紫陽花

 雨の午後。
 日はまだ高いが、弱いシャワーのように降り落ちる雨滴の所為で、視界はあまり鮮明ではない。


 傘も差さずに遠ざかる、ダークスーツの背中を追いかけた。
 嫌味なくらいに脚が長いんだ、別に急いでいるようには見えないが、こっちがどんなに大股で近寄ろうとしたって、勝手にぐんぐん距離が開く。
 仕方がないので、邪魔な傘は途中で放り投げ、小走りに。
 気付いているのかいないのか、彼は全く歩調を弛めず、勿論振り向きも立ち止まりもせず、私の前を真っ直ぐに、真っ直ぐに歩いた。
 するものでなく、堕ちるもの。


 そんなことを、いつか誰かが言ったろうか。
 恋は、するものでなく、堕ちるもの。
 ならば私は堕ちたのだろう。いつから? きっと初めて彼に出会ったそのときから。
 今になれば、判る。あのときも、あのときも、あのときも、この不可解な胸の痛みはきっと、恋、初めて彼に出会ったそのときから。
 知らなかったとは言わない。


 彼の背中を追いながら、雨に濡れた自分の頬に触れる。指先で惨たらしい傷痕を辿る。彼はこうして私を撫でた。密やかに。
 知らなかったとは言わない。
 たまたま堕ちた相手が男だったなんて、誤魔化しは言わない、私は、むかしから少しなりと男を恋愛対象としてみていたのだろう、はっきりと認識する機会がなかっただけで。それから、経験と。
 例えば、あの黒髪の嘘吐き野郎に、僅かでも惹かれていやしなかったか。
 例えば。例えば。例えば。
 幾らも並べずとも判る。知らなかったとは言わない、私は知っていた。
 私にとって、男は、彼は、恋愛対象になりうる、充分に。例外だとは言わない、私は多分、そういう種類の男なんだろう。
 だが、彼は? 彼にとって、私は?


 気付いたのはいつだったか。彼と病院でしょっちゅう鉢合わせ、先攻は大抵私で、勝率は五、六割。負けた場合は後攻の彼に引き継ぐ、それが、いつの間にかの暗黙のルール。
 オペのあと、集中治療室の真ん前で、ソファに寝そべり、患者が安定するのを待つのが癖だ。
 特に大きな不安もなければ眠ってしまう。その私に。
 ふわり、覆い被さる、甘やかで優雅な香り、知っている彼の匂い。
 しっかりとした男の指先、触れるのはその一点でのみ。
 頬の縫い目を額からそっと撫で、他の誰にも、私にさえも聞こえないような、囁き。耳元へ。

 お疲れ様、ありがとう。大好き。

 夢現、何度か聞いた。夢じゃない、現実だと気付いてからも、何度か聞いた、目を伏せて、深く眠ったふりをしたまま。
 らしくないじゃないか? 死神先生。
 心臓が無駄に跳ね返り、私は一人こっそりと自分の胸を抱く。不可解な痛み、違和感。恋に堕ちるとはこういうことか。
 アタマの回線がショートする程考えたって、マトモな答えは出ない。
 ただひとつ、判っているのは、私は彼に惚れたと言うこと。堕ちたんだ。或いは釣られた? まさか!
 我慢が出来ずに、遂に追いかけたのが、今日、生憎の雨の午後、声をかければいいのに言葉を思い付かず、ただ、もう見えるものがそれしかないみたいに、彼の背中を、無言で。


「傘くらい差したら? ブラック・ジャック先生」
 彼が不意に足を止めたのは、ひとけのない広い公園の真ん中だった。
 立ち止まり、漸くあたりを見渡す余裕の出来た目には、ぎっしりと、紫陽花の花、青、紫、群青。
「…おまえのほうこそ」
 振り向いた男に視線を合わせて、歩み寄る。同じようなスーツを着て、同じように雨に濡れている、私と、彼。
 降り注ぐ滴、薄らと漂う日の光、映画のワンシーンだったら少しは絵になったかも。しかし残念ながら、これは映画のワンシーンではないし、そのうえ私は薄汚い恋情に侵食されている。
 侵食?
「いいのかい、患者を放ってきて。おれはもう用なしだから帰るぜ」
「キリコ。どうしておれに触るんだ?」
「触る? なんのこと」
「触るじゃないか。いつも、いつも、ここを、こうやって」
 彼が毎回そうするように、自分の指先を頬に這わせる。その感触にはもう慣れてしまった。彼の指を思い出し、何度も自分で撫でた。一人きり、半ば恍惚と。
 彼は私の言葉を聞き、私の動きを見て、にやにやと笑った。この男には、こういう嫌味ったらしい表情がよく似合う。
「起きていたの、いつも、いつも? 厭だったなら、寝たふりなんてしてないで、怒ればいいじゃない」
「…別に厭だなんて言ってない」
「そう。厭じゃないのか。だったら、嬉しいの? おれに傷を触られるのは」
「…嬉しいとか嬉しくないとか、言ってない。訊くな」
「儀式だよ」
 雨の滴が前髪を伝い、目に入る。
 スーツを着たまま二人で風呂でも浴びたみたい。
 雨の帳を開くように、更に彼へ近寄り、色素の薄い瞳をじっと見据えた。彼の見事な銀髪は、この薄曇りの雨の中、淡く煌めいてまるで天使の羽根のよう。
「儀式? 何の儀式だ?」
「取り憑かれているから。おまえ。こっちの世界に呼び戻さないと」
「取り憑かれてる? おれが? 訳が判らない、おまえのほうが余程何処か違う世界に行ってないか」
「おれはどんな世界にもいられるから。でも、先生はこっちじゃないと、狂うよ、いつか、確実に」
 彼がすっと片手を伸ばして、いつものように、私の頬に触れた。
 途端に、睨み上げていた視線が、色に揺れたのが自分で判った。
 雨、紫陽花。
 ふたりきり。
「おれは、」
 咄嗟に取り繕おうと開いた唇へ、彼のもう片方の指が触れた。
 ちょっと黙って?
 この男、自分が私にどんな種類の感情を抱かれているのか知らないのか。知るわけがないか。それとも、全部承知の上での。
 唇を封じた長い指、噛み砕いて飲み込んでしまいたい。
「先生。先生、おまえ今、自分がどんな目をしたか知ってるの」
「…」
「先生。おれのことが好きなの?」
「…訊くな」
「もう少し、触る」
「…おい、」
 抗う前に、信じられないような柔らかさで、抱き寄せられた。雨に濡れた重いスーツ、自分より背の高い男の腕、どう考えたって気持ちのいいものではないはずなのに、私はその一瞬で、あっさりと彼に堕ちた。
 いや、堕ちたというなら、とうに堕ちていたんだ。
 そう、初めて出会った、そのときから。
 しかし、彼は。
「キリコ、おまえ、ホモなのか?」
「ええ? なに? おれがホモかって?」
 私の言葉に、彼は、私を緩く抱き寄せたまま、彼にしては珍しく、頓狂な声を上げた。
 それから、心底呆れた溜息を吐いて、いつもの口調で続けた。嫌味のような、揶揄のような、嘘のような本当のような。
「ああ、ああ、そうかもね、こうやって、男抱きしめたのも今が初めてだけどね。じゃ、おまえはホモなの」
「…多分。過去に男にこんなふうに、されたこともないが、多分」
「多分、ね」私をふんわりと抱きしめたまま、彼がくすくす笑った。低く甘い声がすぐ傍に響き、私は無意識のうちに喉の奥で呻いた。「変なところに拘る先生だなあ。じゃ、確かめてみる? 気持ち悪くなったらすぐやめるし、痛いことはしないから、そんなに硬直しないでよ、だっておまえ、おれのこと、好きなんだろう?」
「…おまえだっていつも、寝てるおれに、大好きって、言うじゃないか」
「言うよ。おれは正直だから」
「ま、待て…」
「イ、ヤ、ダ」
 彼の胸に腕をついて、僅かに抗う。何がどうなっているのか判らない。私は彼に惚れている、それは確かだろう、恋をしている、だが、彼は私をどうしたいと言うのか?
 次の言葉を思い付けない唇に、躊躇なく彼の唇が重なった。その感触。明らかに女のものとは違う、まるで今から食われるような口付け、至近距離で銀色の睫に瞬かれ、私はもう、為す術もない。





 気付いたら紫陽花の植え込みへ、半ば埋もれるようにして、立ったまま絡み合っていた。
 唇の隙間に差し込まれた舌は、女の儚い舌とは違う、いかにも筋肉の塊、片手で抱き寄せられ、片手で服を開かれながら、私はただされるがまま、ぬるぬると蠢く彼の舌に犯されている。
 そういえば、男とは、キスをするのも初めてだ。
 こんなふうになるものなのか、頭の中はぐちゃぐちゃに乱れ、与えられる刺激に目が眩む、何も考えられない。
 流し込まれる唾液を啜り、今、自分を抱き、口付けをしている男は、彼なのだというその事実に欲情する。夢? これはいつかの明け方の夢? 違う、この少しひんやりとした唇と、熱い舌は確かに男の、彼のもの。
 惚れているのだと思い知らされる。
 気持ちが悪いと思えれば楽か。
「いやらしいツラをしてる」
 長い口付けのあと、漸く唇を放し、彼は私を眺めながら言った。右手が器用にリボンタイを抜き、シャツのボタンを弾き、胸元で遊んでいる。
「おれにこうされるのを待っていたんだろう?」
「違、う」
「じゃあ、何で追いかけてきたの」
「おれはただ、あ、よせ…、」
「まともに抵抗もしないんだね。おれのことが好きで好きでしようがないって顔をしている。こういうふうに、されたかったろう? おれはしてみたかったよ、おまえと」
「は、キリ、コ」
 シャツの下に忍び込んだ指先で、乳首を引っ掻かれる。野郎のくせに、そんなところまで感じるなんて意外だ。捏ね回されて、掠れた声が散った。
 雨、湿度百パーセント、濃密な空気に、紫陽花の香り。濡れたスーツを肌に纏い付かせて、私達は、一体何をしている。
「ぞくぞくする」筋肉のラインを確かめるように腹を撫で回しながら、彼は私の耳朶を噛んだ。吐息を吹き込まれて、首筋に鳥肌が立った。私の身体は実に正直だ。「先生、多分ホモなの? どう、まだ多分なの? おまえが悩もうが困ろうが、おれにはどうでもいいことだが、男にこんなふうにされて、従順に歓びはしないぜ、普通、ホモでもない男は」
「おれは…、おれは、おまえが、好きだ、多分」
「じゃ、ホモだね。おれ、男だもの」
「おれは…、」
「言い訳がましいのは嫌い。おまえが言い出したことだろう? おれはおまえが好きだから、ホモだよ、ヘンタイ二人、ツラ付き合わせて、やることなんか決まってる」
「あ…! ま、待て、あっ、」
「ちょっと弄られただけで、これ?」
 服の上から、不意にぐいと性器を掴まれて、咄嗟に彼の濡れたスーツにしがみついた。膝から崩れそうになった。
 確かに、ちょっと抱き寄せられて、ちょっと口付けをしただけ、ちょっと胸を撫でられただけで、私の股間ははしたなく興奮している。
 夢? いつかの明け方の夢?
 違う、これは現実、服越しに伝わる湿ったなまぬるい体温、今、私に触れているのは、現実の、彼。
 ベルトを外され、直に掴み上げられたときには、さすがに少し焦った。
「キリコ…! そんな、こんな、ところで」
「誰も来やしねエよ、ざあざあ降りの雨の公園なんか。もし万が一誰かに見られたら、おまえは被害者面して逃げ出せばいいさ、どうせおれ、悪人顔だし、おまえは美人だからそういうふうにも見えるかも」
「ア、待て…、無理、だ、擦る、なッ」
「何故? 気持ちいいだろう」
「ン、出ちまう、そんなにしたら…」
「出していいよ」
「…は、」
 頭の中でちかちかと、ミラーボールが回るみたい、この男は、気持ち悪くはないのだろうか、興奮している男の性器に触れて。
 おれはおまえが好きだから?
 信じるとか信じたいとか、信じられないとか、少しだけ馬鹿なことを。
「も、出る…ッ」
「いいよ、ほら、出しな」
「あ…!」
 息を詰め、男の大きなてのひらに精を吐く。意識の芯が痺れる。そうか、私はこうして欲しかったのか、そうか、こうして彼に触れ、誤魔化しようのない欲を引きずり出され、この劣情を確かなものにしてしまいたかったか。
 肩を喘がせ、彼に腕を縋らせる。男の身体、太い骨と、筋肉。淡い目眩、好きだ、好きだ、初めて出会ったあの日から。
 彼は、私を片腕で抱えたまま、てのひらで受けた私の精液を、紫陽花の葉で拭いた。
「判った?」
「何が…」
「多分か、どうか」
「ああ…。判った、多分」
「て、どっちなの。ああ、ああ、仕方ないなあ、じゃ、今度はおれにして」
「え…」
「ほら。おれもこんなだから」
「…」
 スーツの襟を掴んでいた右手を、引き剥がされ、彼の股間に導かれた。無意識にごくりと喉を鳴らして、私は人形のように身体を強張らせた。
 彼の性器は私と同じように、確かに反応していた。服越しでも判るリアルな男の形、自分以外の性器に触れるのは、医療行為以外では、初めてだ、しかもエレクトしているもの。
 彼も私に触れ、興奮したのか。
 つい先程、そうされたようにベルトを外し、嫉妬したくなるほどご立派な性器を掴み出す。両手で擦ろうとすると、肩を掴まれ、軽く下に押された。「しゃぶってよ」
「え…」
「判りやすいと思うけど。おまえ、おれのペニス、咥えられる? 一度くらいしてみたくない」
「…」
 これだけ雨に濡れて形も崩れて、もうこのスーツは着られないだろう、今更汚れるのも気にせずに、私は無言でその場に跪く。思考が纏まらない。そこまでする必要があるのか、それとも、そうしたくてたまらないのか。
 雨の匂い。土の、緑の湿った匂い。植え込みに半分埋もれて、噎せ返るような紫陽花の匂い。
 それから、男の、彼の匂い。
 まじまじと目の前に見る。銀色の陰毛が妙にいやらしくて、綺麗だ。
「先生、やりかた、判らない? まず口を開けて」
「…」
「歯を立てないで。無理だと思ったら、入るところまででいいから。全部は無理だから、おれの」
「…ッ、」
 言われるまま、唇を開くと、彼の指が私の後ろ髪に絡んで、頭を固定した。それから、焦れったくなるほどゆっくりと、彼の性器が私の唇を犯し始めた。
 牡の味。顎が外れそうな太さと、血管を浮き上がらせる生々しさ。驚いたことに抵抗感は殆どない。どころか、つられて自分の性器が厭きもせず、勃起してきたのが判る。
 私はこの行為に、興奮しているのか。
 要領がよく判らなかった。彼に任せておいたら、遠慮無く喉の奥まで貫かれそうになり、慌てて両手を性器に添えた。ちらと上目遣いで見やった彼は、特に表情もなくこちらを見下ろしている。
「苦しい? 無理しなくていいよ、好きなようにやって」
「ン、ウ」
「おれのはどう、旨いか?」
「…」
 曖昧に頷いてから、その位置で、出来る限り尽くした。ぎりぎり咥え込んだ亀頭に舌を這わせ、余る部分は両手で扱く。
 私の唇で、私の指で、彼の性器が益々太く、硬くなるのが嬉しかった。彼は私で感じているのだ、私が彼で感じるのと同じように。
 続く雨が少しずつ、強く濃くなってくる。身体を刺す大粒の雨滴、頭の先から爪先までずぶ濡れで、男の股間に食らい付く。まるで獣、熱い、ちっとも冷ましてはくれない、私のこの火照った身体。
 暫くそうしていると、不意に、私の後ろ髪に絡んだ彼の手に、力が入った。ぐっと股間に顔を引き寄せられ、性器が喉に刺さって咳き込みそうになる。
「やばい、いきそう。いっていい?」
「…」
 声も出せずに、私は何度か浅く頷いた。彼は、私の頭を二、三度揺さぶって、喉の奥まで深く性器を擦り付けたあと、今度は髪を乱暴に掴み直して、私の唇から性器を引き抜いた。
「いく。先生、出すぜ」
「キリコ…、」
「ああ…。出るよ」
 うっとりするような声が聞こえたあと、彼は私の目の前で、素早く性器を扱き、私の顔に精液を浴びせかけた。躊躇う様子はまるでなかった、最初から、私の顔面に射精するつもりだったに違いない、この男は。
 そんなことをされたのは、勿論初めてだったが、想像するほどショックではなかった。それは相手が彼だから? 匂い、温度。強まる冷たい雨に流される前に、私は無意識に覚え込む。唇に散った体液を舌で舐めとり、味を知る。ああ、もう、ずっと。
 ずっと、このままでもいいのに。あんたの劣情に、濡れたままでいいのに。
「厭がらないのね」服を整えてから、く、く、と頭上に笑った彼に、腕を掴まれ、跪いた身体を引きずり上げられた。「動揺したり、怒ったりしないの? ねえ先生、おまえ、結構重症だよ。さすがにもう判ったろう? 先生、判ったよね?」
「ああ、判った…多分」
「はは! おまえは本当に、しようのない男だな」
 まあ、そういうところは嫌いじゃないけどね、と言って彼は、千切り取った紫陽花の花びらを、何を思ったか、私の頭の上からひらひらと散らした。青、紫、群青。雨と精液で濡れた顔に、そこら中にくっついて、私は一人往生する。
「じゃ、今度はもっと、判りやすいことをしよう、決定的なこと」
 一枚一枚、俯いて花びらを剥がしていた私に、彼が言った。少し遠い声。
 顔を上げると、彼の姿はもう無かった。きょろきょろと左右を見ても。
 今度は? 今度っていつだろう。決定的なこと?
「キリコ!」
 花びらだらけの姿で、一度だけ、彼を呼んだ。
 まさかそうしてはくれないだろうが、引き返して、抱きしめてくれれば、何かが変わるのか。
 彼は勿論、戻ってはこなかった。呼んだ声だけが恥じ入るように、雨に消えていった。
 私は、紫陽花まみれの自分が少し可笑しくて、公園の真ん中、一人笑った。

 ああ、きっと私達は、とても不器用で、とても怖がりで。


(了)