向日葵

 夏の午後。
 日はまだ高いが、絶え間なく降り続く霧雨の所為で、視界はあまり鮮明ではない。

 なんだかあの日の再現のようだ、と思いながら、私はまた彼の背中を追いかけている。
 傘もささないダークスーツの後ろ姿、あの男は、きっと生まれてこのかた傘なんてものを持ったこともないのだろう、とどうでもいいことを思う、たとえば、戦場のど真ん中でさえ、彼は降り注ぐ雨を避けようともしないに違いない。
 嫌味なくらいに脚が長いんだ、私はやはりあの日と同じように小走りで彼を追いかける、あの日と違うのは、そう、私と彼が、あの日確かに踏んではならない一線を越えてしまったことと、この、鬱陶しい蒸し暑さくらいか。

 あの日以来会っていなかった。
 わざわざ会いに行くがらでもないし、厭でもそのうち会うだろうと思っていたら、いつの間にか季節が変わってしまった。
 仕事の後、彼がいつもそうしたように、頬の傷跡に触れる、自分の指で、そっと。たったそれだけで、私の脳裏にはあの日の背徳の行為が、鮮やかに蘇った。
 あの日、私達は何をした?
 彼が私に触れ、私は彼に触れた、紫陽花に埋もれ、手で、唇で、舌で。常識を逸脱しているのは判っている、そしてそれを私が望んでいたことも判っている、私のこの胸の痛みが、恋情であることも判っている、判らないのは、彼が私をどう思っているのかということか。
 儀式だと言った。
 正直だとも言った。
 こうしたかったとも、好きだからとも言った。
 毎夜毎夜の、明け方の夢は、より具体的に大胆に、煽情的になった。

 紫陽花の花びらを私に振り撒いて、今度はもっと決定的なことをしようと言った。
 私は焦がれている自分を知っている。手探りの感情は欲情によく似ている。

「傘くらいさしたら? ブラック・ジャック先生」
 私の前を真っ直ぐに歩いていた彼が、漸く立ち止ったのは、病院に程近い公園の真ん中、向日葵に囲まれてぽつんと置かれたベンチの前だった。
 公園。どこかで聞いたようなセリフ。霧雨、湿度百パーセント。
 狙っているとしか思えない。
「…おまえのほうこそ」
 言い返して、やっぱり自分もどこかで聞いたような言葉を吐いたことに気付く。私達は結局いつも同じような会話をしている。
 振り向いた彼を見て、私はつい、踏み出す一歩を躊躇した。毒々しいまでの金色に濡れた向日葵の群れ、かつて、自ら耳を落とした画家の狂気の絵を思い出す。
「…どうして先に帰るんだ? 声くらいかけていっても罰は当たらないんじゃないか?」
「だっておれもう用済みだもの」彼は、にやにやと厭味たらしい笑みを浮かべて、私を見た。成り行きを面白がっているような、淡い色の瞳。「仕事は巧くいったんだろう? おれの出番はないじゃない。それともなに? おれに用事でもあるの。おまえ、どうしておれを追いかけてきたの」
「…畜生」
「悪態を吐かれる覚えはないぜ」
「だからおれは、」
 どれだけ待ったと思っているんだ。
 あの日から、何日、何週間、何か月!
 鈍い視界にきらきらと、霧雨に濡れて輝く銀髪が目に痛い。こうして距離を置いて向かい合っているだけでも、あのときの彼の体温が、指に、唇に触れた熱が、肌にまざまざと蘇って息苦しくなる。
 一度言い淀み、それから、私は吐き捨てるように言った。
「…決定的なことをしに来たんだ、おまえと」
「へえ」
 くく、と彼が意地悪く、声に出して笑った。私は、自分がかっと赤面したのが判った。
 眠っている私には、甘く優しく囁くくせに、面と向かえば皮肉に揶揄、本当にたちが悪い。どうして私はこんな男に惚れてしまったのだろう、こんな、思い通りにならない男。
 ああ、知っている、勿論知っている、それは、彼が私の最後の救いだから。
「馬鹿なやつ」細かい雨滴をさらうような風が吹き、私達ふたりを囲む向日葵がざわざわと鳴いた。「あのとき、せっかく途中で放してやったのに。決定的なことって、おまえ、何されるか判ってないんだろ。今からでも遅くないから、尻尾を巻いて逃げ出せよ、どうやらおれはホモらしいから、お前を頭から食っちまうぜ」
「…判ってる」
「判ってない」
「判っているさ」
「…つくづく、馬鹿な男だ」
 呆れたような溜息ひとつ、彼は、天を仰ぐようにさらりと視線を霧雨の中に投げたあと、不意に、その瞳に真摯な熱を込めて、離れた場所に立つ私に眼差しを向けた。
「じゃあ、来いよ。何をされるか判っているんだろ?」
「…、」
 思わずごくりと喉が鳴る。
 雨に濡れて重たいスーツ、この蒸し暑さ、不快指数はどれほどか。地に根が生えてしまったような足を、必死の思いで前へ出し、私は彼が立つベンチの前へ、ゆっくりと歩み寄った。
 何をされるか判っていないと?
 私の毎夜の夢は、では、何だというのだ。
「女を抱いたことならいくらもあるが、おれは、男を抱いたことはない。優しいやりかたなんか知らないぜ、それでいいの」
「いいよ」
「おまえ、男としたことあるの? 男を誘ったことあるの」
「ない」
「そう、じゃあおれが初めてなんだ。そんなにおれのことが好きか」
「…多分」
「は! まだ、多分、なんて言ってる」
 彼の、色素の薄い瞳に掠めた、真摯な熱は一瞬で消えた。隠れたというべきか。ぎくしゃくとした足取りで、彼の前に立った私に、いつも通りの冷淡で皮肉たらしい視線をくれて、彼は嘲笑をその薄い唇に浮かべて見せた。
 そうだ、そんな表情が、彼にはよく似合う。
 そうだ、きっと彼は、そんな表情しか他人に見せられなくなっている。
 彼と私の間にある薄くて厚い壁は、手を伸ばせば触れそうで触れない、まるでこの霧雨のよう、狂気の色を宿す向日葵の群れに囲まれて、私はその壁を破りたいと切に願っている。何かが変わると思っている。
 無駄か。
 あの日、色の変わりゆく紫陽花に埋もれて乱れて、でも、私達は何かが変わったのではないか。錯覚なのか。
「脱いで」
 感情の見えない彼の目を、殆ど睨み上げるように見詰めていた私に、彼が唐突に、そう言った。
 私は思わず、ぎょっと目を見開いた。
「ここで?」
「同じじゃないか」くすくすと面白そうな笑い声を小さく洩らして、彼は言った。その余裕がどこから来るのか皆目判らない。「あの日とさ、ねえ、先生? おまえ、あの日雨の公園で、おれの手で簡単にいっちまって、そのうえおれのものを旨そうに喰らっていたぜ。覚えているか? おれにぶちまけられて、うっとりしていた自分をよ」
「…」
「外でするのが好きなのかと思ったよ、違うの? 大丈夫だよ、このクソ暑い日の雨の公園なんか、誰も来やしないから。それとも誰か来たほうが興奮するか、誰かに見られたほうが?」
「…変態野郎」
 試しているのか。
 私はおそらく酷い表情をして、一言吐き捨ててから、自分の服に手をかけた。ジャケットを地面に落とす。リボンタイを抜いて、それも放り出す。彼に会うたびに、スーツを一着ずつ駄目にしているような気がする。
 シャツはそのまま、両手をベルトにかけたところで、突然、ぐいと彼に身体を引き寄せられた。
 落としていた視線を咄嗟に跳ね上げた私の唇へ、彼が短く、噛みつくような口付けをした。
「口が悪くて従順で、お前のそういうところは好きだよ」
「…、」
 その一瞬の口付けで、あっという間に私の全身に、火がついた。





 自分が何をしようとしているかなんて、判っている。
 彼にとってはただの冗談なのかもしれない、それも判っている。
 でも、あんたあのとき言ったじゃない、こうしたかったと、好きだからと。
 私はずっと焦がれていた、彼に初めて会ったその日から、惚れたんだ、その暗闇に、その残酷な優しさに、その救いようのない、諦念に。

 そうしろと言われて、彼に背を向け、濡れたベンチに手をついた。
 火照る身体は、この気温のせいばかりではない、あの日の熱と匂いと味と、毎夜の夢がぐちゃぐちゃに入り乱れて、訳が判らなくなる。
 雨に湿った髪が頬に張り付いて鬱陶しい。息を吸っても吸ってもまるで、酸素が入ってこないみたいに、胸が苦しい。
「まるで供物だな」背中に、彼の冷めた声が聞こえた。「自分がどんな格好をしているか、判っているの。男に尻を突き出して、さあ犯してくださいと言わんばかりだ」
「アッ」
「勃ってるし。おれ、まだ触りもしてないよ」
 後ろから、不意に伸びた彼の手に、服越しに性器を掴まれ、尖った声が洩れた。そのまま無造作にベルトを抜かれながら、私はただ、目の前に揺れる向日葵の群れを見ていた。
 この男が、とふと思う。
 かつて、自ら耳を落とした画家のように、狂気の世界に行ってしまったらどうしよう。
 どんな世界にもいられると、あの日彼は言った。そうかもしれない、そうかもしれないが、それはあまりにも悲哀に過ぎる。そこは地獄のようだろうか、私が見てきた過去よりも?
「どうしてこんなになってるの。おまえ、どうしてこんなことをしているの」
「…飢えているんだ」
「男にか」
「おまえにだ」
 下着ごと服を落とされる。次第に濃くなる雨は冷たくも感じない。
 剥き出しになった尻に爪を立て、彼は、私の言葉に愉しそうに笑った。「可愛いことも言うんだな」
 ちくりとした痛みは、快感に変換された。私は低く唸り、靄のかかった頭を左右に振った、まるで犬だ。
 酸素が脳に回らない、蒸し暑さで思考が纏まらない、数か月、涎を垂らして待っていた身体が、感触だけで意地汚く彼を追う。
 二度、三度、私の性器をからかって去っていった彼の指が、何の遠慮もなく、いきなり肛門に触れた。
「は、」
 何か、ひやりと冷たいものを塗り込められる。電極用のペースト? そのぬめりを借りて、反射的に拒もうとする肉に構わず、彼の指がゆっくりと中に入ってくる。
 寒気のような、恐怖のような、知らない感覚が身体を走った。思わず震え上がったに違いない、雨に濡れたシャツ一枚の背中を、宥めるように彼のてのひらが撫で上げた。
「ふうん。一応、何をされるか判ってはいたわけね。ちゃんと準備をしてくるなんて躾がいい」
「キリコ、変だ…熱い」
「そりゃおまえ、夏だもの」
「そうじゃ、なく…、ア、駄目だ、」
「これで駄目なら、到底、決定的なことはできないぜ」
「駄目だ、そこ、は…ッ」
 刺激に弱い部分を、内側から、何度も強くなぞり上げられる。身体中の皮膚に鳥肌を立て、私は切れ切れの声を上げる。
 自分の性器が、びくびくと反応しているのが判った。当然彼にも知れているはず。さぞかし醜いだろうとは思ったが、恥ずかしいとは感じなかった。
 しばらく慣らすように指を使ったあと、一旦引き抜き、今度は二本に増やして彼は私の尻を抉じ開けた。咄嗟にぎゅっと目を瞑り、湿ったベンチを引っ掻いて、私は耐えた。痛みはなかった、ただ、その違和感は想像を超えていた、勿論毎夜の夢をも。
「ウ、」
「力を抜けよ」強張る肉を長い指で開きながら、彼が背中に言った。「言ったろう? おれは男とやったことはないんだ、優しいやりかたなんか知らないよ。おまえが巧く喰らってくれなけりゃ、痛い目見るのはおまえだぜ」
「あ、あ、キリ、コ」
「これでも丁寧にやってるつもりなんだけど。いきなり突っ込まないだけ紳士じゃない」
「苦しい、息が、できな、い」
「だから力抜けって。無駄に緊張してるからだろ? おまえが誘ったんだ、ここまで来てゴメンナサイと言われたって、今更やめられないからね」
「アアッ」
 中の指が動きを変え、私は高い声を上げた。瞼の裏に、残像のように金色の光がちらついた。
 ここは何処だっけ、そうだ、公園、真昼間の公園、向日葵畑、雨、もう何だかよく判らない。
 彼は彼の言葉通り、時間をかけて丁寧に私の尻を解した。多分丁寧なのだろう、他の男など知らないので比較もできないが。
 手をついていたベンチに縋り付き、息も絶え絶えになった頃に、漸く、いつの間にか三本に増えていた彼の指が、私の中から出て行った。私の性器は痛いくらいに反応していた、彼の指を咥え込んで。
 力が抜け、思わずその場に座り込みそうになる私の腰を掴み、彼が淡々と言った。
「まだだよ、先生、決定的なことをしにきたんだろう? ほら、ちゃんと立つ。これからが本番でしょ」
「は…」
「もうちょっと、尻を高く上げてくれない。入れづらい」
「…、」
 背後に、ベルトを外す、かちゃかちゃという音が聞こえる。無意識に喉を鳴らし、私は彼の片手に引き上げられるまま、震える脚で、尻を彼に向けて突き出す。
 何をされるか判っていないだろうって? 判っている、判っているが。
 これはいつもの夢の続きか? 違う、現実だ、この意識を振り回されるような欲と、恐怖と、飢えと、恋情。現実だ、現実だ、私は彼に抱かれている。認識しろ!
 金色の狂気の真ん中。私も彼も、とてつもなく正気。私が請い、彼が応えた行為。
 それでも、尻の狭間に熱く硬い彼の性器を押し当てられたときには、引き攣ったような悲鳴が洩れた。
「やめ…」
「力抜け」構わずに彼は、私の尻を鷲掴み、弛んだ肛門に性器の先端をぐっと喰い込ませてきた。「だから、今更やめられないの。おれだってこんなになっちまってるんだし。こうされたかったんだろう? いいから、力を抜いて、上手に飲め、生憎おれ、男は知らないから、他にどうすりゃいいか判らねエ」
「アア、ア、ア」
「そんなに締めるなよ、切れるぜ? 抵抗したって無駄だ、ほら、入ってく」
「キリコ…! き、つい…ッ」
「おれもきつい」
 じりじりと少しずつ、だが確実に、彼の性器が私の尻に埋め込まれてくる。いくら指で慣らされたとはいえ、桁違いの太さに、私は甲高い声を上げた。ここが野外であることなどは殆ど忘れていた。
 あの日、手で、唇で触れたあの逞しい肉棒が、私を侵食している。
 どくどくと脈打っているのが、内部で判る。彼も私で興奮している。
「これで全部」
「アアッ!」
 途中まで慎重に埋めてしまうと、彼は腰を使って、残りを一気に私に突き入れてきた。指では届かなかった奥の奥まで拓かれて、そのあまりの衝撃に、痛みを感じることさえ忘れた。
 彼は、性器を根元まで押し込んだ体勢で、私が落ち着くのを暫く待った。丁重に扱われているのだろう、とは判っても、私は落ち着くどころの話ではなかった。
 惚れた男に身体を貫かれるというのは、こういうものか。
 何も考えられない、酸素が足りない、ただ間違いない、私はこうしたかった、こうされたかった、毎夜毎夜、夢に見るほど、こうなりたくて仕方がなかった。
「駄目だね」気付けば私の脇腹やら胸やらをゆっくりと撫でていた彼のてのひらが、私の性器に移動した。「これはおれがもたねえや。おまえ、きつすぎる。痛いんだろうけど、ちょっと我慢してて、いけるならおまえもいって」
「…リコ、」
「動くぜ、精々泣き喚け、大丈夫、ここなら誰も聞いてない」
「…あ! 待て…アッ、無理だ、アア、アッ」
 彼は片手で私の腰を掴み直すと、私の言葉など聞きもせず、私の性器を擦り上げながら、いきなり大きな振り幅で私を穿ち始めた。
 ぐちゃぐちゃと音を立て、私の尻を出入りする太い肉、私は彼の言葉通り、半狂乱で泣き喚いた。これを快楽と言うのなら、私が過去に知った快楽なんて実に薄っぺらいもの、喰らっているのは私のはずなのに、魂から彼に喰われるような愉悦。
 私が彼の手に達したのは、あっという間だったように思う。
 彼はそれ以上私を苛みはせず、ずるりと硬いままの性器を引き抜くと、その場にしゃがみ込んだ私の肩を掴み、私を振り向かせ、顎を指で引き寄せた。
「口開けて、飲んで」
「は…、」
 訳も判らず従った私の唇に、今の今まで私の尻に入っていた性器の先端を無理矢理押し込み、彼は自分の手で手早く射精した。飲み込み切れず、思わず噎せ返った私の口を、大きなてのひらで覆った。「こぼさないで、全部飲んで」
「ウ、」
 苦しくて、勝手に涙が滲んだ。喉を詰まらせながら、それでも何とか飲み込むと、彼のてのひらが外れ、私は漸く空気を貪った。
 目まぐるしくて、何が何だか判らなかった。ただ、私の中で何かが確実に変わった、それだけは判った。変わりたかったように変わったのか、変わりたくなかったように変わったのか。私は彼に抱かれたかった、抱かれたくてたまらなかった、だが、抱かれてどうなりたかった?
「いい加減に、もう判ったんじゃない?」
 頭上に聞こえる声に、のろのろと顔を上げると、下半身は剥き出しのままの私とは対照的に、さっさと服を整えた彼がにやにやと笑いながら私を見下ろしていた。
 向日葵の花弁を気紛れに千切っては、ひらりと私の上に撒く。頼むから、と私は思う。
 その世界にはいかないで。
「散々されて、結論はどうなのよ、え? 先生」
「…好きだ」
「なにが。男にやられるのが?」
「…おれはおまえが好きだ」
「へえ。今度は多分って言わないのな」
 健気なおまえは嫌いじゃないよ、と言って、あの日のように彼はあっさり私に背中を向けた。濡れたシャツ、髪、肌、金色の花弁が張り付いて、だがそれを剥がす余力もなく私はぐったりとベンチに凭れかかる。
 罠に嵌ったような気がした。私が、それとも彼が?
 霧雨、目に痛い狂気の中、遠ざかる銀髪を私は黙って見送った。刻み込まれた感触が、なんだか途方もなく切実なもののような気がして、胸の痛みが更に増した。

 ああ、きっと私達は、とても不器用で、とても怖がりで。


(了)