生贄

 朝、起きたときから、体調が悪かった。
 同時に、何に対してだかは知らないが、なんだか厭な予感がして、憂鬱になった。私の予感はよく当たるのだ。
 落ち目のときには悪いことが重なる。こればかりはどうにもならない。
 波が過ぎ去るのを、じっと膝を抱えて待つしかない。


 昼頃、体温計の数値が三十八度を超えた。
 ざっと用手で検査して、ただの風邪だろうと判断した。
 頭痛、悪寒、目眩、軽い咳。
 怠い身体を引きずるようにしてベッドから這い出し、抗生物質と、気休め程度の薬を飲んだ。


 娘にうつしてはいけないからと、引き止める彼女を振りきって、家を出たところで、今度は厭な予感が的中した。
「よお、ブラック・ジャック先生。お出かけ前にお会いできて良かったぜ、今日も違法な荒稼ぎかい」
「…もっと早く、家を出れば良かった」
「残念だったな。ほら、御上の御命令だ」
 私のセダンに凭れて、顔見知りの刑事が立っていた。
 顔見知りなだけだ、まさか仲が良いわけでもない、その証拠に、嬉しそうに彼が右手にひらひらと。
「…最近は誰も死なせていないぞ」
「おまえさんの腕が、気にくわない連中もいるんだろ」
「権力には弱い警察機構なんて、破綻しやがれ、他に何人だってしょっ引く連中はいるだろうが」
「雑魚より天才のほうが目障りなんだろうよ、医師会様は」
 逮捕状。
 無免許で仕事をしている以上、覚悟はしているし、実際何度か鉄格子の向こうに放り込まれたことはあるが、慣れているからと言って別に楽しいわけではない。
 仏頂面で刑事に歩み寄ると、そこで漸く気が付いたのか、彼は唇をねじ曲げて、私の顔をまじまじと見た。
「おまえさん、おい、先生、具合が悪そうだな」
「ああ、そうだな、おまえさんに会ったおかげで益々具合が悪くなったな」
「風邪でも引いたのか? 医者の不養生とはよく言ったもんだ」
「私は無免許だから医者じゃないんだろう?」
 刑事の身体を押しのけて、私は車の助手席に座った。目眩が酷い。これ以上突っ立って馬鹿な応酬をしていたら、倒れそうだ。
 診療鞄を後部座席に投げる。
 解熱剤を注射してくれば良かったと、今更思う。
 何も、こんなときにこんな厄介事が起こらなくても良いのに。
 ほらみろ、私の予感は当たるのだ
「さっさと車を出せよ。大体、逮捕に徒歩で来る奴の気が知れん」
「気付かれたら逃げられると思ったんでね」
「私は逃げない。いつも逃げていないだろう?」
「そうだったな」
 刑事は運転席に座り、大雑把な動作でドアを閉めた。その音が、ずきずきと痛む頭に直接響いて、私は小さく唸ったかも知れない。
 冗談ではなく、段々悪化している気がする。
 出来れば清潔なベッドに埋もれていたいが、仕方がない、これが、落ち目という奴だ。
「おい、大丈夫か?」
「駄目だと言えば、その紙切れ一枚、破り捨てられるのか、おまえさん?」
「…悪かったな、ただの犬で」
 逮捕状をスーツにしまい、刑事はそれでも、多分彼なりにはかなり慎重に、静かにエンジンをかけた。
 助手席で私は目を瞑り、砂利道で不安定に揺れる車に、黙って耐えた。
 娘に知らせたほうがいいだろうかとも思ったが、かえって何も知らないでいたほうがいいか。






 一瞬、彼、かと思った。
 勿論、ただの一瞬だが。
 何処が似ているのかと言われれば、外見はさほど似ていないのかも知れない。酷薄そうな薄い唇とか、見上げる背の高さとか身体付きとか、精々がそんなところ。男は黒髪だし、瞳も黒く、眼帯はない。
 頭痛、目眩、発熱の悪寒に、車に揺られたせいか吐き気まで加わって、そんな状態でその男を目にしたものだから。
 メスを仕込んだコートは当然のこと、着ていた服を総て引っ剥がされて、今回は妙に念入りだなと思った。
 頭の先から爪先まで、最後に肛門の中まで調べられ、なんだかもう、何もかもどうでも良くなるような投げやりな気分になる。何が医師会の上層部を、ここまで不機嫌にさせたのだか、思い出そうにも頭は熱に眩み、そして私は、そのような仕事を山と言うほどしてきている。
 独房に放り込まれて、湿った毛布の上に、漸く横たわった。
 身体中が重く、怠く、関節が痛い。熱には強いほうだと思っていたが、身体が弱くなったのか疲労の所為か、指一本動かすのでさえ苦行に近い。
 解熱剤を注射してこなかった自分に、再度嫌気がさした。
「起きろ」
 意識が朦朧と遊び始めた頃に、鉄格子の外から、低い、男の声が聞こえた。
 薄らと目を開けて視線をやり、私は一瞬、それが、彼かと思ったのだ。
 あの、死神かと。
 潤む目を瞬かせてみれば、次の瞬間には別人であるとすぐに判ったが。
「起きろ。罪人ならば罪人らしくしろ」
「寝かせておいてくれれば、おまえさんがいずれ大病にかかったとき、ロハで診てやるぜ」
「生意気な口をきく罪人だ。自分の立場が判っていないらしい」
 熱い、重い、痛い、気持ちが悪い、こんなときに。
 私は彼に会いたいと思ったか。
 あたたかい、大きな手。
 時折複雑な愛情を掠めさせる、色素の薄い瞳。
 柔らかに煌めく銀色の髪、私の大好きな。
 男は、制服から鍵を取り出し、鉄格子の扉を開くと、躊躇なく狭い独房の中に踏み入り、真っ直ぐ私の前へ歩いた。
 柄の良い刑務官など滅多に見たことがないが、これはあまりに極端だ、氷のように冷たい視線が、横たわる私の身体を這い回る。
「おまえが例の無免許医か。確かに継ぎ接ぎだな、気味が悪い」
「私はこれが気に入っているんだよ、放っておいてくれ」
「だが、身体はなかなか使えそうだ、聞いたことがある、おまえが男にやられて悦ぶ雌豚だというのは本当か?」
「看守ごときが、この天才外科医に、そこまで言う権利があるのかい?」
 唇の端に、皮肉な笑みを浮かべて答えてやると、男は、私が咄嗟に身構えるよりも早く、私の腹部を硬い靴の爪先で蹴り付けた。
 私は思わず海老のように身体を折り曲げ、呻いた。舌に、食道から込み上げる胃液の味がした。
「は…」
「この独房の中では、私が神だ。諂え。無力な咎人が」
「日本も、終わりだな。いや、とうに、終わって、いたのか」
「生意気な口をきくなと言っているのが判らないのか?」
「ウ、」
 今度は、身体を丸めた、その肩を蹴り上げられる。発熱と衝撃で頭蓋の中の脳が、ぐるぐる回るような錯覚。
 吐息が熱い。
 蹴られた場所も、ただの痛みと言うより、悪寒の波紋の真ん中みたいな。
「顔を見せろ」
「…」
 身を屈めた男の片手が、強引に私の顎を掴んだ。
「継ぎ接ぎがなければ、いい男じゃないのか。おまえ、瞳が赤いんだな、珍しい」
「…やめろ」
 おまえ、瞳が赤いんだな。
 そういえば、彼にも言われたことがある、あの死神にも。
 おまえ、瞳が赤いんだな。ルビーの色だ、綺麗だ。
 鈍る意識が彼と目の前の男をだぶらせる。あれはいつのことだったか。ずっと昔、それでも、決して忘れない、つい昨日のことのように、情景まで。
 顎を掴む男の手を、弱々しく払い除けると、いきなり、警棒の先が脇腹に突き刺さった。堪えきれずに胃液を吐き出し、咳き込む胸に、硬い靴が二度、三度、食い込む。
「ここでは私が神だ」俯せになって、男の足から逃れようとする私の頭を踏み付け、男が平坦な口調で言った。「逆らうな。逆らうと死ぬぞ。私は人が死ぬことなど何とも思っていない、ましてや、罪人ならば」
「…まさしく、神だな」
 噎せながら言い返す。踏み付けられる頭ががんがんと、血流に合わせて破裂しそうに痛む。
 そう、私の知る死神は、人の死を誰よりも悼む優しいヒトゴロシ。この男とは違う。この男とは違うのに。
 初めて見たとき、あの一瞬、私は男に彼を見た。今の彼に何かが欠けたら、或いは付加したら、この男のようになるのだろうか。
 会いたい。
「良い機会だ、噂を確かめてやろう、無免許医がただの雌豚なのかどうか」
 踏まれる頭上から、冷ややかな男の声が聞こえた。
 捧ぐ生贄、カミサマとやらは、人間の生死などお気になさらない。




 男の前に跪かされ、隆々と勃起した性器を唇に突き付けられた。
 暴力で興奮する種類の男か。ますますもってたちが悪い。
 周囲の房でも、今ここで、何が行われているのかは判っているはずだろう、なにせ鉄格子では筒抜けだ。しかし勿論、誰も助けてくれるはずはなく、それどころか悪趣味な奴らが精々自分のものを掴んで自慰に耽る程度。
 もう慣れたものなのかも知れない、この刑務官、新入りが来るたびにこうしているのではないか?
「口を開けろ」
「…」
「手間をかけさせるな、口を開けて、咥えろ。噛んだら死ぬぞ」
「…ッ、」
 無視していると、頬を殴られ、顎を掴んだ手に無理矢理口を開かされた。その唇の隙間に強引に、太い性器を押し込まれ、きつい牡の匂いに吐き気が込み上げる。
 意識が勝手に逃げ場を探し、過去の記憶を辿り出す。
 肉体的な苦痛を苦痛でなくする方法なんて、実は簡単。
「おまえの口の中、熱いな。熱があるのか」
「ン…」
 敢えて舌を使わずにいると、男は私の髪を引っ掴み、私の頭を前後に動かして快楽を盗み始めた。
 喉の奥まで亀頭で突かれ、胃液混じりの唾液が唇から顎に伝う。コンクリートに囲まれた冷たい空間に、ぐちゃぐちゃと、口腔を掻き回される音が響く。
 聞こえる荒い呼吸音は、私のものだけではない。
 思い出さないほうがいい。
 いや、思い出してしまえばいい。
 意識と意思が相反して、揺さぶられる頭の中までぐちゃぐちゃになるような。
「いい顔をするんだな」くく、と、初めてそこで男が頭上に笑った。それを笑ったと言えるのならば。「雌豚というのは、まんざら嘘でもなかったらしい。旨そうに食らうものだ。おい、目を開けろ。赤い瞳を見せろ」
「ア、は…」
 言われるままに目を開ける。股間だけくつろげた制服、黒い陰毛が目に映って、やっぱり違うと言い聞かせる。
「雌豚、私を見ろ」
 蹴られた腹、殴られた頬が今更ずきずきと激しく痛み出し、もう、どうやって抵抗すればいいのか。
 上目遣いで見上げた男の、いやらしい笑みを浮かべた薄い唇を見て、やっぱりそうだと誰かが耳元に囁く。
 やっぱりそうだ、前にもあったじゃないか、蹴られ、殴られ、犯された、今思えば私は厭ではなかった、相手が、そう、彼であるならば。
「目が充血している。苦しいのか」
「…」
「全く、なんて物欲しげな顔をするんだろう、我が儘な先生だ、仕方がない」
「ん、ん!」
 苦しい。
 上目遣いで見やったまま、男の言葉に無言で頷くと、男は満足そうに笑みを深め、不意に、私の頭を揺さぶる速度を上げた。
 いつの間にか縋っていた男の制服を引っ掻いて、せめてこの苦痛を散らしたいと思っても、多分男はそれを見てより充たされるだけ。
「ああ、いきそうだ、唇を少し締めろ」
「ウ、や…」
「いいか、目を瞑るなよ、そのまま見ていろ」
「アッ…」
 最後に思い切り深く、何度か突き込んでから、男は素早く性器を抜き出した。男の言葉は呪文のようで、私は顔を背けることも出来なかった。
 薄暗い独房、私の唾液で光る性器を片手で掴み、彼は私の顔面に射精した。
 それまで犯されていた唇はおろか、見開いた目にまで、男の精液が勢いよく飛び散った。それでも私は呆然としたまま、幾度かに分けて精液を絞り出す男の手を、ただじっと見ていた。
 苦痛なんて簡単に消せるんだ。
 唇に、よく知っている牡の味を感じる。
 苦痛なんて簡単に消せるんだ。そうだ、この男は私のよく知る男、右手に血塗れた鎌を持ち、罪を引きずり命を刈る。
 これは歪んだ愛の行為。
 目にした瞬間、判ったじゃないか、この男は。
 神でなく、死神。
「…リ、コ」
 ああ、熱い、熱い、もっと、もっと。
「よくお似合いだ、偽医者野郎、うっとりしていやがる」
 男は、精液まみれの私の顔を指先で撫でながら、目を細めて笑った。ほら、そんな表情まで。
 かと思ったら、何の前触れもなく、突然膝で私の顎を蹴り上げ、思わず仰向けに倒れ込んだ私の身体を、男は靴で俯せにひっくり返した。
 殴られ、蹴られ、されるがままになりながら、私はきつく目を閉じた。男のてのひらが尻を撫で、服を引きずり下ろすのにも、抵抗ひとつしなかった。
 だって、おまえがすることならば。
 私はおまえの望む通りに。
 尻を乱暴に開かれ、精液で濡れた指がぬるりと入ってくる。身体中が痛い。発熱の所為か、行為の所為か、呼吸をするたびに何処かが罅割れて、悪寒の走る肌は剥がれ落ちそう。
 だって、おまえの齎す痛みならば。
 それは私にとって、甘い毒。







 目を開けても、最初、そこが何処だか判らなかった。
 それよりも先に、全身に残る壊れそうな鈍い痛みに、自覚もなく呻いた。
「う…」
「肋骨に罅だ、悪運強く骨はそれだけだな」
 すぐ横で、いきなり声が聞こえたものだから、私は、ぎょっと身体を強張らせた。天井を彷徨っていた視線を向けた先に、見慣れた男の顔があった。
 ドクタースーツの上に、白衣。聴診器を頸に引っかけ、そうしているとまるで普通の医者だ。
 咄嗟に理解できず、私は多分、怯えた顔をしただろう。
 彼に似た、黒髪の男、目の前にいる男の髪は、見事なまでの煌めく銀髪。
「あとは裂傷と、内出血くらいだな、一応手加減はしたようだ。ただ、肺炎を起こしている。風邪でも引いていたのか? まあ取り敢えず暫く寝てなさい」
「…キリコ?」
「なに」
「キリコか?」
「そうだよ。どうした? 判る?」
 横たわった私の目の前で、彼は右手の指をひらひらと踊らせた。私は小さく頷いて、それから漸くあたりを見渡した。
 彼の診療所の一室だった。ベッドが幾つか並んでいるが、私が寝ている以外は空。窓の外は明るいからまだ昼間だろう、何日の昼間なのかは知らないが。
 左の腕に点滴を打たれている。
 肩にガーゼが貼ってある。何度か蹴られた場所だ、あの男に。
「…おれは、なんでここにいるんだ?」
 まともな声を出そうとしても、掠れてしまうのが厭だ。
「おれが保釈金を積んだからじゃねエの」彼は、額で熱を計り、首筋で脈を取りながら、淡々と答えた。「それにおれ、医師会には意外とウケが良いのよ、誰も好んで人殺しのレッテルは貼られたくないからな。半分死体になっていたおまえを、留置所からここまで引きずってきた。どうやらおかしな看守に遊ばれたようだが、それも全部、医師会様の差し金だろうよ、イギリスから来た何とかってお偉いさん、おまえ、オペしなかった?」
「ああ…。あれか」
「もうちょっと仕事選んだらどう。身体が幾つあってももたないぜ」
 カルテらしきものに短く目を通してから、彼はさっさと私に背を向けた。彼の名前を呼ぼうとして、思い止まり、やっぱり呼ぼうとして、結局声を飲み込んで。
 逡巡している私などには構わずに、彼は真っ直ぐ、病室のドアへ向かった。ドアを開けて、姿を消すその前に、不意に軽く振り向いて、私を見た。
「ああ、それから、あのおかしな看守、死ぬより酷い目に遭わせておいたからね」
「…」
 普段はあまり感情を見せない、彼の淡い色の瞳に、一瞬、素晴らしいまでの殺意が、掠めて消えた。
 私は、何故か、それを見て、漸く心底安堵した。まだ身体中痛いし、呼吸も苦しいけれど。
 彼が去った病室で一人きり、目を閉じて邪魔な記憶を追い払う。ここは彼の聖域、外敵はいない、彼が守ってくれるから。


 良かった。
 良かった。まだ彼は、私を見捨ててはいない。
 この薄汚れた生贄を。



(了)