予想できなかった筈はないんじゃないか？
彼は飛び切りに優しい、優しい死神。
誰かが苦しむ姿を見れば、躊躇しない。
彼を殴りつけた右手が痛かった。
咄嗟の行動だったけれど、八つ当たりのような気もした。
彼が憎たらしかったか？
実の父さえ殺す彼が。
或いは、私のオペの邪魔をした彼が。私の顔に泥を塗った彼が。
オペ室の床に、私に殴られ倒れ込んだまま、無言で座っている彼から視線をそらす。
患者の遺体は病室のベッドに移した。
車椅子に乗せ、病室に運ぶ、その間も彼の妹が泣きながら縋っていたその姿が、彼に被る。よく似ているものだから。
そもそもだ。
ふと心に浮かんで、私は恐ろしくなる。
彼は本当に、患者に毒を注射したのだろうか。
オペで患者を殺した私を、庇うためだけにそう言っているのではないか？
患者を運び出してから、オペ室に戻り、後始末をする。
背中で感じる彼の気配が、痛いくらいに肌に刺さる。
好きだとか嫌いだとか、彼に対する感情が、私は未だに自分で把握できない。
ただ、強い、強い思いに、時々圧倒されそうになる、それだけは知っている。
「奇跡だと思っているよ」
「え？」
無言でいた彼が、漸く、ぽつり、そう言った。
私は何のことだか判らずに、つい振り返り、それから理解した。
命をなんだと思ってやがるんだ。
彼を殴ったときにそう罵倒した、私の言葉に対する答えだと。
ぞくり、背筋に鳥肌が立つ。
奇跡だと思っているよ。奇跡だと思っているよ。
何人、何十人、或いはそれよりも多く、人間を殺してきた男、命を摘んできた男の、それが、答え。
奇跡だと思っているからこそ、殺すのか。
「…なのに、殺すのか？」
「だから、殺すのさ」
反論を承知で尋ねた私に、彼は淡々と答えた。
両手からラテックスグローブを剥ぎ取り、私に殴り倒されてから初めて立ち上がって、微かに血に汚れた手術衣を脱いだ。
白いシャツの下に、しなやかな筋肉のラインが浮かぶ。
私はその腕に抱かれたことがある。そんなどうでもいいことを、ふと、思う。
「肉体を持ち、精神を持ち、存在している」彼は、後ろでひとつに纏めていた長い銀髪を解き、私を見ずに言った。独り言のように。「たったひとつの卵と、たったひとつの精子が受精して、発生して、人間になる。心臓が動き、呼吸をしている。それが奇跡じゃなくて何なんだ？ おれは奇跡だと思っているよ、尊く、儚く、愛おしい」
「…だから殺すとはどういう意味だ」
「生まれるのは神の思し召しでいいさ、だが、その神に苦しみを授けられたなら、救うのは、人間の意志だ」
「…殺すことで救えるとでも？」
「殺すことでしか救えないこともあるだろ」
彼の銀色の髪は、淡く光を跳ね返し、柔らかに風をはらみ、美しい、まさに神の造り給うたものだと思う。私は彼の髪が好きだった。
人間の手には作り得ない芸術品、銀色の長い睫も、色素の薄い瞳も、その完璧な肉体も何もかも、もしかしたら彼は人間ではないのかも知れない、やっぱり人間ではないのかも知れない、なにせ彼は死神だ、彼こそが神なのか、死を司る神なのか。
いや、違う、そうではない、馬鹿馬鹿しい。
彼は、地を這い、砂を噛む、人間、人間そのもの。
「後悔してないぜ」
私に向き直り、漸く真正面から視線を合わせて、彼は言った。
私は、無意識にごくりと息をのみ、それから負けじと一歩詰め寄った。こういうところがたちが悪いのだろうと自分でも思う。
可愛気のない男。
いつか彼に見限られてしまうかも。
面白半分の逢瀬さえも、許されないような。
「おまえは、実の親を殺したんだぞ」
「好きなだけ責めればいいさ。だが、おれは、後悔していない」
「どうしてそんなに残酷なことが出来るんだ。おまえには人の血が流れていないのか、人の子じゃないのか？」
「じゃあ、おまえの母親が無惨な姿になったとき、おまえには何が出来たんだ？」
「…！」
思わず、先程と同じように、痛む右手で再度彼の頬を殴りつけた。
彼は今度は倒れはせず、ただ、私に殴られた頬をてのひらで覆い、嫌味たらしく唇を歪めた。
「おまえなあ、何度殴れば気が済むんだ。口はないのか、口は？ 凶暴な男だ」
「…かあさんの、かあさんの話をするな、おまえごときが」
無様に声が掠れて、自分で自分が厭になる。
それは、聖域で、地雷だ。私の総て、私が今ここにあり、こうして生きている証、と同時に、私の懺悔、私の後悔、私の憎しみ、怒り、負の原動力。
どうか。どうか。どうか。
あらゆる死者の魂が浄化されますように。
あなたがこの世に生を受け、たとえ一瞬でも存在したことが、既に奇跡なのだから。
「おまえは後悔しているだろう」彼の両手が私に伸び、血に濡れた手術衣をゆっくりと剥いでいった。私はただ黙って彼を睨みながら、されるがままになっていた。「ああ、おまえはいつだって後悔ばかりだ。今のオペをおれに手伝わせたことだって、後悔しているんだろう？ いつものようにひとりでやれば、おれに患者を殺されることもなかったのにね」
「…そうだ。おれはいつでも後悔ばかりだ。だが、後悔を知らない男よりはましだ。後悔すれば次もある」
「おまえは、反省はしない、後悔するだけだ。その証拠に、次もまた後悔する」
「そんなことはない」
「自分をよく把握したほうがいいぜ」
いつだって後悔ばかり、その通りだ、と思った。
後悔するだけだ、次もまた後悔する、その通りだ、と思った。
睨み上げる眼差しに、力を込めて威嚇する。厭な男だと思う、そんなことを、言わなくても良いのに、意地が悪い。
彼はその私の目付きに、淡く苦笑したあと、手術衣を剥ぎ取った私の身体を、不意に、両腕にふわりと抱き寄せた。
首筋に顔を埋められ、私はたじろいだ。
「おい…なにをする」
「ありがとう」聞いたこともないような言葉を、彼は、私の耳元に言った。「おれの親父をオペしてくれて、ありがとう、先生。忘れてくれよ」
「なにを…」
「親父はおれが殺した。先生は何もしなかった。おれの妹は親父をここに連れてこなかったし、おまえはおれが親父を捜し回っていることも知らなかった。綺麗さっぱり忘れて、またいつものように、何処かの病院で痴話喧嘩のひとつもしようぜ」
「…」
痴話喧嘩。
咄嗟に藻掻いた腕から、すとんと力が抜けた。彼は、何を考えているのだか、ちっとも判らない、低い、小さな笑い声を私に聞かせたあと、抱き寄せたときと同じように、優しく優しく、ふわりと私を解放した。
そのまま表情を見せずに、私に背を向けた。
私が思わず伸ばした右手に、彼は、気付いていたろうか？
判らない、ちっとも判らない。
おまえは何を考えている？
私はここに生きていて、彼はそこに生きている。ついさっき死んだ父親のことを、忘れてくれと彼は言う。
命を奇跡と嘯くが、その手に握られた鎌は何？ 奇跡を狩って歩くのが、おまえの生き方だというのか。
だとしたら。
それほど哀しいことはない。
「おい…おまえ、」
彼を殴り、彼に縋って浮かせた右手をぎゅっと握りしめ、オペ室から出て行こうとする彼の背中に問いかけた。
美しい銀髪が揺れる。
広い肩、細い腰、完璧すぎて気味が悪い。
「おまえ、ひとつだけ、教えろ。本当に…本当に毒を打ったのか」
「…へえ。面白いことを訊くんだね」
「ちゃんと答えろ、本当に、おまえ、毒を打ったのか？ それとも、おれが…おれが、オペに、失敗、したのか」
「そんなこと、どうでもいいじゃない」
彼は、ほんの少し顔を振り向けて、横顔に僅かな笑みを見せると、私の問いをはぐらかしたまま、平然とオペ室を出て行った。
かつかつと、革底の靴が立てる硬い音が、遠のいていく。
私は呆然と、彼の消えたドアを見詰めている。
どうでもいいじゃない。
どうでもいいじゃない。
はぐらかしたということは。
私はぺたりとオペ室の床に座り込み、今更のようにくらくらと血の気の引いてくる頭を、両腕で抱えた。こんなに神聖な、不潔な場所に蹲って、彼といい、私といい、愚かな愚かな創造物。
命が奇跡というのなら。
消えていくのは必然だろう。
彼は飛び切りに優しい、優しい死神。
私はよく知っている。そのうえ彼は世界中の誰よりも、私に対して優しいと。
（了）