出会う運命なのだと言った、彼の声を思い出す。
あれは初めて彼に抱かれた日、コンサートホール、窮屈な車の後部座席で、犯されたのだとは今更言わない。
二度目は海辺の別荘で、時間をかけて、厭と言うほど。
今でもあれは策略だったと思っているが、そんなことは、もうどうでもいい。
長く続いていた他の男との関係を切って、三度目は自分から求めて、肌を合わせた。
何度となく拒絶した口付けを、許したのも、三度目に抱かれた夜。
許した? いや、やはり求めたというべきか。
そうしたら彼はにっこりと笑って、触れるだけの、天使の羽のようなキスをした。
違う。
舌を噛み合い、唾液を啜り合うような、口付けをしたかったんだ。
出会う運命なのだと言った、彼の声を思い出す。
そんなものなど信じていないが、この不在は耐え難い。
雨の夜、病院の傍のホテルで、抱き合った三度目のあの日から、何箇月。
恋だとか愛だとかではない、欲しいものは欲しい、子供のような、執着。
だとは思うけれど。
何故彼を前にすると、鼓動が高鳴るのか。
愛おしいと囁いた彼の真意が見えない。
唇の上を、掠めるだけの口付け。
あれほど執拗に求めておいて、最後にはぐらかされたような。
出会う運命なのだと言った、彼の声を思い出す。
だったらそろそろまた、出会えている頃じゃないか?
自分に対する言い訳だったら、幾つだって思い付く。
だが、もう要らない。あの男と切れたときに、もう決めた。彼だけだと。
心も身体も、彼にしか開かない、開けない。
まず、連絡先というものを、全く知らなかった。
あの死神は風来坊で、一所にとどまっていたためしがないという。
それでも稼業が稼業だ、クライアントからの依頼は、何か一般的な手段で受けているはず。
何人もの知人にあたって、漸く手に入れたアドレスに、メールを送ったのは確か、三日前。
正直、信憑性には欠ける。
半分の諦め、半分の期待、だから三日経ち、受信ボックスに届いた返信を目にして、ブラック・ジャックは思わず、喉を鳴らした。
いた。
つかまえた。
マウスを握る手が指先から冷えるよう。
送りつけたメールには、ただ一言、サファイアを見たい、と書いた。本人以外が読んでもさっぱり意味が判らないだろう。
自分から手を伸ばすのは、しゃくだった。
自分ばかりが夢中になっているみたい。
だが、それでも良い、彼に会いたい、見苦しくても構うまい、もう既に、散々に見苦しい。
勝手に震える指で、彼からの返信を開く。
そこには一行だけ、異国のホテルの名が。
「…クソッタレ」
ブラック・ジャックはひとつ舌打ちをしてから、立ち上がり、慌ただしくコートを手に取った。パソコンの電源を落とし、鞄を引っ掴み、居間にいるはずの娘に向かって大声で言う。
「急患だ、でかける! 留守番頼む」
「ちょっと、先生!」
一緒に行くだとか、浮気でしょだとか、わあわあ喚いている娘を残して、家を出た。そうだ、浮気に行くんだ、一緒に来られたらたまらない。
車のエンジンをかけ、思い切りよくアクセルを踏む。
まだ飛行機はある時間。
どうせあの男のことだ、これを逃したら、また何処かに雲隠れしてしまう。
そうだ、欲しいと言えば、くれると言った。
あの日、あの雨の夜。
ならば、くれ。サファイアの右目だけではなく、その心も、身体も、何もかも。
血の通ったおまえを、私に、くれ。
飛行機で約五時間。
空港の目の前にあるホテルで名を告げたら、部屋ではなく、最上階のスカイラウンジに案内された。
目の眩みそうな夜景、窓際のテーブルに、彼がいた。
ソファに深く腰掛けた彼が振り向く前に、ブラック・ジャックは小さく深呼吸をした。ジャズの生演奏が低く流れるラウンジで、彼はテーブルにロックグラスを置き、物憂げに窓の外を眺めていた。
淡い照明を青く跳ね返す銀髪は、数ヶ月前より少し伸びたか。
冬の海みたいな暗いブルーのスーツ、長い足を組んで、嫌味なほどに絵になる男。
ドクター・キリコ。
夜の窓ガラスに映る、端正な顔が、こちらを見た。
ゆっくりと振り返り、その薄い唇が笑みを浮かべた。
「こんばんは、ブラック・ジャック先生。早かったですね」
「…バラライカ」
立ち去るホテルマンにコートを渡し、酒を頼んだ。窓に向かい、彼と九十度の角度に置かれたソファに腰を下ろした。
視線を感じる。何故か、目をそらしたら負けだと思い、じっと見返す。
爪先から感触がなくなっていくみたい、心臓ばかりがどくどくと脈打って、耳に鼓動が煩い、それでも、彼の声は身体の内側を浸すように、よく響いた。
低くて、甘い、感情のない、声。
ぞくりと肌を震わせたのは、三度の、気も触れるような交歓の記憶。
「用件は何ですか?」数箇月の別離のあとの、唐突なメール、何を言わずともこちらの気持ちなどは大方判っているだろうに、彼は、薄く笑みを敷いたまま、そう訊ねた。「私があなたからの連絡に返事をしたのは、今日ですよ。よくもまあ、この時間に来られましたね。余程急いできたのでしょう」
「ああ、そうだ、急いだよ」
「用件をどうぞ。あなたの頼みならば聞きましょう?」
「会いたかっただけさ」
「おやおや、それはそれは」
右手を肩のあたりで開き、左手で胸を押さえる、大仰な仕草。やっぱり嫌味だ。
背中からテーブルに運ばれた、カクテルグラスに口を付け、ブラック・ジャックは上目使いにじろりと睨んだ。切れ長の右目を細め、彼は意にも介さないように、笑みを深めた。
感情を見せない、鋭利な美貌が憎たらしい。
この男には、感情だとか、欲だとかが、果たして存在しているのだろうか、例えば、会いたいだとか、口付けたいだとか、誰かが欲しい、抱き合いたいだとか。
自分ばかりが求めているのかも知れない。
初めて抱かれたときは、彼の気紛れ、二回目は、計略、三回目は、ただ誘われたから、乗っただけ。三回目のあの夜には、彼は一度も、口付けていいかと訊かなかった。それまでは、しつこいくらいに繰り返されたのに。
堕ちた、と。
だからもう良いと、そういう理由か。
「ねえ先生、あなた、どう思います?」
睨み付けるブラック・ジャックに構わず、彼は言った。右手の指先で、ロックグラスを軽く弾く。
「アメリカ人が作ったらしいですよ、このカクテル。太平洋戦争の時に。私は特に何処の国を好きとも嫌いとも思いませんが、そのセンスは、さすがにね」
「カミカゼ?」
「そう」
「少なくとも私は頼まない」
「ライムとレモンの違いだけじゃありません? あなたの頼んだそれと」
「私は戦争は嫌いなんだ」
「そう」
弾いた指にグラスを掴んで、彼は、残っていた酒を空けた。それから、見つめるブラック・ジャックの目の前に、不意に左手をかざし、部屋のキーを鳴らした。
「私だって、戦争は嫌いですよ」
「…」
立ち上がった彼に合わせて、ソファを立つ。
神風。
彼は自分に何を見ているのだろう、と思う。何が言いたい。
私は狂気の中で死に向かう風に見えるのだろうか?
会いたかったと、言ってはくれないか。
愚かな小鳥のようだ、とあの夜、彼に言われた。
愚かしくて愛おしい小鳥のようだ、骨まで食らってしまうかも知れない、と。
出会うことが運命だったと言うのなら、こうして惹かれることもまた運命だったのか。
おまえだけだ、と答えた。
愚かだとは自分でも思う。
自分が彼に何を見ているのか、よく判らない。
ただ、この立ち位置に、到達するのは少なくとも彼だけだ、とは思う。
傷を舐め合いたいわけではない、むしろ傷付け合うほうが余程良い。
ただ、そう、この神風のような、鋭い切っ先に。
触れて弄って欲しい、無数の傷の、一番深い、一番惨い所まで。
先にシャワーを浴びて、彼がバスルームから出てくるのを待った。
大きな窓ガラスの枠に両手をつき、煌めく夜景を見下ろす。
抱かれに来たんだ、とブラック・ジャックは思った。
メールを出して、車を飛ばして、飛行機に乗って? 即物的な。
まだ胸の高鳴りがおさまらない、これは恋とは違うのだろうか、違うのだろう、けれど。
小さな光の点が無数に散らばっている。その光を必死に守ろうとしたって、一陣の風が吹けば簡単に消えてしまう。
神風を呼ぶのはおまえではないのか。
飛び立つ風を、無言で見送るのは。その風を受けるのは。
シャワーの音がやみ、暫くして、バスルームのドアが開く音がした。自然に振り返ればいいのに、どきりと心臓が脈打って、身体が強ばった。
「良い眺めだ」
窓ガラスを鏡にして、近付いてくる彼の姿が見えた。
揃いのバスローブ、眼帯はしていなかったが、左目は濡れた髪に隠されている。
「ああ」
「あなたのことですよ、ブラック・ジャック先生」ぴったり背後に寄り添った、彼の体温を感じた。「真っ白な顔をして、何を緊張しているんです? 私達、もう三度も愛し合っているんですよ」
「…だから、そういう言い方をするな」
「おや、今度は赤くなりましたね」
窓枠についた両手の甲から、彼の両手が重なった。暗闇のコンサートホールで、そう、あの場所で、そうされたように、指の間に彼の長い指が入り込む。
窓ガラスに映る、彼と目が合った。背中から覆い被さる、長身の男、青みがかった灰色の瞳は、ひとつだけ。
伝わる彼の気配に、ぞくりと鳥肌が立つ。何箇月だ、待ち続けた彼が、生身の彼が、今、ここにいる。
「ねえ、先生。ご用件は?」
「…言ったじゃないか。会いたかったんだ」
「それだけ?」
「…」
「私と会えれば、それで満足なんですか? あなたは」
「…、」
組み合う指を、擦り合わせるように愛撫され、それだけ、たったそれだけで、僅かに吐息が乱れた。
ひんやりと濡れた彼の髪が素肌を掠め、うなじに、乾いた彼の唇が触れる。咄嗟に窓枠に爪を立てた指から彼の指が離れ、そのてのひらは当然のように、腕を伝い、バスローブの胸元に忍び込んだ。
「は…、」
「こういうふうに、して欲しいんじゃないですか?」
「キリコ」
彼の名を呼ぶ自分の声が、あっという間に、蕩けたのが判った。
そうだ。
ああ、違う、そうじゃない、その前に。
もっと深い口付けを、まるで恋人たちが交わすような。
舌を噛み合い、唾液を啜り合う、深い口付けを。触れるだけのキスでは、足りない。
足りないんだ、手に入らないんだ。
「ねえ、先生。二度目に愛し合ったときのことを覚えていますか?」
「ああ…」
「あのときもあなたと私、こうやって、夜の窓に映っていましたよね」
「ああ…そうだ…」
「私、総てを覚えているんですよ。あなたがどんな表情をしたか、あなたがどんな声を出したか」
「…」
「抱き合ったときのことだけじゃない。あなたと初めて出会ったときから、今このときまでの、あなたの総てを覚えているんです」
「…ん、」
片手で胸を撫で回され、思わず目を瞑る。もう片方の手は、肩だの腰だの、好き勝手にさすり上げている。
初めて出会ったときのこと? ああ、覚えている。運命なんて信じない、信じないけれど。
まるで自分の影を見たような気がした、或いはその逆。決して逃れることは出来ない、空でも飛ばない限りは。
神風か。
「あ…」
左の乳首を摘み上げられて、びくんと身体が震えた。ゆっくりと揉まれ、爪を立てられて、もう乱れる呼吸を隠すことも出来ない。
そうだ、ずっと触れたかった、彼を感じたかった。彼を知ってしまった今では、他の誰をも受け付けない。
ただこうして身体を密着させ、指先で弄ばれているだけなのに、この圧倒的な感覚はなんだろう、肉体的快楽ではあるが、それだけでは決してあり得ない何かが、足下からじわじわと溜まっていく。押し流される。
「あなた。愚かな小鳥のようですね」耳の裏側に舌を這わせ、彼は、いつだかも言ったような言葉を囁いた。「辿り着けない場所に向かって、まっすぐに飛んで、飛び続けられずに私の手の中に堕ちてくる。カミカゼだ。とても愚かで、愛おしいです。私のことが、好きなんですか?」
「ウ…、」
「私のことが好きですか? それとも、私に愛されたいですか」
「アッ」
片手で乳首を擦りながら、もう片方の手でさらりと、バスローブ越しに股間を撫でられ、高い声が出た。座り込んでしまえば楽なのに、窓際に背中から追いつめられて、そうも出来ない。
股間を撫でた手は、素っ気なくその場所を離れ、腰や腹で焦らすように遊んだ。
「ねえ、私のことが、好きなんですか? 先生」
「…しい、」
ごくりと喉を鳴らしてから、掠れた声で言った。
「おまえが、欲しい」
「…愛おしいですよ」
くく、と低い笑い声が聞こえ、そのまま耳朶を噛まれた。脇腹のあたりを辿っていた手が、股間に戻り、柔らかく性器を掴んだ。
それだけで、達しそうになった。
「はあ…ッ」
「もう、こんなになっていますよ」ふ、と耳孔に息を吹き込まれ、肌の戦慄きが止まらなくなる。「私が欲しいですか、先生。可愛らしい人だ。あなたは欲しいものばかり、他人に何かを与えるなんてこと、考えたりはしないのですか?」
「畜生…」
「愛おしい、実に愛おしいです。欲張りなあなたに、私が手に入れられるかな?」
「あ、キリコ、」
片手がそのまま上に伸び、バスローブの紐を解かれるのが判った。素肌を晒される頼りない感じ、ガラス一枚、隔てた向こうは何十階も下の夜の街。
それでも身体が熱い。
「私も、あなたが欲しいですよ」
「…ッ」
耳に直接囁かれ、ブラック・ジャックは、ぎゅっときつく閉じた瞼を、ただ震わせた。
辿り着けない場所とは何処のことなのだろう、と、眩む意識の片隅で思う。
天国、もしくは地獄行きの片道切符、狂気を孕み、まっすぐに。
神風が吹く。
力尽きた先が彼の手の中ならば、それでも良いか、とも思う。堕ちても良いか。
いや、もうとうに堕ちているのか。
私が。私だけが。
鈍く光る鎌の先、サファイアの目を暗く煌めかせて、死神が笑っている。
目を開けて、と何度も囁かれた。
言われるがままに震える瞼を上げ、そのたびに、夜の窓ガラスに映る自分と、それに絡みつく彼の姿が目に入り、たまらなくなった。
羞恥と、興奮。
確かに今、自分と彼は、接触している。
「ほら、目を開けて、先生」
また、いつの間にか目を閉じていたブラック・ジャックは、背中を抱く男に甘く命令され、拒むことさえ思い付かずに、薄く目を開いた。
バスローブは肩から落とされ、全裸だった。
一方、背後にぴったりと寄り添う彼は、バスローブをはだけてもいなかった。
これはセックスなのか、それとも弄ばれているだけなのか。考える力も、もう残っていない。
「ご覧なさい、今にもいってしまいそうだ」
彼は、後ろから伸ばした指に性器を掴み、ゆっくりと撫で上げながら、耳元に吹き込んだ。きらきらと輝く夜景に、ふしだらな自分の姿が重なっている。
傷跡だらけの肌を赤く染め、男の手で股間をまさぐられ、発情している。
彼に擦られる性器の先端が、猥らに濡れている。彼の言うとおり、今にも達してしまいそう。
「もう…もう辛い…」
乱れた呼吸の合間に言うと、くすくすと低く笑う、彼の声が聞こえた。
「あなたはとても感じやすいですね、初めて愛し合ったときから。憎たらしいことだ。一体何処の誰に、こんな身体にされてしまったのでしょうね」
「おまえの、所為だ…ッ」
「私の所為で、こうなっているんですか?」
「そ…だ、おまえの…」
「私でないと、こんなに感じない?」
「おまえだけだ…」
「本当かな」指の腹で先端を撫で回されて、思わずまた目を閉じてしまう。瞼を降ろす瞬間に見た彼の顔は、窓を鏡にして、薄笑みを浮かべていた。「ねえ、先生。恋人同士だって、こんな会話はあまりしませんよ。愛おしいことだ。あなたは快楽に、とても弱いですね」
「ふ…」
クソッタレ。
リズミカルに性器を刺激されて、彼の肩に頭を擦りつけ、のけぞって喘ぐ。立っているのが辛い、かと言って座り込むことも出来ない、彼の手から糸の伸びた、操り人形みたい。
徐々に力を増す彼の指先に、上擦った声を洩らした。
「キリコ…も、いく」
「いいですよ、一度いっておしまいなさい、辛そうだ」
「あ…駄目だ、来る、もう…ッ」
「さあ、出して」
「ああ…ッ」
促されるままに、ブラック・ジャックは、彼のてのひらに精を吐いた。その瞬間に、彼が軽く噛み付いた肩の痛みが、神経を焼くようだった。
窓際に立たされたまま、絶頂を味わう。膝ががたがたと震えて、衝撃が身体中に散る。
「はあ…、は…」
「このまま、ここでいいですか? それともベッド?」
「ベッド…」
快楽の極みが去る間も待たずに、低く問いかけられて、咄嗟に答えた。答えた一瞬のあとには、彼の腕に軽々と抱え上げられていて、抗う余裕などは勿論なかった。
見せつけられる力、思い知らされる欲。身体が達してもまだ足りない、彼が欲しい、彼と繋がってしまいたい。
そうだ、それから、深い口付けを。
舌を噛み合い、唾液を啜り合うような、深い口付けを。
「は…」
丁寧にシーツの上に降ろされて、漸く、少し落ち着いた。ブラック・ジャックが呼吸を整えている間に、彼は洗面台から、備え付けのスキンローションを盗んできた。
「…リコ、」
「はい?」
「脱げよ…。私、だけ、」
私だけ、裸にさせるのは、ずるいじゃないか。
彼は、無表情のまま暫くこちらを見下ろしたあと、にっこりと笑って、バスローブの紐に手をかけた。にっこりと笑ったところで、彼の顔は鋭利に過ぎて、少しも優しそうではないし、穏やかそうでもないが。
彼の放ったローションの瓶が、シーツの上を転がって、脇腹のあたりに触れた。冷たい。一瞬そちらに目をそらし、再度見上げた目の前で、彼はゆっくりとバスローブを床に落とした。
「…、」
無自覚に喉を鳴らしたのは、浅ましいか、それとも怖いのか。
彼の股間で隆々と屹立している性器は、記憶のそれよりも、太くて、長い。
「私もつい、こんなになってしまいました」無造作にシーツに乗り上げながら、彼は言った。「あなたがあまりにも、いい表情をするものだから。早くあなたの中に入りたいです。まるで私、餓えているみたいね」
「キリコ」
「あなたが私に会いたかったと仰るから言いますけど、私もあなたに会いたかったですよ、本当に」
「キリコ」
「判るかなあ。とても愛おしいのです」
「…」
判らない。
会いに来なかったくせに。
まるで重さを感じさせないように彼は覆い被さってきて、首筋に、鎖骨に、胸に、なぞるようなキスを降らせた。少し落ち着いていた身体が、あっという間に反応した。彼の熱い性器が太腿に触れ、つられるように自分も興奮する。
乳首を軽く吸い上げたあと、彼は身を起こし、シーツの上に転がっていたローションの瓶を手に取った。「脚を開いて」
「…ウ、」
前にもこんなふうに、言われたことがあるなと、うっすら記憶が蘇った。あのときも思った、恥じらって見せても仕方がないと。
膝を立てて脚を左右に開く。さすがに目を開けてはいられない。
「そう、両脚を、自分の手で押さえてください」
「あ、」
「私に向かって、突き出すようにして。今日はジェルじゃなくてローションだから、流れてしまいますよ」
「キリコ…ッ」
少し粘性のある、ひんやりとした液体に濡れた彼の手が、尻に触れた。ローションを狭間に塗りつけるようにしてから、長い指が一本、ぬるりと中に入ってくる。
「結構開いていますね、上手に準備できましたね」
「アッ」
「これならば、あと二本入れてしまいましょう、力を抜いていて」
「ん…ッ! は、」
一度入り込んだ彼の指が抜け、いきなり、三本の指を押し込まれた。強引だとは感じなかったが、急に嵩を増した違和感に、鳥肌が立った。
確かに準備はしたが、もう何箇月も、誰をもその場所で受け入れてはいない。
「これでも、私のものよりは細いですよ」内部で指を開くようにして、後孔を拡げながら、彼は淡々と言った。「ああ、もう私、入ってしまいます。すみません、我慢できない」
「アアッ」
手首をひねり、尻に突き刺した指でローションを塗り込めてしまうと、彼は、その指を一気に引き抜いた。ずるりと抜き出される感触に声を上げ、身をよじらせた脚を、ぐっと胸に押さえ込まれ、思わず身体が強ばった。
「キリコ…ッ」
「さあ、あなたと私、愛し合いましょう」
唇を引き上げて言った彼の前髪の隙間、見え隠れする、サファイアの目が。
神風は、何を思って空を翔たのだろう。
私ならばその風を止めるか、或いは、彼ならば。
愚かしい小鳥。そうかも知れない。
愛おしい小鳥。そうかも知れない。
せめて堕ちる先が、おまえのてのひらでありますように。
見つめるサファイアの目が、冷たく暗く、煌めきますように。
猛った先端を押し付けられ、反射的に逃げようとしても、脚をがっちりと固定されていて、身動きは出来なかった。
皮膚を突き破られるような、はじめの抵抗を力でねじ伏せられてしまうと、もうどうしようもない。
「アッ…、ア、無理…だ、」
「大丈夫、私達、もう三度も愛し合ったでしょう?」
低い、甘やかな声で宥めながらも、彼は侵入をやめようとはしなかった。少しずつ確実に、太い性器が食い込んでくる。
張り出した先端を埋めてしまうと、あとは腰を使って、大胆に根本まで打ち込んできた。掠れた悲鳴が、勝手に唇から散った。
痛いとか、苦しいとか言うよりも、ただもう、熱い。焼けた鉄の杭を刺されるよう、尻から喉まで貫かれるよう。
ああそうだ、と霞む意識で思い出す。あのときも、あのときも、あのときも、こうだった。他の誰も侵入したことのない場所まで拡げられ、快楽と苦痛の境目、ぎりぎりまで追い詰められて、彼以外は見えなくなる。
「先生、もう少し弛めて」彼の声は直接、身体の中に響いた。「と言っても、あなた、あまり弛まないんですよね。困ったなあ。こんなにぴっちり貼り付いて、このまま擦られたら辛いでしょうに」
「…て、擦って、くれよ」
「あとで泣き言を言っても聞きませんよ」
「はやく…」
「じゃあ、出来るだけ開いて、上手に受け入れてくださいね」
「アッ」
言うなり、彼はいきなり大きな振り幅で、まだ慣れない圧迫感にひくついている後孔を、犯し始めた。ブラック・ジャックは音にならない声を上げ、その衝撃を、受け止めるしかなかった。
先端まで引き抜かれ、また一気に根元まで押し込まれる。ローションに濡れ、熟れた内壁が、太い肉棒に擦り上げられて、ぐちゃぐちゃと音を立てる。
キチガイ沙汰だ、と思う。最初に抱かれたときも、次に抱かれたときも、その次に抱かれたときも、同じようにそう思った。キチガイ沙汰だ、この快楽は何だろう。こうして彼と繋がっていると意識するだけで、あっという間に正気が飛ぶ。
こうして欲しかったんだ、ああ、こうして欲しかったんだ。
それから。
それから。
「気持ちがいい」
深い場所で揺すり上げながら、彼が淡々と言った。この男は、興奮して声を乱すということがないのだろうか。
押さえる脚は彼に預け、他にはどうしようもなくて、シーツの海を両手で掻きむしる。
「とても気持ちがいいです。あなたの中はびくびくと震えていて、私に必死でしがみついてくるようだ」
「…リ、コ、あ…ッ」
「私のことが、好きなんでしょう? 好きでもない男に抱かれたって、あなた、こんなふうにはならないですよね」
「はあ…ッ、あ、大き…す、ぎる」
「生憎私、これしか持っていないのですよ」
「ああッ、壊れる…ッ」
まともに息が出来なくて、夢中で胸を喘がせる。彼は、休ませるつもりなどは、はなからないようで、続けざまに最奥を突き込まれて、もう声も出ない。
絶頂までの時間が、長かったのか短かったのか、判らなかった。
一瞬だったような、永遠だったような。
脚を押さえる彼の大きな手に、手を重ね、爪を立て、少しでも伝えようとした。この快感を。
「いく…、キリコ、いく、も…」
「私もいって良いですか? あなたの中で」
「いって…、いってくれ…ッ」
「ああ、なんて愛おしい」
「あ…ッ!」
更に強く脚を押さえ込まれ、身動きひとつ出来なかった。彼に動きを合わせることも、刺激を散らすことも。
最後に、一際激しく穿たれて、彼の思うタイミングで、性器に触れられもせずに、達した。
自分の胸に精液が飛び散った自覚は、暫く無かった。
彼は、ブラック・ジャックと殆ど同時に、尻の奥深くで射精した。どくどくと脈打つ彼の感触は、気味が悪いほどリアルに判った。
「アア…!」
「は、」
密やかに洩らされた彼の吐息を聞いたと思ったのは、錯覚だったか。
彼は、一滴も残さないように、何度か腰を使って内部に精液を飲ませてしまうと、ゆっくりと性器を引き抜き、まだ息を荒げているブラック・ジャックに覆い被さった。体重をかけずに抱きしめて、汗に濡れた肌と肌を摺り合わせる。
呼吸が収まるまで、その抱擁に酔いしれた。
ああ、まるで愛されているみたい。
それから、ブラック・ジャックは、重なる彼の身体を押しのけ、今度は逆に、彼の身体をシーツへ仰向けに組み敷いた。
彼は抵抗しなかった。厭ならば、簡単に跳ね除けられたろうが、されるままにシーツに横たわった。
ひとつぱちりと瞬きをして、青みがかった灰色の瞳で、ブラック・ジャックを見上げる。その彼の上に乗り、片肘をシーツにつき、もう片方の手で、銀髪を掻き上げる。
ちらりとしか覗けなかったサファイアの左目が、剥き出しになった。
ぞくりと肌に震えが走った。銀色の睫に、サファイアの暗い輝き、この絶対的な違和感と言ったらどうだろう。この世にあってはならぬもの、あの世を見詰める者だけのもの。
震える唇を近付けて、左目に舌を伸ばした。
彼は瞼を下ろさなかった。瞬きもしなかった。舌先に、冷たい鉱物が触れた。
イキモノの感触ではなかった。
「先生」
「黙れ」
唇を、頬に移し、それから、その薄い唇に合わせようとして、少し躊躇った。一瞬黙ってから、やはり訊くことにした。
「口付けをしてもいいか」
眼球を舐め回されても表情ひとつ変えなかった彼が、その言葉に、僅かに目を見開いた。何度も聞かされたセリフを、まさか、自分が吐くことになるとは思わなかった。だが、仕方がない、欲しいものは欲しい、愛でも恋でもないにしろ。
視線をねじ込むように、ただじっと見下ろしていると、彼は薄く笑みを浮かべて瞼を閉じた。
「どうぞ」
「…」
余裕綽々というわけか。
そっと唇を合わせると、それは人間の温度で、なんだか少しほっとした。何度か啄んでから、舌を出し、彼の顎を掴んで開かせた、唇の隙間に差し入れる。
彼の口の中は、初めて知る彼の味がした。
歯列に舌を這わせ、口蓋をなぞり、唾液を吸い上げて飲み込む。そうか、こういう味がするのか。
はじめは一方的だった口付けが、いつの間にか、互いに舌を吸い合うようになった。気付いたら、彼の指に髪を掴まれ、喉の奥まで貪られていた。
息継ぎをしようとしても、放してくれない。誘い出された舌にいいように噛み付かれ、鼻から声が抜ける。
「ン、」
「ああ、あなたときたら」
長い口付けのあと、漸く解放された唇で喘ぐブラック・ジャックの耳に、嘆息混じりの彼の声が聞こえた。
「どうしてくれるんです、本気になってしまいますよ、ほら、もう、こうなってしまった」
「アッ」
下から腰を掴まれ、股間をぐっと押し付けられる。一度達した彼の性器が、更に熱く硬く、勃起しているのが判った。
目眩がした。
ああ、そうだ、どうか本気になってくれ。
正気の沙汰でなくても構わない。
誘われるままに、股間を擦り合わせ、喘ぎを洩らす。血の通ったおまえを、私にくれ。
空に舞う神風、狂気の中に、煌めきはあったのだろうか。
堕ちる、堕ちる、おまえの手の中に。その暗闇で、静かなる眠りを与えて欲しい。
(了)