てのひらの傷


 セックスの最中に、頸を絞められるのが好きだ。
 窒息ぎりぎりの身体に、意識に、ねじ込まれる圧倒的な快楽は、言葉にしがたい。
 いつからか、そうされないと達せられないようになった、我ながらきちがいじみていると思うが、些細な問題である。
 ならば頸を絞めてくれる人間を探せばいい。紫原敦はその意味でとてもいい。彼の大きなてのひらが頸にかかる瞬間の恍惚と言ったら、もうそれだけで、軽く到達できる。
「は……ッ、アツシ、頸を、絞め、て、くれ」
 古びた木の机を引っ掻きながら求める。願望というよりはほとんど命令である。
 ひとの寄り付かない南校舎、三階、並ぶ空き教室の一番奥、針金でディスクシリンダー錠を開けるのは氷室の役割だ、紫原はそうした作業が得意ではないらしい。
 内側からドアに鍵をかけて、押し倒されるのを待つ。すぐそこの廊下に誰かが立てば、中で何をしているかなどすぐにばれる、だから鍵などに意味はない、気休めというか礼儀だ。まあそもそもこの校舎にひとが立ち入ることなどは、まずないが。
 紫原は、机の上へ仰向けに組み敷いた氷室の脚を押さえ込み、規則的に腰を使いながら、言った。痕になるよ、室ちん。
 甘い、緩い声だ、この男は性行為をしているあいだでも、普段とあまり口調が変わらない、それは素晴らしい特性だ。
 熱く欲しがられても困ってしまう。好きだと掻き口説かれたら殴るしかない。キャンディでも舐めているような声で、やわらかく名前を呼んでほしい、そうすれば没頭できるから。紫原敦は、その意味でも、とてもいい。
「巧く、やれよ、アツシ……ッ、絞められないと、いけない」
「仕方ないなあ。室ちんて、とんだ変態さんだよねえ。じゃあ、脚、いい角度で開いててよね? 室ちんは知らないかもだけど、これでも結構気を使ってんだよ。室ちんはこのくらいが好きみたい、気持ちいいでしょ」
「気持ち、いい、アツシ……、ああ、すごく、いい、いきたい」
 囁かれる言葉を繰り返す、演技でもサービスでもなく、事実である。
 彼は、慣れていた。少々意外に思ったくらいには。だが、それ以上に、身体がよかった。当然相性の問題もある、単純に、サイズの話でもある。
 はじめて彼と寝たのがいつのことになるのか、もう忘れてしまった。ただ、そのときに彼の性器を舐めながら、これは入るのだろうか、と僅かばかり不安になったことは覚えている。極端に背の高い男である、腕も脚も長い、性器だってそれなりであろうとは想像していたが、実際に触れた彼は想像を超えていた。日本人てこんなになるのか?
 最初は、傷つきこそしなかったが、ちりちりとした痛みを感じた。
 ありえない違和感に、馴染むまで時間を要した。でもまあ、その痛みも違和感も、それこそが快楽であったので、あっという間に嵌った、こいつを、同じように嵌めてやろうと思う程度には。
 おおきい、アツシ、喘ぎながら、自分の声に酔った。
 凶暴なまでの性器で貫かれるのは、気持ちがよかった。紫原敦は、そう、その意味でも、とてもいい。
「室ちん。絞めるよ、いけるの? 制服汚すのいやなら、自分の手に出してよね」
 彼の手が、するりと頸に回されて、ぞくぞく鳥肌が立った。まだ力の込められていない指の感触だけで、快楽の予感に震えた、呼吸を、血流を止められる瞬間の恍惚は、癖になる、もうそれなしではいられない。
 小さく頷くと、どこか眠たげな目と視線が重なった。菓子を食っていようがセックスをしていようが、この男は眼差しさえも、変化させない。実に好ましい。冷たく甘く犯してほしい、お願いだから余計なものを持ち込まないで、感情なんて、邪魔だ。
「ほら、やるよ。痕つけたくないから、あんまり力入れられないけど」
「は、あ……ッ、く、ンンッ、う」
「締まるねえ。ほんとう、室ちん、変態、おかしいの」
 左右に走る頸動脈のあたりを、両手の親指で圧迫される。何故かは知らないがこの男は、こうした仕事に慣れていると思う、センスがいいと言うべきか。
 頭がずしりと重くなり、目の前が真っ白になった。尻を突かれて湧き上がる、寒気がするような快感は、身体の深くで弾けて指先まで散らかった、真空の暗闇に光が溢れ出すみたい。
 その通りだ、オレは真空だ、そう思う。
 血も流れない息もしない、中には何もない、なんでも引きずり込むけれど、実体なんてどこにもない。
 その通りだ、オレは暗闇だ、そう思う。
 結局光は降ってこなかった、祈っても祈ってもオレの手には与えられなかった、ならば溺れてしまえばいい、せめて光を持つ男を巻き込んで。
 強い男は、好きである。
「あッ、ふ……ッ」
 意識が半分遠のいて、射精している感覚は薄かった、ただその長い絶頂は、怖いくらいに鮮やかだった、この男が相手でなければそうそう味わえない。
 自分の性器に添えた左手に、生ぬるい体液がかかる、それを認識するのとほとんど同時に、ふわりと首を絞めていた指が外れた。
 畜生、やっぱりセンスがいい。
 いつの間にかきつく閉じていた瞼を上げると、紫色の影がかかっていた、何故か胸が苦しくなって、右手を彼に伸ばしかけ、すぐに机に落とした。美しい男だと思う、縋ることが罪だと感じるほどに。
 身体の中で息づく彼の性器は、まだ達していなかった。
 食い込む熱のせいで、散らばる快楽はまったく肌から消え去らない、開放された喉で呼吸を貪っていると、紫原がそこで緩く笑って、氷室の黒髪を撫でた。
「あ、ごめんねえ。ちょっと赤くなっちゃったかも。あんまり気持ちよかったから、計算以上に力入ったし」
「アツシ、は、いって、ないんだな」
「うん。もう少ししたいから、我慢した。このまま付き合ってね、室ちん、いくらでもいけるんでしょ。一度いっちゃった室ちんは、ひくひくしてて、気持ちいい」
 淡い微笑み、大丈夫、感情なんて透けていない、彼はただ、オレの頸に指の痕をつけてしまった自分に、笑っただけだ。
 絶頂の波に飲まれたまま、震えている身体を揺さぶられて、鋭い吐息が漏れた。気持ちいい? そうか、お前も気持ちがいいのか、それはよかった、オレばかりが嵌っても仕方がない、ではともに沈もうか。アツシ。





 ほんとうに殺されるのではないか、このまま殺してくれるのではないか、そんな手つきで巧妙に、頸を絞めてくれる男が好きだ。
 一瞬の忘却、思考が遠のいて快楽に塗り潰される、そういう時間がないと、とてもではないが生きていけない。
 オレは手放したいんだよ。
 何も持っていない、扉は開かない、鍵が違う、泣いても喚いても、光は差さない、そういう場所にいる。すべてをかけても、無駄。
 知るか、そんなこと。いや、知っているよ、そんなこと。
 だからひととき、何もかもを捨ててしまいたい。
 大丈夫、恍惚を貪ったあとには、ちゃんと拾い上げよう、現実を、がらくたをこの目に映そう、分かっている、扉の鍵は、空き教室のディスクシリンダー錠のように、単純な構造ではない、曲がった針金などではどうにもならない、それでも走る、放つ、それしかできないから、足が折れても腕が折れても、気が狂うほどこころが軋んでも、光のない影に立つ。
 磨いても磨いても、磨いても手は届かない、必死に磨いていつかすり減って壊れる、それも、分かっている。
 いまだけだ。
 男の性器を突き刺され、首を絞められて一度死ぬ。必要なんだ。惨めだと笑いたくば笑え。
 苦痛しかないんだ、上を向いても下を向いても、右も左も、何も見えない、見えるものは自分の身体に刻まれた深くて生々しい傷だけ。
 断絶されている。ならば断絶してやる。鉛の壁で周囲を覆って、誰にも見透かされないように、どうせ見えないんだよ、この壁を取り払うのは恐怖でしかない。
 死の遊戯みたいなものである。
 いつだって、その瞬間に、殺されてしまえばいいと思っている。本気である。だが、誰もその開放を与えてくれやしない、ならばせめて死の遊戯を、紛い物でも構わない、可能な限り本物に近い紛い物を、くれ。
 紫原敦は、とてもいい。
 彼のもたらす悦楽には、嘘がない、あるいは嘘を見せない。きっとこの男は、いつかオレを殺す、その光に侵食されて、オレは死ぬ、そう思う。思わせてくれる。
 大きな身体にのしかかられて、凶器のようなもので穿たれる、頸に巻き付く指には、少しの迷いもない。声も出せずにただ溺れる、瞼を染めるマドンネンブラウ、眩しくて眩しくて窒息しそう、そうだ、オレが欲しいものは、それだけだ。
 感情はいらない。
 好意は掃いて捨てる、恋情は鬱陶しい、愛情なんて注がれた日には、それこそ頭がおかしくなる。
 欲情ならばいい。互いの目的が合致する。オレが嵌っている程度には、お前も嵌ってくれ、素晴らしい。だが、愛は駄目だ、愛は自分を傷つける、同じものは差し上げられません、そんなこと、そうだな、お前は知っている、分かっている。
 捧げるだけのものを持っていない。
 だから、捧げられると持て余してしまう、返せない自分に絶望する、どうしてオレはこんなに空っぽなんだ?
 紫原の甘い声には、眠たげな目には、感情が掠めない。
 実に好ましい。切なく抱きしめられたら、オレは明け方の霧みたいに消えるよ。愛でオレを殺すくらいならば、頸を絞めて呼吸を奪って。
 身体を、こころを、ばらばらに散らかして、何も考えられない恍惚に浸りたい、性欲というよりは、もっと切羽詰まった焦燥だ、逃げたい、逃げたい、この一瞬に。
 そんなこと、そうだな、お前は知っている、分かっている。理解の早い男は好きだよ、紫原敦は、とてもいい。





 だから、不意に紫原が言ったセリフに氷室は、戦慄した。
 緩い声はいつも通りだ、こちらを追い詰める要素はひとつもない、だが、その紫色の瞳に過った熱は、多分見間違えではない。
 何を言っているんだ、アツシ?
 オレを連れ去ってくれないのか、アツシ?
「なに? 聞こえてないの? 絞めないって言ってんの。もうオレ、室ちんの、頸、絞めない。わかる? ぶっ飛んでんの?」
 甘く腰を使われて、快楽の波に身を委ねていた意識が、ぱちりと目覚める。
 一度達したあとの粘膜を、ゆっくりと、大きく擦り上げられるのは、好きだ、スパークみたいな快感ではなくて、絶頂が延々と続くような愉悦、中で味わうエクスタシーを覚えたのは、いったいいつのことだったか。
 紫原は、氷室の望む通りに、じっくりと内側を抉りながら、その言葉を繰り返した。もうオレ、室ちんの、頸、絞めない。
 身体が引きつったことは、こうして繋がっている以上は、彼にも伝わったろう。
 それでも彼は動きを変えなかった、急きもしなかったし、放り出すわけでもない。一番いい角度で、一番奥まで、性器を挿してくる。
 返した声は、掠れていた、自分で聞いて嫌気が差した、これでは泣き声だ。
「ど、して……。オレは、絞められ、ないと、いけない」
「うん。室ちんが、そう思ってるのは、知ってるけど。大丈夫、絞められなくても気持ちいいよ、ちゃんといけるし。なんかねえ、いま顔見てて思った、室ちんがそうされたいなら、何度でも絞めてあげようと思ってたけど、やめた、オレは室ちんの頸絞めるの、いや」
「アツシ」
 頸絞めるの、いや。
 捨てられる?
 精液で濡れた左手は机に投げ出したまま、右手を伸ばそうとしたが、やはりできなかった。絶望で目の前が暗くなる、嵌っている自覚はあったがこれほどか、この男に見放されたら、オレは。
 肌が冷える、それなのに、揺さぶられ続ける身体の内側は、燃えるように熱い、間違えようのない快楽と、吐き気でくらくら目眩がした、気持ちがいい、気持ちが悪い、もう意味が分からない。
 お前はオレを捨てるのか。
 オレのようなきちがいは、もういやか、そうじゃない、オレが何も持っていないから、オレのいる場所は闇だから。
 オレはお前に、相応しくないから。鍵が、違うから?
「ああ、駄目だ。このひと、完全に勘違いしてるし」
 こめかみに、生温い涙が伝って、ようやく自分が泣いていることに気がついた。
 彼は緩く氷室を突きながら、嘆息した。流し込まれたローションが、ぐちゃぐちゃといやらしい音を立てていた、とても卑猥だ、興奮する、しかし彼のその短い、淡い溜息のほうがよほどクリアに耳に届いた。
 一度飲まれてしまえば、岸には戻れない。
 恍惚の続く身体が、もう一度達したいと震える、それなのに、頭の中が乱れて感情と快感が巧くリンクしない。違う違う、はじめから、感情なんてないんだ、快感しかないんだ、それが無言の約束だったはずだ、互いに気持ちが良いことをしよう、それだけの。
 だいたい、だ、オレは絞められないと、いけないんだよ、知っているだろう?
「室ちん、死にたいの。オレに、殺されたいの」
 淡々とした声が、せめてもの救いである。露骨に軽蔑されたら、ほんとうに息が止まる。
 ずるずると太い性器を出し入れされ、机の表面に、右手の爪を立てて、喘いだ。この状態で別れ話か? 分かっていたことではあるが、紫原敦は非情である。
「室ちんが、何考えてるかなんて、オレ、ほとんど把握してるけど。どうせ一度放棄したいとか、手放したいとか忘却したいとか、そんなところでしょ。でもさあ、そんなことしたって、結局すぐに全部戻ってきちゃうんじゃないの、苦しいの倍増しで。だったらもう、やめよ」
「……オレ、を、捨てる、のか」
「捨てる? ばか言わないでよ。ねえ、オレねえ、好きじゃないひとと、セックスなんかしないの。すぐにさよならできるひとと、セックスなんかしないの。そこまで器用じゃないし、そこまで投げやりじゃないよ」
 ひくりと喉が鳴った。
 待て。駄目だ、待て。お前は何を言っている。お前は何を言っている。
 目を見開いて見上げた瞳には、やはり僅かな熱があった。紫原は、行為の最中に、そんな目をしない、だから委ねられたのだ。
 頸を絞める大きな手、長い指、血流が止まる、呼吸が詰まる、霞む意識で溺れる快楽がすべてになる、彼は氷室の欲しいものを完全に完璧に与えてくれた、だから、紫原敦は、とてもいいと。
 とてもいいと。
 馬鹿か。それで嵌まるほど、オレは単純ではない。
 強い男は好きである。だが、それだけで嵌まるほど。
 何を見ていた。
「分からないふり、しないで。ほんとうに分からないなら、室ちんは、最初からオレを誘ったりしないよ」
 じりじりと腰を使いながら、紫原は身を屈め、氷室の目を覗き込んだ。否応なしに視線が合う、美しい瞳だ、多分意図的になのだろう、ちらつかされる感情まで、そう、この男は、美しい。
 その感情は、何?
 感情はいらない。いらないと、ずっとそう思ってきた。
 好意は掃いて捨てる、恋情は鬱陶しい、愛情なんて注がれた日には、それこそ頭がおかしくなる。
 愛は自分を傷つける、同じものは差し上げられません、愛を捧げられても、こちらは捧げるだけのものを持っていません。その自分に、絶望する。オレは空っぽだ。
 重すぎると。
 分からない、ふりか。
 そこまでして、欲しかった?
 はらはらと涙が溢れる氷室のこめかみを指先で拭いて、紫原は、僅かに腰の動きを荒くした。抜けるほど引き出して、根本まで突き立てる、それを繰り返される。
 混乱する頭の中が、快楽に染まる、いきたい、いきたい。
 紫原のセックスは、好きだ、とてもいい、あまりがつがつされると参ってしまう、このくらい余裕があって穏やかで、最後に少し切実に。彼は巧い、センスがいい。でも。
 巧みだから、だけではないのか。
「いきたいでしょ? いけるよ、頸、絞めなくてもいけるから。へいき。同じように気持ちいい、きっともっと気持ちいい」
「無理、だ、アツシ……ッ、苦しい、助け、て」
「じゃあ、手を握ってあげる。そう、いける、いって。氷室辰也を抱いているのは、紫原敦です。感じて、さあ」
 右手を取られ、きゅっと握りしめられた。決して彼に触れられなかった、右手をだ。
 氷室辰也を抱いているのは。
 紫原敦です。
 ぞくりと知らない衝動が身体を駆け抜けた。声は殺したつもりだが、どうだろう、よく分からない。肌の内側に充満していた熱い渦が、高い場所から低い場所へ流れ落ちるような感覚、右手を握る彼のてのひらに爪を立てて、強く目を瞑る、瞼の裏に感じる光は頸を絞められて達するときよりも、まばゆい。
 気づいたら彼の手に放っていた。お前、気持ち悪くないのか?
 紫原は、室ちん、気持ちいい、と囁いてから、何度か腰を打ち付け、氷室の中で射精した。普段だったら、中で出すなと叱ったところだが、その余裕はなかった、奥深く注ぎ込まれていやに切なくなる。
 好きじゃないひとと、セックスなんかしないの。
 すぐにさよならできるひとと、セックスなんかしないの。
 お前は、オレが好きなのか、アツシ? オレを、捨てない?
 オレはお前に差し出せるものなんて、何も持っていないよ、だってこの場所は暗闇で、こころも身体も空っぽなんだよ。
 彼は、しばらく内側の痙攣を味わうように、繋がったまま氷室を見下ろしていたが、やがて性器を引き抜くと、背を向けてバッグに手を伸ばした。タオルを引っぱり出して己の手を拭き、それを氷室に投げ渡す。
 なんとか受け取って、のろのろと机の上に身を起こす氷室の前で、紫原は適当に制服を直してから、片手をかざしてみせた。氷室が引っ掻いた傷が、てのひらにくっきり残っている、血が滲んでいて痛そうだ、そんなに強く爪を立てたのか。
 何もかもを掴み取る、大きなてのひら。
 ちくりとした罪悪感に囚われる。それを傷つける資格は、汚す権利は、オレにはない。
「室ちんが、頸絞められた痕つけて歩くよりは、はるかにいいでしょ」
 菓子のかけらでも舐めるように、そのてのひらの血を舐めて、紫原は緩く、甘く言った。好きな声だ、と思った。そうか、オレは、この男のことが、好きなのか。
 馬鹿め、知っていたじゃないか、焦がれて、嵌って、溺れて、それなのに。
 感情なんていらないと嘯いて、頸を絞めろと乞う、認めたくない? 怖い? だから、考えたくない? 醜いな、醜いよ。
 もう、頸を絞められないと、快楽も貪れないのかと思っていたのに。
 お前は簡単に暴いてしまう、周囲を覆った鉛の壁から、オレを引きずり出す、そしてふたり手を握って、恍惚に身を委ねる、ああ、頭が痺れる、どうしたらいい? 慣れていないんだよ。
「自分でできる? 出してあげようか? ごめんねえ、室ちん、中に出してって顔してたから、出しちゃった」
「……できる。あっち向いててくれ、アツシ、見られていると、やりづらい」
「そう? オレ、指入れてる室ちん見てると、結構興奮するけど」
 紫原は氷室の言葉に、逆らわず身体の向きを変えた。広い背中を見つめながら、氷室は自分の尻に指を差し込んだ、機械的に処理をしようと思うのに、達したばかりの内壁が、太い性器の感触を勝手に蘇らせて、眉が歪む。
 傷をつけて悪かった、と小声で言うと、彼は、別に、と答えてから気配だけで笑った。
「ひとつずつやろうね。今日は手を繋いだから、次は抱き合うの。その次はキスしよう。大丈夫、全部気持ちいいし。室ちん、あいしてるよ」
「……I feel the same about you too.」
「あら? 素直だね」
 あいしてるよ。
 そんな言葉は。
 細い吐息を漏らして、指を伝い落ちてくる精液を少しずつ掻き出す。露骨な匂いが空き教室に満ちていて、なんだか居た堪れない。
 苦痛しかないんだ、そう思っていた。上を向いても下を向いても、右も左も、何も見えない、見えるものは自分の身体に刻まれた深くて生々しい傷だけ。
 だからあなたはてのひらに血を滲ませてみせたのでしょう、傷ならば一緒に背負うよ? 吐き気がするほど甘いよね。
 愛はオレを殺すのだとずっと思ってきたけれど。
 愛を教えてくれる人間もいるのか。
 窒息ぎりぎりの快楽よりも深い愉悦を、教えてくれる人間もいるのか、手を繋いで、抱き合って、キスをして、ならばひとつずつ教えてくれよ、ためらわずオレに愛を囁く、紫原敦は、そう、とてもいい。

(了)2014.04.09