私には、死、それだけがある。
 彼の魂は、生と死、そのものだと思う。

 対峙していると、まるで何かを刻み込まれるようだ。
 深く、深く、瞼を上げれば空虚しかない私の、いかれたアタマに、何か鮮烈なもの。

 カミサマは、不公平だと思う。
 終末を振りまいて踊るこの世の夢、私には、この空、重みがない。



「カミサマとやらは、不公平だよな」
 獣じみた媾いのあとの、気怠い空気に彼がふと呟いた。
 左の肩に頬を寄せて、気紛れに私の髪を弄んでいる彼の温度、このぼんやりとした時間が、私は嫌いではない。
「何が不公平だ、ブラック・ジャック先生?」
 それでも、視界に入るのは、死んだように生きている私の手と、死を抱えて生きる彼の手。触れる温かな肌の奥には、確かに命が宿っている。私の肌はきっと、氷のように冷たい、だって私の中には、何もない。
 何も欲しいとは思わない、要らない、全て捨てたから。
 シリンジを押す指は、震えもしない。
「おまえには、迷いがない、狡い」
 髪を絡めて遊んでいた彼の手が、私の頬に触れた。骨格を確かめるようになぞり、鼻筋、唇、指先で、まるで私を慈しんでいるかのよう。
 汗を吸って僅かに湿ったシーツ、熱くも寒くもなく、昂揚の去った身体には、ただ、甘い倦怠が。
 肩に乗った彼の頬が、少し重い。
 偶にはこういう微睡みがあってもいいと思う。
 私が目覚めるのはいつだって、重力のない透明なガラスケース、何処までも見渡せる、しかし、何処にも行くことは出来ない。
「おまえには、迷いがあるの」
「おれはいつも迷ってばかりだ。おまえには迷いがない、羨ましい」
「おれには迷いがないと思うのかい」
「迷いがあるのか?」
「いや、無いけどね」
 左手でくしゃくしゃと、彼の髪を撫でる。猫っ毛で癖っ毛で、こうして互いに貪り合ったあとは、好き放題にあちこち跳ねている。
 いつもは捨てられて虐められた手負いの猫みたいに気が荒いのに、ふと、とても無防備になる、その瞬間の彼が私は嫌いではない。気が荒い彼もそれはそれで、可愛らしいものだとは思うが。
 喉を鳴らして私にまとわりつく、彼はきっと淋しい男なのだろう。自覚があるのかないのだか、知ったことではないけれど、彼はいつでも目をぎらぎらと血走らせて、自分が落ち着ける寝床を探している。
 私が襖になればいい。
 私は死体のように生きている。
 彼が私の中で、身を丸くして眠るなら、少しは私の身体も、あたたかくなるのかも知れない。
「迷いがあるのと無いのとでは、どちらが羨ましいのかねえ」
 彼の手が顎をなぞり、首筋を辿った。撫でるというよりももっと強く、掴んで感触を確かめるように。
 ぱちぱちと瞬きをして顔を上げた、彼と目が合った。
 本当に無防備だ、私達、恋人でもありやしないのに。
「そりゃあ、迷いがないほうがいいだろう」
「どうして?」
「迷うのは疲れるぞ。自分の判断ひとつで、誰かが死んだり生きたりする。疲れる。迷いはないほうがいい」
「疲れるくらいじゃないと、生きている気がしないんじゃないの」
「じゃあ、おまえは生きている気がしないのか?」
「さあね」
 そんなはずはないのに、血色の瞳がいやに無垢に見えて、私は彼の髪を撫でる左手で、彼の頭を肩に抱き直した。
 凍り付いた心の奥まで見透かされそう、その瞳に溶けてしまいそう、私の閉じ込められた無重力のガラスケースを、外側から容赦なく叩き割られそう。
 胸に突き刺さるガラスの破片で、私はその瞬間に死んでしまうでしょう、ああ、そのほうがよほどマシなのか、死んだように生きている、この無意味な時間を終わらせたほうが。
「おれは時々、おまえが正しいんじゃないかと思うよ…」
 首筋から滑り落ちたてのひらが、強い力で肩を掴む。少し痛い。母親が死んだ夢を見て、泣きながら目を覚ました幼子が、隣に横たわる女に必死でしがみつくような。
 指先にくるり、まとわりつく彼の髪を左手で掻き回し、私は真っ白な天井を眺めている。今、ここには重力がある。痛みも、安寧もある。
「おれは、機械だ」
 鎖骨を指先で、ぐいぐいと押された。右肩から真ん中の窪みを抉って、左側まで。
 私は目を閉じて、淡い暗闇に身を投げる。彼は何を確認したがっているのか、なにを? 無意識に、多分彼は、私の生を確認したがっている。
「おれは、機械だ。正しいも間違いもありゃしねエよ。インプットされた命令通りに、ただ動く、機械だ」
「インプットするのは、おまえ自身なんだろ」
「命令は更新されない。誰にも、おれにも変えられない、死ぬまでね」
「何故」
「地獄を見たからさ」
「情報は日々新しくなるものだぜ」
「それなら、おれは、壊れた機械だ。情報も更新されない」
「厭な野郎だ」
 がり、と鎖骨の上を、いきなり引っ掻かれた。
 つい目を開けると、私の肩の上、上目遣いに私を見る彼と、視線が咬み合った。
「おれだって、地獄の欠片くらいは見たぜ」
「おれは、ヤワなんだ、迷いを捨てたんだ、羨ましいだろう?」
「カミサマは、不公平だよな」
「ああ、そうだな」
「なあキリコ、おれはカミサマなんか、いないと思っているよ」
「ああ、そうだな」
 やっぱりその赤い瞳を見ていられなくて、もう一度肩に抱き込もうとしたら、その腕を、彼に振り払われた。
 そのまま、彼は私の隣から身を起こし、私の上に覆い被さった。私は動かなかった。彼の淡い匂いが、少しだけ濃くなった。
 生きているって、どんな感じだろう。
 全てのインプット、アウトプットのボリュームを、一番上まで引き上げて、必死に生きているって、どんな感じだろう。
 私には判らない。
 私には、何もない。
 腹を割かれ、内臓を引きずり出されても、多分私は何も感じない。
 ああ、それでも、この一時は。
 甘くて重い湿った空気、すぐ傍に、張りつめた命、この一時だけには、何かがある、何かがある、そんな気がする。
 彼は、覆い被さった私の胸元に唇を寄せ、肌を強く吸い上げた。
 痛いくらいだった。吸いながら、歯を立てている。好きなだけそうしてから、音を立てて唇を放す。
 見やった彼は、美しい瞳を煌めかせて、私を見ていた。自分の胸元に目をやると、真っ赤な口付けの痕が残っていた。
「おい」
「何だよ」
「やめろって。痕をつけないでよ」
「どうして?」
「他の奴とセックスするとき、言い訳するのが面倒じゃない」
「他の奴とセックスしなければいいだろう?」
 彼は、私の言葉など気にもせず、二箇所、三箇所、赤い印を肌に残した。やめろと言いながら、私は止めもせず、彼にされるがまま横たわっていた。
 ちくりとした痛み、歯が食い込んで、生ぬるい舌が触れる。胸、腹、腰、好き勝手に吸い付く彼の髪が肌を擽り、私はなんだか妙な気分になる。
 そうだ、私も今、とても無防備だ、彼と同じように。
 私達、恋人でもありやしないのに。
「見ろよ」
 数え切れない痕を残してから、彼は漸く顔を上げ、突き刺すような目付きで私を見た。ああ、割れてしまう、そう思った。私の棲むこのガラスケース、私以外には何もない、このガラスケースが。
「おまえの真っ白の肌、吸えば赤くなるぜ、血が流れている証拠だよ。機械に血が流れているかい?」
「…酷い有様だぜ」
 身体中に散ったキスマークを見下ろして、私は苦笑した。
 証拠。証拠か、それも良い。



 私には、死、それだけがある。
 魂はとうに命の灯火を消し、仲間を捜して月夜に踊る。それでも。

 光が差し込む。
 灰色の視界が開く。

 カミサマ、もしも私が、無重力のガラスケースの中、それでも、生きているとしたならば。
 おまえが、おまえこそが、私の生きた証。
 この世に生きた証。


(了)