成就 2

 死んだ魚の目をしていた。
 何も見ていない。当然私のことなどは。
 私は、こんな結果が欲しかったのだろうか。

 怒り狂うかと思った。殺されても構うまいと思った。
 それも出来ないほどショックだったか? そうではない。
 彼はきっと何かに気付いて、絶望して、或いは呆れて、瞼を開けたまま目を閉ざしたのだ。
 そんな目をされるよりは、殺されたほうが、余程ましだろう。

 暗闇に煌めく彼の真っ赤な瞳を見るたびに、私はそれに惹かれてきた。
 敢えて言う、惹かれてきた、綺麗な感情ではないけれど。
 慈しみたいとは思わない。毟り取って、一人眺めて悦に入りたい、ただ、その眼球から糸引く視神経を、千切り取ったときに私はもう興味を失うかも知れないが。

 半年ばかり前からか、私は私がよく解らなくなってしまった。
 解りたくなかったというのではない、本当に、解らなかった。
 胸が苦しい。騒騒する。苛苛する。お利口な人間だったらこれを恋だとでも思ったのかも。
 生憎私はそこまで真っ当な人間ではない、これは、そんなものではない。

 その赤い瞳が彼のものであって、暗く煌めく生きたものであって、その上で私一人手に入れて眺め暮らすにはどうすればいいのだろう。
 この欲望は歪んでいるだろうか。叶わない捩れた欲。
 何故かと自分に問うことはしなかった。たとえ辿ったところで私の内側は何処までも空虚、何かに行き着くとは到底思えなかったし、行き着いたとしてもたかが知れている。
 彼を犯す想像に耽った。
 私は異様に欲情した。
 苦笑とも自嘲とも言える笑いが洩れてしまう、私だって、所詮猿のように単純だ。

 男と寝たことがないとは言わない。
 きっと、そうしようと思えば、彼を抱くことなんて簡単なんだ。
 あの男は私に対して警戒心がなさ過ぎる。
 どうせ、こんなにも相反しているのに、何処かで確かに理解し合える、唯一無二の存在だとでも思っているのだ、私のことを。
 夢を見すぎだ。私はただの人殺し。
 この凍り付いた心にあるのはただ、なるものはなるべくようになれと思う、信念、私の知るただひとつの愛の形。

 簡単なんだ。
 簡単なんだ、だがそうしたところで、何かが変わるのか?
 私は私がよく解らない、だから、忘れた。それが、半年前。

 折角忘れてやったのに、自分からのこのこと、このテリトリーに踏み込んできた、馬鹿は、おまえだ。




「気持ちいいだろう? ブラック・ジャック先生」
「は…」
「無理をするなよ」

 リビングルームの床で、強引に犯した。
 その身体を背中から腕に抱いてみたら、思った以上に細くて、なんだか哀れみのようなものを覚えた。
 ゆっくりと引き起こした彼は、抵抗もしなかった、抵抗どころか、悪罵のひとつも。
 ただ、頬に乾いた涙の痕と、死んだ魚の目が。
 なるべく優しくはならないように、彼の身体を引きずって、バスルームに向かった。
 服を総て脱がせても、彼はまるで人形みたいに、私にされるがままだった。
 尻から私の精液を垂らし、呆然と、何も見ない目で何処かを見詰めている。
 男と寝たことがないとは言わないが、犯したことはなかった、これは、男に犯された男の普通の反応なのだろうか? よく知らない。
 広いバスタブに湯を張って、先に自分が入り、彼の冷えた身体を引っ張り込んだ。そう言えば、窓の外には雪が降っていたっけ、冷えるはずだ。雪。真っ黒な空にちらちらと光る氷の結晶、気付けば重く降り積もる。
 彼を背中からぴったりと抱き寄せて、二の腕や脇腹の肌を暖めるように擦った。さすがに緊張して強張る身体から、少しは力が抜けるまで、その無数に走る傷痕を、丁寧になぞる。
「ウ…」
「脚を開いて。出しちまわないと気持ち悪いだろう? もう痛いことはしないから」
「あ、」
「そう、力を抜けよ」
 抱き寄せた彼の首筋から、頬に触れる髪から、湯気に合わせて彼の匂いが立ち上る。欲情、欲情か、そうだ、それ以外の何があるか。フォローをするつもりなど全くない、私は正確な表現で自分の状況を述べたし、嫌われようが恨まれようが殺されようが、どうでもいいと、本当にそう思っている。
 太腿から尻にてのひらを滑らせて、生ぬるい湯の中、彼の肛門に指先を押し入れる。私がつい先程そこに注ぎ込んだ精液の所為で、私の指先はぬるりと抵抗なく飲み込まれていく。
「…リコ」
「出すだけだ」
 厭がればいいのに。
 厭がって、暴れて、あのぎらぎらと煌めく真っ赤な目で、私を睨み上げればいいのに。
 私の惹かれた、真っ赤な瞳で。そうすれば私は。
 もう、その気力もないのだろうか、それとも。
 私の存在は、彼の中で、既に抹消されてしまったか。
「ふ…」
 自分の精液を掻き出す、その指で、前立腺に当たるあたりを、軽く擦った。
 私の上に投げ出した身体を、びくんと引きつらせて、彼が淡い声を上げた。
 その声。
 ぞくりと汚らしい欲が疼く。私は、ここまで彼を汚しても、まだ足りないか、獣のように、まだ彼に残酷な欲を抱くか、穢したいか。
 自分で自分が可笑しくなる。己の救いのなさに、反吐が出るほど可愛らしくはないが。
「動くな。余計に裂けるぜ」
「は、あ」
 自分が何をされているか、されようとしているか、判っているはずなのに、彼は抵抗らしい抵抗をしなかった。壊れてしまったか、この純潔なる魂、血色の瞳を腐らせたのは、私だ。
 私が手に入れたかった、真っ赤な煌めきは、消えてしまった。
 私は後悔するか、まさかそんなもの。
 私のこの手で殺した、水から引き揚げた魚のように、精々その事実に乾いた笑みが洩れるだけ。
「声を出してご覧。また酷い目に遭いたくなけりゃ」
「ど…して、」
「おまえの、はしたない姿を見たいのさ、言っただろう? 犯したいんだ」
「も…、」
「痛いことはしねエよ、おまえに、飛び切りに恥ずかしい思いをさせたいだけ」
「ああ…そ、んな、」
 彼の熱い内部から、ぬかるんだ自分の精液を掻き出してしまうと、今度は明らかに意図的に、その場所をぐいと押し上げた。もう片方の手で、初めて触れた彼の性器は、快楽の欠片もないのに、生理的にぴくりと反応した。
 乱れた髪に半ば隠れた耳朶を噛みながら、ゆっくりと扱く。内側から刺激して、この状況で、勃起するはずもない性器を無理矢理に目覚めさせる。
「は…、」
「逆らうなよ、段々気持ちよくなる」
「おまえは…馬鹿だ」
 何を今更。
 浮力で軽い身体を抱き込み、髪の生え際に舌を這わせる。耐えきれずに細かく震え出す肌、両手で男の股間を弄って、味わう最高級のくだらなさ。

 私は馬鹿だ。
 そう、馬鹿は、私だ。間違えようもない、私のほうだ。





 彼は、あからさまに、傷付いた顔をした。
 あのときも、あのときも、彼は何度も傷付いた。それでも、今夜の彼ほど傷付いた彼を見たのは初めてだ。
 苛々すると、私が言ったとき。
 私は多分、少しの余裕もない姿をしていただろうから。

 彼は私に、子供じみた夢を見ていた、それは知っている。
 暗く穿たれた漆黒の穴、覗き込むと見えるのは無限大。彼が見ていたのはそのまやかしの無限大で、私はその穴の底、限界にたゆたっていた。
 彼は、彼と私が同じものを見ていると信じていただろう。
 違う。
 私の姿は彼には見えず、彼の姿は私に見える、ただ、そう言うこと。
 それでも、いや、だからこそ、私はその煌めく赤い瞳に惹かれた、或いは、夢を見た。
 同じか。
 私と彼は、互いに夢を見ていた、子供じみた、馬鹿げた、救いようのない、夢。
 もっと、もっと、もっと、堕ちて、堕ちて、堕ちて、私の姿をその、真っ赤な目で見て欲しかった。
 誰でも良かったわけではない。誰にでも出来ることではない。
 一番近い場所にいたのは、彼、彼だけ、熱い炎の如き闇を抱いた命、決して混じり合えずとも、この儚い世界の底辺で、くっきりとした輪郭を、確かにふたり目に焼き付けて。
 夢。
 夢か。馬鹿馬鹿しい。私もおまえも、愚かだ、どうしようもなく。





 肛門に差し入れた指で刺激しながら、丁寧に時間をかけて、彼の性器を愛撫した。
 バスタブの中、私に背を預け、彼は面白いほど思い通りに、きっちり勃起した。
 まやかしの快楽だろうが、男の身体など単純だ。誰にされているかなど関係ない、直線的な欲。

 気持ちいいだろう? ブラック・ジャック先生。
 無理をするなよ。

 耳元に囁きながら、昂らせて、焦らして、最後に射精させた。彼は、継ぎ接ぎだらけの肌を上気させながら、私の腕の中で、掠れた声を上げて達した。
 男と寝たことなどないと言った。こうして男の手に精液を吐き出すのも初めて? 薄汚い満足、おまえは、自分を犯した男にいかされたんだ、いい加減に夢も覚めたろう、そう、私達、互いに。
 ふらつく腰を支えて、立ち上がらせた彼の顔を覗き込む。
 怒りや羞恥があればいいと思ったが、やはり変わらぬ、死んだ魚の目。
 タオルで適当に身体の水気を拭いてやり、バスローブを被せて、ベッドルームに引きずった。彼は相変わらず、抵抗もしなかったし、文句のひとつも口にしなかった。
 何もかもを諦めた、その姿は、そう言っているような気がした。
 半年前と同じ、私は未だに、自分がよく解らなかった。私が望んでいたのは、こんな結果だったか、これで良かったか、こうしたかったか。
 曇り空のように、濁った赤い瞳、煌めきのないガラス玉。
 私は、殺されても構うまいと思ったのだ。
 何が叶えば? 何を満たせば? 殺されても構うまいと、思うほどに私は何を欲した?
 彼を犯すことか。それだけか。
 違う。ただ、解らなかった、解らなかったから、忘れようと。

「暫く寝ていけ。暫く寝て、落ち着いたら、勝手に帰りな」
「…」
「帰りがけに、おれにメスの一本や二本、食らわせていってくれても良いぜ、どうせ死に損ないだからな」
「…おまえは、馬鹿だ、キリコ」
 ベッドへ軽く背を押してやると、彼は少し蹌踉めきながら数歩歩き、立ち止まった。憔悴しきった声が、何度目かの言葉を呟いた。
 肩を落とし、だらりと両腕を垂らしたままの彼が、大して広くもないベッドルームをぼんやりと見回す。
 窓際のデスクに、ガラスの灰皿、飲みかけの薬剤のシート、あとは古い、背の高い本棚が、ひとつだけ。
 順番に視界に収めて、ふと、本棚で彼の目が止まった。
 本の一冊もない本棚で。
「…誰が?」
「おれ以外の誰がいる?」
「…見ても良いか」
「おまえ、つい今し方、おれに力尽くでやられちまったのよ、わざわざ礼儀を通すなよ」
「ああ…」
 言われて気付いた、と言うように、彼はのろのろと手を伸ばした。
 本の代わりに古い本棚に、ぎっしり詰まっている、スケッチブックへ。
 指先を少し迷わせてから、棚の真ん中あたりから一冊、引き抜いた。最初は何故か恐る恐るというように、彼はそっとスケッチブックを開いた。
 グロテスクな死体の絵でも描いてあると思ったか、或いは気の狂いそうな抽象画とか? 開いたスケッチブックの中身が、意外に普通のものだったからか、彼はちらりと私を見やり、それからぱらぱらとページを捲った。
 光のない目。
 それでも、私に向けられた、目。
「…人物画」
「少なくとも風景画じゃあないね」
「誰なんだ」
「おれの愛した人間達だよ、笑わせるだろう?」
 老若男女、てんでばらばら、統一性はまるでない。
 彼等の繋がりは、私という一点のみ、或いはもっと大きな意思のもと。
「…巧いな」
「おれは器用なんだ」
「それで、誰なんだ?」
「だから、おれの愛した人間達だよ」
 一冊、始めから終わりまで丁寧に眺めたあと、彼は、本棚の少し離れた場所からもう一冊、スケッチブックを取った。
 一冊目と同じようにそっとページを捲っていた手が、不意に、ある一枚で、止まった。
 さてそのページは誰の顔か、あの男か、あの女か、それとも、私の不幸な父親か。
 何の期待もしていない、この憂き世、希望という戯れ言は聞き飽きた。ぐるぐる回る時計の針さえ、勝手に刻んだ我々の罪と罰。
 何も必要ないんだ。
 何も欲しくなど無いんだ。
 ただ、その赤い目が、煌めく真っ赤な瞳が。
 私が記憶を紙に描き付けるように。

 嘘吐き。
 解らないなんて。

「…ッ」
 死人のようだった彼の横顔に、なにがしかの感情が湧いたのを見た。
 彼は、その一冊をベッドに置くと、本棚の上から下から、アトランダムにスケッチブックを引っ張り出しては、焦る手付きでページを捲った。
 そんなことで、そうも動揺するか?
 いっそ、乱暴に襟を掴み上げて、私が彼に劣情を告げたときよりも。
「何故…ッ」
「何故? 心外だねえ。おれが絵を描くのはそんなに変か?」
「おまえは…、だって…」
「せめてもの愛の証に、記憶を記録にしただけよ」
「…おまえは、だって、おれと、同じものなど…ッ」
 両手に抱いたスケッチブック、その彼の腕がかたかたと震えて見えた。何に衝撃を受けているのかよく判らない。まさか壊れた夢がまた形を成したとか?
 皮肉のひとつも言おうと視線を上げて、しかしそこで、今度は、私が固まった。
 彼の、死んだ魚の目が。
 澱みを落とすように、ざっと涙を滴らせ、私が知り、私が欲した、あの煌めきを。
「畜生…」
 きらきらと濡れた目で私を見詰め、彼が初めて、漸く初めて、私にされた行為に相応しいような言葉を吐いた。
 抱えたスケッチブックをベットに散らし、大股で私に歩み寄った。私の胸倉を掴み、思い切り、私の左頬を、殴った。
 避けようと思えば、避けられたろう、簡単に。だが、私は、彼の煌めく真っ赤な瞳に、零れ落ちる涙に気を取られ、避けようと思い付きすらしなかった。
「…ってエ」
「馬鹿野郎ッ」胸倉を掴んだ手を放し、私の身体を押しのけて、彼はベッドルームのドアに向かった。「犯す前に口説け、おまえの何処が器用なんだ、馬鹿野郎!」
 何かの言葉を返す前に、ばたんとドアが荒々しく閉まった。
 彼がばたばたと廊下を走り去っていく足音が聞こえた。
 殴られた頬が、ずきずきと痛む。
 口の中を噛み切ったらしく、血の味がする。
「…ふふ」
 犯す前に口説け、だって?


 私は、どんな結果が欲しかったのだろう。
 殺されても構うまい、ああ、構うまい。
 私はきっと、くだらない夢を見ていた、実にくだらない、そしてまた。

 ただその赤く煌めく瞳に、くっきりと色濃く映りたいだけなんだ、本当の姿で。
 解っているくせに、私はストリッパー、誰よりも誰よりも、他の誰にも真似できない。

 こんなものは、成就ではない。
 成就ではない、けれど。


(了)