよ。愛しているよ。囁いて抱きしめられれば、確かにオレは束の間満たされるのかもしれない。だが、駄目だ、駄目なんだよ、アツシ、足りないんだ。
あたたかい、雄弁なてのひら。
ぬるい、そんなものでオレは満足しない、強欲なんだ、言ったろう?
例えば、無限の時間。
例えば、無限の体力。
例えば、無限の才能。
例えば、紫原敦。
欲しいものならばいくらでも思いつく。そして、いずれも手には入らない。
いいや、ひとつだけ、ひとつだけならば、オレのこの無力な手でも掴み取れるはずだ。征服できる、攻略できる、跪かせてその頭を踏める。悦に入れる。
そのためならば。
なんでもしよう、顔も身体も使おう、どんな表情だって見せよう、そして、お前の肌にどっさり快楽を積み上げてやろう、逃げられまい?
これからだ。お前の進む先に真っ直ぐ伸びた、狂いのない一本のラインを描き直してやろう、ぐちゃぐちゃにしてやろう。道に迷って泣いてくれ、もうあなたしかいないんだ、正解を教えて、そう言ってオレに縋れ。
オレは笑って答えるよ、アツシ、オレはね、お前の身体にしか興味がないんだ。
アツシ、オレはね、お前が苦しもうが、お前が藻掻こうが足掻こうが、お前が最後に絶望しようが、知ったことじゃないんだよ。
オレは醜い、構わないさ、オレは気違いだ、構わないさ。オレの持ち得ぬものを、平然と手にしている天才が、誇りを投げ捨ててオレの前に傅く姿が見たい。手に入れるとはそういうことだ、オレの用意した泥沼に、なすすべもなく沈んでいけばいい。
例えば、紫原敦を。
落とす。可能だ、唯一可能だ。覚悟をしなければならないのは、お前のほうだよ。何度も言わせないでくれ、オレは目的のためならば手段を選ばない。いつか老いて死ぬまでそばにいてやるよ、一生をかけてお前を狂わせよう、恋なんかじゃない、愛してなどいない、残酷な囁きを幾度も幾度でも、紫原敦に差し上げよう。
(了)2014.06.13