成就

 おまえと一緒にいると、苛々する。

 彼は確かに、そう言った。

 それが、いつものような皮肉たらしい表情で、口調で、言われたものならば、私は大して気にもしなかったろう。だが、そう口にしたときの彼は妙に、何というか、壊れ物じみていて、私は動揺してしまった。
 無表情か、嫌味な笑みか、そんな顔しか知らなかった。
 真っ白な月のように、彼は冷淡で、揺るがない、悪魔か天使みたいな死神だった。
 それがどうだ、その、不安定な目付き、自分で自分が理解できていないような。

 おまえと一緒にいると、苛々して、このへんが、苦しい。おまえをぐちゃぐちゃにしてやりたくなる。もしくは、おれがぐちゃぐちゃになる。

 カーテンは開け放った窓の外には、深夜の雪、音もなく降り積もり、庭一面を白く変えていく。
 このへんが、と自分の胸にてのひらを当てて、彼は言った。雪の所為で地上に堕ちた死神、らしくもなく緊張した声が、慎重に言葉を選んでいるのは判る。彼はきっと、本当にそう思っている。
 苛々して。苦しい。
 ぐちゃぐちゃに。
 正直に言う。私は、ショックを受けた。その彼の言葉に。

 まさか、仲が良いとは思っていない。
 ただ、私は何か、そう、夢を見ているのだろう。
 半年ばかり、会っていなかった。勿論、そんなことは今までに一度もなかった。会う度に喧嘩ばかり、それについては互いに譲る気はないが、喧嘩ばかりでも、必ず私達は巡り会った。
 仕事柄、それが当たり前だった。
 それが半年の空白。私の意図でない以上、彼の意図だとしか思えない。
 私は何か、夢を見ているのだろう。
 確かに私のしていることと、彼のしていることとは、事象を見る限り、全く違う。それでも、私は彼と何処かで繋がっていると思っていた。心の闇の奥の方、何かが通じ合っていると思っていた。同じものを持っていると思っていた。
 互いに譲る気はないが、認め合っていると。
 そう、夢だ。
 彼に会い、何回も同じような応酬を繰り返し、私の輪郭ははっきりとしてくる。
 彼がいなければ、今の私はいないかも知れない。もっとぼやけたものだったかも知れない。
 彼に接触する時間がとても重要なのだと。
 思っていたのは私だけか。私だけなのか。
 彼は何も言わずに、私の前からふっと姿を消し、気配を消した。
 連絡を取る間柄でもあるまいし、最初のうちはたまたま仕事が被らないだけかと思っていたけれど、半年は長すぎる、彼が私を避けている。
 私は不安定になった。
 しばしば彼に子犬のように噛み付くことで、私は私を保っていたのだと、つくづく思い知らされた。
 がむしゃらに仕事をしたけれど、手触りがない、空を掴むみたい、刃向かう死神がいないと、自分が何に必死になっているのかさえ。
 自分がどうにかなりそうで、迷子の子供のように彼の家を訪れた。
 会って何がしたかったわけでもない、ただ、あの嫌味たらしい口調で、皮肉のひとつも言って欲しかったのだろう。
 雪の夜。
 自分の存在が、真っ白な紙に落とした、小さなインクの染みみたいに。
 ドアを開けた彼は私を見て、少し戸惑ったような、何かを諦めたような顔をした。無言で私をリビングに通し、煙草を一本、それから、私が口火を切る前に、ぽつり、静かに言った。

 おまえと一緒にいると、苛々する。

 ああ。ついに私は、死神にさえ見放されるのか。

「何しに来たんだ? ブラック・ジャック先生」
 じろりと睨むように私を見やって、彼は言った。私は咄嗟に言葉を思い付かなかった。
 私は傷付いていた。私は私がこうも簡単に、傷付くものだとは思っていなかった。
 苛々して。苦しい。
 ぐちゃぐちゃに。
 私は彼を苛つかせるのか。苦しめるのか。
 今までだって、相当に辛辣な言葉をやりとりしてきたと思う、それでも、こんなふうにショックを受けたことは。
「何しに来たんだよ、先生」
 彼は、今までに見たこともないような、繊細な目の色をしていた。
 何しに来たんだ、折角、会わないようにしていたのに?
「…暫く顔を見なかったから、死んでいるんじゃないかと思ったんだよ、ドクター・キリコ」
 返した声が震えていなかった自信はない。
「死んでいたって関係ないだろう?」
「角膜くらい使えるんじゃないかと思ってね、片目だけだが」
「おれは、おまえに会いたくなかったんだ」
「…私だって別に、会いたくなんか」
「おれが今、何を思っているか、教えて欲しいか?」
 会いたくなかったんだ。
 会いたくなかったんだ。
 酷い。そんなふうに言わなくたって。
 身体の奥の、血に塗れた何かぬるくて柔らかい部分が、ぎゅっと握り潰されているみたいな気がした。夢を見ていたんだ、そう思う。彼と通じ合っているという夢、彼と認め合っているという夢、暗闇の中で、確かに背中が触れているという夢。
 そうだ、出会う度にきゃんきゃん吠え立てて、こんな男、可愛くもないだろう。彼にとっては。
 会うのも厭になるだろう。
 こうして一緒にいれば、苛々もするだろう。
 嫌われた。
「どうしてそんな顔をする?」咥えた煙草に火を付け、煙を細く吐いてから、彼は目を細めて私を見た。「死人のような顔をして、青くなるにはまだ早いぜ。馬鹿な先生だ、なあ、折角おれが会わないようにしていたのに、自分からのこのこ現れやがった」
「…悪かったな。会いたくなかったのにな」
「半年ばかり前からか、おれはどうにもおれ自身が、よく判らなくなっちまったんだよ」
「…」
「妙な衝動があるんだ。教えて欲しいか?」
 折角おれが会わないようにしていたのに。
 判っていた、判っていたけれど、直接彼に言われるのは。
 向かい合ったソファ、身を乗り出した彼に煙草の煙を吐きかけられ、少し噎せた。くすくすと笑った彼は、まるでいつも通りのようで、縋る眼差しで見上げたその視線は、でも、いつもの彼とは、まるで違う。
 なにもかもに投げやりなような、切羽詰まったような。
 開き直っているような、恐れているような?
「わざわざお越しくださったんだからな、教えてやるよ」
 にっこり笑ってみせる表情も、いつもの彼ではない。
 不意に、言いようのない恐怖を覚え、思わずソファの上で身を引いた私の襟元を、灰皿に煙草を消した彼の右手が、ぐいと掴んだ。こうやって、相手を掴み上げるのは、いつもは私の筈だったが、いざ、自分がそうされてみると、こうも怖いものなのかと思った。
 いや、そうではない。
 怖いのは、彼のその目、彼のその笑み。
 そこにいるのは、私のよく知っている彼ではなかった。余裕たっぷりで、嫌味もたっぷり、私の悪罵を総て受け入れて、さらりと踵を返せる、外道。
 彼はこんな顔をしていたか。
「おまえと一緒にいると、苛々する」
 青みがかった白目に走る、赤くて細い血管が、気持ち悪い、と思う。
 襟を掴まれ、息が苦しい。
 もう判った。苛々するのは、判ったから。
 もうこれ以上、傷付けないで。
「おまえを見ていると、身体の内側が疼いて、おまえを犯したくなる。欲情するんだよ、先生」





 何がなんだかよく判らないうちに、カーペットの上へ、俯せに組み敷かれていた。
 何回か殴られた。逃げ出そうと殴り返したけれど、多分、彼にはちっとも効いていない。

 欲情する? 欲情するだって?

 逃げろ、逃げろ、と頭の中で、誰かが騒いでいる。心臓が恐怖で狂ったように高鳴って、身体が巧く動かない。
 器用な片手に、ベルトを引き抜かれ、俯せの身体を起こそうとしても、後頭部から頭をカーペットに強く押さえ込まれていて、どうにもならなかった。
 欲情するって何だ。
 犯したい? おれは犯されるのか。
「力じゃ敵わないよ、先生」藻掻く私の抵抗を簡単に封じながら、顔の見えない彼の声が頭上に言った。「おまえが悪いんだぜ、おれが折角会わないようにしていたのに、わざわざ会いに来るんだから。馬鹿だな、ああ、馬鹿だ。忘れちまおうと思っていたのに」
「キリコ…やめろ、何考えてるんだ」
「おれはおれがよく判らない。今はとにかく、おまえをやっちまうことしか考えてねエよ、そのくらいはおまえにも判るだろう?」
「厭だ…!」
 下着ごと服を引きずり下ろされ、尻を剥き出しにされる。これは、本気で犯される。彼の行為は、遊びではない、本気だ。
 逃げなくては。逃げなくては。頭の中の声は益々大きくなるけれど、やっぱり身体が言うことを聞かない。無様に抗ってもカーペットを引っ掻くだけで意味がない。
 腰を掴まれ、突き出させられた尻を、彼の大きなてのひらにさらりと撫でられて、肌という肌に悪寒が走った。
 欲情するって何だ。
 がんがんと騒がしく鐘を突かれているような頭の中で、勝手な思考が跳ね回る。
 苛々する。
 胸が痛い。
 身体の内側が疼いて。
 欲情する。
 おまえ、それは普通、恋と言わないか。
 おまえ、おれに恋をしているのか。
 判らないのか?
「なあ先生、おまえ、男にやられたことある」
「あるわけ…、ないだろ…ッ」
「じゃあ、おれが初めての男だね。優しくしてやれなくて悪いな、おれは今最高に凶悪な気分なんだ」
「待て…、キリコ、待て…!」
 多分私は、それほどの大声を出していたわけでもないのだろう、蚊の泣くような声だったかも知れない、喉が干上がって言葉は巧く声にならず、そもそも、何を言えばいいのかもよく判らない。
 私の頭をカーペットに押さえつけたまま、彼は片手で、私の診療鞄を開け、中を漁った。狭い視界の中で、彼の片手がなにかのチューブを盗むのが見えた。ステロイドか、抗生物質か。
 少しして、ひんやりとしたゲルにまみれた彼の指が、私の肛門に触れた。
 ぬるりと指先を侵入され、私は知らない感触に震え上がった。
 不思議なことに、屈辱はあまり感じなかった。ただ、恐怖と、それから、言いようのない虚しさ、いや、たとえ彼がそれを恋だと認めようと、私には。
「やめろ…」
「狭いな。これじゃ、慣らしても切れる。なら、慣らさなくても一緒か」
「あ…っ、動…かすな、」
「おまえが悪いんだよ」
「苦、しい…」
 何度かに分けて、私の肛門にゲルを塗り込めてしまうと、彼の指はあっさりと離れた。知らずに詰めていた息を吐き、緊張が微かに和らいだのも束の間、今度は、指とは較べものにならない大きさのものを、そこに押し当てられ、身体中が強張った。
 それが彼の性器であることは判った。判ったけれど、なんだか悪夢を見ているようだった。
 ぬるぬると擦り付けられるその先端は張りつめ、彼が間違いなく勃起していることが伝わる。この男、本当に欲情していやがる。
 ぐっと力を込められ、咄嗟に逃げようにも、押さえ込まれた身体ではどうにもならなかった。
「駄目だ…、駄目だ、キリコ…!」
「今更やめられるかよ、大人しくしてな、先生」
「壊れる…」
「もう壊れちまってるさ、何もかも」
「ああっ、厭だ…、あっ、ああっ」
 ずぶりと先端を埋められ、唇から勝手に悲鳴が洩れた。明らかに引き裂かれた痛み、何よりも、その異物感が、私の思考を白く焼いた。
 どうしてこんなことになったのだろう、霞む頭の隅で、一部分だけ妙にクリアな意識が何かを哀れんでいる。私は傷付いている。私は傷付いている。彼の抱えた胸の痛みとやらが、ただの劣情であっても、たとえ恋情であっても同じこと、私は傷付いている、私が見ていた夢は、確かに、もう壊れてしまった。
 私と彼とは何一つ、理解し合えていなかった。
 何も共有していないし、何にも繋がれていなかった。何を認め合ってもいないし、絶望という暗闇の中、その背中も、決して触れていない。
 私達は。
「ヒ…」
 彼は全く躊躇なく、容赦もなく、私の尻にいきり立った性器を突き刺した。一気には入り切らないそれを、腰を使って、ずぶり、ずぶりと根元まで押し込む。
 微かに血の匂い。勿論、快楽などは僅かにも感じない。
 ぎゅっと目を閉じて、カーペットに爪を立て、私は必死に耐える。もう逃げ出せもしないのなら、せめて早く。
「そうだ、良い子だ、すぐ終わるよ」
 なんだか悲しんでいるような声が聞こえ、それから彼は、ゆっくりと私の尻を突き始めた。
「あ…ッ、は、あッ、あッ」
「もう少し力を抜け、痛いだろう? そんなにぎゅうぎゅう締め付けないで」
「出来な…い、無理、だ、も…あ、あ、」
「仕方ねえな、じゃあ、そうやってじっと我慢してろ」
 彼は、それほど長い時間をかけなかった。その代わり、私に対しては、これっぽっちの遠慮もなかったが。
 スピードを増す動きに、堪えきれずに喚いた。彼は何度も私に何かを言ったが、聞き取れる筈もなかった。
 内臓を抉られる感覚、痛みに汗の滲む身体が気持ち悪い。
 彼の達した瞬間、体内にどくどくと体液を注ぎ込まれるのが、はっきりと判った。
「は、」
「ああ…」
 完全に犯された、と思った。
 彼は、私の中で最後まで精液を吐き出してしまうと、ずるりと性器を引き抜き、私の背中にふわりと覆い被さってきた。互いの服越し、少し熱い彼の体温を感じ、乱れた呼吸のまま、私はそっと目を開けた。
 瞬く瞼に、濡れたカーペットが触れる。泣いていたのか、と思う。
 頭を倒して見た視界には、放り出されたベルト、ガラスのテーブル、灰皿、その背後に、雪の降り続く真っ白な庭。
 彼の性器は出て行ったのに、全然違和感の消えない尻が痛い。
「…細エ身体」
「キリコ」
 背中から重なり、柔らかく私の身体を片腕で抱きしめた彼の吐息が、首筋に触れた。
 意味のない涙が、こめかみを伝って、カーペットに落ちた。
 無駄だ。
 壊れたものは、もう二度と直らない。
「キリコ…満足か?」
「満足だ」
 嘘吐き。
 中に出された精液が、とろりと肛門から零れるのが判る。
 私達はぴったりとくっついて、誰よりも離れていた。

 苛々する。
 ああ、苛々する。おまえと一緒にいると。
 胸が痛い。

 こんなものは、成就ではない。


(了)