溶け切ってしまうまで


 愛おしくてやわらかくて、甘くて苦い、夢みたいなもの。
 蝋燭に火を灯すように、ふたりてのひらで囲って温めたもの。
 お願いだから誰も吹き消してしまわないで、とても大事なものなのだ。
 いつか溶けてなくなってしまうものだとしても、それまでは守ると決めたから。


 恋愛というには切なすぎて、だが、それ以外の言葉では表現できないような感情である。
 アツシ、と彼が自分を呼ぶたびに、胸のあたりが痛くなる。
 そう言ったら彼は、蕩けるような笑みを見せて、オレもだよ、と囁いた。
「オレも、アツシがオレを呼んでくれると、いつも苦しいくらいにしあわせになるよ」
 その微笑みに、また、甘い毒でも飲まされたみたいに、気持ちのどこかが痺れる。
 手に入れたいとこころで喚き散らして、ようやく落ちてきた羽は、嘘のように暖かくて儚くて、必死に、それでも潰れてしまわないようにそっと、手の中にしまいこんだ。
 彼が自分に抱くものが、好意だけではないことくらいは分かっている。
 だから彼がどんなに優しく笑ったとしても、その指が手懐けるように繰り返しこの髪を梳いたとしても、自分にだけは決して靡かない、そう思っていた。彼はきっとオレを憎んでいるだろう。
 それでも欲しかった。
 なぜかと訊かれても答えに困る。
 ひたむきに走る姿が綺麗だったから? 届かない場所へ懸命に伸ばされる指先を、掴みたかった? そうかもしれない。暑苦しくて鬱陶しいはずの、秘められた熱に、いつの間に魅せられていたのか。
 涙? そうかもしれない。
 彼の美しい手から放たれる祈りをこの手で掴んで、空に届けたかった。冬だ。ごめんなさい、と呟いたら、彼は見たこともないような麗しい笑みを浮かべて自分を見上げ、馬鹿だな、アツシ、と穏やかに言った。
「オレは嬉しかったよ。ほんとうに嬉しかったよ。隣にいられて、よかった、ありがとう、アツシ」
 ああ、オレはいま完全に、落ちたな、と自覚したのは多分そのときだ。この笑顔を見るためならば、なんでもできる。
 好きなのだと告げたのは、しばらく経ってからだ。
 彼は平然と、オレも好きだよ、アツシ、と答えた、いや、そうじゃないんだ。
 昨日のことのように覚えている、まだ肌寒い空き教室にふたりきり、放課後、そんな場所に呼び出されておきながら無自覚な色男なんているのだ、参ってしまう。
 抱きしめても彼にはまだ分からないようだった、まあ、普段の行動と変わりないと言われてしまえばその通りである。少し迷ってから、抱擁を解き、身を屈めて、右の瞼にくちづけた。彼とて長身ではあるのだが、自分がキスをしようと思えばそうするしかない。
 彼はぱたぱたと瞬いて、自分を見上げた、やはり咄嗟には意味が理解できないようだった。数分は無言で見つめ合い、それから彼は視線を落として、仄かに頬を紅潮させた、年上の、無駄に経験値ばかりが高そうな男相手に失礼だが、なんだか可愛らしいと思ったものである。
 でも、と彼は微かに掠れた声で言った。
「オレは、男だよ、アツシ」
「室ちんが女に見えはじめたら、オレ、首でも吊るし」
「……アツシは、ゲイなのか?」
 この男は、言葉を選ぶタイプなのか選ばないタイプなのか、分からない。
 室ちんが好きなんだから、そうなんじゃないの、と答えた。自分としてはまともなことを言ったつもりだが、いい加減に聞こえたかもしれない。
 彼はまた数分は黙り込んだあと、三日待ってくれないか、ちゃんと返事をするから、と言って、よろよろ空き教室を出て行った。追いかけるのはやめた、彼が予想外に動揺していたようだったから。
 にっこり笑って、ノーサンキュー、あるいは、別に構わないけど一回五万ね、とか、軽くあしらわれるのかと思っていたが、そんなことはなかった。とりあえずはそれで満足だ、受け入れられなくとも彼は受け止めはしたわけだから。
 きっちり三日後、今度は自分が、同じ空き教室に呼び出された。部活の最中の彼は、厭になるほどまったくいつも通りだったから、自分の告白などは一瞬で忘れ去られたのかとも思っていたが、なかなか律儀だ。
 ドアを開け、空き教室に足を踏み入れると、彼は壁に背を凭れさせて、ぽつんと立っていた。
 躊躇してもしかたがないので、歩み寄り、お返事考えた? と訊いた。はっと顔を上げた彼は、自分の姿を見て、ほっとしたような困ったような複雑な笑みを浮かべ、頷いた。
 いつでもよく通る、澄んだ声を聞かせる彼が、そのときは珍しく、くぐもった小さな声で言った。艶やかな黒髪をぐしゃぐしゃと撫で回したくなって、こちらが困った、この男はオレのことを彼なりに、言葉通り、ちゃんと考えたらしい。
「オレはいままで、女性としかお付き合いをしたことがないんだけれど」
「うん。だろうね、室ちん、無駄に女受けいいし」
「それでも、アツシがいいというなら」
 オレも、アツシのこと、好きだよ。
 最後の言葉はほとんど震えていた、乙女か。
 目の前がくらくらして、自分より背の低い男に、しがみつくように彼を抱きしめた。彼は少し戸惑ったようだが、その両腕をそっと背に回してくれた、これは普段の遊びではないのだと互いに知っている行為だ。
 好きだよ? ああそう、言っていいんだ、そんなこと。
 くちづけには、彼はさすがに反射的に抗ったが、間近に見つめたまま待つと、すぐに大人しくなった。彼の言葉が事実であれば、そしてそれは事実なのだろうが、この男は男と性的なキスをした経験がないということになる。その認識はとても切なくて甘かった、オレとするのがはじめてなの?
 一度抵抗を捨ててしまえば、彼は従順だった。舌を差し入れても厭がらず、自分から絡めもした。まあこれだけの美貌の男なのだから当然、慣れていないわけはないのだが、相手が男だということで、彼はやはり戸惑ってはいるようだった。
 構わずに口腔を舌先で舐め回し、唾液を飲ませた。小さく喘ぐ声を漏らして、健気に喉を鳴らす彼が、たまらなく愛おしかった。
 言うほど焦ったつもりもないし、慌てもしなかったはずだが、少しくらいは逸ったかもしれない。長いくちづけを貪って、ようやく唇を離すと、彼は何か英語で呟いてから、自分の胸に火照った顔を埋めてもう一度、好きだよ、と言った。
 落ちたというより、もうこうなると、嵌ったな、そう思った。オレはこの男に嵌った。
 自分にしがみついてくる彼を再度きゅっと抱きしめて、何度も繰り返した、好き、室ちん、好き、大好き。彼は、そのたびに頷いて、同じような言葉を返したが、その美しい顔をなかなか見せてはくれなかった、見下ろした黒髪から覗く耳まで赤かったから、恥ずかしかったのか、そこいらの人間を捕まえて聞くに、この男はクールービューティーなんじゃなかったっけ?
 そうして紫原と、氷室は、密やかな恋人になった。
 誰にも明かさない、内緒だよ、蝋燭に火を灯すように、ふたりてのひらで囲って温めよう。
 いつか溶けてなくなってしまうものだとしても、それまでは。





 分かっているつもりである。
 あの冬、彼は吹っ切った。
 と、自分では思っているのだろう、だが、氷室はそこまで器用ではない、ボールを掴んで不意に苦しそうな目をする、なぜ、なぜ、なぜ自分には与えられない、まだそんなことを思うのか。
 無自覚だろう、そしておそらく紫原以外の人間は気付いていない、でも、自分には見えてしまう、そのたびに抱き寄せる、ふたりきりのロッカールームで、ひと気のない階段で、廊下で、その手が掴んでいるものは充分に価値があるんだよ、言えない言葉を唇を触れ合わせて伝える。
 氷室が自分を見る目に影を過ぎらせれば、甘い言葉で蕩かせる、そう、オレの持っているもの、あなたの持っているもの、上も下もありません、違うの?
 好きだから、気付いて、オレが半端なひとを好きになるわけがないでしょう。右と左から、手を差し伸べ合って指を絡ませよう、膜いち枚で隔てられ、いまは触れないのかもしれないけれど、それならば膜越しにてのひらを合わせよう、そしていつか、膜を破ってしまおう。
 好きだよ。室ちん、キスしよう。
 そうして好意を囁き合うことに慣らした、抱擁と、キスに慣らした、氷室は最初こそ困惑をちらつかせていたが、次第に大胆になった。
 おそらくこの男は相当に遊んではいるのだ、女とだが。だから、相手が男であるということに慣れてしまえば、あとは躊躇いはなかった、紫原の舌に噛み付いて唾液を啜る表情は、たまらなく艶かしかった、快楽も欲望も特に隠さない、そういう顔をさんざん誰かに見せてきたわけだ。
 だから、そろそろいいだろうかと判断して紫原が言ったときに、彼が真っ赤になったのは意外だった。
「室ちん、セックスしない?」
 いつの間にか住み着いてしまった空き教室、放課後である。
 彼はすぐには、まともに言葉も返せなかった。口を開きかけて閉じ、また何かを言いかけて言えず、しばらく唇を引きつらせてから、赤い顔のまま答えた。
 こんな男を相手にして、初心な女でも口説いているような気になって、少し可笑しかった。
 大事にするさ、ああ、大事にするとも、このひとはオレの恋人なのだから。
「オレは男と……したことが、ないんだよ、アツシ」
「うん。大丈夫、優しくするし」
「……ここじゃ、できないだろ、さすがに。校舎とか、寮では、できない」
 別にできるんじゃないかな、とは思ったが、言わないでおいた。
 すっかり身体を硬直させてしまった氷室を抱き寄せて、丁寧に背を撫でた、立場が逆だったら? それは怖いか、相手はオレだ、重いしでかいし、か弱い女を相手にしてきたような彼には脅威だろう。
 しばらく考えてから、じゃあさあ、と、氷室を抱きしめたまま紫原は言った。
「今度の日曜日、街なかに出よう、部活オフなんだし。適当にホテル取って、そこでしよ」
「……このへん、まともなシティホテルなんかないじゃないか。そこいらにあるビジネスホテルは、壁が薄いから、そういうことをしちゃいけないんだよ」
 変なところで常識人だ。
 抱き込んだ氷室の、つやつやとした黒髪を掻き乱してから、紫原は腕を緩めた。身を屈めて彼の顔を覗き込む、そんな口をきけるのだから少しは落ち着いたのかと思ったが、彼はまだ微かに頬を赤く染めたままだった、だから、乙女か。
 唇の端に、音を立てて軽くキスをして、警戒を解こうと試みる。
 欲しいよ、欲しいよ、眼差しに感情を乗せる、そういう作業はあまり得意ではないが、相手が彼なら努力しよう。
「んん。ラブホでいいでしょ、金ないし。オレと室ちんの見た目なら、年齢で止められることまずないし。このあたり、よく知らないけど、野郎同士で入れるところもあるんじゃないの。調べとくし、室ちんはなんにもしなくていいから、日曜日を指折り数えて待ってて。ああ、それとも、怖い?」
「オレは別に……怖いなんて言ってないだろ。しよう、アツシ」
「じゃあ、しようね」
 軽く挑発してやれば、氷室は、意外にも簡単に乗ったりもする。分かりづらいようでいて、こういうところは分かりやすい、とにもかくにも負けず嫌いである。
 最後に薄く唇に舌を滑り込ませるキスをして、氷室の腕を掴み、ドアに向かった。氷室は僅かに抗ったか、部活の時間、と言ってやると素直についてきた。
 腕を引かれながら、本気か、アツシ、と囁く彼の声が聞こえた。
 まあね、と前を向いたまま答えて、彼の腕を掴む指の力を少し強くした。
「オレだって青少年だし。安心して、慣れてるし」
「……オレだって、すぐに慣れるさ」
 声に出さずに笑ってしまう。ほらね? 負けず嫌いだろう?
 彼が自分に馴染んだように、彼が自分を巧く扱えるように、自分だって彼を少しは思い通りにできるのである、強引に誘って、それから蕩けるようなセックスをしよう、そうすればきっといつものように彼は、オレの名を呼んでくれる。
 アツシ、と。
 胸が痛くなるくらいに甘く切なく。
 もっと夢中にさせてあげる、ふたりで砂浜に城を作ろう、それは波に攫われればすぐに崩れてしまうものだけれど、そうしたら無数の砂の粒になって海に逃げ込もう。





 実は結構探した。
 男ふたりで入れるラブホテルなんて、東京ではいくらでも見つかったのに、このあたりでは珍しいのか。おかげでブラウザの履歴がおかしなことになった、誰かに見られでもしたら言い訳が効かないので、すぐに消した。
 などとはひとことも言わずに、紫原はさっさと氷室をホテルに連れ込んだ、日曜日の真っ昼間、部屋は選び放題というくらいに空いていた。
 行路、氷室は緊張を秘めたような顔をしていたが、ホテルに入ってしまえば開き直ったのかさすがに手慣れたもので、あっさり部屋を決めて、あっさりフロントからキーを取ってきた、そうだな、こいつは初心な乙女なんかじゃない、百戦錬磨だ。日本に戻ってそれほど経っていないだろうに、いつの間にそんなに女をたらしこんだのだろう。
 エレベーターで、軽いキスをした。
 ふふ、と彼は笑ったが、瞼のあたりがやはりまだ強張っていた。
 彼が選んだ部屋は、非常にシンプルだった。ウオーターベッドでもないし、ピンクの照明が点滅しているわけでもない、いたって普通のラブホテルといった一室だ、ここでよかったの、と訊いたら、一番安かったよ、と答えられて内心がっくりする、金がないとは言ったが、そこまでではない。
 狭い部屋だ、ベッドに腰掛け、ソファに荷物を投げる彼は、馴染みのカフェでコーヒーを飲んでいるときよりも、むしろ自然にそこにいた。いまさら女に嫉妬もしないが、この短期間で、まあずいぶんとお盛んだったんですねと言いたくはなる、こんな、どこも似たような作りのホテルには、もはや興味もないか。
 彼の隣に座り、身を屈めて横から顔を覗き込んで、緩く笑ってみせた。
「室ちん、好き」
 甘ったるく言うと、どこか固かった彼の眼差しが、ふんわりと撓んだ。可愛らしい。彼のこんな顔を見られるのは自分くらいなのだと思えば、知らずよろこびが湧く、息苦しいほどに。
 彼の表情が溶けるのを確認してから、こめかみにくちづけて、彼のシャツに手を伸ばした。彼はぴくりと身体を揺らせて紫原の手を押さえ、自分で脱げるよ、とやわらかく言った。
「女の子じゃないんだから、そんなふうに丁寧にしなくていいよ、アツシ」
「……恋人を丁寧に扱っちゃいけないの。いいよ、じゃあ立ってよ、室ちんはオレの服、脱がして」
「まあ、いまさらという気もするけど」
 ベッドから立ち上がってふたり向かい合い、互いの服に手をかけながら、氷室は少し笑った。もちろん、彼も自分も、いまさらだとは思っていない、ここはロッカールームではない、セックスをするためのホテルだ。
 彼は男と抱き合うのははじめてだというし、ならば自分も彼と抱き合うのははじめてである、これから何をするのだか、分かっているから笑うのだろう、そうしていないと彼は不安だ。
 氷室は不自然なくらいに楽しそうに、紫原の手に従って服を脱ぎ、紫原の服を脱がせた。ときどき触れ合う指先が、ぎこちなく強張っていたが、頼むから無視してくれというようにすぐに離れるので、気付かないふりをした。
 頸から下げたリングが光る、こんなときでさえ外さないわけだ。
「ああ、いい身体だな、いつ見ても美しいよ、アツシ」
 特に遠慮もなく、下着まで相手の服を引き剥がしてしまってから、改めて向かい合って氷室は感嘆した。全裸の自分を目の前にして、怖くないのだろうか引かないだろうかと見やるが、彼はただ目を細めて自分を眺めているだけだった、恐怖も不安も消えるほど自分が美しいとは思えないが。
 右手を伸ばし、彼が怯えないのを確かめてから、黒髪を撫でた。
「オレはただ、でかいだけだし。美しいなら室ちんでしょ、ねえ、室ちんの中、洗っていい?」
「え? ああ……。どうすれば、いいんだ? オレはよく分からない」
「言う通りにして、それだけ。お腹痛くなったらごめんね」
 さらり、指先に素直に流れる髪が、照明を跳ね返すさまが綺麗だ、そういえばライトも絞っていないが、まあ構わないだろう、よく見えたほうがいい。
 ベッドに両手をついて、腰を上げて、と言うと、氷室はさすがに躊躇う顔をした。その目の前で、放り出してあった鞄からざらりと道具をシーツの上に出す。別に大したものはない、洗浄器具と、ローションくらい、後者はともかく前者は置いていないホテルが多い。はじめてだという相手に、トイレかシャワーで自力で洗ってきてというのも酷だし、そのままでいいよというのもまた酷だ。
 厭だというのなら、抱きしめて身体に触れるだけでもいいか、と思って表情を見ると、少し眉をひそめてそれらを睨んでいた彼が、目を上げて紫原に言った。
「……ほんとうに、慣れているんだね、アツシ。誰に使ったことがあるのかなんて訊かないが、その誰かを思い出すなら、オレには使うな」
 この男は馬鹿なんだと思う。
 手の甲で、白く緊張した頬を、叩くでもなく軽く弾いて、紫原は身を屈め氷室と視線を合わせた。彼が抱いた女たちに、自分がさほど嫉妬をしないのは、それが自分とは異性だからだなと頭の隅で思った。
 この男は、オレに経験があることに対して、少なからず苛立っている。それはオレが抱いた相手が、彼と同じ男であるからには違いない。馬鹿言え、過去は過去でいまではないし、もしふたりとも経験がなかったら、目も当てられないような行為しかできないよ。
 見つめた彼の、まっすぐな視線に射抜かれる、綺麗な色の瞳が煌めいて、そう、美しい。
「室ちん、オレ、いまの恋人のことしか考えてないよ、分かるでしょ。そもそもこれ全部新品だし」
「……妬いているわけではないよ。ただ、お前の影に見える誰かが気になるだけだ」
「ああ、そう。じゃあ、気にしないで、オレの影には誰もいないし、そもそもオレに影なんかないし」
 それを妬いていると言うんだよ、普通は。知らないのか?
 自分を睨む彼がきらきらと輝いていて、嫉妬なんて醜いだけのものなのかと思っていたが、そうでもないなと紫原は思った。
 氷室は、しばらくそうして紫原に眼差しを刺していたが、ふとそれを緩め、右手を差し出した。首を傾げた紫原に、じゃあ貸して、と言って、ベッドに散らした道具を軽く指さした。
「洗うんだろう? 洗ってくる。アツシは、待っていればいいよ」
「……自分じゃ、やりにくくないの。手伝うし」
 言われるままに、太いスポイトをその右手に渡すと、彼は一瞬考えるような目をしてそれを見下ろしてから、すぐに顔を上げてふわりと笑った。
 微かに動揺が透けて見えたが、それは確かに普段に近い微笑みで、また胸が苦しくなった、この男はほんとうに綺麗に笑うと思う。
 それはこれだけの美形だ、笑顔も泣き顔も絵になる、どちらも好きだ、見蕩れる、でもやっぱり、笑顔のほうがいいかな。
 どうせ泣くのならば、誰のためでもなく何のためでもなく、オレのために泣いて。
「そのくらい、自分でできるだろ。アツシとセックスするために必要だというのなら、別に苦じゃないよ」
「……うん。じゃあ、待ってるし」
 平気でさらりと、そういうことを言えるのは、慣れているからだ、女が相手だったとはいえ。
 素肌を晒すことには、特に恥じらいはないらしい、別にどこを隠すでもなく、というかむしろ見せつけるように平然と、左手で背の高い紫原の髪を撫で、彼は、右手にスポイトを握ってベッドに背を向けた。あっさりしたものだ、その道具を使うことは、多分この男にとっては相当抵抗があるだろうが、それを見せないのはプライドか。
「それなら、気にしない。別にお前が、いままでに誰かと抱き合ったんだとしても、気にしない。でも、きっとオレのほうがいいと思うようになるよ、アツシ」
 彼は、背を見せたまま唄うように、穏やかに言って、トイレに消えた。思い切り気にしている。プライドじゃないんだ、自分の過去の男に張り合っているんだ、そういうところは可愛い。
 それでもたっぷり三十分は待ったと思う。
 心配になるくらいの時間、氷室はトイレに立てこもった。ベッドに座ってそれを待つ紫原が、いい加減、声をかけようかと立ち上がりかけたときに、ドアが開いた。ほっと見上げた彼は、しかし視線を合わせず今度はバスルームに去った、ちらりと窺えた美貌には、特に苦労をしたという様子は見えなかったが、それ以外の表情さえもなかった。まあ、苦労したのだろう。
 シャワーを浴びて、ようやく彼がベッドに戻ってきたころには、紫原もさすがに待ちくたびれていた。この時間、ホテルはフリータイムなので、別に時間を気にすることもないけれど、熱を持て余してじっとしているのも結構きつい。
 彼は、誘うまでもなく自らベッドに上がり、仰向けに横たわって、はあ、と吐息を漏らした。男と寝るのは大変だ、とか、結構しんどかった、とか言うのだろうかと思ったが、彼はこれといって不満も零さず、ただ、アツシ、と座っている紫原を呼んだ。
 そういう方針ならば、それに従おう。膝でシーツに乗って、氷室に覆い被さると、彼はその紫原を見上げて、感動したような溜息を吐いた。
「こうして見ると、なおさら大きいな、アツシ。圧倒されるよ、ほんとうに捻り潰されそうだ」
「……そんなことしないよ、優しくするし。オレが、怖い?」
「いや? 怖くない。セックスしよう、そのためにここにいるんだから」
 怖くない、という言葉は、半分は本心で、半分は嘘だな、と思った。意地っ張りなんだから。
 いつもよりも熱くて、あからさまに性的な口付けを交わした。そのまま上半身をキスで埋めると、彼は最初こそ困惑したように身体を強張らせていたが、次第に馴染んで、溺れた、躊躇なく快楽を相手に伝える表情は、こんな行為には慣れている証拠である。
 ちりっと、耳の後ろのあたりに痛みを感じた。オレが女だったら、では彼はどういうふうに振る舞うのだろう。いまさら、しかも女相手に、嫉妬もないかと思っていたが、あるいは自分もそれなりには気にしているのか?
「は、あ……、アツシ、気持ちいい」
 うっとり囁かれる声に、欲情した。
 潤んだ目だとか、しっとりと汗に濡れた肌だとか、喘ぐ声だとかに、欲情した。自覚していたよりも、自分は彼が好きなんだなと、身体で分かった、好きだ、好きだ。
 切なくてどこかが、何かが千切れそう、一度手に入れてしまえばもう失えない、ふたりのあいだにあるものは強固であり、かつ儚い絆である、どうか誰も邪魔をしないで、とても大事なものなのだ。
 くちづけを降らせただけなのに、彼の性器が反応していて、ぞくりとした。同じように勃ち上がっている自分の性器を、擦り合わせるように強く抱きしめて、うつ伏せになって、室ちん、とその耳元に言った。
 彼は数秒考えるような間を置いてから、紫原の髪を優しく掴んで顔を上げさせ、蕩けたような笑みをみせた。
「アツシの顔が見えないのは、厭だな、このままでいいよ」
「きつくない? 女の子とは違うんだよ」
「きついのは平気だよ。お前だってオレの顔、見たいだろう? アツシ」
 アツシ、と、彼に名前を呼ばれるのは好きだ。いつもよりも甘くて、僅かに掠れた声に肌がざわめく、官能の塊みたいな男だなと思った、常から色気はあるが、ベッドではこうなるのか。
 性器を触れ合わせてみても、彼はこれといって嫌悪を見せなかった、服を脱ぐまでには多少のためらいもちらつかせたが、実際に身体を重ねてしまえば、相手が男であるということは大して障害にはならないらしい。
 じっと彼の美貌を見下ろして、もう何度目になるのかも分からないキスをしてから、身を起こした。シーツに放り出していたローションのボトルを掴み、じゃあ、脚開いて、となるべくフラットに言った。
「自分の手で、押さえて。開くから」
 氷室は二度、三度瞬きをしてから、素直に紫原の言葉に従った。両手を自分の膝裏にあてがって脚を抱え、尻を差し出してみせる。
 少し驚いた、渋るのかと思ったが、この男にはセックスに関して禁忌がないのか。もしくは見せつけているのか? いっそボトルを投げ出して、その場所に唇を付けたいような気もしたが、さすがに最初からそんなことをしたら逃げるな、と思ってやめた。
 キャップを外したボトルからローションを指に取り、なるべく怖がらせないようにと、丁寧に塗りつけた。それでも彼は一度きゅっと目を閉じたが、それからそっと瞼を上げて、紫原を見つめ、微かに笑った。





 指を三本入れるまでに、結構な時間がかかった。
 ただ単純に、肉体的に、解すまで手間と根気が要ったということだ。最初はこういうものだったかと、考えるでもなく紫原は考えた、使い慣れない場所を、しかも用途外に使おうというのだから、まあ、こんなものか。
 彼の内側は熱くて、欲を唆った。
 急きたくなるのを堪えて、彼の表情を確認しながら指を動かした、彼の脚が震えていたものだから、なんだか可哀想になって前立腺を指先で弄ると、彼は高い声を上げた、鳥肌が立つくらいに色めいた声だった。
 僅かに力を失っていた性器が、きっちりと勃起した、いままでに何人の女と寝たんですかなんて野暮なことは訊かないが、そこそこ遊ぶだけはあるなと思うようなパーツだ、しかしそのわりには、色が高価な絵の具を塗りつけたみたいに綺麗だったので、それにはなんだか見蕩れた。
「ああ……ッ、アツシ、そこ、駄目だ……ッ、もたない」
「いってもいいよ、室ちん」
「指じゃ、駄目だ、まだ、入らないか……? 入れてくれよ」
 頬を染め、己の脚に爪を立てて、喘ぐ彼を前にどうやって抗えと?
 指を抜き、緩んだ場所にボトルのネックを差し入れて、直接中にローションを注ぎ込んだ。ひくりと震える彼の膝にひとつキスをして、もういいだろうというまで流し込んでからボトルを引き、次に自分の性器に上から垂らした、滴るローションでシーツが汚れたが、場所が場所だ、構うまい。
 彼の脚をさらに片手で押さえつけ、猛る性器の先端をその場所に押し当てると、それまで奔放だった彼もさすがに喉を鳴らして唇を引きつらせた。
 怖くないよとか、つらくないよとか、言っても嘘になりそうだったので、言わなかった。ひとこと、入れるね、とだけ囁いて、なるべく無駄な負担を避けるように、慎重に侵入した。
 氷室は、聞いたこともないような、悲鳴みたいな声を上げた。
 紫原は自分を、冷たい人間だとも熱い人間だとも思っていなかったが、その声で自分に潜む征服欲をはっきり自覚させられて、あるいはオレはオレの嫌う暑苦しい男なのではないか、などと思いもした、意外とその認識に屈辱は感じない。
 そうだよ、オレのものだよ。
 恋愛というには切なすぎて、だが、それ以外の言葉では表現できないような感情を、身のうちに抱えている。
 オレはオレのものであると同時にあなたのもの、あなたはあなたのものであると同時にオレのもの、名前を呼ばれるだけで目が眩むのだから、こんなふうに繋がってしまえば気も狂う。
「あ……! アツシ、広がる……ッ、ああ、すごい」
 途中で少し待とうかとも思ったが、それで彼が落ち着くとも思えなかったので、じりじりと全長を差し入れた、さんざん慣らして、ローションで濡らしたせいか、思っていたほどの抵抗はなかった、それでも、ぎゅうぎゅうときつく締め上げられて、淡い吐息が漏れた。
 根本まで押し込んだときには、彼は恥もなく堪えもせず泣いていた、ぱらぱらと涙をこめかみに零して、呼吸を喘がせている。そうだな、泣くのであれば、こういうときに泣いてくれ。
 ああまただ、と思った。
 こころが痺れる、いつもよりも痺れる、この感覚はとても切実だ。息ができなくて、胸が潰れる、これを恋情だというのならば、確かにオレが落ちて嵌っているものは恋だ。
 恋愛というには切なすぎて、だが、それ以外の言葉では表現できない感情。
 好きだ、好きだよ、好きだ、好きだ。
 ねえ、ふたりで見守ろう、蝋燭に灯した細くて暖かい火を。
「全部、入ったよ、室ちん。へいき?」
 いまの彼には聞こえないかなと思って言った言葉は、ちゃんと聞こえたらしい、氷室はぎゅっと瞑っていた目を開けて、泣き顔のまま仄かに笑った。
 余裕がなくて余裕があって、エロティックで、そして健気な顔だ、この男でも、そんな表情をするんだ、いや、この男らしいのか。
 萎えてもいいはずなのに、彼の性器はきつく勃ったままだった、そうだ、少しでもいい、快楽を感じてくれ。
「へい、き……。アツシ、好きにして、いいよ、動いて」
「……きつくない? 無理しなくていいし。オレ、結構満足」
「アツシが入って、いると思うと、とても愛おしいよ……。お前も、気持ちよく、なってくれ」
 狙って言っているのか、そうではないのか、分からない、あるいはどこかの女にそんなセリフを言われたことでもあるのか。ちくりとまた耳の後ろが痛くなったが、無視をした。
 じゃあ、きつくなったら止めて、と言ってから、手首を掴んで彼の手を膝裏から離させ、片脚を肩に抱えて腰を使った。なるべくゆっくりしようと思うのに、気付くと貪る動きになっていて、これはもう自分のほうが余裕なんてないなと思った。
 シーツを握りしめる彼の指が、力を込めすぎて白くなっている。声を抑えているのは分かるが、それでも自分の動きに合わせてときどき喘ぎが漏れ、それがとてつもなく艶めいていて、視界がぶれた。
 大事なひとだ、大事にしたい。
 優しくしたい、甘えたいし、甘やかしたい、それでも。
 ああ、なんだろう、この感情は、このまま引き裂いてしまいたいなんて、自分だけが覗ける万華鏡に、閉じ込めてしまいたいなんて、オレはどこまで強欲だ。
 もう、オレ以外の誰とも肌を合わせないでくれ。
 こんなふうに誰かに必死になるなんて、執着するなんて、ほとんど信じがたい。
 恋愛とはこういうものですか?
「ああッ、アツシ……ッ、いきたい、いかせてくれ」
 しばらく奥深くを突いてから、弱点を先端で抉る動きに変えると、彼はそれが気持ちよかったのか、耐えられないというように首を左右に振って声を上げた。切羽詰まった、いい声だ。
 今日、はじめて男と寝るような相手に、尻だけでいけと言っても無理だろう、片手で彼の性器を掴み、軽く擦ってやったら、彼はそれだけで、あっけなく手の中に達した。
「は、ああ……! アツシ、アツシ」
 きりきり絞り上げられて、目の前が赤くなる、自分も果ててしまいたくなるのを堪えて、絶頂に痙攣する彼の内壁を充分味わってから、硬い性器を引き抜いた。中で出しても彼は怒らなかったかもしれないが、後処理をしろというのも、させろというのも難易度が高い。
 てのひらが濡れている。
 これがこの男の精液か、舐めてみたいとふと思ったが、さすがに引かれるかと思ってやめた。
 しかし、この中途半端なものを、どうしろと。
 シーツの上にくたりと横たわり、はあはあ肩で息をしている氷室の腕を掴んで、できる限り優しく引き上げた。力が抜けたように、されるがまま身体を起こした彼の目の前で、ついいままで彼の中に入っていた性器を、彼の体液で濡れた右手で雑に扱いた。
 まだ愉悦の波が抜け切らないか、彼は何秒か、その意味が分からない、という顔で性器を見ていた。それから、ああ、と呟いて、何の躊躇いもなく顔を寄せてきた。この男は男を咥えることにはあまり抵抗がないらしい、意外だ、それは相手がオレだから?
 唇を開いて、舌を出そうとする彼の黒髪を、左手で掴んで引き止めた。何? というように上目遣いでこちらを見た彼の顔に向かって、その距離で、射精した。
 顔面に精液を浴びせられて、彼はしばらくきょとんとしていた、彼にしては珍しい表情だ、状況が把握できなかったのだろう。綺麗な黒髪からその美貌から、どろりとした白濁で汚した彼は、くらくらするほどいやらしかった、ねえ、飲まされるよりはましじゃない?
 それから彼は、自分が何をされたのかようやく理解したらしく、ふふ、と笑った。意図的なのかそうでないのか、その笑みは冗談みたいに艶かしく、かつ背徳的で、自分で彼の顔に射精しておきなら、紫原は密かに息苦しさに胸を喘がせた。
 ちらりと舌を出して、唇に飛び散った精液を舐め取る。
 美しい瞳に見つめられて、魂まで抜かれそう。
「アツシの、精液は、切ない味がするね」
 放課後の空き教室、男と寝たことがないのだと、恥じらって赤面していたのは、どこのどいつだ。





 互いの手でもう一度、二度、快楽を絞り出してから、シャワー浴び、ホテルを出た。
 恍惚に溺れたというよりは、もっと身に迫るような行為だった、お前が欲しい、欲しい、欲しい、そういうもの。
 帰路、食事を摂るには時間が早かったので、適当なカフェに入って、コーヒーを飲むことにした。紫原のぶんのケーキは、氷室が勝手に注文してくれた、物欲しげにしていたつもりはないが、そう見えたか。
 店員の、珍獣でも見るような顔にも、まあ慣れている、この体躯のおかげでどこにいても目立つ、いまさらである。
 店の隅のテーブル席が空いていたので、向かい合わせにソファに座った。コーヒーはすぐに運ばれてきた。ケーキはオーダーをした氷室の前に、当たり前のように置かれたので、彼が笑って皿を紫原の前へ寄せてくれた。
 小さくて可愛いザッハトルテ。
 フォークを刺しながら思う、オレの、いや、オレと彼の抱えているものは、これによく似ている、そして、全然似ていないかな。
 愛おしくてやわらかくて、夢みたいなもの、刹那的だ、ケーキだ。でも、その儚い夢は、ケーキのように甘いばかりではない、苦いんだよ。
 蝋燭に灯した火だ、触れれば熱いよ、肌が焦げつくよ、なのに、ふたりてのひらで囲っていなければ、いつの間にか消えてしまうものだ。風が吹けば、雨が降れば、いつの間にか消えてしまうものだ。
 だから守ると決めたのだ。
 甘くて可愛いだけの恋もできるのだろう、自分はともかく彼ならば、違うか、彼のほうがよほど無理だ、こころに影さす闇はいつ晴れる?
 その階段に届かないと、その扉を開けないと、彼が藻掻くのならば、そばにいよう。彼が涙を零す地に、悔しいと見つめるてのひらに、どれだけの価値があるか、あなた分かっていないんだね。
 オレは知っているから。
 彼が分かるまで付き合おう、隣にいよう、表情が曇るたびに抱き寄せキスをしよう、ほら、気づかないの、手を繋げるんだよ、オレの持っているものとあなたの持っているものを、混ぜ合わせたらどれだけ綺麗な色になると思う?
 祈りはふたりで空に届けようか。
 何もかもまだはじまったばかり、終幕を見据えていても仕方がない。
「室ちん、大丈夫」
 ケーキをつつきながら言うと、向かいでコーヒーカップを傾けていた彼が、ひとつ目を瞬かせた。何が?
 ちょっとした言葉ならば、声に出さなくてもだいたい把握できる、そのくらいにはいつでも一緒にいる、猛獣と猛獣使いだとからかわれる程度には。
 崩したチョコレートを口に運ぶ、甘い、だがその裏に、僅かな苦味があった、なんだ、分かっているじゃない?
 結構旨い。
「痛かったりしないの? はじめてだったんじゃないの」
 隣の席には聞こえないような小声、内緒話。どんな場所にいても彼と向かい合えば、そこは切ない密室だ。
 氷室は、紫原の言葉にくすりと笑って、大丈夫だよ、と答えた。シャワーを浴びたばかりの黒髪が、きらきら照明で輝く、美しい男だと思う、頭の先から爪先まで。
「まあちょっと違和感はあるけど、大丈夫、アツシが、だいぶ遠慮したから。アツシこそ、大丈夫か? 足りないだろ」
「……室ちん、オレを猿かなんかだと思ってる? これでも紳士だし」
「紳士があんなことをするのか?」
 顔にぶちまけたことか。まあ、言い返せない。
 またひとしきり、黙ってザッハトルテの解体に勤しんだ。コーヒーを空にして、おかわりを頼もうとしている氷室に、ケーキにかまけていて口を付けていなかった自分のカップを差し出した。
 にこりと笑って受け取る彼の、その美貌に見惚れた。
 なんとなくそんな気分になって、左手を伸ばし、目の下のほくろに指先で触れた。周囲の視線? 知るか。
「オレはいま、とても満ち足りた気分だよ、アツシ」
 氷室は特に嫌がりもせず、むしろ悪戯に色っぽい視線を投げてよこして、さらりと言った。小さな、それでも澄んだ声、つい先程まで掠れた喘ぎを漏らしていた男とは重ならない、いやいや、重なるか、困ったことに。
 指を離し、せっせとケーキを口に運びながら、紫原は言葉を返した。頼むから無駄に色気を振りまかないでくれ、そうだ、前から言いたかった、それがオレの前でだけ見せる表情ならいいが、違うんだろ。
 彼が、あちらこちらから懸想されている事実を知っている、まったくうんざりだ。
「悪いけど、オレのほうが満ち足りてるし。オレ、室ちんに名前呼ばれるだけで、わりといけるし」
「名前を呼ばれるだけで? ああ、それはクレイジーだな、アツシ、さすがにオレでもその境地には立てない」
「……じゃあ、オレのほうが室ちんを好きだね、勝ちだし」
 クレイジー、と、妙にいい発音で言われて、ぶつぶつ呟いた。そうだよ、オレはあなたに夢中です、狂っています、何か文句がありますか。
 それからまた無言で、ケーキを摂取する時間が続いた。皿が空になるのと、氷室が二杯目のコーヒーを飲み干すのは、ほとんど同時だった。
 行こうか、とひとこと言って、伝票を手に立ち上がる氷室のあとに、のそのそとついていった。財布を出そうとするのを制され、なんで、と問うと、彼はさっさとふたりぶんの会計を済ませながら、素晴らしい笑顔で言った。
 声をひそめもしなかった、というか、いつもよりも心持ち大きい声だった。
「だって、ラブホテルの金、アツシが払ったじゃないか」
「……室ちん」
 わざとそういう真似をするな。拳で美貌を殴りたくなる、できやしないが。
 彼の手首を引っ掴み、空気の凍りついたカフェから慌てて外に出た。その歩調のまま駅へ向かうと、引きずられる氷室が後ろで面白そうに、軽く声を上げて笑った。
 何がしたいんだ、何がしたいんだ? この男は見た目がとにかく綺麗だから、それでなくてもひと目を引くのに。
「ごめん、アツシ、ちょっと自慢したかっただけだよ、オレの恋人はこんなにいい男なんだって」
 下手な言い訳だ、オレを動揺させて、楽しんでいやがる。
 恋人、いい男、そのあたりの言葉すら彼は平然と口にした、少なくはない人々が行き交う駅前通り。自分が顔を赤らめている自覚はあった、いつかの彼のように、告白をしたときだとか、初めてキスをしたとき、セックスに誘ったときだとか。
 仕返しか?
 これ以上喋らせまいと、手を掴んだまま返事はせずに駅までまっすぐ歩き、改札に氷室を押し込んだ。彼は、ひとの悪い目をして紫原を見やり、くすくすと笑っていた、まあ、今日の行為で彼が不機嫌にはならなかった、むしろ御機嫌になったのは分かった、ならばそれでいいか。
 そうだ、愛おしくてやわらかくて、甘くて苦い、夢みたいなものだから。
 蝋燭に灯した火をてのひらで囲うように、ふたりで大事に温めましょう。
 別れの日が来るのならば、しかたがないことだけれど、オレからはその手を離すつもりはないよ、覚えておいてよ、いつか蝋燭が全部溶け切ってしまうまで、火を消さない、守るから。
 よく見てよ、あなたはどこに立っている? その大地はとても尊い、ねえ、破りたくて破れなかった膜を破ってしまったよ、どちらがどちらの水なのか、分からないくらいに混ざり合おう、さあいまからスタートだ、そうすれば見えるはず、その美しい瞳にも、この景色が、ねえ、ふたりで手を伸ばせば天に届きそうじゃないか?

(了)2014.02.27