復讐

 まるで、試されているようだと、そうも思った。
 カミサマとやらは、私に一体、何をさせたいのか。



 どうすれば復讐を成し遂げたことになるのか、正直、私にもよく判っていない。
 ただ、復讐、その目的がもしなかったなら、私は今生きてはいなかったろう、きっと。
 そうだ、復讐するためだけに生きてきた。
 鬼か悪魔と言わば言え。否定はしない、私は悪魔、それで良い。
 私が誰よりも愛した女の運命を、ずたずたに引き裂いた奴ら相手に、人間である必要はない。
 出来ることならば、彼女が味わった以上の苦しみを、哀しみを、恐怖を。


 金をばらまき探し回った。
 三人目の相手を漸く見付けてみれば、趣味の悪い冗談みたいに、二人目のときとほぼ同じ状況だった。
 カヘキシー。全身が痩せ細り、瞼や足はむくみ、肌の色は貧血で灰黄色、著しい衰弱状態。
 悪性腫瘍、末期か。
 手を下すまでもなく、今にも死の眠りにつきそうな男を、一目見た瞬間に私は多少混乱した。
 既視感。いや、そうではないのか。二人目の復讐相手に対峙したときの感情までもが、その途端に鮮やかに蘇って、苦々しい記憶に色を付ける。
 私は失敗したのだ。
 失敗、したのだろうか?


 二人目の男を、私は、治した。
 見付け出したときには既に、他の医者だったらさっさと見捨てる末期癌。
 オペを何度行ったか、数え切れない、忘れた。最中に何度、目の前に無防備に開かれた人体を、滅茶苦茶に切り刻んでやりたい衝動に駆られたか、これも数え切れない。しかし私はそうしなかった。
 男を治してから、ゆっくり復讐するつもりだったと、男の娘にはそう言ったような気がする。
 それが本心だったのかどうか、今でも私はよく判らない。
 男は、突然の心臓発作で、呆気なく死んだ。
 私が手を下す暇はなかった。
 復讐は、失敗したと言うしかないだろう。


 私はどうしたいのか。
 殺したいわけではない、殺したいほど憎いのは事実だが。
 死を与えることでは復讐にならないのだ、あの絶望、あの悲哀、奴らに腹一杯食らわせてやらぬことには。
 自己満足であることはよく知っている。
 私の愛した女も、私が復讐に囚われることを望んでいやしないのだろう、あれは優しい女だったから。
 それでも私は復讐する、それだけで生きてきた、今更やめることなど出来ない、あの日から、私は合目的的に作製された、復讐の鬼。


「あなたもお医者様なんですか?」
 三人目の男は、広い屋敷の、日当たりの良い寝室に、静かに寝かされていた。娘が一人いて、男の看病をしているらしい。吐き気がするほど、二人目の男のときと同じ。
 医者でなくとも一目で判る悪液質。
 今にも死にそうな男相手に、一体どんな復讐が出来るというのか。
「そうです」手を伸ばして、男の下瞼の色を見る。濁った色の眼球は、もう何も見てはいないみたい。「何処の癌なんですか? どうして入院させていないのです。オペはしたんですか」
「もう全身に転移しているそうでして、大抵のお医者様には見放されました。そろそろ、今の主治医の医院に入院をさせます」
「そうですか」
 二人目の男と違うところがあるとすれば、娘の態度くらい。彼女はもう諦めた顔をしていた。あのときの娘は、必死に私に縋り付いてきたものだが。
 このまま眠らせてしまうか。
 では、私の復讐はどうなる?
 この男に味わわせたいのは生き地獄、殆ど意識もない生きる屍に、それでも私は復讐を。
 復讐を、したいか?
 渦巻く泥のように、私の体内に溢れる、憎悪。
「彼のカルテがあれば、見せて頂きたい。レントゲン写真でも」
 私が言うと、娘は疲れた足取りで立ち上がり、デスクの引き出しから大判の封筒を取り出して、私に見せた。
「これまでかかっていた病院から頂いたものです。今の主治医の医院に入院させるときに、持っていこうと思いまして」
「これは確かに、酷い転移だ」一枚、一枚、レントゲン写真を翳して見る。食道、肺、胃、大腸、癌組織に冒されていない臓器を見付ける方が困難だ。「ひとつひとつ、移植するしかないでしょうね、そんな芸当をしたがる医者など、私は私以外には知りませんが」
「年齢も年齢ですから、父は。あまり無理をさせたくはありません」
「もう、諦めましたか?」
「…苦しむよりは、安らかにあって欲しいとは思います」
「彼の意思は?」
「私と同じですわ」
「そうですか」
 封筒を娘に返し、私は立ち上がった。最初の混乱は、少しも落ち着かず、私の身の内に淀む泥沼の中で、静かに、しかし明らかに、ぐつぐつと泡を吐いていた。
 この男は悪性腫瘍で苦しんだ。
 それで充分か。
 治す? 治すべきか、私は。医者だから?
 何故、私などは所詮偽物の医者、もとよりヒポクラテスには誓いもしない。
 復讐は。復讐はどうなる。この男に罪を認めさせるには。
「折角父を訪ねてくださったのに、父があのような状態で申し訳ありません」
 玄関を出る私に、娘が言った。
「余計なことですが、先生、父とどのような関係が?」
「…余計なことですよ」
 振り返りもせずに、背中で答えた私は、彼女の目には薄情者に映るのだろうか。



 復讐の意味を知らない。
 意味など無い、無意味で、馬鹿馬鹿しいもの。
 ただ、私はそのためだけに生きてきた、だから、復讐とは、私を生かすもの。
 瞼を閉じればその裏に蘇る、誰より愛した女の無惨な姿。
 あなたが強いられた苦痛の、せめて十分の一でも良い、奴らに与えてやらねば気が済まない。
 私が生きるために。
 私が生きるために。


 二人目の男を治療した自分の気持ちがよく判らない。
 何故私は彼を助けようとしたのか。医者だから。医者だから?
 放っておけば良かったのに。あの状態ならば、誰が何をしなくとも彼はさっさと死んだろう。
 そうしたら私は、五つのマークのうち二つ目を塗り潰して、仕方がないと嘯くことも出来たのに。
 ただ死ぬのを待つだけでは復讐にはならないから。
 だから、治した?
 違う、きっと、それは最もつまらない言い訳。



 三日後、再度、三人目の男の家を訪れたときには、彼の姿はもう寝室にはなかった。
「父は、昨日、主治医の医院に入院しました」
 娘は相変わらず淡々とした調子で言い、私に茶を勧めた。彼女の疲れ切った表情が、私の中の何かを引っ掻き、そこからどろりと汚らしいものが滲み出た。
「彼の癌を治すのには、それなりの腕が要りますよ。私は、私以外にその腕を持つ医者を知らない。失礼ですが、主治医は誰です?」
「もう、いいのです」
「あなたが良くても、私が良くない」
「先生、あなたが父に、どのような御用件をお持ちだったのか、事情は存じませんが、もう、そっとしておいてくださいませんか。父は死んだものとして、どうぞ、お忘れください。私にはそれ以外に言える言葉がありません」
「…」
 青白い肌、項垂れる娘を見て、私は唇を噛んだ。何をどう言えばいいのか? いや、言わないほうがいいか。
 差し出された茶を横に除け、私は立ち上がり、玄関に向かった。静かに後に付いてきた娘へ、私は最後にもう一度、訊ねた。
「失礼ですが、お父上の主治医は?」
「主治医は…」彼女は一度、口ごもり、それから、低い声で私の問いに答えた。「ドクター・キリコです。御存じでしょうか」
「…!」
 ドアに伸ばしかけていた手が、引きつって止まった。咄嗟に振り向いて、彼女の腕を掴んだ私は、彼女から見れば大層恐ろしかったことだろう。
「キリコ? キリコだって? あの男にあなた、お父上を渡してしまったのか」
「…ええ。それが父の意思でもありますから」
「いつ? 昨日、昨日と言ったな、昨日か!」
 ぎりぎりと掴んでいた娘の腕を放し、私は、ばたんと玄関のドアを開け、車に走った。
 間に合うか? 男が安楽な死に眠る前に。
 私には、やらなければならないことがある。復讐、復讐を。





 どうすれば復讐を成し遂げたことになるのか、正直、私にもよく判っていない。
 たとえそれを成し遂げたからといって、私の心に巣くう闇は、消えない。
 私の愛した女は、戻らない。


 それでも、この燃えたぎる憎悪があったから、私は今日まで生きることができた。
 思い出せば今でも身体が粉々になりそうな記憶、手も足ももぎ取られた母の姿に泣き伏した、私のこの記憶を、塗り替えるには、受け入れるには。
 目眩さえ呼ぶような感情。鬼か悪魔と言わば言え。
 私は悪魔になりたいのだ。躊躇なく魂を操れる何か黒々しいものに。



 ドクター・キリコの診療所に車を横付けて、エンジンを切る間も惜しく、病室に駆け込んだ。
 小さな診療所、ぐるり見渡したベッドに、三人目の男が一人、横たわっていた。
 つかつかと歩み寄って、男を覗き込む。
 殆ど意識はないようだが、生きている。間に合った、良かったと思う。
 生きていて良かったと。
「なんだい、ブラック・ジャック先生、いきなり飛び込んできて、行儀の悪い。おまえは挨拶のひとつも出来ないのか」
「…キリコか。ちょうど良い、この患者、おれに渡せ」
 振り向くと、白衣を纏った彼が、例の如く冷ややかな笑みを浮かべて、ドアの前に立っていた。彼に会うたびに、私は密かにぞくりと背筋を凍らせる。死神。
 彼は、躊躇なく魂を操れるもの。
「またか」彼は、大仰に溜息を吐いてみせると、その美しい銀髪を掻き上げて、露骨に厭そうな顔をした。「おまえがおれのところから、患者を盗んでいくのは日常茶飯事だが、おれだってこうもしょっちゅう仕事の邪魔をされていたら、いい加減に腹も立ってくる頃だ。大体、その患者を治すのは、おまえの腕でも難しいだろうよ、今回はおれに預けろ、そのほうが患者も楽だ、幸せだ」
「楽にしちまったら、意味がないんだ」
「え?」
「幸せにしちまったら、意味がないんだ。キリコ、今回だけは、おれに譲れ」
「ふうん。何か遺恨でもあるわけ?」
「ああ。とっておきのがな」
「そう」
 じっと私の目を、その淡い色の瞳で見詰めたあと、彼は、猫でも呼ぶように軽く私を手招いて、病室から出て行った。
 後を追うと、診察室に通された。
 なんだか、彼の患者にでもなったようで、気味が悪い。
「じゃあ、話せ」私を丸椅子に座らせると、自分はデスクの前に陣取って、彼は言った。すっと私に顔を寄せる、その仕草に無駄にどきりとする。「おれが納得したら、おまえにメスを握らせてやるよ。ちなみに、あの男におれが手を貸すのは、あの男自身の以前からの望みであり、あの男の娘の望みでもある」
「…三人目なんだよ」
「三人目? なにが」
「復讐すべきは五人いるんだ。一人目はもう済んだ。二人目は失敗した。あの男が三人目なんだ、きっちり復讐をしないとならない、今回は」
「復讐?」
 全く感情のない声で、彼は聞き返した。こんな声を出せる男を、私は、彼以外には知らなかった。
 睨み上げてもちっとも効かない。彼の前では何故か、いつでも私は操り人形のよう、圧倒的に、違う、影の濃さが。
「…不発弾が爆発した事件を知っているか? 巻き込まれたのはおれの母親と、おれだ。おれでも未だに相当見苦しいが、母親は比じゃなかった。酷い有様だった。彼女の一生はぐちゃぐちゃになり、ぐちゃぐちゃのまま終わった。だから復讐する。あの男は、不発弾の杜撰な処理に関係していた」
「馬鹿馬鹿しい。無意味だね」
「何故無意味だ! おれは…おれはそのために生きてきた、今もだ」
「二人目の失敗って、どういうこと?」
 思わず声を荒げた私には構いもせず、彼は淡々と言った。馬鹿馬鹿しい、無意味、そんなこと、誰に言われるまでもなく、私自身が。
「あの男と同じ程度の末期癌だったんだよ。オペしたんだ。治した。その途端に、心臓発作で死にやがった」
「復讐相手を、オペして治したのか? 何故」
「…治してから、ゆっくり復讐を」
「はは! そりゃ嘘だね、先生。なあ、ブラック・ジャック先生?」
 す、と身を起こし、右足を高く組んで彼は、にやにやと私を見た。私は、彼を睨む目付きを、更に険悪にしてみせたつもりだが、どうしたってやはり彼には効きやしない。
 何故二人目の男を治したのか、それは多分、私自身が一番疑問に思っていることだ。
 死なれては困ると思ったか、もっと苦痛を、恐怖を、与えなければならないと思ったか。
 そう、確かに、そう思いはしたはず。
 ただ、だからといって、治す必要は、ない。
 治す必要はなかったのだ。
「いいかい、ブラック・ジャック先生」彼は、長い指を一本、私の目の前に立てて、言い聞かせるように言った。「おまえには、無理だ。復讐なんて、できねエよ、生ぬるいことをやるくらいなら、はじめから、やめちまえ。おまえはなあ、可哀想に、善人過ぎるんだ、偽悪者なんだ」
「…おれは善人じゃない。悪徳無免許医で、変人で、頭の中はいつも、復讐、復讐、復讐、それだけを考えている」
「二人目を治しちまったんだろう? 自分なら治せるかもしれない患者を見て、放っておけなかったんだろう? それがたとえ復讐相手でも」
「復讐するために、治したんだ」
「復讐なら、治さなくても出来るんだよ」
「おれは、」
「残酷な手段なら、いくらだって思い付くぜ。おまえには出来ないよ。なあ先生、復讐したら、それで気が済むのかい? 済まないだろう、余計に生きるのが辛くなるばかりだぜ」
「…」 
 硝子玉のような彼の瞳に、なんだか魂を吸い取られそうだと思った。
 この男は、誰かのことを、殺したいほど憎悪したことがあるのだろうか?
 死神、人殺し、彼が例えば感情で仕事をしたら、私は多分、躊躇いもなく。
「なるほど、生きるために必要なのは、愛情よりも、憎しみだろう、憎しみのパワーは、他のものでは得られない、とても強くて、簡単には消えない、絶望の淵に立った少年が、そいつを頼りに生きてきたというなら、おれは否定しない。よく生きたと褒めてやる。だが、そこまでだ」
「そこまで?」
「おまえはもうバランスを崩している。憎むために生きてきたと思っているのは勝手だが、今のおまえはどういうわけか、誰かを生かすために生きている。憎悪よりも強いパワーが生じてしまった、だからもう駄目だ。諦めなさい、復讐なんて」
「…おまえなどに」
 この気持ちが。
 催眠術にかかったみたい、足掻くように頸を左右に振って、目の前に突き刺された彼の手を払う。
 言いくるめられる。バランスを崩した? 知らない、どうでもいい、だって憎悪は確かにここにあるのに。
 無惨な女の姿が脳裏に浮かぶ。吐き気が込み上げるような怒りに目が眩む。諦めたら、この憎悪は、怒りは、何処へ行くのか。
 復讐だけが、私の生きる理由なのだ。
「おまえの三人目、おれがそつなくあの世に送ってやるから、安心しな」払い除けた彼の手が私の髪に伸び、二度三度、丁寧に梳いていった。まるで幼子をあやすみたいに。「奴は、命をもって贖ったと、そう思え。おまえには渡さない。渡したらおまえが余計に苦しむぜ、判っているんだろう?」
「…厭だ。おれが連れて行く。メスを入れる。生き長らえる分だけ、苦しみが増すような方法で、復讐を」
「ああ、ああ、聞き分けのない先生だ、だから、そんなことはおまえには出来ないと言ってんだ。
やめなさい」
「放せ…」
 立ち上がった私の腕を、同時に立った彼の手が掴んだ。振り払おうにも、振り払えない強さ、力では敵わないことなどとうに知っている。
 初めて三人目の男を見たときに感じた混乱が、今でもまだずっと続いていた。治す。殺す。助ける。復讐。復讐は。
 おかあさん。
「大人しくしていてくれないのなら、大人しくさせるしかないね」
「痛、」
 あっという間に、背中に両腕をねじ上げられて、思わず声が出た。その私には構わず、両手を、襟元から抜いたタイで器用に縛り上げてしまうと、彼は、固い診察台の上へ、私を押し倒した。





 私から、復讐心を抜いたら、何も残らない。私は復讐の塊だから。
 馬鹿馬鹿しいことは知っている。それでも、そうしなければ生きてはこられなかったのだ。
 何かと比較することではない。
 私は絶望していた。私は孤独だった。私は傷付き、疲れ果てていた。憎しみだけが私の救いだった。
 どうすれば復讐を成し遂げたことになるのか、正直、私にもよく判っていない。
 ただ、何かしなければ、私の愛した女の魂は、永遠に浮かばれないような気がして。


 自己満足だ、それで良い。
 誰に理解されなくとも、構わない。
 私が満足すればいい。
 罪人の命を重ねて積み上げたって、彼女が帰ってくるわけじゃない。


 否定したくば否定せよ。
 私は、鬼、悪魔、何度となくそう呼ばれてきた。
 嗤いたければ嗤うがいい。
 だから、お願い、この大事なものだけは、奪わないで。



 抱かれた、というより、犯された。
 後ろ手に手首を縛られ、狭い診察台の上、足をばたつかせて暴れても、抵抗は簡単に封じ込められた。
「だから、否定しているわけじゃねエよ」
 私の服のボタンを指先で弾きながら、彼は淡々と言った。
「言ったろう? おれは否定しない、よく生きたと褒めてやるって。なあ先生、そろそろ次へ行ったらどう、いつまでも馬鹿のひとつ覚えみたいに、復讐、復讐、今のおまえならば、その憎しみを消化しても、多分生きてはいけるだろうよ」
「放せ…、あの男を、寄越せ…っ」
「駄目だ。おれは納得しなかった。だからおまえにメスは持たせない。なあ、おれが誰よりも綺麗に殺してやるから、先生、それで満足したら」
「安楽な死など…」
「奴は死をもって贖うんだよ、それでいいだろ」
「やめ…、」
 剥き出しになった上半身を、長い指で、広いてのひらで撫で上げられて、その感触に慣れた肌が勝手に騒めき始める。
 誰がどんな鍵を持ってきても開かない場所が、彼の声でならばいとも簡単にこじ開けられてしまう事実、彼が何だというのだ、一度だって、私を救ったこともないのに。
 鎖骨の上とか、肋骨の間とか、弱い場所を弄られて吐息が乱れる。
 次へ行け? ああ、次へ行きたいさ。でも、この瞼に焼き付いた、哀れな女の姿が、それを許さない、復讐を、復讐を、死ぬより酷い仕打ちで、咎人達に誰よりも大きな苦痛と恐怖を。
 ずっとずっと、それだけのために生きてきたんだ。
 今更、それ以外のために生きていくことなんて出来ないんだ。
 たとえば、おまえならば、私に何か理由を付けることが出来るのか? あのときから何年、ただ苦しみだけがあった、何処をどう探しても、それしかなかった。
 私は我武者らに生きた、休息の地は何処にもなかった、死に魅了される自分が、私は怖かった、だから夢中で生きた、復讐という餌を目の前に吊された馬みたいに、走って、走って。
 餌を取り去られたら、もうどうやって走ればいいのか判らない。
 走るべきなのかどうかも判らない。
 私はその場に座り込み、地面の上に手を這わせ、今度は死という餌を探し始めるに違いない。
 何処にでも落ちている餌。
 誰でも簡単に手に入る、手に入れたくなる誘惑の果実。
 ああ、助けてくれ、助けてくれ、おかあさん。
「暴れるな…痛くするぞ」
「厭だ…厭だ…ッ」
「もう慣れたもんだろ? 良い子にしててよ」
「ア、」
 ベルトを抜かれ、下着ごと服を剥がされ、下半身が露わになる。見苦しく暴れる足で、のしかかる彼を何度か蹴ったけれど、痛みなど感じていないように、彼は易々と、私の両脚を片手で押さえ込んだ。
 もう片方の手で尻を探られる。
 肌を撫でられ、目覚めかけていた欲と、どうしようもない嫌悪感とが、同時に湧き上がった。
「厭だ…」
「勃ってる癖に」
「それはおまえが、ア、ウ」
 ぬるりと、何か冷たいクリーム状のものが塗られ、彼の指が私の中に入ってきた。
 この違和感が快楽に変わることを、よく知っている私の身体は、私の意思などは無視して、彼の指を旨そうに食い始める。
「痛いか?」内側を拡げるように、やや強引に指を使いながら、彼が言った。「それとも、気持ちが良いか? おれはこうしていると、おまえが生きていることを実感するよ、おまえの心臓が動いていて、おまえは呼吸をしていて、それから、おまえの尻は、ぴくぴく動いて、おれの指を飲み込んでいる」
「はあ…、あ、動かす、な…」
「おまえは、おまえが生きていることを実感しないの? 理由なんて必要ないだろ、おまえはただ生きていて、これからもただ生きていく、それだけよ」
「ああ…ッ」
 彼は、あまり時間をかけずに私の尻を慣らしたあと、私の脚を肩に抱えて、硬く太い性器を、私の中に押し込んできた。
 両手は背に縛られたまま、脚を捕らえられ、私は悲鳴を上げながら、仰け反るくらいしかできなかった。
「誰もが無意味に生きているのさ、それがあるべき姿なんだ。そうじゃないの」
「復讐、を」
「おまえは既に一度失敗している。充分だろ、向いてないんだ。諦めの悪い男は女に嫌われるぜ」
「ア…ッ」
 じりじりと、めりこむように、私の体内に入ってくる他人の熱、根元まできっちり埋め込まれ、息苦しさに喘ぐ私が馴染むのは待たずに、ずるずると動き始める、私は声にならない声を撒き散らす。
 診察台が、ぎしぎしと鳴った。
 おかあさん。私はあなたの死が、無かったことにはされぬよう、身も凍るような罰を、罪人達に与えたいのだ、それだけだ。
 どうして巧くいかないのだろう。腐るほど金があっても、腐るほど恨みがあっても、それだけでは駄目みたい。
 おかあさん。思い浮かべるあなたの姿が、幸福だった頃のものに変わるなら、私は何だって出来るのだ。
 出来る、筈なのに。
「おまえが覚えていれば、それで良いんだよ、センセー」
「アッ、アッ」
 激しく揺さぶられながら見上げた男の顔は、逆光ではっきりしなかった。ただ、その透き通るような淡い色の瞳と、美しい銀髪が、ぼやけた視界の中を、行ったり来たり。
 彼との行為をよく知る身体は、多分いとも簡単に絶頂に達した。何度目かの頂点で、私は意識を失った。
「良い子に寝てな」
 現実と夢との境目に、囁かれる彼の声。
 駄目だ、殺されてしまう。駄目だ、駄目だ。
 その男は、私の獲物だ。安らかなる死など。



「おい。そろそろ起きな」
「!」
 頬を二、三度、軽く叩かれて、私は漸く目を覚ました。
 慌てて起きあがる。いつの間にか、両手の拘束は解かれている。服はきちんと着せられていて、きっと処理もされている。
 診察台から降り、彼の横を擦り抜けて、病室に走った。
 男は。私の三人目の復讐相手は。
「…は、」
 私が意識を飛ばしてから、どれほど経ったのかは知らないが、医院を訪れたときには確かにあった男の姿が、ベットになかった。
 やられた。
 我らがお優しい死神先生に、先を越されてしまった、少しの痛みさえもなく、殺されてしまった。
 また失敗だ。
「遺体は、娘がついさっき、引き取っていったよ」背中に彼の声、相変わらず、何の感情も含めない、フラットな。「あの男を、世界で唯一治療できたかも知れないおまえが、治療しなかった、と言うことを、復讐にすれば良いんじゃない。どうしても気が済まないのなら」
「…もういい」
 私は頸を左右に振って、彼を振り向かずに、医院の出入り口へ向かった。
 私が覚えていればいいと言った、彼の言葉を思い出す。私が覚えていればいいだって? 私にはそれだけしか許されないのか?
 私の身体に黒く暗く溜め込まれた憎悪は、本物なのに。
 彼は、私が立ち去るのを無言で見送っていたが、私がドアを閉めるその隙間に、短く訊ねた。
「残りの二人にも復讐を?」
「…」
 既視感。いや、そうではないのか。
 答えずにドアを閉め、横付けしたままの車へ足を向ける。二度目の失敗。どうしてこうなるんだ、ああ、訳が判らない。
 きつく瞑った瞼に浮かぶ女は、やはり手足のない姿のまま。


 残りの二人。
 残りの二人、か。

(了)