銀の杭

 ただ、感じた、としか言いようがない。
 予感ではない、まさに今、何か厭なことが起こっているに違いないという感じ、強いて言うなら第六感、虫の知らせ、気味が悪いほどにはっきりと、くっきりと、一瞬で通り過ぎる想像などでなく。
 何故だかは判らない。
 私は、他はともかく、彼についてはやたらと勘が働くのだ。
 時計を見るとちょうど日付が変わる頃、迷わず手に取った受話器の向こうには、誰の応答もない。
 車のキーを掴んで、家を出た。彼が仕事で家を空けている、という考えには、不思議と至らなかった。エンジンをかけてから、寝ている娘に何の伝言も残していなかったことに気付いたが、まあ心配はないだろう、あの子のことだから。
 車を走らせている間にも、その妙な、不吉な感じはますます膨れあがり、もう絶対的に現実だとしか思えなくなった。脈拍が早まる。アクセルを思い切り踏み込みたい右足を宥める。大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせるように呟く。
 何が大丈夫なのかは知らないが。
 彼の家までの距離が、いつもの二倍にも三倍にも感じられた。
 漸く車を彼の家の前に横付け、エンジンを切る間も惜しくドアを開けると、ああ、やっぱり、と私の頭にへばりついた確信が、ぞくりと震えた。ああ、やっぱり、こんなことだろうと思ったんだ、こんなことだろうと。
 点々と、彼の家のドアに続く、血痕。
 それが彼の血液だと私は知っていた。怪我を負った患者が押しかけたわけではない、これは彼が血を流したのだ。何故だか判らないが、私には判るのだ、シャムの双子のように、彼に何かが起こると、頭の中に深く暗い霧が立ち込める。
 助手席の診察鞄を引っ掴み、縺れる足で飛びついたドアノブが、血液でぬるりと滑る。ほんの少し前に付いた血液、まだ凝固していない。
 ドアに鍵はかかっていなかった。
 声を出すことも忘れて、無言のまま、床に着いた血痕を辿り、リビングに駆け込んだ。途端に血の匂いが濃くなった。冬の夜、淡い照明の下。
 一瞬、死んでいるのかと思った。
 その場に膝から崩れ落ちそうになる身体を、必死に堪えた。
 多分私はいつだって、何をしているときだって、どんなことよりも不安に思っているのだろう、怖くてたまらない。
 軽く笑って呆気なく死にそうな死神、彼が、もし、死んだらどうしようと。
 彼が死んだら、私は、どうなってしまうのだろうかと。
 血の匂い、死の香り、それは、絶望的に美しい光景ではあった。
 色のない花が敷き詰める箱庭に、ふわりと舞い落ちた、天使の屍。
 白いソファの上に横たわる彼は、珍しく、真っ白なスーツを着ていた。いつものダークスーツだったら、少しは私の受けた衝撃も緩衝されたろうか、血の気のない白い肌、長い銀髪が照明を弾いて、まるで、薄く淡く現実に覆い被さる粉雪みたい。
 その真っ白な、儚い水彩画のような世界に、キャンバスを切り裂かんばかりに、油絵の具で乱暴に塗り付けられた、鮮やかな血色。
 彼の肩から、スーツを、ソファカバーを、深紅に染めて。
 一瞬、死んでいるのかと思った。
 思わず呼吸も忘れた私の、凍り付いた視界の中で、他人の気配にゆっくりと、彼が瞬くまでは。
 確かに視線が重なって、身体中の力が抜けるようだった。
 死んでいない。生きている。まだ、生きている。
「…珍しい。随分とめかし込んで、舞踏会にでも招待されていたのかい、ドクター・キリコ」
「まあ、そんなところかな」
「それで、一体どういうことなんだ、どうしたんだ」
「ひとりソファでのんびり、くつろいでいるように見えないか?」
「そうか、そいつア悪かった、おくつろぎのところを邪魔しちまって」
 ずかずかと大股で彼に歩み寄り、診察鞄を置いて、彼の前に片膝をついた。出血が酷いのは肩、スーツが丸く焦げて穴が開き、明らかに銃弾によるもの、ここは日本ではなかったか。
 手早く彼の身体を探る。軽い怪我は幾つかあるが、取り敢えず、重傷なのはそこだけだ。
 動く気がないのか、動けないのか、彼は特に抵抗もせず、私の無遠慮な手を許した。
「…物騒な舞踏会もあったものだな。ワインの代わりに銃を配りでもしたのか?」
「まあ、そんなところだよ。ワルツの代わりに撃ち合いだ」
「それで、本当はどうしたって? なんでこんなことになっているんだ」
「だから、ステップを踏み間違えたのさ」
「…紳士なおまえがそれはまた珍しい」
 訊くなというのか。
 コートとジャケットを脱ぎ、メスを一本取り出した。おそらく馬鹿みたいに高価なスーツなのだろうが、今更使い物にはなるまい、遠慮無く肩のあたりを大きく切り裂いた。
 撃たれてどのくらいなのか、吹き出すとまではいかないが、湧き出すように溢れる血液が止まる様子はない。この男、私がこうしてここに来なかったら、どうするつもりだったのだろう、力無く身動きもせずソファに埋まっていただけだから、救急車など呼ぶつもりは端から無いのだろうし。
 私に電話すればいいのに、と思う。
 すぐに駆けつけるのに。
 頼られていない、憎たらしい、と思う。この男はきっと、いつか勝手にひとりきりで、死ぬ。
「…趣味の悪い遊びばかりしていると、死ぬぜ、キリコ先生」
 鞄からガーゼを引っ張り出して、傷口を拭う。前面から撃ち込まれて、貫通はしていない。骨で止まったか。
 血液を拭くたびにじわじわと確実に血が滲む。切って、銃弾を抜かなければ、どうにも出来ない。
 彼は私の言葉に、二度三度瞬いたあと、血の気のない唇でにやにやと笑って見せた。
「死なねエよ。おれは死なない。心配か? ブラック・ジャック。平気だ、おれは死なない」
「…死ぬよ。誰でも簡単に死ぬ。おまえだって死ぬ。死なない奴はいない」
「おれは死なない。人の生き血を吸って生きているからな、永遠に死なない。安心しろ、だから、おまえより先には死なない」
「…死神から吸血鬼に職業替えか?」
「吸血鬼の死神なんだよ」
 おまえより先には死なない。
 まるで、見透かされているような。
 彼が死んだら、私はどうなってしまうのだろうか。判らない。気が触れるかも知れない。案外何も変わらないかも知れない。いや、それはない、変わらないわけがない。
 私は彼を失ったことがない、当然だ、彼はまだ生きている。
 たとえ遠く離れていても、今後二度と会うことがないとしても、彼が生きている限り、私は彼を失わない。彼の命がある限り。嫌われても、蔑まされても、何があっても。
 彼という存在がこの世から無くなったら、そのとき私は初めて彼を失う。
 死んだら終わりだ。残されたものの記憶の中で生き続ける? それはそうだろう、そうだろうが、所詮、記憶は記憶、有るか無いかといったら、勿論何も無い、現実は今の一瞬、一瞬、それしかない、今の一瞬に存在しないのならば、何も無いのと同じだ。
 よく判らない、この男を失えない、友愛でもない、当然恋愛では有り得ない、ただ、彼が死んだら、そう思うと足元の地が消え、奈落に堕ちるような感じがする。どうして? 判らない、ただ、初めて出会ったそのときからもう、そうだった、きっと。
 人間なんて、呆気なく死ぬ。
 私はそれをよく知っている、そしておそらく、彼のほうがもっとよく知っている。
 ほんの些細なことで、どんなに願っても、祈っても、死ぬときには、死ぬ。
 彼は、私が死んだらどうなるのだろう、そんなことを、少しでも考えたことがあるのだろうか。
「弾を出さないと駄目だ。診療所のほうまで歩けないか」
「億劫だ、放っておいていいぜ、そのうち自分でやる」
「…レントゲンを見たい」
 歩けないのだろう、歩けるならば彼はとうに歩いている、このソファに辿り着くのが精一杯だったか。自分でやる? 出来るわけがない、出来るのならば彼はとうにそうしている。
 怒りのような哀しみのようなものが湧いてくる。私が来なければ、彼はどうしていたのだろう、真っ白いキャンバスに赤い絵の具を塗りたくり、さっさと憂き世に背を向けたか。
「骨で止まっているよ」彼はソファに埋まり、身動きもしないまま、気怠そうに言った。「レントゲンなんか要らない、真っ直ぐ入って止まっている。骨は折れていない、精々罅が入っているかいないかだ、派手なのは出血だけだ、だから、自分でやるさ」
「…輸血は必要か?」
「要らない」
「おれは実は今、少々金が欲しい、小切手ばかりで現金がない。おれを買えよ、勝手にやるぜ」
「ああ…。おまえは可愛いな」
「麻酔はかけない。こんな掠り傷、痛くも痒くもないだろう?」
「そうだな」
 診療所に移動したかったが、仕方がない、ここでやるしかない。
 私の言葉に、くく、と彼が小さく笑った。構わずに診察鞄を広げ、器具を取り出す。メス、鉗子、持針器、消毒薬、ラテックスグローブ。
 彼のことが時々判らなくなる。銃創を放置していながら、死なないと言う。この世に未練など無い顔をして、死なない、おまえより先には死なないと言う。
 安心しろなどと。
 私のことも時々、私は自分で判らなくなる。
 彼の血を見るくらいなら、自分が死んだ方が余程ましだと思う、この気持ちは、一体何だろう、彼にだけ覚える、この執着にも似た感情は。




 彼は、軽く眉を顰めた程度だった。
 何だか身勝手にも腹が立っていたから、麻酔もかけずに少しばかり切って、彼が文句を言うなり喚くなりしたら、注射をするつもりだったけれど。
 彼は、死体のように、身じろぎのひとつもしなかった。
 タイミングを失って、私は無麻酔のまま、彼の肌を切り、肉を開き、銃弾を抜き出した。傷付いた血管を繕い、骨も神経も無事であることを確認して、縫合した。痛くないはずはないのに。
 我慢をしているようでもなかった。
 この男は本当に、痛みを感じないのかも知れないと思った。
 身体も。心も。或いは、慣れすぎて麻痺してしまったか。
 テーピングに邪魔だったので、肩に落ちる銀髪を纏め、彼に押さえさせた。包帯を巻き終えて顔を上げ、ふと、彼の首筋に目が止まった。
 いつも髪で隠れているから、気が付かなかったが。
「傷痕があるな。結構古いか? どうしたんだ」
「傷痕?」
「ここ、二箇所」
 ラテックスグローブは外した手の指先で、彼の傷痕に触れる。痛いかも知れない、と、ごく軽く。麻酔もかけずに肉を切り開いておいて、今更だが。
 まるで獣に噛まれたような傷痕、鋭い犬歯が食い込めばこうなりそう。
 ああ、と彼は、億劫そうに私に視線を向け、押さえていた髪を放してその傷痕を隠した。
 そうか、隠すために、髪を伸ばしているのか?
「言ったろう? おれは吸血鬼なの。人の生き血を吸って生きているんだ」
「おまえが人間の生き血を吸って生きているのは知っているよ、殺し屋だからな」
「聞いたことはないか? 吸血鬼に血を吸われると、吸われたほうも吸血鬼になるんだよ」
「吸われた痕だってのか?」
「そう」
「だから死なないって?」
「そう。吸血鬼は基本的に不死身だから」
「それはそれは。厄介な奴をお仲間にしちまったな、おまえの血を吸った吸血鬼は」
 まともに答えるつもりはないらしい。
 彼はいつでもそうだ。誤魔化す、はぐらかす、投げやりな冗談で拒絶する。総てを知りたいとまでは思わないが、訊いたことくらいは教えて欲しい。
 ステンレスのトレーに投げた、銃弾に目をやる。これを撃ったのは誰だ。何故撃った。何処で。またいつもの如く、危険な仕事をしてきたのか。
 普段と違う、白い服で?
 ダークスーツを着ていると、彼は確かに死神に見えるが、今のように真っ白なスーツを着ていると、まるで罪を犯して天界から落とされた、堕天使のよう、柔らかな銀髪を風に梳かせ。
 私の知らない白い彼。私の知らない銃創。私の知らない傷痕。
 知ることで何が変わるわけではないけれど、私は時々怖くなる、私の知る彼は彼の或る一面のみであって、彼そのものだとは思ってはいないけれど。
 私は彼のことを何一つ知らないのかもしれない、ほんの一握り知っているつもりのこと、それさえも、誤解なのかも知れない。
 誰よりも彼の近くにあると思う、そう、シャムの双子のように。と同時に、誰よりも彼から離れていると思う、地を這う矮小な獣と、空を駆ける優美な鳥のように。
 彼は諦めている。
 私は諦めきれないでいる。
 その差が私と彼との間に、深い、何処までも深い溝を穿つ。解り合えるような瞬間は錯覚、もしくは、彼は知っていて、私は知らないのか。
 共通しているのは、ただのちっぽけな人間だということくらい。
「だったらおれも、お仲間にくわえてくれよ、おれはまだまだこの世に厭きちゃいないんだ」
「ふうん?」
「おれより先には死なないだって? 何処からそんな、反吐が出るほど甘ったるいセリフが出てくるんだ? 気持ちの悪い奴だ、おれだってそう簡単に死なない、他の誰が死んだって、たとえ、おまえが死んだって」
 診察鞄を漁って、新しくメスを一本取り出す。シャツの袖を捲り上げ、左の手首に、鋭い刃先を食い込ませる。
 彼は何も言わなかった。凪いだ海のような視線で、ただ、私を見ていた。普通は止めないか? 目の前で他人が手首を切ろうとしていたら。
 躊躇わずに一息で刃を引く。静脈を半分掠める程度、それでも、指先からしたたり落ちるくらいに、みるみる血が溢れ出た。一瞬覗いた切り口の白い肉、ぞくりと背筋を悪寒が走る、私の肉体はこんなにもやわだ、どうして私達はこうも死に易く作られているのだろう。
「おまえは吸血鬼なんだろう? 吸血鬼に血を吸われれば、吸血鬼になれるんだろう? ほら、噛み付く手間さえ省いてやったぜ、吸ってくれよ、おれだって不死身になりたい」
「…悪趣味だね、ブラック・ジャック先生。永遠に死ねないのが、どれほど苦痛か判らない?」
「判るさ」
 差し出した左手首から血が落ちて、彼の白いスーツにまた新しい染みが広がった。静脈血だから、黒い、錆びたような色、汚らしいと思う、真っ白な彼には相応しくないと思う、自分の血は。
 彼は、暫く無言で私を眺めたあと、緩慢な動きで私の手首を取り、自分の口元に引き寄せて、躊躇なく唇を付けた。
 不意に、その場所から瞬く間に身体中へ充ちた恍惚、全く訳が判らない、私は唇を噛んで喘ぎを封じる、彼が、私の血を啜っている。
 遠慮はなかった。彼は私が望んだ通りに、私の手首に齧り付いた。血の気のない白い唇が、私の血で赤く染まっていく。何という背徳的な眺め。
 舌が傷口をなぞり、肉の内側を抉る。
 痛みというより快楽に近い。肌が震え、目眩を呼ぶ。
 私は私を変態だと思う。
 私の血が、彼を、彼の中から穢してしまえばいい。
「おれが生きているうちに、おまえは死んだほうがいいぜ」
 充分に時間をかけて、私の手首から血液を奪ったあと、彼は血に濡れた唇を放し、やはり緩慢な動きで、私を解放した。貧血が酷くて、そのくらいしか動けないのだろう。
 見れば私の手首の出血は、殆ど止まっていた。静脈を掠めるくらいならば、そんなものだ。
「でないと、苦しむぜ」薄赤い舌で唇の血を舐め取り、彼がにやりと笑って言う。「おれが先に死んだら、おまえ、どうするんだ? 気が触れちまうよ。知っているんだろう? おまえには耐えられないよ、おれを失えば、おまえには生きる理由もない」
「どうしてそこまで自意識過剰になれるんだ、おまえ如きが死んだって、世界が変わる訳じゃない。おれは他人の生き血を吸って生きる。おまえこそ、おれが生きているうちに死んだほうがいい。おれが看取ってやらなけりゃ、誰がそうしてくれるんだ? 死神め」
「おれは死なない。何度も言っているだろう? 吸血鬼は基本的に不死身だって」
「死にたいくせに。生きているのが辛いんだろう?」
 脱ぎ捨ててあった自分のコートを、ソファに横たわる彼の身体にかけた。黒い殺し屋、私の知っている彼が、漸く私の前に現れたような気がした。
 気が触れちまう、か。
 そうかも知れない、そう、思ってきた、今もそう思っている。
 死の誘惑は、誰の前にも、濃密で甘い。総てを捨てて、無に帰りたい。一度もそう思わない奴など果たしているものか? 人間なんて生まれた瞬間から、死に向かってがむしゃらに走るだけの操り人形、意志があればそれだけ苦しい、腕に、脚に絡まる糸は、決して外れやしないから。
 私の目には、彼が生き急いでいるように見える。死が訪れるチャンスを逃さぬように、無防備のまま、狩った命を両手に抱いて。
 そんなチャンスは、私が潰してやる。私は彼を失えない。まだ安寧など与えてやらない。
 私も彼も、いずれ年老いて、必ず死ぬ。そんなことは誰に言われなくとも知っている。年老いるまでは待たないかも知れない、お綺麗な世界に生きてはいない、私達はいつでも暗い闇の中、蝋燭も持たずに、無数に傷を増やしながら。
「ああ、死にたいね」私の言葉に、彼はうっとりするような美しい笑みを浮かべ、唇を開いた。その唇が私の血を吸ったのだ、私は吸血鬼だ、私は不死身だ、彼の前でだけは。「どれだけ人を殺したろう、もう数え切れない。それなのに罰はまだ下されていないんだ、おかしな話だと思わないか? 或いはこれが既に罰なのか、だとしたら、おれは罰を受けるべきだ、それが罰だというのなら、永遠に生きるしかないんだ」
「誰がおまえに罰を下すんだ? 神様がいるなんて信じていないだろう。死にたいというなら殺してやるさ、このおれが、いつか、必ず、確実に」
「吸血鬼は死なないんだよ」
「銀の杭でも打ち込んでやるよ、そうすりゃ死ぬんじゃなかったか、想像するだけで震えが来るほど嬉しいだろう? でも、それは、今じゃない。苦しめ、偽物の死神」
 鎮痛剤と抗生物質を取り出し、鞄を閉めた。彼の手が届く場所に薬を投げ出して、私は立ち上がった。
 そうだ、そう簡単に死んでもらっては困る。吸血鬼だというのなら、この雑多な星、暗闇に身を潜めて、罪の意識に呵まれながら、それでも生きて欲しい。
 私が、彼を失っても動じないだけ、強くなるまでは。
「飲め。辛ければ連絡をしろ、すぐに来るから」
「お優しいな、ドクター」
「おまえのためじゃない」
 背を向けてリビングを出る。廊下に点々と落ちる血痕を、先程とは逆に辿ってドアを開ける。おまえのためじゃない、自分のためだ。
 身勝手な恐怖、彼が死んだら、私はひとり生き続けられるだろうか? 少し違うのだと思う、今だって私はひとり生きている、この世の誰もがひとりきりで生きている。自分はひとりでないなんて、そんなものは、幻想だ。
 耐え切れぬ苦痛が彼を襲ったとき、私は彼がいつでもそうしているように、彼を殺してやらなくてはならない。少しの恐怖もないままに。
 彼を失えないと思う、同時に、彼が死ぬのならば、そのときは、私の手でないとならないと思う。
 横付けた車の運転席に座り、ハンドルに手を置くと、今更、自分で切った手首が、少しだけ痛んだ。
 二人で永遠に生き続けたら、どんな感じだろう。きっと地獄のようだろう。ならば二人、同じ瞬間に死ねればいいのに。
 銀の杭を鋭く尖らせておかなければ。おそらく彼も、私用の銀の杭を、その身の内に持っているに違いない。
 ゆっくりと車を出す。気付けば空はいつの間にか、薄らと明るい。
 銀の杭を。そう、いつか来る、その日のために。



(了)