おれと一緒にいるのはつまらないか、と男は言った。
「…え?」
「心ここにあらずって顔してるからよ、先生。おれと一緒にいるのはつまらないか?」
「…別に。そんなことはない」
安っぽいラブホテルの一室で、シーツの上にひっくり返り、天井を眺める。
額にかかる濡れた髪を乱暴に掻き上げ、自覚のない溜息を一つ。
脳裏にちらつく。
似ているところなど僅かにもない。似ているどころか正反対だ。熱い、冷たい、黒い、白い、好き、嫌い、好き、嫌い。
青い。
青い、欠落。
「おれじゃあつまんなくなっちまったんじゃねえのか? 無免許先生よ」
「…別に」
天井より近くにひょいと見慣れた顔が現れる。咄嗟に焦点が合わずに一瞬輪郭がぼやける。
青い。
青い。
サファイアの、目。
暫く視線を絡ませたあと、見上げた男の顔がゆっくりと近付いてきて、あ、キスをされる、と思った。
日暮れ時。
病院のすぐ傍にある公園の横。
何処かで見たことがあるようなバイクが雨ざらしになっているのを目にしたときに、予感がしなかったといえば嘘になる。
同時に、まさかそんなことは、とも思いはしたが。
取り立てて面倒な要素のある依頼ではなかった。全くではないにしろ特に敵もいないだろう金持ちが、長生きをしたいだけのこと。病院からの正式なオファーはないが金の力は人を黙らせることくらいはできる。いつかのようにマフィア絡みということもない。
裏口でタクシーを降りて、夜間救急外来に名を告げると、すぐに病室の場所を教えられた。最上階の一番端。
エレベーターは無視して階段に足を向けた。
スタッフも使わないのかひんやりとした空気の満ちる階段にはひとけもない。診療鞄を片手にぶら下げて一歩ずつのぼる。
ブラック・ジャックがその足音に気が付いたのは、二階から三階へとのびる階段の中ほどあたりだった。
自分のものではない足音、誰かが降りてくる。
廊下に出てやり過ごそうかとも思ったが、自分が気付いた以上は相手もこちらの足音に気付いているだろう、いかにも逃げましたというようでそれも面白くない。別に見られて困ることはない、誰の口も札束を咥えて塞がっているはず。
速度は緩めずに階段を上がる。自分の足音と知らない誰かの足音が徐々に近付いて、はっきりと壁に響くようになる。
革底だ。踊り場を一、二歩で通過、いやに脚の長い奴だな。
俯くのも気分が悪いが、見上げるのも更に気分が悪い気がして、真っ直ぐ前を見たまま交差する瞬間を待った。足もとから視界へ。高価そうな革靴、雨に濡れているのか鈍く光る。夜の海みたいな暗い青色のスーツ、コート。
「…」
青く煌めく銀髪。
階段の途中で思わず足を止めたブラック・ジャックを、見下ろすようにして彼はにっこりと笑った。端正だが鋭利すぎる美貌の所為で、何処か作り物めいた冷たさすら感じさせる微笑み。
「こんばんは、ブラック・ジャック先生。また会いましたね」
「…ドクター・キリコ。ここで何している」
感情のない甘くて低い声、ぞくりと肌を震わせたのは、彼がここにいることの意味、或いは、気も触れるような交歓の記憶。
その肌に、触れたことがある。その髪に、触れたことがある。その左眼に、魅せられたことがある。
彼に、抱かれたことがある。
一度ではない、一度きりの過ちではない、二度、抱かれた。
「仕事ですよ」両手をコートのポケットに突っ込んだまま、彼は飄々と言った。「何処かの財閥の御長老が、難病に冒されたというのでね。最上階の、一番端の特別室」
「…!」
最上階の一番端。
一瞬目を見開いて彼を見詰め、それからブラック・ジャックは弾かれたように、彼の横を擦り抜けて階段を駆け出した。
どういうことなのだかよく意味が解らないまま、病院のスタッフに術前検査の指示を出して、病室をあとにした。夜間外来の受付でタクシーを頼もうとしたが、もしかしたら、と思ってそのまま病院を出た。
彼は仕事をしなかったのか。
そういえば彼は手ぶらだった。
どうして。それならば何故ここに。
もう夜、相変わらず細い雨が降り続いていて、月も見えない。
救急車の搬送口から敷地を抜け、傍にある公園へ向かった。公園内は鬱蒼と暗く、周囲を心許ない街灯が照らしている。
病院へ来るときにタクシーから見かけた、あの何処かで見たような大型のバイクが、見かけたのと同じ場所に停められていた。
すぐ横の街灯に、彼が凭れていた。
雨を吸ったコート、彼はずっとここでこうしていたのだろうか。濡れた銀髪が淡い光を青く跳ね返している。
「…傘くらい差したらどうなんだ」
「あなたこそ」
ゆっくりと歩み寄って正面に立つと、彼は右目を細めて薄らと笑った。青みがかった灰色の瞳。感情の揺れが見えない、何を考えているのか判らない、知りたい、と思ったことが何度あったのか。
探るように向けた視線を細かな雨が遮る。この男には雨が似合うと、どうでもいいことを思う。
「なぜだ」
「なにがです?」
「仕事をしなかったのか」
「しましたよ、昨日と今日、診察を」
自分がここに来ると思って、彼は待っていたのだろう。
大した自信だとは思う。その通り、彼が待っているのかもしれないと自分がのこのことここに来た以上、自惚れだとは言えないが。
街灯の光が頼りなく瞬き、雨に濡れた影が踊った。
「おまえはいつから普通の医者になったんだ?」
「私は患者の望みを叶えるだけですよ。それ以外ではない。あの御長老は、このまま苦しみ続けるならば早く解放されたいが、もしも治るものならば治りたいと仰ったから」
「…だから?」
「診察をしたんです。どこからどう見ても絶望的な病状ではありましたが、世界一の外科医ならば治せるかもしれないと判断して、あなたを推薦したんです。ブラック・ジャック先生」
「…」
推薦しただと?
つい訝しむようにして見詰めたブラック・ジャックに、彼は僅かに笑みを深めてみせた。
「ご迷惑でしたか? あなたならできると思ったのですが、過大評価でしたかね」
「…なぜだ。絶望的な病状だとでも言って、得意のやつをやれば良かったじゃないか。私の情報料はそれほど高かったか」
「別に金は取っていませんよ。それに私だって患者は選ぶ。あなたは私が彼を死なせて差し上げたほうが良かったと思いますか?」
「…」
そうではない。
そうではないが。
じりじりと睨み上げてから、背中を向けた。雨に濡れた髪から冷たい滴が首筋に伝って、肌が騒めいた。
寒いわけでもないのに唇が震える。厭になる。
「来いよ」
「先生?」
「来いよ、ドクター・キリコ。セックスをしよう」
不規則にちらつく街灯の光、粒子の細かい夜の闇。
何処かで見たことがあるようなバイクが雨ざらしになっているのを目にしたときに、予感がしなかったといえば嘘になる。
同時に、まさかそんなことは、とも思いはしたが。
次に彼に会ったら。
「私を抱け。仲介料代わりだとでも思えばいい。それとも私では不足か? ドクター・キリコ」
数歩を踏み出してから足を止め、振り返らずに言った。微かな笑みを含んだ声が、背後から答えた。
「まさか」
次に彼に会ったら。
おれと一緒にいるのはつまらないか、と問うた男の顔を不意に思い出す。正反対。熱い、冷たい、黒い、白い、好き、嫌い。
好き、嫌い、好き。
いつからなのかなんて、考えるだけ無駄だ。
病院の傍のホテル、依頼者の名前を出すとすぐに豪奢な一室へ通された。
見るからに怪しげな男、しかも二人連れであることに、誰も不審な顔一つ見せなかった。ホテルマンなんて仕事は一生できないなと、最敬礼をしてから去っていくきっちり制服を着込んだ男を眺めながら、ブラック・ジャックはぼんやり思った。
ドアが閉まるのと殆ど同時に、背中から抱きしめられた。
互いに、雨で濡れて重いコートを脱いでもいない。
「…キリコ」
「あなたが誘ったんですよ」
「…風呂に入って、食事でもして、酒でも飲まないか」
「そんなことをしているうちに、あなた、気が変わるんじゃないですか?」
「…」
気が変わるなんてことはない。
そうでなければあのとき。あの安っぽいラブホテルで、あのとき、あの男に。
頬に彼の濡れた柔らかい髪が触れ、こめかみに唇が触れる。両腕ごと抱きしめてくる彼の腕は少し苦しいくらいで、コンサートホールの駐車場で初めて触れた、或いは海沿いの広い別荘で二度目に触れた、何処かしら捕らえた獣を弄ぶようにして自分を抱いた彼とは別人のような、それでも全く同じような、奇妙な混乱を覚えてブラック・ジャックは身体を固くする。
く、く、と耳元に低い笑い声を吹き込まれた。
「緊張しているんですか? どうして。もう二度も私とあなた、愛し合ったでしょう?」
「…愛し合った、なんて、言うな」
「私はあなたを愛おしいと思っていますよ、ブラック・ジャック先生。あなたの身の内に、静かに滾る情熱は、美しい、闇夜の太陽のようだ」
「キリコ…待て、」
背中から抱きしめる力はそのまま、彼の片手が器用にするりとリボンタイを解いた。軽くくつろげられた襟元から長い指を素肌に這わされて、ブラック・ジャックは慌てて彼のその手を掴んだ。
まるで本当に愛おしくてならない恋人を、漸くその腕で抱きしめたみたい。
そんなふうにされると、解らなくなる。例えば二度目のセックスが、何処まで彼の策略だったのか、だとか。
「私が…私が誘ったんだ」彼の片手を握りしめたまま、できるだけ平坦な口調で言った。「次に会ったら、そうしようと思っていたんだ。私がおまえを欲しいんだ、口実なんかどうでもいいんだ、だから…待て。放せ。強引に…強引にするな。また私は言い訳を作る」
「ああ、先生。先生。あなたは時々、凄いことを平気で言う」
首筋に溜息のような言葉が聞こえて、それから彼の腕は、あっさりと外れた。
強張っていた身体の力が抜け、吐息が洩れた。優しく、強く抱きしめられた感触は、すぐには去らなかった。
囚われている。
夜のガラスに映る姿に酔いながら、彼に抱かれて、もう何箇月経つ。
あれから誰とも肌を合わせていないと彼が知ったら、何と言うのだろう。彼の美しい白い肌が、この身体を軽々と抱き上げる腕、この精神さえも半狂乱に追いやる肉体が、指先で触れた艶やかな銀髪、丁寧で絶対的な言葉を乗せる低い声、そして、サファイアの目が。
脳裏にちらついて誰とも抱き合えない。
あの男とさえ、抱き合えない。
口付け一つ交わしたことのない彼に、囚われている。
そんなことを彼が知ったら。
いや、彼はもうとうに知っているのかもしれない、そうも思う。感情の読めない瞳に感情を見ようと焦れる、その惨めな姿を見せる。彼はもう知っている。
次に抱き合うときは、とあの夜彼は言った。
男の腕を拒んだ。
答えというならあれが全てだ。
解らない。何故彼なのか、何故彼でなくてはならないのかが解らない。本当に彼なのか、本当に彼でなくてはならないのかも解らない。ただ解っていることが一つ。
キスがしたい。
まるで愛し合う恋人のような、口付けを。
「…おまえは私を弄んだ」
彼に向き合い、その瞳をじっと見詰めながら言った。
「おやおや」
「一度目は、コンサートホールで、私をいたぶった。遊んだんだろう、ちょっと毛色の変わった猫でも手懐けるみたいに」
「そんなつもりはありませんでしたが。言いませんでした? 私は、あなたがとても美しいから」
「二度目は、騙した。依頼人の敵対勢力に狙われているなんて、あそこから全部おまえの罠だったんだ、私に仕事をさせないための、罠だったんだ、そのために私を抱いたんだ」
「あなたと愛し合った次の朝に、依頼人から連絡があったのですよ、早く来いと。辛いから今すぐ助けてくれと。起こすのも申し訳ないので寝かせておいただけです。罠をかけるだけの余裕なんてありませんでしたよ、私も狙われていたのだから」
「信じない」
両手を伸ばして、彼の銀髪に触れた。雨に濡れて冷たい。こんなに繊細で柔らかいのに、半端な色とは混じらず青く跳ね返す、美しい髪。胸が苦しくなる。そう、こうして髪に触れるだけで、馬鹿みたいに。
黒の眼帯に指をかけても、彼は抗わなかった。
「信じない。信じないが、私は、それでもいい」
ゆっくりと彼の左眼が露わになる。無意識に呼吸を喘がせて見詰める。
地を這い空を仰ぐ感覚をひっくり返されるような、ヴィヴィットな違和感、おぞましいまでに美しい、暗い煌めき。
サファイアの目。
「はじめておまえに抱かれたときに、おまえが言った言葉に答えよう。私の知る男とおまえと、どちらが私を狂わせるかと、おまえは私に訊いた。私はおまえに狂った。おまえが何を考えていようとどうでもいい、もうどうしようもない。何を考えていてもいい、だからせめて、優しく、残酷に、食い散らかしてくれ、おまえ以外の誰に抱かれる気にもならないんだ、おまえが私を抱かないなら、もうこの身体は、要らない」
青い、青い、欠落。狂気の淵。
誤魔化しはきかない。誤魔化す意味もない。
彼は、さらけ出された左眼をそっと片手で隠し、唇だけで穏やかに微笑んだ。
「あなたは暗示にかかりやすい。私のこの目を見ないほうがいい」
「今はおまえの目で暗示にかかっているつもりはない」
「信じません」
「たとえ暗示にかかっていたにせよ、それで悪いことがあるか? 感情なんて所詮全て暗示じゃないか、好きも嫌いも暗示じゃないか、暗示にかかったのだとしたら、私はおまえの存在そのものに狂ったんだ、おまえが狂わせたんだ、おまえが私を気紛れに抱いた所為だ、責任を、取れ…!」
この次に抱き合うときには。
あの夜広いバスルームで囁かれた彼の言葉を思い出す。あれこそが暗示。
望んでかかったのかもしれない。
死の誘惑を飼い慣らして境界線を歩くこの男に、いつから惹かれていたのかなんて。
判らない、でも多分。
多分それは、はじめて彼に出会った瞬間から。
多分それは、あまりに不毛な、子供じみた、自己愛の枠を出ない、恋。
「私が好きなんですか?」
彼は左眼を隠したまま言った。
「それとも、私に愛されたいのですか?」
「…おまえだけなんだ」
何となく苛立って、彼のその腕を取り、引き剥がした。彼は拒まなかった。銀色の睫に縁取られたサファイアの目が、一度瞬いた。
この男は異界に棲んでいる。
自分は魅せられている。強く。強く。この乾いた風が吹き荒れる砂漠に立ち、地の果てにあるその場所を、餓えた乞食みたいに、羨望の眼差しで、見ている。
乱れた旋律を遠くに聴きながら。
「誰も私に触れられない。誰も私に踏み込めない。おまえだけなんだ、私を掴めるのは、おまえだけなんだ、どうしてかなんてどうでもいい」
「ああ、あなたは愚かな小鳥のようだ」
「おまえのことばかり思い出す。おまえに抱かれたときのことばかり思い出す。おまえなどより私を大事にする、おまえなどよりはるかにマトモな誰かと、一緒にいるときでさえ、私は、おまえのことを思う」
「先生。あなたは愚かな小鳥のようですよ」
「誰の所為だ。責任を、取れ!」
愚かな小鳥。
掴んだ彼の腕を、投げ出すように放し、真正面から彼をじりじりと睨み付けた。感情のない右眼、視力を持たない左眼、あの男のように、視線に欲望を宿して夢中で求めてくることはない。
透明な氷の窓を隔てた向こう側にいるみたい。
どうしてこんな男。
おれは、どうしてこんな男を。
彼は両手をすっと上げ、柔らかく頬に触れてきた。指先で縫合の痕を優しく辿り、それから眉を、瞼の上を、ゆっくりと撫でた。
どうして出会ってしまったのだろう。
運命、といった彼の声を思い出す。
「愛おしいですよ」
長い前髪を掻き上げ、露わになった額にひとつ天使のような口付けをして、それから彼はそっと両腕で身体を抱きしめてきた。雨に濡れた彼の首筋から仄かに立ちのぼる香りに、目が眩みそうになる。そうだ、この匂い、知っている香り、好きな匂い。
他の誰でも満足できない、まるで言葉が通じないもどかしさ、この男は、この男ならば。
背中を合わせて、多分、立っている細い線は同じもの。
「愚かしくて、愛おしい。知りませんよ、私はこれで、随分と強欲な男なんです。美しい小鳥が自ら私の手に落ちてきた。骨まで食らってしまうかもしれない」
「食え」
「いつもこうして男を誘って歩くのかな? 先生は」
「言ったろう。おまえだけだ」
一歩を踏み出せば、二人、線のこちらと向こう、奈落まで、真っ逆さま。
バスルームで冷たいタイルに両手を付き、立ったまま後ろから犯される。
エコーのかかる自分の喘ぎ、海辺の別荘で、二度目に彼に触れたときを思い出す。
あの男を拒んだ。
互いに頭の先からつま先まで知り尽くした男、いつでも熱く優しく抱いてくれた。時々無茶な要求をしても、あの男は、苦笑混じりに全て受け入れた。
他人を愛するという感情を知らない。
ただ、好きだったのだとは思う。
つまらない? そんなんじゃない。あのときあの男を拒んだのは。
青い。
青い、欠落が。
「あッ、…無、理、…も、」
「まだ半分も入っていませんよ。もっと腰を上げなさい、入れ難い」
「は…っ」
つま先立った腰を掴まれ、じりじりと男の性器を飲み込まされる。馴染むには圧倒的すぎる太い違和感が、指で準備を施された部分を容赦なく開いていく。
出しっぱなしのシャワーの音、立ちこめる湯気で息苦しい。
この気も狂うような行為を、求めていたなんて、ずっと欲していたなんて、あの海辺、夜のガラスの中で抱かれてから。
「ほら、逃げない」腰に食い込む指に力を加え、淡々とした声で彼が言った。「あなたが誘ったんでしょう? 私に食い散らかして欲しいのでしょう? だったら上手に咥えてごらんなさいよ、できるでしょ、あなたはもう私を知っているんだから」
「キ…リ、コ」
「ああ、こんなに広がって、いじらしい。一生懸命吸い付いてくる」
「…め、ア」
ゆっくりと肉棒を埋めながら、一杯に開かれた入口を彼が指先ですっと撫でた。ぞくりと背筋を快感の波が走り、彼を飲み込む内部が反応する。
その一瞬の戦慄きを掻き散らすように、彼は不意に力を込めて、一気に性器を根元まで突き立ててきた。
信じられないような深さまで侵されて、唇から高い悲鳴が零れた。
「アアッ!」
「そう、上手だ、上手ですよ」
あの男とのセックスが霞むような。
あの男だけじゃない、他の誰をも忘れ去るような。
つま先立った脚がわなわなと震え、無意識のうちに両手でタイルを掻き毟る。力を抜かなければ刺激が強すぎることは判ってはいたが、衝撃のあまりの大きさに竦み上がるみたいに、開かされた内部がぎゅっと彼の性器を締め付ける。
濡れた髪から温い滴が頬を伝う。それさえもが繊細な愛撫。
「先生、もう少し力を抜いて」
強張りを解そうとするみたいに、彼の両手が尻の肉を捏ね回した。掲げた尻を中からも外からも支配されている気がして、意識が熱く眩んだ。
「は…ア」
「辛いでしょう、これじゃああなた、壊れますよ。大丈夫、ちゃんと愛して差し上げますから、そんなに急がないで。もう少し力を抜きなさい」
「ウ…、…き、ない…ッ」
「ああ、しようがないなあ、先生、あなたは淫乱な処女のようだ」
「あ、」
彼の片手がするりと前に伸びて、腹に着くほど立ち上がった性器を掴んだ。身悶えた脇腹を撫で上げたもう片方の手が、硬くなった乳首を摘む。
「や、だ…ッ」
「一度いっておしまいなさい、そのほうが楽でしょう。こんなにぴっちり吸い付いているところを掻き回されるよりは」
「ン、ああ、あ…!」
後孔を深く侵され、乳首に爪を立てられながら、性器をやんわりと擦り上げられて、もう堪えることもできなかった。突き込まれた男の性器に腰を支えられるようにして、びくびくと身体を震わせ、彼の大きなてのひらに射精した。
頭の中にスパークが散る。
おれは今この男に抱かれている。
この男の手が触れ、この男と肌を寄せ、この男に浸食されている、そう思うだけで簡単に絶頂に連れ去られそうにさえなる。
誰にもこんなふうには感じない。
あの男でさえこんな快楽は。
「締まるなあ」てのひらで受け、最後まで絞り上げた精液をぬるぬると胸に、背に塗り付けてきながら、いやに冷静な声で彼が言った。「あなたはいってもあまり弛みませんねえ、しかたがない、このまま擦ってしまいますよ、いいですね」
「待、」
「気持ちがいいです。きゅうきゅうと私に食い付いている。私が欲しくてたまらないといっている」
「ア、ア、」
「愛おしいですよ…」
彼は両手を腰に戻すと、つま先が浮くほど高く引き上げ、それからいきなり激しく後孔を穿ち出した。
射精の余韻でひくひくと痙攣する肉壁を掻き乱され、唇から勝手に叫び声が散った。
「ヒ…、アア…ッ!」
「抗わないで。破けます」
「…リ、コッ、ん…ッ」
肌を熱く濡らすのが、縺れるように浴びたシャワーなのだか、汗だか、精液だか、よく判らない。
手を付き、爪を立てたタイルさえ熱い。
出しっぱなしのシャワーの音と、自分の乱れた喘ぎ、それから、たっぷりとリンスを塗り込められて開かれた肉を抉るいやらしい音に、耳から犯される。熟れきって焼け付くように火照る内部を、太くて、硬い男根で擦り上げられる、背徳の悦楽に神経が焦げる。
愛おしい。
この男はおれが愛おしいのか。
この男はどれだけ嘘つきなのか。
この男の言葉に縋るおれはそれほど愚かか。
愚かで何が悪いのか。
誰かを愛した記憶などもう思い出せない。それでもおれは、この男が欲しいと思った。
自己愛の枠を出ない、恋。
独りよがりの執着。
「あ…、キリ…コ…ッ、ま…た…、は」
暫く拈るように腰を使われたあと、続けざまに最奥を突き上げられ、まともに呼吸もできない唇を震わせて無理矢理言葉を絞り出した。ぎゅっと瞑った瞼の裏に、銀色の閃光が走る。タイルに着いた両腕が滑りそうになり、爪を立てた指先へ必死に力を込める。
「また?」
「来る…、も、いく…ッ」
「あなたは本当に感じやすい身体をしている。まるで女のようだ」
「め…、言うな…ッ」
「いっていいですよ、好きなだけ、いきなさい」
「ああ…!」
抜き差しの振り幅を更に大きくされて、喚いた。聞くに堪えない淫らな声がバスルームに響いたが、抑えることもできなかった。
完全に抜き出され、閉じようとする肉壁を、今度は容赦ない強引さで一気に開かれる。
同じ動きを幾度も繰り返されて、脳髄まで沸騰する。
「…って、擦って…くれ…、おれ、の…」
「欲張りな先生ですねえ、これだけでいけるでしょ? いきなさいよ、さあ」
「や…だ、は…や、イヤ…あッ!」
激しく出し入れしていた肉棒を、波が湧き上がるまさにその頂点で、思い切り奥まで突き込まれた。その位置でぐいぐいと揺すり上げられ、今度は触れられてもいない性器から快楽の証を撒き散らした。
「やあ、アア…ッ!」
後ろを突かれるだけで達してしまうのは、屈辱的なような気がした。だが、その屈辱も一瞬頭をよぎっただけで、あとは灼熱の衝撃に肌という肌、細胞の一つ一つまでを串刺しにされ、意識を霞ませて叫んだ。
この男にだけ感じる、キチガイじみた愉悦。
本能でさえない、裏返しの解放。
そこに愛も、恋も、執着さえもないのなら。
そんな馬鹿げた言葉を使うことさえ潔しとしないなら。
おれのこの身体に燃え立つこの弾け飛びそうな想いはなに。
「ああ、気持ちいい。私が愛おしくてならないというように、締め付けてくる」
高波に溺れ、仰け反らせた背に、彼の低い声が言った。
その声が僅かでも熱を帯びれば、或いは。
闇夜に月が照るみたいに。
「ねえ先生、まだまだですよ、誘ったのはあなただ、私が満足するまで、付き合いなさい」
最後にはどんな体位で抱かれていたのか判らない。
ベッドへ移動することもなく、熱く湿った空気の満ちるバスルームで、結局何時間絡み合っていたのか。
泣き喚きながら幾度も許しを請い、漸く解放されたときには、足が立たなかった。
崩れ落ちた身体を、たっぷり泡立てたボディソープで清められた。タオルで丁寧に水気を拭かれて抱き上げられ、ブラック・ジャックは遠のきそうになる意識を何とか繋ぎ止めて逞しい肩に縋った。
彼が纏ったバスローブ越しに触れ合う肌。
寝室へ運ばれ、ダブルベッドの上に下ろされた。ベッドの横に立った彼と向き合うように座った、その髪を乾いたタオルが慎重に掻き乱した。
この男はさぞかし女に好かれるだろうと、どうでもいいことをぼんやり思う。
こんなふうに優しく後始末をされたら、愛されているなんて誤解をしてしまいそう。
いつだって道ばたの石でも見るみたいな冷めた目付きで人を眺めるくせに。いつだって感情のない笑みで人を煙に巻くくせに。
見せ付けられる誘惑の仕草。
誰かを愛する方法なんて、知らない。
「何処か痛いところはありませんか?」
髪から落ちる滴を大方拭き取ってしまうと、湿ったタオルはベッドサイドに放って、彼は穏やかに訊ねた。
はじめてショパンを聴いたのは。
コンサートホールの駐車場で聞いた彼の声を、何故だか不意に思い出す。
マズルカの第五番でした。はじめて自分で弾いたのも、そう。
「…身体中が、」
「身体中が、痛い?」
「…身体中が、熱い」
「そう。すぐに冷めますよ、大丈夫」
すぐに冷める、か。
無意識に自嘲を浮かべた唇に、そっと彼の指が触れた。
「ああ、噛みましたね、あなた。少し血が出ている。痛いですか?」
「…」
口付けをしてもいいか、と。
どうして今夜は訊ねない。
あのときも、あのときも、あんなに何度も、しつこく、訊いたのに。まるでそれこそ暗示にかけるように。
気怠い腕を持ち上げ、彼の手を払ってから、彼の触れた唇に舌を這わせた。微かに血の味がする。噛んだのか? よく覚えていない。
唇を舐めながら見上げた彼の左眼で、鈍く煌めく大粒のサファイア。
青い、欠落。
唇だけに穏やかな微笑みを浮かべて、自らその宝石を隠した彼を思い出す。
あなたは暗示にかかりやすい。私のこの目を見ないほうがいい。
そう、全てがおまえの仕組んだ罠だったとしても。
「…痛い」
「薬を塗って差し上げましょう。あまり舌でいじらないで。余計に痛いでしょ」
「…男と別れた。この前おまえに抱かれてから、女とも男とも、誰とも寝ていない」
「…どうして欲しいんです? ブラック・ジャック先生」
「触らせてくれ。左目に、触らせてくれ」
バスルームで喚き散らした所為で、声が掠れて厭になる。
彼は、その言葉に二、三度瞬くと、ベッドに座ったブラック・ジャックの目の前で、片膝を絨毯に付き、視線の高さを下げた。見下ろす位置に見たサファイアの目は、端正な顔の中でそこだけ異質に暗く輝いた。
隠された青い欠落。
どうしてかとあの夜に訊いた。彼は答えなかった。そう、どうしてかなどは、もうどうでもいい。
「外れるのか」
「外せば外れます。欲しいですか?」
「私が欲しいと言えば、おまえはこれを私にくれるのか?」
「差し上げますよ、あなたが欲しいというのなら」
右手を伸ばしても、彼は瞼を下ろさなかった。
指先で触れた眼球は、濡れた鉱物の手触り。
異界を見る、目。
「差し上げましょうか?」
低い、甘い、彼の声が、何処か遠くに聞こえるような気がする。血の味がする唇を舐めながら、ゆっくりと首を横に振る。
囚われている。
この目が、サファイアの目が、脳裏にちらついて彼以外の誰とも抱き合えない。
あの男とさえ、抱き合えない。
解らない。何故彼なのか、何故彼でなくてはならないのかが解らない。本当に彼なのか、本当に彼でなくてはならないのかも解らない。ただ解っていることが一つ。
キスがしたい。
まるで愛し合う恋人のような。
「…痛い。唇が、痛い」
震える両手で彼の頬を包み、青い左眼を覗き込むようにして、顔を近付ける。
「舐めてくれ、ドクター・キリコ。私の唇を、舐めてくれ」
「…愛おしいですよ」
彼はサファイアの目を細めて、にっこりと笑った。ああ、その目には。
おれは映っていないんだ。
誰も映ることはできないんだ。
死にゆくものの永遠の安らぎだけを見詰める、サファイアの目。
見上げた男の顔がゆっくりと近付いてきて、あ、キスをされる、と思った。
思った次の瞬間には、咄嗟に男の肩を押し返していた。
「先生?」
安っぽいラブホテル、男の背後にはフォーカスの合わない天井。
男が少し驚いたような顔をして、漸く、自分が口付けを拒んだのだと判った。
「…」
「厭か」
男は眉を顰めて、それでも唇で笑った。最初のころはともかく、今では決して追い詰めてくることのない、穏やかなぬるま湯みたいな愛情、つまらなくなった、そんなわけではないけれど。
脳裏にちらつく色が。
正反対の色が。
青い煌めきが。
「おれが厭になっちまったか、先生?」
「そういう…わけじゃない…」
「いいんだよ、無理することはねえよ、どうせはじめから釣り合っちゃいねえんだ」
「そういう…わけじゃ、」
ならば、どういうわけ。
言葉を続けようとして、結局繋がらずに口を噤む。男は覆い被さっていた身体を起こし、ああ、と気の抜けたような溜息を洩らした。
「今までが幸せすぎたんだなア。悪かったよ、先生、おれの我が儘に付き合ってくれて嬉しかったよ」
「…」
「誰かに惚れたのかい?」
「…」
冗談めかした声、優しい声。愛されることに貪欲なこの肌に、アタマに、腹が立つ。
たとえそれが偽りの安寧でも。偽りの約束でも。
ただひたすらに与え続けられる体温に、いったい何の不満がある。
「え? 誰かに惚れたのか? 無免許先生よ」
「…、に」
「あ?」
「…サファイア、に」
「サファイアだ?」
天国、或いは地獄へと続く階段を見据える、あの青い目に。
男は真意を探るように暫くこちらを見詰めたあと、手を伸ばしてくしゃくしゃと髪を撫で、それから何も言わずに背を向けた。バスルームに男の姿が消えてから、視線の先を天井へ戻し、両手を虚空へ伸ばした。
この次。この次に彼に会ったら。
指先が細かく震えている。すっと体温が引いていく。
こうしておれは誰かの熱を一つずつ切り離していくのだと思う。
この次に、彼に会うことがあったら。
それで彼を失ってもいい。
一度きりでもいい、どうか、この唇に、甘い口付けを。
(了)