青い鳥

 珍しく待ち合わせて酒を飲んだ。まるで古い友人か恋人同士でもあるかのように。
 珍しく? いや、珍しいどころの話ではない、初めてか。なにせ私達は、古い友人でも恋人同士でもないのだから。
 電話で連絡を取り合って、都合の良い日に、都合の良い酒場に出向く。最初に声をかけたのは私だったか、彼だったか。
 そうだ、彼だ、普段は奴隷でも呼び付けるように私に命令を下すくせに、何故か今回は、手際よく女でも口説くみたいに私を誘った。私もちょうど、彼の顔を見たいと思っていたときだったから、断る理由もない。
 仕事の予定がない日を告げると、彼は、じゃあその夜だけは急患を入れるなよ、と電話越しに少し笑った。

 会いたい、と言ったのだ。
 おまえに、会いたいよ、ブラック・ジャック先生。

 どの口がそんなことを言うのだろう? 今まで一度だって、会いたいだなどと言ったことはないのに。
 回線の向こうで彼はどんな表情をしていたのか。
 ああ、会いたいさ。
 私は、見えない傷にしくしくと痛む胸を抱えながら、シャワーを浴び、いつもとまるで代わり映えのしないスーツを着て、家を出た。夜の街は冬の最中で大層寒く、引っかけてきたコートを掻き合わせる手が悴む。吐息が白い。
 待ち合わせの場所には、彼が先に来ていた。眼帯、銀髪、何よりその殺伐とした雰囲気、相変わらずの異分子。私が見ていることに気付いていないのか、彼は私にはあまり見せない、愁いを帯びた表情をしていた、瞬きの合間に消えそうな程度だが。
 何に傷付いているのか、何に疲れているのか、とうに絶望に身を浸した死神よ?
 そして私もきっと同じような顔をしているのだろう、彼の目の前に歩み寄ると、私に気付いた彼は、その私の表情を見て、淡く苦笑した。
「久し振り、ブラック・ジャック先生。会いたかったよ」
「…おれも、会いたかった」
 決定的だと思っていた一言を、さらりと口に出してみると、何故か身体を一瞬熱が走り抜けた。
 会いたかった。
 会いたかった。
 私達はそんな言葉を交換し合っていいのだったか?
 嫌味と揶揄と挑発と、そんなもので私達は気紛れのように繋がってきた。多分今後もそうなのだろう、私達の間にあるものが何なのかは知ったことではないが、例えば好きだと言って求め合ってしまえば、そこでこの関係は終わるから。
 私はこの関係を失うことは出来ない、私の足場が崩れてしまう、だからこんなふうに、会いたかったと言われるよりも、犬のように扱われるほうが安心する。
 彼はきっと今弱っているのだろうと思う。だからそんなことを言うのだろう。私はそれに紛れて自分の欲を口にした。情熱と、得も言われぬ後悔が沸き上がる。
 怖い、終わりが近づきそうで、ああでも、そうだ、今、会いたかったさ。
 二時間ほど、淡々とふたりで酒を飲んだ。いつもとまるで同じようで、いつもとは少し違かった。普段は何があっても感情を見せない彼が、ほんの僅かに感傷的だった。
 例えば、彼はこんなことを言った。
「なあ先生、幸せの青い鳥ってのは、何処にいるんだろうな?」
 らしくない。
「おまえの死神然としたツラを怖がって、逃げ出しちまったんだろうよ」
 煙草に火をつけながら適当に答えると、彼も同じように煙草を咥えながらくすくすと笑った。
「そうか、青い鳥は逃げちまったのか」
 青い鳥。
 青い鳥か。
 彼の口からそんな言葉を聞かされるとは思ってもいなかった。なんという子供じみた感傷。幾つもの命をその手に刈ってきた、異端の医師の言うことではない。
 青い鳥なんてものは、はなから何処にもいないんだよ、と、答えてやればよかったか。
 幸せなんて我々から最も遠い言葉、遠くなくてはならない言葉、我々の両手は血で汚れすぎ、第一そのような概念は幻想に過ぎない。
 しあわせなんて。
 ふたり、大して酔えもしないまま店を出て、当たり前のようにホテルに入った。彼が積んだ金のおかげか、すんなり通された部屋はえらく広いスイートで、私は何だか少し笑ってしまった、不釣り合いのような、あまりに相応しいような。
 部屋に入るなり、彼は私を背中から抱き締めて、耳元に、いつもとは違う声で囁いた。「会いたかったよ」
 繰り返される言葉、悦びと不安が足下から忍び寄る。
「ああ」
「おまえは? おまえはおれに会いたかった?」
「…ああ。会いたかったさ」
「本当に? 本当におれに会いたかった?」
「会いたかった」
 らしくないね。
 コートをはがされながら、私は向かいに見える窓の向こうを眺めている。眩く光る下界は、冬だというのに寒さを知らぬよう、それに較べてこの空調の効いたスイートで、私達は今にも凍え付きそうではないか。
 傷付くことなど許されてはいないはずなのに、ふたり傷付き足を引きずり、こうして身を寄せ合っても暖め合うことなど出来やしない。精々が刹那の忘却、それでも、そう、彼は私に、私は彼に、会いたかった、会いたかったのだ。
 コートがソファの背に投げられた。振り向こうとしたところを軽々と抱き上げられ、抵抗を忘れている間に、連れ去られた寝室のベッドの上に落とされた。
「キリコ」
「悪イ、余裕がねえや」
「おい」
「傷が、痛むんだ」
 丁寧なのはそこまでだった。
 彼は、不意に、寝室に備え付けのガラス棚からワイングラスを手に取ると、何の躊躇も見せずに、ベッドサイドのデスクに叩き付けた。
 がちゃん、とガラスの砕ける派手な音がする。いきなりの彼の行動に、私は思わずぽかんとベッドの上で彼を見上げてしまった。気でも狂ったのか、この男?
「青い鳥が逃げちまうと言うなら、捕まえておかないとね。羽根を切って、足を砕いて」
 見つめた彼の顔には、だが、僅かな狂気もなく、ただ、今日初めて見たときと同じ静かな憂鬱が浮かんでいた。
 なにがあったのか、と、私は訊かない。訊いたところで意味もない。私と彼とは永遠に理解し合えず、永遠に許し合うことすら出来ない。
 私はただ、砕いたワイングラスの欠片を片手に、私にのしかかってくる彼を、じっと見ていた。これがこの男の姿だというのならそれで良い。足掻け、罪人、それが我々の宿命というものだ。
「キリコ、」
「動くなよ、ざっくり切っちまうぜ」
 彼はガラスの破片で、私のスーツを、シャツを、器用に切り裂いた。素肌が空気に触れる頼りない感覚がして、私はそこに彼の生温い肌が重なればいいと無意識に思った。
 シーツにまで微かに飛び散ったガラスの欠片の所為で、下手に身動きがとれない、何より本当に彼の手元が狂ったらと思うと動けない。
「何だか巧くいかないんだ」私の身体から、びりびりに裂いた服を剥ぎ取ってしまうと、彼はガラス片を右手に持ったまま、私の上に覆い被さった。「シアワセになんかなりたかねえが、気付くと青い鳥を探している。愚かだ。なあ先生、おまえは幸せかい?」
「…幸せになどなりたくもないさ」
「何故」
「この身体中の傷がある限り、おれは幸せにはならない、なってはいけない」
「…くだらねえ」
 彼はすっと顔を上げると、私を見つめ、それから右手のガラス片をちらつかせて、微笑んだ。
「そうか。じゃあ、おれがオペし直してやるよ、傷を塗り替えてやるよ、前々から気に食わなかったんだよね、他人の手がおまえに残した、痕跡が」
「…大事なものだ」
「おれにだったら、何されても良いだろう、先生?」
「…好きにしろ」
 私は眉を顰めて、答えた。きっちりスーツを着込んだままの彼の前で、ひとり裸体を晒している、奇妙な感覚。羞恥とか屈辱とか言うよりも、ただ、頼りない、心許ない、素肌を重ねて欲しい、そんな寒々しさ。
 そして、そう思うときに限って、彼は決して、私の願いに応えてはくれないのだが。






 幸せになる権利などないのだ、この咎人の足は、重い枷に繋がれている。
 私も、彼も。そんなことは、とうに承知のはずなのに、この男は本当に意地汚い。
 幸せになりたいか、キリコ先生? 幾つもの命の灯火を、優しく残酷に吹き消してきた死神が。そもそも何をもってして幸せと言うのか。彼には判っているのだろうか?
 青い鳥。
 青い鳥か。
 私が彼の青い鳥だとでも言うつもりか。それこそがくだらない。
 ああ、どうしてただ、無言のまま抱き合うだけでは足りないのだろう。
 会いたかったと囁いた、彼の低い声が耳元に蘇る。そうだ、会いたかったんだ、こんなにも会いたかったんだ、彼のいない数箇月、空を彷徨う両腕で自らの身体を抱いて、唯一の呪文のように彼の名前を口にする、彼がいないと駄目だ、彼がいないと駄目なんだ、会いたくて会いたくて、勿論、彼は私の青い鳥などではないけれど。
 霞む視界の片隅に、おまえも私の幻を見るか?
 それがおまえに愚にも付かない夢を見せるのか。
 幸せだ、と。
「キリ、コ、」
 両手でシーツを握りしめ、抗議の意味を込めて彼を呼んだ。
 照明は煌々と明るい寝室、彼は右手にワイングラスを叩き割った欠片を持ったまま、左手で私の身体中に残る縫合痕をなぞっていた。
 隅から隅まで、余すところなく。
 丁寧に、だが、肌を押し込むように強く。
「…ッ」
「おまえ、本当に弱いのな。腹が立つ」
「やめろ…、触るな」
「なんで。気持ちいいんだろ?」
「は、あッ」
 内腿の傷跡を探られて、勝手に短い声が出た。確かに私は、この肌に無数に走る縫合痕が、飛び切りに過敏なのだろう、憎たらしいやつに不本意に触れられれば反吐が出るし、彼に触れられればあっという間に痛いような快楽に落とされる。
 一生塞がらない生傷みたいなもの、私の総て。私はあのとき一度死に、そして産まれた、何か暗く黒いものに。
「執刀してやるよ、言ったよな?」彼は、右手のガラス片に舌を這わせて、淡く笑った。薄赤い彼の舌に、深紅の血の筋が走るのが見えた。「呪いを解いてやろう、おれの小鳥ちゃん。そして新たに呪いをかけてやろう、おれという呪いを。おれは優しいぜ、おまえのして欲しいことを全部してやるよ、おれに捕らわれたほうが幸せだよな、変えられもしない過去に捕らわれているよりは」
「おい、待て…」
「好きにしろって、おまえ、言ったじゃない」
「ア…!」
 まずは左肩の縫合痕だった。左手で傷跡を開くように固定してしまうと、彼は右手のガラス片を薄い皮膚に押し当てて、傷を開きはじめた。
 痛い。
 大雑把な刃物で肌を裂かれる感触。
 痛かった。が、痛い、痛い、と、同時に、目の回るような、愉悦が。
「キリコ…、駄目、だ…ッ」
 広がる血の匂い。
 そうだ、抉ってくれ、切り裂いてくれ、過去も、未来も、おまえの手で。
「駄目だって? 何が駄目なの」
「痛いんだよ…! この、キチガイめ、そんなもので、こんな場所で、何をする」
「痛いのがいいんだろう? そんなに色っぽい顔しちゃって何言ってんの、このマゾヒストが。変態のくせにおまえは大層口が悪い、身体はこんなに正直なのにね」
「ああっ」
「もう溢れている」
 傷跡を丹念に撫でられ、勃ち上がっていた性器に、彼の手が一瞬絡み付いて、すぐに離れた。その濡れた感触に、彼の言葉が嘘でないことを思い知らされる。肌を切られて私は、萎えるどころか更に勃起するのか?
 肩から腕、胸、腹、彼は器用にガラス片を操って、私の傷跡を辿っていった。とりわけ過敏な部分を切り開かれる鋭い痛み、それに勝るとも劣らない被虐の恍惚が、私の視界をぼんやりと滲ませた。
 おれに捕らわれたほうが幸せだよな? 違う、私は誰に捕らわれることなく生きて死んでいく。
 誰にも私を止められない、誰も私を縛れない。
 はずなのに。
 襲い来る記憶、沸き上がる殺意、それはまるで枷のように私を大地に繋ぎ止める。おまえならこの枷を切れるのか、おまえなら私を救えるというのか、無駄だ、お優しい殺し屋ごときが私を解放できるはずがない、ましてや捕らえることなどは。
 腹から背、脚、尻、身体をひっくり返して。
 震える肌が汗で湿り、こめかみを涙が伝い落ちた。切るとは言っても彼は大して深くは切らなかったが、それでも皮膚に浮かぶ血液の所為で、寝室は狂気の匂いがした。
 白いシャツに、微かに血の色が移っている。誰よりも、正気の目をした、死神がひとり。
「消毒してやろう」
「く、ウ」
 切ったときと同じ順序で、彼は私の肌に顔を寄せ、自分が切り開いた傷口に唇を這わせた。肉を舐めるように舌を突き刺し、薄く沸き出た血をぴちゃぴちゃと舐め取っていく。
 異常だ、倒錯じみている、あまりにも。
 身体中が熱い、痛いと言うよりも熱い、焼け付きそうだ。身に溢れる欲も、性欲と言うよりももっと野生じみた根源的な欲、欲しい、欲しい、おまえが欲しい、頭から食らってしまいたい、そして、食らって欲しい、跡形もなく粉々に。
「キリコ…、もう、いい」
「もう、欲しい?」
「熱いんだ…。早く、早くしてくれ」
「おまえは可愛いな、可愛いよ、ブラック・ジャック先生」
 私の血が彼の一部になっていく。ああ、それは何という歪んだ悦び、決して彼の青い鳥にはなれないけれど、会いたい、会いたいと日夜思うほどには私は彼に惚れているのだ。
 私の身体を俯せにさせ、背中の傷を啜りながら、彼は、左手を私の尻に伸ばした。
「は…ッ、」
「柔らかくなってる。自分で開いてきたの? 可愛いな」
 いったん彼の手が離れ、すぐそのあとに尻に生温い液体が垂らされた。途端に濃くなった血液の匂いに、彼がガラス片で自分の手を切ったのだろうと言うことは判った。
 かしゃん、とベッドの下に、ガラス片が落とされる音がした。自分の身体を傷付けるなんて馬鹿じゃないのかと思い、そう言おうと開いた唇からは、しかし、言葉ではなく掠れた悲鳴が洩れた。
「アア!」
「すぐ入れてやるから、もうちょっとだけ我慢しな。ほら、上手に開いてくれ、おれの太いものを食らいたいんだろう?」
「キリコ…!」
 腰を持ち上げられ、膝立ちの格好で、いきなり尻に指を突っ込まれる。彼の血を潤滑剤に、二本、三本? 何の躊躇いもなく弱点を指先でぐいぐい刺激され、私は涙を吸った枕にしがみつき、切れ切れに声を上げた。
「あ、あ、駄目だ、キリコ」絶頂の予感はとても早くて、私は彼の指をぎゅっと締め上げながら、必死に頸を左右に振った。「いっちまう、出ちまう、頼む、から」
「あんまり我慢の効かない子は、可愛らしくないぜ?」
「ヒ…、ア、」
 揶揄うような彼の声が聞こえたあと、突き刺さっていた指が不意に、一気に抜かれ、ずるりと肉を引きずられる感触に私は震え上がった。その場所へ、服を寛げた彼が、間を置かず猛った性器を押し当て、これもまた一息に押し込んできた。
 限界まで広げられる肉、軋んで拒もうとするのを、力で押し切られる。私は自覚もなく喚き散らし、シーツを掻き毟って耐えた。彼の性器は凶悪なくらいに太くて硬い。
「どう? 気持ちいい?」
「深い…、深くて、怖い」
「怖い? 一体何回やればおれのものに慣れるわけ、おまえ」
「あ…ッ、駄目だ、動いたら、いっちまう」
「いっちまえよ」
「いや、だ、キリコ…!」
 突き出した私の尻を両手で掴み、彼は最初から大胆に腰を使った。血の匂い。シーツの上にきらきらと煌めくガラスの破片。
 会いたかったとか、幸せだとか。そんなものは砕け散るこの長い瞬間。繋がり合う肉の感触と、沸き上がる快楽だけが総て。
 浅い場所から深い場所まで、好き勝手に掻き回されて、私はあっさりと、触れられてもいない性器から精を吐いた。頭が締め付けられるような感覚、息も出来ない恍惚、身体を痙攣させて溺れている私のその尻で、彼は少しもスピードを緩めず性器を出し入れしていた。
 限界を超えた刺激に、唾液を垂らしながら喘ぐ。
「キリコ…ッ、もう、やめてくれ、死んじまう、」
「生き返らせてやるよ…もう少し付き合え」
「苦し、い…ッ」
「ああ、いいぜ、おまえの中、ひくひくして、気持ちいい」
「キリコ…!」
 拷問のような快楽に、私は踏み潰された虫みたいに足掻いた。彼は長い時間をかけ、散々私を揺さぶったあと、漸く私の中に射精した。大量の精液が逆流して、繋ぎ目から零れ出る。
 その感触がいやに切実で、私は多分、彼と同時にもう一度達したと思う。何だかもうはっきりとは判らないが。
 思考を焼く快楽に連れ去られ、私はそこで、意識を飛ばした。
 
 
 目が覚めると、ベッドの端に座る、スーツ姿の彼が目に入った。
 身体中がちくちくと痛い。縫合痕を切られた所為だ。それならば顔だけは手付かずなんて中途半端なことをしないで、ずたずたにしてくれればよかったのに。
 彼は私に背を向けて、煙草を吸っていた。
 気配で私が目覚めたことに気付いたか、振り向きもせずに淡々と言った。
「おれの青い鳥は、血塗れで可哀想だ、でも今おれの傍にいる。なあ先生、おれは幸せだろう?」
「…」
 私は答えず、ベッドの上で顔を背けた。青い鳥なんて何処にもいないんだ。青い鳥なんて何処にもいないんだ。判っている筈なのにこの男はどうしてこうも愚かなのか。
 自分の身体から、消毒薬の匂いがする。私の鞄から薬を盗んで、この男が手当てしたのだろうと思う。
 シーツに付いた彼の左手の下に、広がる深紅。
 愚かしい。
 私は青い鳥ではない、私は私だ、ただの私だ。それでは足りないというのか。
 青い鳥なんて。


 (了)