やさしい絶望に私を突き落として


 噛みたいな、とふと思い、それから強烈にその欲に駆られた。
 綺麗な肌だ、筋肉のラインも美しい、その皮膚を食い破り、血を啜りたい、それが叶わないのならば、せめてきつい痕跡を残したい。
 ベッドの前に跪き、紫原の性器に唇を寄せていたときである。まさかこれを噛みちぎりたいとまでは思わないが、なんでもいいから彼に自分の存在を刻んでしまいたいという衝動は確実なものだった、くちづけのあとなどでは生ぬるい、もっと切実で、痛みを伴って、なかなか消えてくれないような。
 そうでもしないと。
 これは昨夜の夢のせいか。
 噛みたい、と一度思ってしまえば、その欲望は鮮やかに氷室の頭を占拠した。振り切るように、思い切り深くまで彼の性器を飲み込むと、これだけ勃たせておきながらよくそんな声が出るよなというような、甘い、緩い声が、頭上に言った。
「どうしたの? 室ちん、そんな無理しなくていいし。苦しくないの」
「ふ、う……」
 彼の言葉には答えず唇を使った。喉の奥まで咥えた性器を、わざとらしく唾液の音を立てて吸い上げる。
 さすがに吐き気がこみ上げたが、それさえもが快楽であったので、構わずに粘膜を震わせて彼を刺激した。こうされれば普通の男ならば、気持ちがいいはずだ。
 そう言えば、紫原は普段あまり強引には口を犯さない。サイズがサイズなので顎は痛くなるが、それだけである、もっと乱暴に扱ってくれても構わないのに、この男は自分に甘いのだろうなと思うと、切ないような、胸が痛くなるような気がした。
 どうせお前はいつかオレを捨てるだろう、アツシ?
 だったら、好きなように使えよ。
 彼を唇で擦り上げるだけで、勝手に勃起する自分の性器を淡く左手で扱きながら、氷室は目を伏せて知る限りの奉仕をした、いや、これは奉仕ではないか、オレがこいつを食らっているのだ。
 こういう行為のほうがいい、これならば慣れている、酸欠に頭が痛くなる感じ、食道を胃液が焼いて重苦しさを覚える、どうせなら引き返せないほどの快楽を覚えてくれよ、息苦しさに歪むオレの顔は唆るよな? 知っている。
 紫原はしばらく、氷室のしたいようにさせていた。引き寄せて、更に深くまで突き立ててくれてもいいのに、そうはしなかった。この男の性欲は年相応だが、ということはそれなりには強いが、あまりがつがつしたところがない、そういうところは好きである。好きであるが、ときに不安になる、たとえば今夜のように。
 お前はオレが欲しいか?
 性器を反り返らせている以上は、欲望はあるのだろう、だが、それを発散する相手は、オレでいいのか。
 飲み込みきれない唾液が、顎に伝った。よほどつらそうな顔をしたのだろうか、彼はそれから氷室の髪を掴み、突っ込まれるのかと身構えた氷室の唇を逆に性器から引き剥がして、どこか眠たげな目でこちらを見下ろしてきた。いつも通りの眼差しだ。
「どうしたの? なんかあったの?」
 きっちり愛撫をすれば、何かあったのかと訊かれる。どういうことだ。
 氷室は呼吸を喘がせて、紫原を見つめ返した。紫色の瞳が美しいと思う。この男はほんとうに、寒気がするほど美しい。
 夢を見たのだと。
 言わずに、ただ馬鹿みたいに正直に、兆した衝動を言葉にした。息も整わないまま、掠れた声で。
「噛みたいよ、アツシ」
 紫原は、その氷室の言葉に、はあ? と呆れたように返した。まあ普通はそうか。
 それでも髪を撫でる手は、いやに優しくて泣きたくなった、再度性器に唇を寄せようとしたら、今度は顎を掴まれて阻止された、噛みたいと言われて素直に咥えさせる男はいないか、でも違うんだ、そういう意味じゃないんだよ。
 その滑らかな皮膚に。
 すぐには消えない痕跡を印してみたいと思っただけだ、せめて。
「食いちぎりたいの? 悪いけどそれは勘弁してよね。持っていかなくても、それいまは、室ちん専用だから、心配しないでよ。したいときはいつでも言えばいいし」
「そうじゃない。肌に、歯型を付けたいと思ったんだよ。噛みごたえがありそうじゃないか? お前の身体」
「……よく分かんないけど。したければ、したら?」
 いまは、か。
 したければ、したら?
 彼の手が顎から離れるのを待って、少し考えてから、その内腿を擦った。普段見えないところ、部活のあとに服を着替えても露見しないところ、このあたりか。
 ならば遠慮はしまい、許可を出したのはお前だ、いまさらいやだのなんだの抜かすなよ。
 硬い性器を右手で掴み、緩く撫でながら、右脚の付け根に顔を近づけた。特に止められなかったので、試すように口づけて位置を確認し、それでもやはり抗わない彼の肌に噛み付いた。
 ぞくぞくと背筋を這い上がったのは、快楽だった。まるで何かに背いてでもいるかのような。
 紫原は文句を言わなかった。身じろぎもしなかった。なので遠慮なくぎりぎりと歯を立ててから、氷室は唇を離した。萎えるかと思った性器は、てのひらの中で変わらず脈打っている。素晴らしいね、お前は素晴らしいよ。
「で、満足したの?」
 肌にくっきりと歯型が残っている。
 興奮のようなものが皮膚の下に散る。
 緩く訊ねる声に、氷室はひとつ頷いて返した、舌を出して、自分の残した痕跡を丹念に舐めた。わずかに血の味がする、こんな場所だ、痛くなかったはずはないのに、痛いとは言わない、この男は自分には甘いのである。
 これは執着なのだろうかと。
 そう思ったら寒気がした。オレは見苦しい。お前のように清廉にはあれないよ、アツシ。





 いやな夢を見た。
 予知夢のようなものか。紫原敦が自分を捨てる夢だ、別れを告げるというのではない、言葉通り、単純に純粋に、捨てる。
 それが彼本来の姿だろう、紫原には己にも他人にも冷たい一面がある。彼はいずれ夢の通り自分を捨てる、隣にいるにはオレは重い。
 無意識に追い縋る手を伸ばし、その手を見て愕然とした。
 待て、氷室辰也は、決して誰にも縋らない、そうじゃないか?
 だから最後には落として欲しい、落としてくれよ、夢の中、切実にそう願ったことをはっきりと覚えている。
 冬だ。ゲームの最中に、紫原を殴った。手加減はしたつもりだが、頭に血が上っていたので巧くいったのかは知らない。
 殴り返されてもよかったのに、彼はそうはしなかった、何故だ? いまだにその理由は分からないままだが。
 以来彼の、自分に対する態度は変わったと思う。もとから距離は近かったが、壁一枚取っ払ったように、彼はさらにその距離を詰めてきた。怒られても切れられてもおかしくはない、しかし彼は近づいた、甘えかかる腕からは躊躇も遠慮もうかがえず、それどころかしばしば彼は丁寧に、かつ素っ気なく、氷室を甘やかした。
 救われたことが何度もある。
 真っ暗闇の中を彷徨う腕を、彼の手に掴まれて、引きずり出されたことが何度もある。耳元に囁かれる甘ったるい声、室ちん、もう行こ。
 嫉妬はあった。
 いや、そういうものではないか、もはや崇拝だ。
 紫原敦は強い。間違えようもなく強い。過去に見た誰よりも強い。ここまで飛び抜けていると、羨ましいというよりも、ただ讃える溜息しか出ない。
 強い男は好きだ。
 その男に懐かれれば、いやな気はしない。背中から抱きしめられて髪に頬を擦り付けられ、お菓子ちょうだい、とねだられる、ああ、まったく悪くないね、オレがそうした接触に弱いことを、何故こいつは知っているんだ?
 冬のゲームで殴りつけるまでは、それでも胸の何処かがちくりと痛んだ。
 オレが持ち得ぬものを持っている気分は、如何ですか。
 だが、彼の前で無様に泣いてみせて以降は、確かに自分の中でも何かが変わった。何がとは明確には言えない、まあ、まさに壁一枚消えたような。
 嵌ったか、と思った。
 その通り、嵌ったのだろう。
 セックスをするようになったのは、冬休みも開けたころである。壁を壊すにしても壊しすぎかとは思ったが、欲望には、快楽には抗えない。肌を合わせて、こころを交わして、彼との行為は過去に知らないくらいには甘かった。まるで恋人同士のような交歓だ、あるいは恋人同士なのか?
 嵌ったのだ。
 捨てられる夢を見るくらいには、それに動揺するくらいには。
 分かっている、いつかはそうなる、明白なことである、延々続けられる関係ではない。幻想に浸れるほどには自分は純粋ではないし、少し先の未来くらいは見通せる程度に目はよい。
 だから、そのときは、落としてくれよ。
 引きずりたくはないし、縋りたくもない、だから、手も足も出ないように、落としてくれよ。
 やさしい絶望に。
 そうすればいつものように、血に塗れたまま這い上がれる、それならばオレは慣れている、いくらでも立ち上がろう。オレの手は空だ、いつでもそこからはじめるのだ、未練など欲しくない、慈悲があるのならばやさしい絶望に私を突き落として。
 それでも、せめておまえの肌に、痕跡を残したい?
 実に意地汚いものである、そうさ、執着しているさ、神の選んだ男と戯れる時間に、オレは執着している。





 シーツの上に押し倒され、見上げた彼がふわりと笑った。
 この男が笑う顔はあまり見ないので、つい、見蕩れた。
「じゃあ、オレも噛もうかなあ」
 怒ったのか? 違うか、言葉通りだ、氷室が噛むのならば、オレも噛もうかな、それだけ。
 身体中、唇で辿られるときよりも、歯を立てられるいまが一番興奮した。何故だかはよく分からない。声を殺し、吐息を尖らせながら、痕をつけるな、と掠れた声で言うと、紫原はやわらかい声で、見えるところにはつけないし、と答えた。
 肌に歯が食い込む感覚は、いやになるほど鮮やかだった。
 皮膚の下で熱が渦巻いた、これは快感だ、オレはあるいはこの男に捕食されたいのか?
「は、あ……ッ、アツシ、すごく……感じる」
「うん。いつもより反応いいね。なんで? 噛まれるの、好き? 室ちん、マゾなの?」
「知るか……ッ」
 脇腹に噛み付かれる快感に、シーツを握りしめて耐える、そうか、オレはマゾヒストなのか、いや、違うだろ、それは。
 ぐいと脚を左右に開かれたときには、猥りがましい声が零れそうになって、必死で唇を噛んだ。紫原は、その氷室に構わず内腿に指を這わせて、このへんだよね、と何を考えているのか読めない声で言った。
 このへん? ああ、オレがお前を噛んだ場所か。
「せっかくだから、お揃いにしよ。結構がっつり噛まれたから、オレもそうするし」
「あ……! アツ、シ」
 彼にはまったくためらいがなかった。
 確かに自分が先ほど噛み付いたのと同じようなところに、深く歯を立てられた。ぞくりと肌が震えた、隠せたとは思わない。
 痛い。これは相当痛い。
 痛いが、気持ちいい。食いちぎられるのではないかというくらいの強さで噛み付かれて、目が眩む。そうだ、食いちぎってくれ、おまえの痕跡をオレに刻んでくれ。
 やさしい絶望に私を突き落とす、その前に。
 なんだ、この恍惚は。
「室ちん、もういっちゃいそう。可愛いね」
 散々食いついてから、彼は内腿から唇を離し、僅かに楽しんでいるような口調で言った。はあはあと息が上がって返事ができない。そうだよ、もういきそうだよ。
 紫原は、しばらくその氷室の姿を眺めてから、腕を掴んで無造作に、氷室を身体をうつぶせにした。シーツの上に投げ出していたジェルのチューブを掴む大きな手が見えて、くらくらした、余裕がないんだ、いつものように巧く開いてさっさと入れてくれ。
 言わなくても通じたのだろう、紫原は特に焦らさず、濡れた指を一本深く氷室の尻に挿し込んだ。それから面白そうに気配だけで笑い、すぐに二本に増やした、この男の行為は丁寧ではあるが、基本的に遠慮はない。
「なあに? 自分で開いたの? 結構広がってる。室ちんてときどき健気だよねえ、ほんとう、可愛いの」
「アツシ、早、く、欲しい……ッ」
「分かった、分かったから、もうちょっとね。そんなえろい声出しても、駄目、切れちゃうよ」
 彼は、途中でジェルを足しながら、三本の指で氷室を開いた。噛みつかれた内腿がじんじんと痺れて、尻を探られる快感を追い立てる。痕跡を残したい、痕跡を残されたい、ずいぶんと贅沢な欲である。だが、こうして執着の行動を返されるのは、悪くない。
 この男には意味が分かっているのだろうか。
 オレが抱えているものは、見えているのだろうか、見えないか、眩しすぎるお前の目には、オレのような人間の錆びた思考などは見えやしない。
 指が抜けた場所に、ジェルに塗れた性器を押し当てられたときには、息も絶え絶えだった。咄嗟に引きつる身体から、なんとか強張りを逃して、背後の彼に言った、自分で聞いていやになるような上擦った声だ。
「入れろよ……」
 紫原は、やはり焦らしもせずに、氷室の言葉に従って性器の先端を尻に押し入れた。ずるりと硬い異物が侵入する感覚に肌が戦慄く。いきたい。いや、もっと欲しい。ぎりぎりまで耐えたあとの快楽がどれほどのものかなんて、よく知っている。
 氷室の状態を察してか、紫原が相変わらずの緩やかな声で、待とうか? と訊いた。余裕をかましやがって、セックスで彼が必死になっている姿など、そういえば見たことがない。
 言葉には出さず、首を左右に振って答えると、彼はそれ以上は言わずに、ずるずると奥まで性器を挿し入れた。最後に腰を使って根本まで突き立てられ、短い悲鳴が溢れる、行為の最中に馬鹿みたいに声を上げるのは好きではないが、この瞬間ばかりは仕方がない。
「あ……ッ! ふかい、アツシ……ッ」
「大丈夫。室ちん、オレに慣れてるから。ねえ、なんか見る限り、ぎりぎりみたいだから、もう動いちゃうよ」
「ん、は、ゆっくり……、いきそうだから、ゆっくり」
 切れ切れに請うと、紫原はいやにやわらかく、うん、分かった、と言ってから腰を使い出した。要求通りの緩い動きだ、彼は自分に甘い、行為の最中はとりわけ甘い、勘違いをしてしまうぜ、愛されているのではないかと。
 それが今後も続くのではないかと。
 この男に捨てられる夢を見た、昨夜だ、それはただの夢ではなく確実な未来だ。そんなことは知っている。そのときに縋らずにいられるように、軽く笑って崖から飛び降りられるように、オレはどの瞬間にも覚悟しておくべきである、こんな関係、いまだけにしかないと。
 期間限定だ。
 それでいいと思い、手を伸ばした。
 こんなに嵌まるとは予想していなかった、それは確かである、でも、だからこそ、いつ捨てられてもいいように。
 執着の痕跡を。
「ああ、駄目だ、いっちまう……」
 ぐちゃぐちゃと音を立てて性器が出入りする。慎重なペースでじっくりと奥を穿たれて、たまらずに声が漏れた。彼のセックスは、ただテクニカルな意味ではなくて、センスがいいのだと思う、あるいは相性がいいのか。たまにならば乱暴にされても燃えるが、毎回だと参る、だから彼くらい穏やかな行為をする男はいい。
 湖に沈むみたいに、快楽に浸れる。
 紫原は、深く突き刺した位置で腰を揺すり上げながら、さらりと内腿を撫でた。歯型のある場所だ。びくりと身体が派手に震えてしまう、オレがどうしてお前を噛んだか、お前などには分かりやしないのだ、きっと。
「もうちょっと我慢できない? オレいま気持いい、少し続けたい」
「無理、アツシ……ッ」
「ああ、うん、分かった。後ろだけでいけるよね、自分の手に出して」
 氷室が名を呼ぶと、紫原はまるでしつけられた犬のような従順さで、分かった、と緩く言った。氷室の尻を両手で掴み直して、腰の動きを追い上げるものに変える。
 少し続けたいという己の欲は無視だ。吐き気がするほど優しいね。
 弱点ばかりを意図的に刺激されるよりは、ぜんぶ中に入れてくれたほうが嬉しい、と、氷室が言ったのは彼と抱き合うようになって三度目のときだったか、四度目だったか。紫原はそのときも、やわらかく、うん、分かった、と言って氷室の望む通りに動いた、以降彼はその氷室の言葉を順守した、そうだ、彼は大抵の場合は氷室の言葉を素直に聞いた、特に行為の最中は。
 ゆっくりしてくれ、奥を突いてくれ、優しくしてくれ、激しくしてくれ、要求を退けられることはほとんどない、甘い、だからいやな夢を見るのだ。
 広い背に手を伸ばす、その手を見てぞっとするような。
 立ち去るものを追うなんて未練がましい真似はしない、それが氷室辰也である、違うか? 残念だな、じゃあさようなら、笑って手を振ろう、簡単にできるはずだ、ああでもお前が相手だとオレの歯車は狂うから。
 その手で、やさしい絶望に、突き落としてくれ、いつでも願いを聞いてくれるお前ならば、最後にそれくらいの我が儘も聞くよな?
「あ……ッ、いく、アツシ」
 左手を自分の性器に伸ばして、震える声で告げた。彼は、言葉は発さずに腰の動きをさらに強くした、ぐいぐいと深くを擦り上げられて目眩がする、その場所から破けて身体がばらばらになってしまいそう。
 駆け上がる愉悦はいつでも鮮やかだ。
 彼と肌を合わせることには慣れても、この快楽には慣れない、記憶は常に裏切られ続ける、セックスってこういうものだったか?
 一瞬遠のく意識を覆うウィスタリア、見ろよ、オレの世界はお前でいっぱいだ、お前の世界もオレでいっぱいになってしまえばいい。
 そしてそれが永久に続けばいいのにね。
「ふ……、アツシ、アツシ……ッ」
「待って、いま抜くし。室ちんの中、きゅうきゅうして気持ちいいんだよね」
 彼は僅かのあいだ、絶頂に溺れる氷室の内壁の蠢きを味わっていたが、氷室が苦痛を覚える前に性器を引き抜いた。達したあとにいつまでも使われるとつらいから、少なくとも一度出してくれと、いつだったか指示したのは氷室である。この命令にも紫原は従う。
 強引にだって振る舞えるはずだろう? 紫原敦。何故そこまでオレを甘やかすんだ、気持ちが悪いぜ。
 紫原は、くたりとシーツに沈んだ氷室の腕を取り、優しくその身体を引き上げた。精液で濡れた左手もそのまま、大人しく身を起こしながら、氷室は淡い吐息を漏らした。
 身体が火照って、噛み付かれた内腿がいまさらのようにずきずきと痛み出す、それは恐ろしいほどに切ない感覚で、恍惚の余韻さえ奪い取られそうだった。
 髪を掴まれ、膝立ちになった彼の腰に頭を引き寄せられたので、口を開いた。
 彼はその唇に性器を押し込もうとはせず、自分の手で扱きながら、頭上に緩く言った。氷室に手を伸ばすときよりも、よほど荒い手つきだった。
「室ちん、いつ見ても綺麗だね、顔にかけていい?」
「……いいよ」
 視線を上げて、にこりと笑ってみせた。そのくらいならば、いくらだってすればいいのに、許可を取るところが彼らしい。
 己を擦る彼のてのひらを手伝うように、舌を差し出して性器の先端を舐めた。しばらくして彼が、もういけそう、目を閉じて、と囁いたので、言われた通りにした。
 数秒後に、生ぬるい体液を浴びせられた。
 ああ、アツシの匂いだ、と思ったらたまらなくなった。少し待ってから、そっと目を開けると、こちらを見下ろしている紫原と目が合った。
 いつでも眠たげな眼差しは、いまもさして変わらない。甘くて緩い声も、普段とあまり変わらない。そういうところが、好きである。
「室ちん、えろい顔」
「アツシは、顔にかけるのが、好きなのか?」
 そういえば、思い返す限り、彼が自分の顔に射精したことなどはない。
 既に自分の精液で濡れている左手の指で頬を辿り、わざとらしく舌を出して、指先についた白濁を舐めた。紫原はその氷室を見やりながら、僅かに、満足そうに目を細めて、好きかも、と言った。
 オレは綺麗だろう、そうだな、楽しいかもな。
 己でオレを汚すというのは。
 なあ、こんな行為でお前がオレに嵌ってくれるのならば、オレはなんでもするよ、オレばかりが嵌まるのは馬鹿みたい。
 お前はオレに捨てられて、手を伸ばすような夢は、見るのかい。





 それで、これは何? と珍しく、紫原が追求した。
 顔を洗った氷室を再度シーツに引っ張り込み、自分の脚にくっきり残された歯型を指さして。
「何か言いたいことがあるの? 何か不満なの? 言えばいいし。単に噛みたくなっただけなら、別にそれでいいけど」
 逃げ場は残すあたりが、やはり甘い。
 少し考えてから、正直に言うことにした。反応が見たかったのかもしれないし、ただの気紛れかもしれない。
 冷たく背を向ける彼の姿が脳裏に蘇る、そしてそれを追う自分の手と。駄目だ、縋りたくなんかないんだ、惨めにすぎるだろう、だから捨てるときにはあなた私をやさしい絶望に突き落として。
 言葉を探すが難しい、日本語は複雑だ。
「夢を見たんだよ、いやな夢だ」
「夢?」
「お前に捨てられる夢だよ、アツシ。噛んだのは、そうだな、執着みたいなものじゃないか。それだけ」
 氷室の言葉に、紫原はぱちりと瞬いたあと、少しむっとしたような顔をしてみせた。あまり表情のない彼にしては珍しい。
 洗ったばかりの両手で、綺麗な紫色の髪を梳く、美しい男だと、何度でも思う。長い髪を後ろに撫で付けて、造作の整った顔を覗き込んだ、何を膨れているんだ? オレはそんなに変なことを言っただろうか。
 ベッドの上で向かい合って座る。恋人の距離である。我々は恋人なのだろうか、よく分からない、明言なんてしたことはない、互いに。
「それで? 捨てられる夢を見て、なんなの? それだけって、なんなの? 繋ぎ止めたいの、噛みつけばオレを引き止められるの? 執着とかいう言葉使うの、やめてよね、そんなんじゃないし」
 甘い声が、いつもよりも少し低くなる。この男は表情通り、怒ったらしい、ということは分かった。しかし、何故。
 執着とかいう言葉使うの、やめてよね。
 そうだな、執着なんてされたら、困るのはお前だ、悪かったよ。
 肌を合わせて、こころを交わして、甘い空気に酔いしれても、必ず終わりが来る関係だ、はじめから知っていて手を伸ばした、光に焦がれるあまり。
 ここまで嵌まるとは思っていなかった。
 紫原敦は、魅力的だ、眩しいほどだ、まとわりついてくる長い腕も、自分に合わせた歩調で歩いてくれる足も、ベッドでの態度も、素晴らしい。
 緩い声も、眠たげな目も、好きだ。
 それでも、この男が、もし、強くなければ。
 おそらく見向きもしなかった、氷室辰也とはそうした男である。彼の素晴らしさはまず才能だ、強い男は好きだ。
 だからますます、ますます嵌まった。
 取り敢えず、何に対してかは自分でも明確ではないが、ごめんな、と囁いて、両手で彼の頬を撫でた。それを簡単に見通して、紫原は、適当にごめんって謝らないでよ、と今度は苛ついたように目を細めて言った。この男にしては、今日はまたずいぶんと表情が垣間見える、なかなか稀有だ。
「室ちんてときどき、無神経なこと平気で言うよね、綺麗な顔してさ。怖い夢を見たなら泣きつけばいいじゃない、ひとに噛み付いておいて、それだけ、で済まさないでよ、捨てられたくないって縋れよ」
「いや、オレは縋りたくないよ、アツシ。お前がオレを捨てるときは、手も伸ばせないように、落としてくれ」
「……捨てないし」
 仕返しのように、氷室の黒髪を両手で掻き乱して、紫原は唸った。大きな動物のようだ。なんだかおかしくなって、彼から手を離して笑うと、彼もまた、むっとした顔のまま手を引いた。
 笑う氷室を睨みつけて言葉を続ける。落としてくれって、何。
 可愛い男だと思う、明晰なところも、そう、好きだ。
 捨てないし、と、彼は言った、多分本気で言っているのだということは分かる。でもね、アツシ、その感情もひとときのものなんだよ、いつか訪れる未来にお前はオレを捨てる、だって続くわけがないだろう、まずはオレもお前も男であるし、それより決定的なことに、お前は何もかもを持っていて、オレは何も持っていない、この歴然たる差。
 その差があるからこそ惹かれたのである。
 だがその差が、いずれ歪みをきたす。
 知っているさ。知っている。別離はそれほど先ではない。覚悟を決めろと誰かがオレにあんな夢を見せたのだろう、決めているとも、そのはずだ、なのにまだ夢のオレは彼に手を伸ばした、醜い。
 汚い男は、嫌いだよ。
「お前がオレを捨てるときには、やさしい絶望に落としてくれ、最後のお願いくらい聞くよな? 縋るのはいやだ。噛んだのは、だからせめてもの執着さ」
 にこりと微笑んでみせた。紫原は数秒、意味が分からない、という顔でその氷室をじっと見つめていたが、それからうんざりしたような溜息を吐いた。露骨じゃないか。
 そうか、うんざりだよな、自分でもそう思う。
 でも、見えてしまうものは仕方がないだろう、不安だとか恐怖だとかではないんだ、確信なんだ。
 彼は、あのさあ、と言って氷室に手を伸ばした。内腿、ほとんど脚の付け根に近いような場所に指を這わされて、晒した素肌がぴくりと揺れた、そこには彼の歯型がくっきりと印されている、触れられて甘い痛みが鮮明になる、ならば何故お前は噛んだ?
 オレも噛もうかな、と紫原は言ったのだった。
 氷室の行為に何かしらの意味が、理由があることは、セックスのあとにこうして訊いてきた以上は察していたのだろう、それでも彼はそのとき何も問わずにただ噛んだ、素敵だね、アツシ、惚れ直すよ。
「じゃあ、オレだって室ちん噛んだし、お揃いだね。ねえ、絶望させてとか、簡単に言うもんじゃないよ、オレそんなのやだし。て言うかさ、捨てるの前提で話しないでくれる? またぐるぐるくだらないこと考えてる暇があるんなら、もっとオレを見て、たくさん愛し合おう、いい? オレのこと愛してる? 愛して?」
「I adore you.」
「もう。このひとが言うと、なんか嘘くさい」
 失礼だな。惚れているのは嘘ではないよ、崇拝しているというのならその通りだよ。
 ただ、知っているだけだ、お前はいずれオレを捨てる、アツシ。
 正面からやわらかく抱きしめられて、なんだか泣きそうになった。彼の背に両手を回して、抱擁を受け取る、分かっているさ、お前の言葉はすべて本物、真実こころのかたち、偽りひとつありません。
 でも、いまだけだ、いまだけなんだ、お前には理解し難いかもしれないが。
 どれだけ嵌っていても同じだ、絶対に終わる、どんな絆だって切れる、ましてやオレとお前を繋ぐものならば。
 だから、右と左に別れるときには、どうかやさしい絶望に私を突き落として、惨めな真似はしたくない、この手があなたに届かないよう、深い深い崖の下まで、それが愛情というものさ。
 Please keep holding my hands.
 口が裂けても言わない。オレはそこまで女々しい男になったつもりはない。
 むしろ、手を離せ! 抱え込むにはオレは重い、一緒に崖から落ちたくなければ、さっさと突き落としてくれ。オレは絶望には慣れている、泣いて泣いて幾度でも這い上がれる、もう得るものもないと悟ったときには、捨てて、落としてくれていいんだよ。
 彼の長い髪が頬に触れて擽ったい、シーツの上で抱き合って、誰よりも彼のそばにいるのに、胸が痛くて痛くて仕方がなかった。
 彼の匂いに目を閉じて、彼の感触に肌を擦り付ける、あたたかい、そうだな、でもいまは、いまだけは、オレのものか。
「愛してるから」
「Same here.」
 囁き合うことに意味などないが。
 執着の証を刻みつけて、腕を伸ばして寄りそう、今日の記憶を綺麗なアルバムにしまっておこう。遠い未来に振り返ったときに、互いに噛みつき合った痛みまでをも、ああ、これは可愛らしい過去だと笑えればいいよね、多分そのとき私はひとりでいるでしょう、隣にあなたはいないでしょう、それでも懐かしく思い出せればいいよね。
 夏、秋、冬、春、気づけば、お前の隣で笑うオレの写真はずいぶんと増えました。
 手も足も動かなくなって、ひとり凍える朝に、胸の中でそれを見返して、しあわせだったと笑いたい、だからそのために、あなた私を捨てるときには、引きずらないために、縋らないために。
 やさしい絶望に私を突き落としてください。私を一度殺してください。私はいつでも何も手に持たずにはじめるのだ、見苦しく未練を両手に握りしめるのは、そう、醜い、汚い、嫌いである。

(了)2014.04.21