逃避行


 氷室は夜、よく寮を抜け出している。
 そういう噂が立っていることは知っている。
 まあ事実なので否定はしない、しかし肯定してしまうわけにもいかないので曖昧に笑っておく。笑みを見せられた相手の反応はまちまちだが、それ以上の追求は拒否した表情なので特に苦言も呈さない。
 氷室には、パトロンが付いている。
 寮を抜け出すのは、そいつに会うためだ。
 そういう噂が立っていることは知っている。これもまあ事実だ。
 別に寮を抜け出すたびに会うわけではない。しかし、それなりには会う。金をもらわないわけではないので、パトロンともいうのかもしれない、自分としてはそのつもりはないが、噂などどうでもいい、どうとでもなるものなので構うまい。
 恋人などではない。
 いつだったか日曜日にひとり出掛けた街で声をかけられて、ちょうど投げやりな気分だったこともあり、なんとなく靡いていまに至る、同じ年頃の男、女を甘やかすのも楽しいが、たまには自分だって誰かに甘えたくもなるのだ。ならば思い切り年上の男が適任だろう。
 それなりの相手でなければ続かない、だからそれなりの相手である。
 秘密厳守、ばれたら洒落にならない、学校にはいられなくなるか、だが証拠を握られさえしなければ、噂はただの噂だ、何をすることもできなかろう。
 集団生活は、嫌いではないが好きでもない。
 昼間はそれなりに馴染んだような顔をしていられるが、夜、ひとりになると、どうしても息苦しくなるときがある、誰かが頭の隅で囁く、逃げちまえよ、こんな生活から逃げちまえよ、現実から逃げちまえよ、その声に唆されて逃避する、そういう時間があってもいいと思っている。
 コートを着込んで、裏門まで建物の影を辿って歩いた。
 腕時計を見ると二十三時を過ぎたころ、約束の時間を過ぎていたが、待ってくれることは知っているのであまり気にしない。
 寮の裏門はそれほど厳重ではない。
 飛べば這い上がれる程度である、いつものように柵に手をかけられたところで、不意に背後から声をかけられた。
 正直、驚いた。誰かに見つかるような、下手な真似はしていないつもりだったが。
「室ちん、どこいくの、こんな時間に」
「……アツシ。お前こそ、こんな時間に何をしているんだ?」
 声を聞いて、振り向いて、それでもほっとした、懐柔できる相手だ、助かった。
 紫原はやはりきっちりコートを来て、マフラーまで巻いてそこに立っていた。息が白くて、寒そうだな、と他人ごとのように思った。いや、オレだって寒いが。
 紫原は大股で、柵を掴む氷室に歩み寄り、その手を軽く握った。指先が冷えている、いつからお前、ここにいるんだ?
「室ちんが、寮を抜け出してるって噂聞いたから、張ってた。ようやく捕まえたし。オレを毎晩裏門に立たせるなんて酷くない、もう一週間くらいだよ」
「……いまさらじゃないか? そんな噂、もう何か月も前から立ってるよ」
「オレが聞いたのは最近なの。そろそろ、嘘だと思いはじめてたけど、ほんとうだったし」
 彼が言及したのは、まずはそこまでだった。
 ならば、パトロンがいるという噂も同時に聞いているはずだが、触れられないのか、触れたくないのか。
 白い息を吐きながら、しばらく見つめ合った。雄弁な眼差しだなと思う、この男は普段は感情を表に出さないが、自分が相手であればまた話は別である。
 それでも露骨に表情には出ない、目付きで語る、怒りました、不機嫌になりました、それから、嫉妬しています、綺麗な瞳に映る影は美しい。そうだな、笑顔だけは僅かに顔に出るか、僅かにだが。
 少し考えてから、にこりと笑ってみせた。今夜は逃げたい気分である、と言っていま彼に見逃してくれと言っても無駄だろう、ならば同罪にするか。
「じゃあ、アツシ、一緒に抜け出そうか」
 彼は一瞬、驚いたような顔をした、重なった手が僅かな動揺を伝えてくる。なかなか可愛い。
 そう、この男とは、何度か寝たことがある。パトロンとやらと抱き合った回数ほどではないが、それなりには。まさか恋人などではないし、お付き合いしています、というようなものでもない、しかしこの男は自分に執着をしている、毎夜裏門に立つ程度には、そういうことだ。
 彼は、かすかな狼狽を、すぐにいつもの無表情に隠して、なんで、と問うた。この男の甘くて緩い声は好きだと思う、彼といると何となく落ち着く、だから逃避行を共にするのも悪くないか。
 ちくり、こころに針が刺さる。
 そうじゃない、ほんとうにオレが逃げ出したいのは。
 彼から、ではないのか?
「張ってたんだろう? 頼めば放っておいてくれるのか? オレは今日、外に出たい気分だ、だから誘ってるんだよ、アツシ」
 ふたりだけの内緒だよ、と。
 小声で付け加えると、彼は少し苦しそうな目をしてから、小さく頷いた。





 紫原がいたので、柵を乗り越えるのはいつもよりは楽だった。
 門の外に立つと、ちょっとした開放感にこころを奪われる。オレは自由だ、今宵ひととき、密閉された生活から、現実から、解放される。
 今日は、おまけというには大きすぎる、おまけがいるが。
 夜、寮から抜け出したことなどないのだろう彼は、氷室の隣で僅かばかり緊張しているようだった、その手を掴んでさっさと歩き出した、そばにセダンが停まっていたが、紫原の視界の外で軽く右手を振って追い払った、ごめん、今夜は付き合えないみたい、ちらと視線をやって暗い運転席に座っている男に瞬いて見せる。
 律儀なパトロン様は、メールで約束をした日には、必ず門の近くまで迎えに来た、彼の素性は知らない、住まいも仕事も知らない、それでも自分にそこそこ嵌っていることは知っている、それだけ分かれば充分である。痴情のもつれで他人を刺すような人間ではない、それくらいは見抜けなければいま生きていない。
「アツシ、急がないと終電がなくなってしまうよ、早く」
「電車乗るの? いつもどこに行ってるの、室ちん。行動的なのは知ってるけど、こんなのは行動的って言わないし」
「あちこち行くよ。でも、今日はアツシがいるから、オレの一番お気に入りの場所へ行こう。さあ」
 半分走るような足取りで、駅に向かった。雪が降る季節でなくてよかったと思う、寒いのは寒いが、皮膚の感覚に囚われるような気温は、嫌いではない。
 紫原は、渋るようなことを言いながらも、従順に氷室の隣を歩いた。オレの行く先に興味があるのだろうか、いまさら引き返せないのか、いや、オレが手を掴んでいるからだな。
 夜道を歩いて駅にたどり着き、財布も何も持っていないだろう彼のぶんの切符を買った。渡してやると、彼は怪訝そうな顔をしてそれを見下ろしてから、素直に改札を通った。
「五百二十円? 結構遠くない? どうやって帰ってくるの」
「始発で戻ればいいだろう、気をつけていれば露呈しないものだよ、オレは他人の気配には敏感なんだ」
 その割に、張っていたという紫原には気付かなかったが。
 終電まで十五分というところだった。あまりひとのいない電車に乗り込んで、ふたり隣り合わせてシートに腰掛けた。紫原はひとつ欠伸を漏らして、氷室と手を繋いだままぼそぼそと言った。ようやく少しは落ち着いたらしい、開き直ったというべきか、順応性が高くて何よりだ。
「ああ。オレ、これ不良の仲間入りじゃない? 室ちんて行動がいちいち大胆だよね、ばれたらふたりで停学か退学だし」
「まあ、そのときはそのときだ。そうしたらふたりでストリートを荒らそうか、楽しそうだな」
 言葉を返すと、紫原は派手に嘆息して、不良のバスケバカってなんなの、救えないし、と呟いてから、黙った。心外だ、誰もお前に救えなんて言わないよ。
 目的の駅までは、三十分ほどかかる。
 電車が駅に滑り込むのと同時に、紫原の手を引いてシートから立ち上がらせると、彼はたいそう怪訝そうな顔をして氷室を見た。
「何もなくない? このあたり。てっきり街なかに行くのかと思ってた」
 街なかに行くときもあるが、そうは言わずににこりと笑っておいた。
 ふたりで電車を下り、改札を出て、ひとつしかない出口を通った。戻る終電はとうにない、これでもう、すぐには寮には帰れない、そう思うと少しこころが沸き立った、オレはなるほどいま自由の身である、今夜は道連れがいるが、この男ならば邪魔ではない、いや、どうだろう、邪魔というのならば誰よりも邪魔か。
 駅前にはタクシーさえいなかった。細い路地を先に立って歩き出し、途中で気がついて手を繋いだ、きっと彼は不安だろう、それとも、自分がいるのでそうでもないか?
 彼がいなければいまごろ、ホテルのベットで男と縺れ合っていた。
 どちらがいいのかと問われれば答えに迷う、そういう時間も好きだが、この状況は意外と悪くない。
 十分か二十分か歩いて、見えてきた目的地に潜り込む。紫原は氷室の手に抗わなかったが、猜疑心は隠さなかった。
「え? なにここ、ひとのうち? 入っていいの? ぼろぼろだけど」
「廃屋だよ、ひとが住んでいるように見えるのか? 土地は誰かの持ち物なんだろうけど、別にこんな夜中にお邪魔するくらいはいいだろ、ばれなければいいんだよ、アツシ」
「……いつも、こんなところに来てるの? 室ちん、物好きだし。だいたい、何するの、廃屋で」
 歪んだドアを開け、ぎしぎしと軋む階段を上がって、二階に行く。木造らしい壁にはところどころ穴が開いていて、この季節では寒々しい。いつだったか勝手に持ち込んでから、そのままになっている電池式のライトをつければ、意外と明るい。
 内装は、誰かが暮らしていたときのまま朽ちたという様子で、テーブルだの椅子だのが無造作に置いてあった、わけあって住人が夜逃げでもしたのだろうか、まあ雨風がしのげるのなら充分である。
 この廃屋を見つけたのが、いつごろだったのかは忘れた。
 男と会うとき以外には、気楽にどこへでも行った、街でひと晩遊ぶときもあれば、人家もないような場所で星を眺めて過ごすこともあった、そういうときに発見したのだと思う、昼間に来たことがない以上は。
 何するの、という紫原の言葉に、氷室は短く答えた。考えごとだよ、アツシ。
 二階の部屋に足を踏み入れて、壁際に背を凭れさせて座ると、紫原は大人しくそれに倣い、隣に腰を下ろした。子供部屋だったのか、一応古びた勉強机らしきものがあるが、狭い。
「考えごとなら寮でもできるし。変なの。前から思ってたけど、室ちんてどっかおかしいよね」
 冷えた両手に吐息を吹きかけながら、紫原が隣で言った。その物言いに、氷室は少し笑ってしまった、どこかおかしい? そんなことはないだろう。
 天井を見上げる、さすがに落ちてきそうということはないが、染みが浮き出ていて決して綺麗ではない。誰かがここで生活をしていて、そして破綻したのだと思うと、妙な感慨を覚えた、形あるものがいつか朽ちるように、形のないものでさえいつかは朽ちる、オレもいつかは朽ちる、そのときに神を恨まずにいられるか。
 ふたり並んで座ったまま、しばらくは無言で天井を眺めていた。染みに意味があるような気がしてきて、記憶の引き出しを探って遊んだ。あれは蝶の形、あれは鳥の形、あれは、そうだな、お前の好きな菓子の形。
 沈黙を破ったのは紫原のほうだった。
 右手を強く掴まれて、つい振り向くと、彼は眼差しをまっすぐ前に向けたまま、珍しく鋭い声で言った。
「あのさあ。室ちんに、訊きたいことがあったんだけど。答えたくなければ、答えなくていいし」
「なんだい、アツシ。答えるよ」
「パトロンって、何」
 ああ、言及するのか、お前は。可愛いな。
 そんな噂が流れていることは知っていたが、そういえば面と向かって訊ねられたことはない、せいぜい、寮を抜け出しているのはほんとうか、と問われるくらいである。さすがに言いづらいのだろう。
 掴まれた右手をそのまま、紫原の横顔を見つめ、視線がこちらに向くのを待って答えた。
「それは、言葉の意味を訊いているのか? それともオレに、そういう存在がいるのか、と訊いているのかな? アツシ」
「あとのほう」
「じゃあ、イエス、と答えようか」
 ごまかしても仕方がないし、この男ならば言外はしなかろう。
 紫原は、氷室の右手を握る指の力をぎゅっと強めて、少し眉を歪めた。こういう表情を、ここまできちんと彼が見せることは珍しかったので、つい見蕩れた。
 美しい男なのだと思っている。
 綺麗な髪の色、綺麗な瞳の色、それらは整った顔立ちによく映えた。自分も長身なほうだとは思うが、そんなものは無視するように身体が大きくて、殴っても蹴っても平然としている。力が強い。こういう男に執着される自分には満足する、オレは姿が美しい、身体も悪くない、性格は、どうだろう、悪いな。
 くちづけは、おそらく、半ば自分の答えに対する罰だろう。
 あるいは嫉妬、あるいは嫌悪? 案外、この男自身にも分かっていないのかもしれない。
「は、アツシ」
「駄目。逃がさないし」
 顔を背けようとすると、髪を掴まれそれを阻止された。舌を差し込まれて、咄嗟に強張った身体の力を抜く。逃がさない、か、馬鹿な男だ、オレはいつでも逃げられるし、捕えられているとすれば、お前のほうだよ。
 ああ、そうではないか。
 いつでも逃げられると嘯きながら、逃げたくて逃げたくて逃げられない、もしかしたらそういう関係なのか。
 彼にしては珍しい、乱暴なキスではあった。
 唇に噛み付かれて、僅かに血の味がする、相手は選ぶがこういう遊びは嫌いではない、気の済むまで貪ればいい。
 さんざん口腔を舐め回され、誘い出された舌に噛み付かれて、息が上がった。寒い夜、身体の芯が熱くなる、悪くないさ、悪くない、お前に食われるのは好きでさえある、実は食っているのはオレのほうなのだろうが。
 彼とは何度か寝たことがある。彼はセックスに不慣れではなかったが、遊び慣れてはいないようだった。無駄に成長した子供、いままで誰を抱きしめてきたのだろうか、それは恋だったのだろうか、ならばオレは?
 愚問か、これは少し刺激的な遊びだ、たとえば夜に寮を抜け出すような。少なくとも、オレにとっては。
 いや、そう思い込もうとしているのか。
 くちづけが解かれて、すぐにコートを引き剥がされた。寒いかと思ったが、そうでもなかった、強引な口付けに酔ったらしい。
「トイレ? 水出るの? 洗わないと駄目?」
 同じように己もコートを脱ぐ彼に、早口で問われて、微かに笑った、自分の声が色めいているのが分かった。
 焦るなんてらしくない、アツシ、おまえはいつでも困った顔をして、それでも余裕でオレを抱くじゃないか、だからおまえとセックスできるんだよ、知っているだろう。
「寮を出るときに、綺麗にしてきたよ、大丈夫だろ」
「……そりゃあ、お邪魔しちゃって、申し訳なかったねえ」
 嫌味を言うとは、やはりらしくない。
 下着ごとジーンズを脱がされて、僅かに抗いはしたが、本気ではない。そのまま床にうつ伏せに押さえこまれて、息が詰まる、始発まではここにいるしかないのだから、そんなに急く必要もないのに、この男はどうしてこうも逸るんだ。
 オレが他の誰かと寝るのは不満か。
 お前ひとりのものになれないオレが厭か。そんなに可愛い真似をされたら勘違いをするぜ、お前がオレに抱いているものが、恋愛感情であると。
 腰を上げて、と言われて、その通りにする。床についた膝が少し痛い、何かないかと視線で探していると、彼のコートを敷かれた。
 こういうところが憎たらしいと思う、彼は慣れている、相手に優しくすることに慣れている、自分はそんなセックスにはあまり慣れていない。
 迷わず、尻に顔を寄せた紫原に、咄嗟に非難の声を上げた。
「おい、アツシ。やめろ……」
「濡らすものなんて、持ってないし。綺麗にしたんでしょ? いいんじゃないの」
「あ……ッ、舐める、な、アツシ、舌を」
 言っても聞きやしない。
 こんなふうに、不意に情熱的にされると惑ってしまう、氷室は基本的に冷静な行為が好きだ、どんなに欲情していようともセックス自体は冷めている、自分を相手にするならそうあるべきだし、それで充分だ。
 甘やかすのも、甘やかされるのも好きである。性行為も同様だ、それでも、思考も触れるてのひらも冷静でなければならない、フリジディティーであれとまでは言わないが、感情をぶつけられるとどうしたらいいのか分からない、たとえば、他にも相手がいますよと告げた次の瞬間に、キスをして押し倒してくるような不器用な熱には巧く対処できない。
 好きだと。
 そんなに全力で示されたら、オレは深夜に門を抜け出すように、お前の視界から姿を消すよ。
 彼は、唾液を乗せた舌でたっぷりとその場所を濡らしてから、指を差し入れた。二本、三本、増やす合間に注ぎ足して痛みを奪う、自分の身体からぐちゃぐちゃといやらしい音がして、吐息が散る。
 深夜の廃屋、膝を抱えてひと晩中、少し自分を遠ざけて、思考にふける、城である。
 オレはこれからどうすべきか、このままで何かをなせるのか、この手には何も与えられていないのに?
 おそらく限りなく近づくことはできるのだろう、限りなくだ、しかし、薄い膜いち枚で隔たれている、もどかしい、藻掻いても藻掻いても破れない、その場所には辿りつけない。
 誰かを羨むだとか、妬むだとか、そんな時期は過ぎた、いまさらだ。
 だからこそ。
 お前をここに、連れてきた理由が分かるかい、アツシ。
 オレが胸に抱いた、この水槽が、見えるかい、アツシ。
 なのにお前ときたら平然と城に上がり込んで、オレを暴こうとする、憎たらしいよ、まっすぐなだけがやり方じゃないだろう。
「室ちん、入れるから、力抜いて、はあって息吐いて」
「アツシ……ッ、ああ、おおき、い」
「緊張してるの? いつもみたいに緩くして、そんなに締めないで」
 甘い声は淡々としているようにも聞こえるが、動きはやはり急いている。
 言われるままにしようとするが、なぜかできなかった、場所が悪いんだよ、場所が。天井の染みで絵を描きながら、紫原のことを考えた夜もあった、もういつのことなのかも思い出せない、もしくはここに来るときにはいつでもか。
 幾人かのひとの顔を思い浮かべた、決して自分の手の届かない場所にいる人間の顔を。近づこうが似ていようが駄目なものは駄目、事実だ、そのうえで何ができるのか。
 距離をおいて考える、己への距離がほしいときに、ここへ来る。そういう場所なんだよ。
 紫原との行為は、甘くて、からい。
 彼を手に入れたつもりになって、それで何? オレは遊びだからと割り切ったつもりになって、それで何? 気付けばこのてのひらには何もないじゃないか、夢中になればいいって? そういうものでもないだろう。
 彼は、氷室が受け入れる態勢を整えようとするのを、少しは待った。しかし、待っても無駄だと悟ったのか、結局は、半ば強引に根本までねじ入れた。悲鳴のような声が漏れた。痛いということはなかったが、衝撃は強かった、お前、知らないのか、お前のものは馬鹿みたいにでかいんだよ。
 深くまで入った位置で、揺すり上げられて埃っぽい床に爪を立てる、快楽と同じだけ襲ってくる違和感に身体が引きつった。
「あ……ッ、待て、動、くな……、太いんだ……ッ」
「室ちん、オレに慣れてるでしょ、いまさらだし。だいたい、ここで待てたら、男の子じゃないよねえ」
「は、あ……! クソ、せめて、ゆっく、り」
 掠れた声で言い募るが、紫原はまったく意に介する様子はなかった。最初から深く、激しく穿たれて、まともに喘ぐ声も出ない。
 過去に何度か寝たことがあるので知っているが、普段ならば請えばその通りにする男である。動くな、ゆっくり、やめろ、そう、突いてくれ、氷室の言葉に彼は従順だ。ならば何故今夜は従わないのか? 知れたこと、他にも誰かと寝ているよと、氷室があっさり告げたからである、そんなに気にすることか?
 独占欲を抱くほど。
 お前はオレが好き、そう思えば悦に入れるのかもしれない、それでも息苦しい、同じものを返せやしないから。
 深い場所に突き入れられるのが好きだ、お前の言う通りオレは慣れている。くり返しそうされて、氷室は啜り泣く声を上げた。そうだな、他の誰も、そんな場所までは貫けない、オレはお前に溺れているよ、ただし、その逞しい、大きな身体にだ。
「アツシ……ッ、いく、手、を」
 切れ切れに求めたら、彼が後ろから片手を伸ばして、性器を擦ってくれた、そういうことには応えてくれるのか。波に抗わず、彼のてのひらに達して身体を震わせていると、彼が尻からあっさり性器を引き抜いた。
 こんな場所で、中に出すほど馬鹿でもないだろうが、もう少しは苛まれるだろうと思っていたので意外だった。絶頂の余韻に浸る間もなく、背中から腕を掴まれ身を引き起こされて、目を上げた先に、隆々と屹立している性器を突きつけられた。
 これが自分の中に入っていたというのだから、毎回ぎょっとしてしまう。
「しゃぶって。室ちん、口でするの好きでしょ」
「……好きだよ、アツシ」
 どうとでも取れる言葉を吐いて、唇を開いた。まだ呼吸が跳ねていて、いまフェラチオなんてしたら苦しそうだが、ここでこの物騒なものを放置したら、何をされるか分からない。
 舌で触れた性器は、生温くて、オスの味がした。
 知っているか、アツシ、オレの口を使える人間はいま現在、お前しかいないんだぜ。たとえば門の外で律儀に待つ、年上の男にさえも許さない。





 飲み込んで、と言われたので、喉を鳴らした。
 だったらお前も、そのてのひらを舐めろ、と言いたかったが、やめた。
 彼は立ち上がり、半分朽ちたカーテンで手を拭いてから、氷室のもとに戻ってきた。ジーンズを履かせ、コートを着せ、子供にそうするように身体を抱きしめて、壁に寄りかからせてくれた。
 口の中に他人の体液の、どろりとした感触が残っている。水でもなんでも飲みたいとは思ったが、この付近には自動販売機もないし、諦めた。
 快楽の名残が、身体の深くに重く溜まっている。
 床に座り込み、立てた膝を両腕で抱えて知らず溜息を吐くと、隣りに座った紫原が身を屈めてこちらを覗き込んできた。
「どこか痛いの、室ちん」
 好きなようにやっておいて、どこか痛いのも何もないと思うが、氷室はとりあえずにこりと笑って返した。いや、別に?
 多分その微笑みが気に入らなかったのだろう、紫原も同じように溜息を漏らして、氷室から視線を外した。さらり、綺麗な色の髪が揺れる、ふと、手を伸ばしたいと思っては、我慢をする、いまその髪を撫でてしまえば破綻する、この中途半端な関係が、絶妙な距離感が。
 どこが痛いわけでもなかったが、疲労感が押し寄せてきて、膝を抱えた腕を解き、氷室は隣に座る紫原の肩に凭れた。知っている彼の匂いが少しだけ濃くなる、とても清潔で、優しい男の匂い、嫌いではない。
「室ちんは、オレが言って聞くような男じゃないと思うけど」
 拒まず、といって抱き寄せもせず、紫原はその氷室に甘い声で、淡々と言った。規格外サイズの男である、自分だって体格はそれなりだと思うが、体重をかけてみても彼はびくともしなかった、そうだ、嫌いじゃないよ。
 彼の隣にいるのは、落ち着く。
 ひとの群れから、規律から、現実から逃避したくなって、寮の裏門に立つ。一緒に逃げ出してしまえば厭でも知れる、あるいはおれは何よりも、この男から逃げ出したかったのかもしれない、だが、この男の何から?
 違うだろう、逃げ出したい、そう思う対象は自分自身から湧き出る感情だ、眩しいとかまばゆいとか、でなければ固執、もっとどろどろとしたもの。
 すべて自分の身のうちにあるものだ、いくら逃げたつもりになってみても、決して自分からは逃げられない、だからせめて紫原から逃げる、束縛を振り切る、そういうことだ、年上の男に甘やかされて一瞬忘れる、こんなものはごまかしである。
 その証拠に、彼の肩に触れてしまえばこころが休まる、好きなのだとは認めないが。
 分かっていても、オレはきっとまた逃げる、強くあるために、そう見せるために、お前に笑いかけるために、もう少しだけ許せよ、いつかきちんと対峙するから。
 嫉妬、憎悪、そんな時期は確かに過ぎた。だが、それでもまだ、夜になれば息苦しい。
「パトロンとか、そういうの、やめて。何がしたいの? 可愛がられたいの? だったらオレに頼めばいいし。お金がほしいって言われたら、ちょっと困るけど、お金あげられないぶん、いっぱい大事にしてあげるよ」
「アツシ、オレはね、たまには年上の男に抱かれたいんだよ。分かるか?」
「……室ちんて、ときどき性格悪いし」
 ふて腐れた声で言われて、笑った、いやお前、オレの性格が悪いのは、ときどきじゃない、常に、だ。
 投げ出していた右手を掴まれて、ぴくりと身体が揺れた。来る道では冷えていたてのひらは、いまは温かかった。この男はただまっすぐに自分のことが好きなのだと思う、だから平気で嫉妬心を見せられる、怖くないのか、それをオレに見せるのは怖くないのか、だってオレはお前に同じ感情を多分一生返さない。
 怖くないか。
 この男はきっと何からも逃げ出したことがないのだろう、だってその必要がない、だから恋情からも逃げないか、そうだな、そんなところは、羨ましいよ。
 裏門の、柵を越える一瞬、こころが沸き立つ、自由だと思う、たとえ仮初であれ。
 あんな感覚、彼には無縁だ、彼の前に柵はない。
「オレはお前を束縛しないよ、アツシ。独り占めなんてしない」
 彼の手を握り返して、視線がこちらに向くのを待ち、微笑んでみせた。ああ、オレは実に意地悪だ、知っているとも、誰にも優しくできるが、お前には意地悪だ、それが何かいけないか?
 目を細める彼の、綺麗な瞳を見つめて言う、そこにはオレはどんな姿で映っているのだろう、美しいか、美しくて、狡いか、結構だ。
「だから、お前は誰と寝てもいいよ、オレは口出ししない、好きなようにすればいい、アツシはオレのものじゃない」
「……すごく、性格悪いし。同じように言えっていうの」
「別に。ただ、オレはそう思っているというだけだ。気楽にやろうぜ、アツシ、恋人同士でもあるまいし」
 仰る通り、すごく、性格が悪い。
 紫原はしばらく氷室を睨みつけていたが、ぽつりと、最低、と低く呟いて視線を背けた。横顔を見やる、やはりとても美しいと思う、この男には歪みがない、すべてにおいて。
 最低と罵っておきながら、彼は氷室の右手を握る指を緩めなかった。氷室もまた彼に凭れた身体を起こさないまま、腕時計を見た、三時過ぎか。始発まであと二時間はある。
 この廃屋を訪れるときには。
 柵から抜け出したときに飛散させた思考を、さり気なく掻き集めるようにして眺めた。忘れたい顔を思い浮かべて、それも遠くから眺めた。その行為が根本的に傷を広げるのか塞ぐのかはいまいち分からないが、距離を取る必要があるときには、距離を取って覗いてみたいときには、この場所に来る。
 ひとりきり、ひと晩中眺めて、胸に秘めた水のない水槽にきちんとしまう。どうですか、少しは綺麗に見えますか? そういう時間がなければ生きてはいけない。
 なぜ今夜、この場所を選んだのか。
 分かるかい、アツシ、この箱庭に、お前を連れてきた理由が。
 それはね、このこころに大事に抱えた水槽を、お前に見て欲しかったからだよ。オレの感情が染み出している汚い天井を、一緒に見て欲しかったからだよ、分かるかい。
 最低、か。
 まだ時間があるから、寝ていていいよ、と声をかけると、室ちんこそ寝てよ、という言葉が返ってきた。彼の声はもう既にフラットだ、申し分ない。
 アツシが、室ちんが、と何度か言い合ってから、じゃあふたりで起きていよう、ということになった、揃って寝てしまえば始発の時間に目覚めない。
 肩を寄せ、手を繋いで、ぼんやりと視線を彷徨わせる。この季節に、こんなにも温かいのに、どうしてもそれを認められない、壊れてしまうから。
 氷室は夜、よく寮を抜け出している、そういう噂が立っている。
 仕方がない、お前も噂の犠牲になれよ、アツシ、たまにならば連れ出してあげよう。
 氷室には、パトロンが付いている、その噂はしばらく消えないのだろうが、ついでにときどき紫原も寮を抜け出している、という噂も追加しよう、巧くやろう、なあ、証拠を掴まれなければ大丈夫、ここだけじゃない、もっと違う場所も教えてあげるよ、刺激的な夜を過ごそうよ、お前から逃げ出したいと願うその手でお前の手を引いて、オレは夜を歩こう、オレの汚い素顔を見てもお前はオレが好きでいられるかい?

(了)2014.02.23